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YeLLOW GenerationとYuval Noah Harariと"No Boundary"への助走

YeLLOW Generationを始めて聴いたのは、2002年のデビュー曲『LOST Generation』だった。世界同時多発テロの翌年、生死についてフォーカスした歌詞と歌声に、ラジオで思わず耳を止めたのをよく覚えている。「物事が順番に起きる方が不自然だって わかってはいるけど 焦るよ 参るよ」なんて歌詞は、人間の弱さを丁寧に描いていた。21世紀が始まって間もない最中、世界中が震撼した様は、このnoteで、最初の記事に書いた令和2年の今と酷似している。
ちなみにこのグループのデビュイベントでは、「過去の自分に決別し新しい道を歩み出すために"遺書"を朗読した」とのことだけれど、20年近く経った今、私達は遺書を人前で朗読する勇気を持てているだろうか。

令和2年すなわち2020年という年は、21世紀がどういう時代であるのか、まざまざと私たちに示していて、それは一つにはこうして知識や技術が高まったとて、生と死がコントロールできないという課題に収斂できると思う。『21Lessons』でYuval Noah Harariが指摘しているように、ほんの少し先の未来には、肉体の盛衰までも人工知能とバイオテクノロジーが解決するのかもしれない。自分のプロフィールを知り尽くした人工知能が「最適な選択」をしてくれる時代は、既に始まっており、「何ひとつ選ぶ必要のない」世界、もしくは「何ひとつ選ぶことができない」世界の実現さえ近いという、上著の終章で鳴らされた警鐘には、本当に震撼するものがあった。
しかし、2020年7月の現時点で世界で起きていることを冷静に眺めるなら、急な生命の危機に直面することで、世界がいとも簡単に混乱に陥ることがはっきりしたわけで、たとえこの事態の解決が図られたとして、たとえ遂に生命の選択をコントロール下に置ける時代がやってきたとして、人間の生死に纏わる問題は一向に変わらないのではないか、とも考えている。
それはひとつには、AIが拠り所とするアルゴリズム、つまり経験値の集積は今のように時代の価値観が大きく転換する際に意味を成すだろうか、という疑問からである。人が積み上げてきた膨大な経験や実績が、急に無用の長物と化すなら、アルゴリズムに従った選択の余地がない世界、つまり危機回避を選ぶことさえ許されない世界では、気付いたら奈落の底ということさえあり得るのではないか。いつ何時何が起きるかわからない以上、結局のところ生死の問題は根本的に解決していないのではないだろうか。
加えて内面的な動機、つまり、自分が何を持って生まれてきて、その人生に何を求めるのか、自分自身との対話ができていなければ、長大な人生を全うするのは困難であるということも敢えてここで触れておきたい。世界が混迷を深める今、その重要性をこれまで以上に感じていて、それはある意味で哲学的な対話という形を取るのだと思うけれど、それはどんな環境においても自分自身を保つためには哲学が不可欠だと信じるからでもある。

『・・・by my side』という、YeLLOW Generationにとっては後期に近い楽曲が、今でもこの季節になると頭の片隅で流れるのは、「ありがとう」という言葉のリフレインが、Jazzで使われるRhodes Pianoのような音色とともに心地よく響くからで、傍にいてくれる存在の有り難さは何事にも代えられない。そして、自分自身とその周囲との境界線は、これからの世界においてどうなっていくのだろうか、なんてことを次回は自分史のVol.3の中に織り込んでみたいと思う。

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