おジャ魔女どれみを見る細田守の目に映る残酷さと誠実さ

作品には1番手前の1番わかりやすい部分にストーリーがある。その奥に作者が伝えたいメッセージがある。さらにその奥には作者の思想や無意識(日記のようなものだと言えば分かりやすいだろうか?)があると大島渚監督が生前に仰られていた。そういった見方をすると印象がガラッと変わる作品がある。細田守さんが演出した「おジャ魔女どれみドッカ〜ン!」の第40話「どれみと魔女をやめた魔女」もそんな作品の一つだ。

『冒頭、どれみは学校からの帰り道にある五叉路をいつも通り、当たり前のように左の道を進み家に帰ろうとするが、なんとなく遠回りをしたくなり初めて右の道を進んでみることにする。

初めて歩く道、新たな発見をしながら歩くどれみ。時折、意味深に空のペットボトル越し、ガラス越し、磨りガラス越しの画面が映る。

道中、大きな音がしてどれみが振り向くとそこにはガラス工芸の作業場と家があった。「散らかってるでしょ。先週引っ越してきたところだから全部片付いてないの」と綺麗な大人の女性に話しかけられる。この女性が今回の主人公、魔女をやめた魔女「未来(みらい)」だ。

未来はどれみが魔女だということを言い当てる(正確には魔女見習い)「私も魔女だもの」だからわかると未来。「ただ、もう魔法は使わないけどね」という意味深なセリフの後にまたしても意味深にガラス越しの画面が映る。

どれみに吹きガラスを披露する未来。「(ガラスが)膨らんだ!魔法みたい!」と驚くどれみ。自分も体験させてもらうが上手く膨らますことができなかった。

御礼に町を案内してあげるどれみ。最後に丘の上にある綺麗な夕陽が見える場所に未来を連れて行く。素敵な場所を教えてくれたお返しに未来はどれみにビー玉を与える。「ガラスってね、冷えて固まっているように見えて、本当はゆっくり動いているのよ。ただし何十年も何百年も何千年もかけて少しづつゆっくりと。あんまりゆっくりなんで人間の目には止まってるようにしか見えないだけ。でも何千年も生きる魔女はガラスが動いているのを見ることが出来る。いずれ私もそれを見る」と言って、ジッとどれみを見据える未来。

翌日、ビー玉越しに世界を見ながら導かれるようにまた未来の家に行くどれみ。未来の家である写真を見つけるどれみ。寄り添うように未来の腰に手を回す若い男性の写真。「この人は、ちょっと好きになりかけた人」と説明する未来。

すぐに引っ越していろんな町や国を転々と渡り歩いてるという未来に「ずっと同じとこにいてもいいじゃん」と言うどれみに「それはね、同じ人間といると、いろいろ不都合があるからよ。だって、あなたも魔女になるなら」と言って急に口ごもる未来。

家に帰ると母親は妹にピアノを教えることに夢中になっており、どれみが帰ったことすら気付かない。翌日クラスメート達に未来さんを紹介しようとするも習い事や家の用事や仕事で皆んな忙しそう。孤立したどれみは寂しさを埋めるようにまた未来の家に向かう。

もう一度ガラス細工を体験させてもらうも、またしても失敗してしまうどれみ。皆んな夢や夢中になれるものがあるのに自分には何もない、何も見えないと言うどれみに「見えなくていいじゃん」と言ってガラスの音を聞かせる未来。

その後、頑張ってやっとガラス細工作りを成功させたどれみに未来が「明日必ず取りにきて」そしてヴェネチアに引っ越すことを告げる。ヴェネチアには、もうすぐ90になる例の写真の男性がいる。しかし未来の姿は写真の頃のまま。魔女である未来は歳をとらないのだ。「彼は今、私のことを昔好きになった人の娘や孫だと信じてる。だから私も彼が昔好きだった人の娘や孫を演じ続ける」

「魔女にはこんな未来があるのよ、わかる?」「…わかんない…」

「あなたは人間で、まだ魔女見習い。魔女の世界を知っているようで実はガラス越しにしか見てないようなもの。でも、もしその先を見てみたいなら、ヴェネチア私と一緒に来る?」

衝撃的な告白と誘いに、どれみは家に帰っても学校に行っても心ここにあらず。そして下校の途中にまた例の五叉路に。左に行けば今までの元の生活に帰るだけ。右に行けば…

迷ったどれみは右に行くことを選択する。しかし未来の家はもぬけの殻。ごめんねと書かれた手紙だけが残っていた。』

どうだろう?子供向けアニメにしてはなかなか衝撃的な刺激の強い回であると思う。冒頭に出てくる五叉路の「左の道と右の道」は「現実と虚構」ともとれるし「終わらない日常とここではない何処か」などいろいろな解釈があると思う。

