「流れに従って生きる」ー再独立編ーACT69:岩手で始動:「2足のわらじ」と「変な営業初日」
私は、仙台でのドタバタ劇を終えて、『株を抜けない』という中途半端な状態ではありましたが、岩手県に戻ってようやく自由な動きが取れるようになりました。
仕事面でも、㈱木の香の家で受注した北上市の現場管理の仕事が少し残っていたので2か月だけは給料が入ることになっていました。
そういう意味では、体半分は「㈱木の香の家のスタッフ」・・体半分は「再独立準備の個人事業主 白鳥」という状態でした。
北上市の現場が終われば給料も止まるので、その2か月の間に自分の仕事を軌道に乗せないと『破綻』というタイムリミットに焦り始めるヒヤヒヤな状況でした。
まず私は、8月のうちに岩手県で個人事業としての設計事務所登録を済ませました。
この時点では会社名は「木精空間(もくせいくうかん)」としました。
「木の香の家」と名付けると、E氏から小言を言われる恐れがあり面倒なことになりかねないと判断したのと、その時点で私はまだ㈱木の香の家の仕事(北上市の現場)をしていたこともあり同じ社名は避けました。
工事中の現場があったため、私はE氏と連絡を取り合わねばならぬ立場でしたので、まだまだ言動には注意しなければならない状況には変わりありませんでした。
そういう意味では「自由になった」とは言えず、「長いロープの首輪でつながれた犬」のようなイメージだと思います。
E氏の執拗な要求
E氏は、その期間中「株200万円を俺に売れ!」と何度も強く迫ってきましたが、私は「売る気はあるのだが、私を信じてくれたHo建材の社長が無事抜けるのを見守るまでは、人として出来ない」・・と、うまくはぐらかして時間を稼いでいました。
そういう状況下ではありましたが、再独立した時の最初の物件になる「菅原さま邸」の家づくりの話は進めていました。
初めての菅原様邸 営業訪問
初めて菅原様宅にお伺いしたときは、ただならぬ緊張感を感じました。
実は、菅原さんの親に会うのは、
そのときが初めてだったのです(--;)。
私は、珍しくスーツ姿で営業カバンっぽいのを持ってお伺いしました。
(スーツ姿で営業をするのは、人生1回か2回しかありません(^^;))
営業カバンの中には説明するための一通りの資料は入っていましたが、事前にその資料を送っていたこともあり、住宅の説明は僅か10分で終わってしまいました。
「住宅性能の話など二の次」・・という雰囲気でした(ーー;)
菅原パパからの尋問??
その後は、むこうのお父さんからの、ぎこちない「質問タイム」が始まったのです。
「どこの出身か?」とか・・「兄弟何人で何番目?」とか・・、
「実家の家業は何?」とか・・。
「いったい、今日は何の話に来たんだろう・・」と、背中に汗をかきつつ、いつの間にかビールを飲んで夕ご飯を一緒に食べていました。
現かみさんも、わざとらしくタイミングを見計らって帰宅する計画だったので、夕ご飯のときは、まるで『ご挨拶に来た彼氏』の状態になっていました(--;)。
その後、数回の打ち合わせを経て無事契約していただき、9月着工12月引渡しの工事が決まりました。
資金計画のスタート
その時点で、200万円の株を抜いていなかった私は、正真正銘の資本金0、貯金ほぼ0で 現場の切り盛りスタートだったのです。
ここで、E氏と一緒に居た中で唯一勉強になった「資金出納計画」を「自己流にアレンジ」して進むことになるのです。
もちろん工事中に資金ショートさせられません。
自分の力を試す絶好の機会と思い、毎月の支払いと収入予定を計算しました。
菅原様の住宅ローンは共済と銀行の併用でしたが、残債をいったん0にして抵当を外さないと銀行か共済のどちらかが実行されないという複雑な事情がありました。
もちろん、自分の生活費、会社の維持経費も月々の計画に組み込まないと、資金アウトになってしまいます。
でも、この「綱渡り感」がなんとなく面白く感じられました。
『経営の原点』を一番最初の物件で経験できているという不思議な面白さを感じました。
これができれば、あとは怖くないという思いも出てきました。
E氏は、「資金回転がきつくなったらお金を貸すぞ」と協力姿勢をみせましたが、トイチより高そうな「借り」が出来そうなので、断じて借りまいと心に誓っていました。
事実は小説よりも奇なり。
お天道様は見ています。