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挑戦すること。

2020年12月、東京駅、山手線、終電。酔いつぶれて寝ている女性を必死に起こし、無理やり電車から引きずり降ろそうとする男性がいた。おそらくカップルか、そのあたりの関係だと思う。それを見た私は、一緒に女性の体を持ち上げることに協力した。なぜ協力しようと思ったかはわからない。結局、バランスが崩れてしまい、女性は床に頭をぶつけた。周りにいた人は「あー。」と残念そうな声をあげている。助けることはしない。頭をぶつけた彼女は不機嫌そうに私を睨んだ。結局そのカップルはその駅で降りることができなかった。

この出来事から、本当の優しさとは何か?みたいな絵空事の疑問を投げかけたいのではない。この時の感情は「幻滅」に近いものだった気がする(後々それは怒りに変わった笑)。悲しみでも敵意でも焦りでもなかった。夢から目が覚めたような、一瞬で別世界に放り込まれたような感覚だった。

同時に、この感情は初めてではないと思った。大学2年の4月の記録会、結果の速報掲示板に記載される、自己記録どころか中学生の頃のベストタイムより遅い結果を見た時と同じ感情のような気がした。鼓動が早くなり、一気に血の気が引く。自分の中のわずかな期待が一瞬にして消え去る瞬間。

競技生活における大学4年間は、現実を受け入れることに悩み抜いた4年間だった。ある時、自分はもう選手として限界なんじゃないかと思い、ある時、自分ならまだやれると可能性を感じる。それは長期的な期間においてではなく、1日の中ですら、この2つの感情が何度も行き来していた。正直、かなりしんどかった。

現実とは、成功であろうと失敗であろうと、ただそこに存在しているだけである。「そいつ」をどう解釈するかは自分次第である。なんてしょうもない現実なんだ!と嘆きながら立ち止まることもできる。一方で、冷静に現実を受け止め、成長につなげることもできる。自分は臆病で雑魚なんだと認識して初めて見える景色がある。

先日Youtubeを見ていて、一度も会ったことのない画面上の誰かが発した「人生は暇つぶしです」という言葉に、心を打たれた。挑戦には様々なリスクが伴う。犠牲が必要な時もある。もし人に、生まれつき持っている労力の量が決まっているとしたら、挑戦することは間違いなくその消費を加速させている。なんなら挑戦せずとも、生きていくことはできる。なぜなら「人生は暇つぶし」だからだ。暇が潰せればいい。そして自分自身に「なぜ挑戦するのか」を問う。でもよくわからない。言葉にしたところで想いの全てを表現しきれている自信がないし、それを思い出したところで、頑張るきっかけになったことは今までほとんどない。あっても時間が経てばそれは徐々に小さくなっていく。それでも私たちは日々挑戦する。そして沢山ミスをする。そのたびに現実を受け入れ、反省し、自分自身を奮起させ、また挑戦する。本当に色々な困難がある。色々ない方が楽だ。

疲れて、挑戦することの価値を見出せなくなった時、「試す」って贅沢なことなんだと誰かが言っていたことを思い出す。試したくても試せない人が沢山いる。そいつらのことを考えてみろと言っていた。でもそれを、自分の心を奮起させる原動力にするには、まだ時間がかかりそうな気がする。

結局、挑戦がないと「つまらない」んだと思う。何かがうまくいくためには、うまくいくための悲しみが必要だ。その悲しみを乗り越える、つまり、現実を受け入れるためには、そいつらを楽しめるようになったら最強だ。突然ジャズの魅力に惹かれ、「おれは世界一のジャズプレーヤーになる」と宣言し、河原で毎日何時間も練習をしていた、漫画「ブルージャイアント」の主人公「大」を、ある日、寒さと雪が襲った。その時彼は川に向かって「人生が俺にチャレンジしてきている!!!」とでかい声で叫んだ。私たちもそう簡単にいい人間であることを諦めてはいけない。

現実を受け入れるのがしんどくなったら、自分の脳みそを指差し、「お前だけには絶対に負けない」と告げる。そして外にパーっと走りにいく。最大の出力をだす。体にありったけの酸素を取り込み、気持ちいい疲労感を感じながら、ふと空を見上げる。東京の高く聳え立つビルの隙間から見える空は広くて、深い。空の彼方から神様的な誰かが見ているとしたら、自分はめちゃくちゃに小さい存在なはずだ。小さな自分の中にある考え事なんて、もっと小さく大したことないもののはずだ。そうしてまた人生にチャレンジしにいく。

もしかしたらあの電車にいたカップルも、人生においての挑戦と失敗を繰り返しているのかもしれない。いわば、失敗をしに出かけていた帰りに、またさらに大きな失敗を重ねていたのかもしれない。でもそれは、うまくいく喜びを味わうためなんだと思う。もし今度その人に会った時、私は何を思うだろうか。

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