健康おやじ 令和 3年 #3私の決意(続)

   今日の世相を思う

 皆さん今日は、季節の移ろいは早いもので 数日前まで咲き誇っていた 桜の花も「花七日」と指折り数える間もなく 葉桜となり、 新緑が目に映える候となりました 。
 さて季節は変われど、相も変わらず 「新型ウイルス」コロナの 暗いニュースが日本中に 大きな影を落としています 。
 そしてここ広島でも、 毎日のようにコロナ感染者数が公表 されています 。
 この「コロナ禍」の中、 何かと苦しい思いをされ 、そのため多くの方々が心身に 「ストレス」を抱えているとも聞いておりますが、、、。
  だが私も含め、この「コロナ禍」での苦しい現状は 誰しも皆一緒です 。
 この苦しい時だからこそ 「ネガティブ」にならず 、前向きに考えることで、なんとか道は開ける、そのように私はいつも「ポジティブ」に考えるようにしているのです 。
 そのような思いを巡らす時、私が若かりし頃 薫陶を受けた 、ある1人の人物が私の脳裏に思い浮かびます 。
 「今は亡き」その人ですが、その人との出会いは、「Sさん」と言う私の近所に 住んでいた私の知人が その人とは同年輩で、懇意に付き合いしていたことから 、その「 S さん」を介して 私は「その人」と知り合いました。
 それは今から、約40年も前のことになリますが 、その頃知人の「S さん」から、私が聞いた「その人の壮年時代」にまつわる「エピソード」を紹介したいと思います 。 『 註⦆ 知人と言えども私とは親子ほど違う大先輩。』
 だが、なにぶん「 聞き伝え」で 、古い話になりますので、定かでないところもあるかと思います 。 
 それは日本の終戦直後、「 昭和22年」頃の話しです。
 「戦後」間もなくのことですから、戦災により国土は荒廃し、 世の中も乱れ、人々の生活は 「衣食住」もままならないような、 自分が生きるのに精一杯で 、人のことなど構っていられない 、そんな時代だったのです 。
 だがその人は、そのような暗く苦しい世の中に、目を背けることなく 、その当時、戦地から地元 、徳山市  ( 町村合併により今は周南市)  に復員してきた、「 特攻崩れ」と言われるような 心の荒んだ多くの若者が「 闇市」等にたむろしている姿を見るにつけ、心を痛めていたのです 。
 だが、そんな「夢も希望も、行き場もない」若者達のために、その人は「バラック」建ての住まいを提供し、 働き口があれば 世話をするなど、損得抜きで、10数人の若者の面倒を見ていました 。
 そのような「正義感」の非常に強い人でしたから 多くの徳山市民からも大変慕われていたのです 。
 ちょうどそんな折 、戦後復興を目指した「 徳山市長の選挙」があり、「陰ひなたのない」その人の日常的な行いを見ていた 多くの徳山市民から後押しされるようにして 、市長選に立候補すると、 その「人柄」ゆえに 見事に当選を果たしたのです。
 その人の名は、 徳山市 第4代市長「 長谷川藤七市長」です 。
 その当時、『昭和天皇』は 日本の 1日も早い 戦後復興を願い、 国民を勇気づけるため日本全国を御巡行されていました 。
 そして山口県の徳山市にも 『昭和天皇』の御巡行をお迎えした時の事です。
  敗戦直後のことでもあり、 治安も不安定な時代でしたから 、御巡行の途中「万が一」の不測の事態を恐れた警察は、 長谷川藤七さんが面倒見ている 「特攻崩れ」と言われるような10数名の若者を連れて、一時的に 徳山市から離れるように長谷川さんに お願いしたのです 。
 そして警察の監視付きで、九州は別府に 国の費用で「温泉旅行」をしてきたという 変わった経歴と言うか、 今では考えられない面白い「エピソード」の持ち主だったということも聞いたことがありました。
 そのような「アイデンティティー」を持った長谷川さんでしから、権力やお金に「恋々」とすること無く、また市長時代から 、その地位を利用して「 私腹を肥やす」ような人ではありませんでしたから、金銭にはこだわりを持たず、そのため晩年は質素な生活をされ、身の回りの物を切り売りして、生活費の足しにして いたとも聞いておりました 。
 私が長谷川藤七さんと知り合い、 長谷川さんの長屋にもお伺いし、色々お話しを聞いたのも、 ちょうどその頃のことでした。
 さて、 私が長谷川さんから その頃、薫陶を受けた出来事を一つご紹介しましょう 。