度々、出てくる「ガラス越しの映像」は、そのまま「テレビ越しに魔法少女アニメを見る視聴者(少女)」と解釈するとわかりやすいかもしれない。

未来の吹きガラスを見て「魔法みたい」と感動し「未来を憧れの目で見るどれみ」は「魔法少女アニメを憧れの目で見る少女」であると受け取れば段々、細田守さんが描きたい(または無意識に描いてしまってるもの)が見えてくるはずだ。

僕は魔法少女アニメの本質は「成長の否定(或いは少女のままの自立の可能性)」にあると思っている(詳しくは前の記事「東京ミュウミュウは…」を見てほしい)細田はこの回で少女の「成長の否定」という呪いからの解放をテーマにしているのではないかと思う。

未来は歳をとらない(成長の否定)という魔女の残酷な運命が故に住む場所を転々と変えざるを得ない。そんなことは知らないどれみ(魔法少女アニメの危険性に気付かない視聴者の少女)は「ずっと同じとこにいてもいいじゃん」と言う。

周りのクラスメート達がキラキラ見えるけど、なんにもない自分には「なにも見えない」と言うどれみ(成長過程で誰もが通る道。成長への不安)未来はガラスの音を聞かせながら、ゆっくりと「見えなくていいじゃん」と呪いをかけるように答える。これは「成長しなくてもいいんだよ」というある種の呪い。「魔法少女アニメの成長の否定」という甘い誘惑に誘い込むように。

ラストでは結局未来は、どれみを連れて行くことなく1人ヴェネチアに旅だってしまう。どれみが未来について行ったらどれみが成長してしまって連続アニメが成立しなくなってしまうからという理由と、もう一つ、主人公が成長してしまうと魔法少女アニメ(成長の否定)自体が成立しなくなるからである。

しかし、実際は未来との別れ(喪失)によってどれみは少しだけ成長している。それはガラスが動くようにゆっくりと、しかし着実に少しずつ。このどれみの喪失を見せることによって現実の少女達の「魔法少女の呪い」(成長への不安)を解くことが細田の意図であったのだろう。子供達を如何に正しい方向に成長させてあげられるか。それが細田がアニメを作ることにおいての最大の課題の一つであるのだろう。

その課題は「デジモンアドベンチャーぼくらのウォーゲーム!」でも提議されている。この作品の隠れた、しかし大きなテーマの一つに「大人はわかってくれない」という子供の叫びが組み込まれているのは明白だ。

インターネットウイルスとなったデジタルモンスターがネットを支配して、ついには核ミサイルを発射させてしまう。大人達はまさかデジタルモンスターが犯人とは思わず右往左往するだけ。親達は呑気にパンケーキを焼いているだけ。子供達の「大人は頼りにならない」「目標とすべきロールモデルの不在」が上手く表現されている作品だと思う。

そもそもコンテンツが大人を否定してきた歴史がある。端から敵であったり、狂っていたり、少年ジャンプで連載中の「Dr.STONE」に至っては大人は登場しない。巧妙に排除されている。最早コンテンツが魅力的な大人を提示する欺瞞が限界にきているのではないか。

こういった問題を積極的に取り入れてきたのが細田守だろう。そんな子供達に「それでも人生良いこともあるかもしれない」という希望を与えることを何よりも大切に考えている。そんな優しさと誠実さを感じるのだ。

こう見ると「サマーウォーズ」などに代表される大衆向けアニメ映画で脚光を浴びた細田守だが、実は子供向け作品を逆手にとった演出の方が得意なのではないかと思う。

「子供の世界」と「大人の世界」の間に核ミサイルという現実をおくセンス。そもそも映画には制約や暗黙のルールがある。深夜アニメには所謂「大きなお友達」達の欲望を満たさなければいなけない。実は子供向けアニメが1番自由にクリエイターの思想をぶつけられるのかもしれない。

また言うまでもないが細田が度々描く2種類の世界「人間社会と狼世界」や「バケモノの世界と現実世界」は「虚構と現実」のメタファーでもある。

虚構とは建前と本音に別れてしまった近代の現実に橋をかけるようなものだと思う。

宮崎駿なら子供を守るため自ら呪いを請け負い生まれ育った村を追放され絶望しているアシタカに最高の夜明けの景色を見せてあげられる。両親を人質にとられ初めての労働に四苦八苦して疲弊している千尋にこの世で1番美味しそうなおにぎりを食べさせてあげられる。では自分には何ができるのか。ジブリの近くで仕事をした細田守は考え続けたはずだ。

その結果、「人生捨てたもんじゃない」というメッセージを大々的に取り上げ、大衆向けアニメ映画監督として評価されることになった細田だが、個人的には子供向けアニメを逆手にとって暴れる細田がまた見てみたいと思う。

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