 その当時のことですが、徳山市内で 骨董品を扱う小さな店を開いていた「 D さん」という人がいました。
  長谷川さんもその骨董品店にはよく出入りしており 、私も その店で 2~3度買い物をしたことがあり、Dさんとも懇意にしていました 。
 ある日のことです、 そのDさんの所へ小さな置物を長谷川さんは持ち込み、 店先において買う人がいれば売ってくれるよう頼みました。
  その置物は長谷川さんが市長時代の頃 、「華僑」の人から お礼の品物としていただいたもので 、古代の 化石の置物と いうことでした 。
 それは約30 センチ四角の薄い板で 、その中に 小さな魚が2~3匹、浮き出ている魚の化石です 。
 美術品ならともかく 、化石の置物ということで 店主の D さんも 価値が分からないため 値段のつけようもなく、長谷川さんと相談し「3万円 」 (現在の貨幣価値で約15万円) くらいの値札をつけ 店先に並べていたのです。
 その後、1~2度、 D さんの店に顔を出した長谷川さんですが 、店先に置いたまま売れ残っているその置物を 見ると、それから間もなく引き取ったのです 。
 非常に珍しい「魚の化石」だということでお礼にもらった 置物ですが、 文化財的価値も分からないので 、それを山口県の資料館に 寄贈したのです 。
 そしてその置物は「長谷川藤七 氏 寄贈」として 資料館に展示されていました。
  それから間もなくのことです。
 古い文化財の資料研究のため 、全国の資料館を調べて歩いていた 京都の 学芸員 が 山口県の資料館にきたのです。
  そして資料館のその化石の置物を見ると、 今まで過去に 調べた、どこの資料館でも見たことのない、非常に貴重な古代魚の化石ということがわかりました 。
 そしてその化石の置物を、是非 譲り受けたいと破格の値段を申し出たのです。
 山口県の資料館の係員は展示品とはいえ寄贈品ですから 勝手に譲り渡すことはできず 、長谷川さんから買い取るようにしてくださいと言い 長谷川さんにその事情を説明したのでした。
  そしてその化石の展示品は長谷川さんにお返ししますと、言ったのです 。
 当時、生活にも困窮していた長谷川さんですから 、普通一般の人であれば 「それはありがたいお話です」と売り渡したことでしょう。
  だが、 長谷川さんは次のように言ったそうです。
 「 いかに貧乏暮らしをしているとはいえ《  長谷川藤七》 一度展示したものを、 お金のために返してくれとは言えない`」。
 この話を聞いた私は、このことはだれでもが簡単に云えることではなく、長谷川藤七さんだからこそと!。
 私はその時、 長谷川藤七さんに、人生の「生き様 」を教えられた、そのような思いにかられたのです。
  そして、そのような 「 うちわ話」と言いますか、 資料館との話しのやり取りを、 長谷川さんは、骨董品店の Dさんだけには 、事の顛末を 話をしていたのです 。
 だからこの話の経緯を知る人は、当時 Dさんの骨董品店に出入りしていた数名の人しか 知らないはずです 。
 私の知人の S さん、 骨董品店の D さん、 そして長谷川藤七さん 、皆、お亡くなりになり、このような「長谷川藤七』さんのエピソードを知る者は、あれから40年経った今となっては、私一人だけかもしれません 。
 とりとめのない、私の「思い出話し」になりましたが、この機会を逃せば二度とお話し出来ないと思ったのです。
 さて、 今日4月8日は おととしの参議院選挙で 選挙違反 を行い 議員辞職に追い込まれた 参議院 広島選挙区 の 再選挙の公示日です。
  選挙で違法なお金をばらまき 、お金で人の心まで買収する、そんな 今日の世相に鑑み、 戦後の苦しい時代でも、お金に執着することなく、何事もポジティブに考えていた、「地方の名もない政治家」がいたことを、私の記憶の確かなうちに、 皆さんにご報告 することで  、当時私が身近で見聞きした「 長谷川藤七」さんの生き様 を想うと 、その人の足元にも及ばない私ですが、 今日という「1日」を頑張ろうと、決意を新たにする 今日この頃の私です 。

       


          ブログ提供者 近影

        令和3年 4月 8日



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