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中山俊宏さんへの個人的追悼

中山俊宏さんが2022年5月1日に亡くなってから、はや2年が経過したことになる。中山さんとの付き合いが長かったよしみで、私は中央公論慶應の学内誌などに辿々しい追悼文を寄稿した(また新たに慶應義塾大学の同僚となった渡辺将人さんも素晴らしい追悼文を寄せており、ご一読を薦めたい)。

わかってはいたのだが、米国大統領選が近づき、多くの報道や解説記事に接するにつれ、中山さんの喪失を現在も感じている。中山さんが日々問いかけていた、物語としての米国政治を通じて、自分は米国を理解しようとしていたのだな、と改めて思う。中山さんのいない世界における米大統領選は、どこか無機質で色彩を失っている気さえする。

2年前に中山さんの訃報を知り茫然としていたころに、フェイスブックの友人公開で「個人的追悼」を書いた。この内容の一部は上記の中央公論の内容に反映している。ただ、中央公論という公的な媒体に寄せた文章は、どこかかしこまった内容と文体となった。自分が強く惹かれた中山さんの内的な衝動や価値観を、より多くの人に知って欲しいという思いから、当時の文章を(多少改稿して)noteに掲載したいと思う。中山さんの2周忌に寄せて。


(2022年5月14日)

慶應義塾大学総合政策学部のかけがえのない同僚、中山俊宏さんが急逝した。あまりに突然のことで、未だに信じられない気持ちでいる。

日本を代表する米国政治外交の専門家として、日米関係を担うシンクタンカーとして、日本外交のあるべき姿を模索する言論人として、中山さんの存在は群を抜いていた。大学における研究と教育をリードしてきたのみならず、日本の対外発信の中心的存在であり、政財官界の指南役でもあった。これから外交安全保障の世界を間違いなく率いていくはずの中山さんがなぜ早逝してしまったのか。

中山さんが逝去して2週間がたち、そこで思い出した個人的な思い出を綴ってみたい。

今から23年前に、私は外務省系シンクタンクである日本国際問題研究所(国問研)に研究員補として就職した。中山さんも国連代表部での勤務後に同じ国問研に務めていて、私たちは同僚となった。国問研があった霞ヶ関ビル11階のフロアで毎日のように言葉を交わし、ときに深夜まで議論し、多くの海外出張を共にした。9.11テロからイラク戦争まで慌ただしく走り回り、分析を語り合った。

中山さんと初めて会ったのは、1998年6月にマレーシア・クアラルンプールで開催された「アジア太平洋ラウンドテーブル」(APR)というトラック2会合(政府・非政府関係者による政策対話)だった。大学院生だった私は、たまたま同時期に別の会議(ハーバード大学主催のHPAIRという学生会議)で同市を訪問していた。両会議の主催者の計らいで「学生の意見は大切だ、HPAIRの学生代表をAPRに登壇させよう」という企画が組まれることになった。

私はたまたまHPAIR代表としてカナダ、中国、マレーシアの院生らと共に登壇者に選出された。そのこと自体はとても光栄だったが、政府関係者や並いる専門家の前で何を話せばよいか、と極度に緊張していた。そのとき会議場入口で所在無さげに立っていたのが中山さんだった。

国問研はAPRの日本側窓口だったので、中山さんも会議に出席していたということだろう。私は比較的若手の日本人を見つけた、という思いで挨拶をした。登壇者となった事情を説明すると、中山さんの反応は「私はこういう分野はあまり専門じゃないんですよ。アドバイスを期待されても困ります」という素っ気ないものだった。

いざ登壇してみると、会場には見渡す限りの政府関係者や専門家が200人ほど座っていて眩暈(めまい)のする思いだった。そこで私は日本の安全保障政策が日米防衛協力のガイドラインを通じて、日本が地域安全保障に責任を果たすようになる、という趣旨の話をした(ように思う)。

試練は質疑応答の時間にあった。おもむろに手を上げた中国代表の某大使は窘める口調で「このヤングジャパニーズは、歴史を知らない。日本が戦時中中国に何をしたか知っているのか。歴史を学べ。安全保障の話はそれからだ」と私を指差しこれ見よがしに叱責した(別の中国代表も手を挙げて同じトーンで、you young Japanese, learn history more!と連呼された)。

後に中山さんはこのことをよくエピソードに持ち出す。「あのときは素っ気なくてすみません」「でも、日本を背負うというのはこういうことなのか、ということを、孤軍奮闘する神保さんを見て思ったんですよ」「この話は、あとでちゃんと公表するべきですよね」と振り返ってくれた。

なるほど、こういうふうに経験を拾ってくれるのか、と救われた思いがした。尚、自分がこの経験を通して反中意識に囚われたわけでもなく、むしろ中国に興味をもつきっかけになったこと、「あのやりとり、笑っちゃいますよね」といって独特のアクセントで「learn history more」と言い合ったことなど、思い出される。

その後、慶應の博士課程に進学し、縁があって1999年7月に国問研に就職することになった。国問研で初期のトラック2外交を精力的に支えた星野俊也さん(現:大阪大学教授)が大学に転出し、後任の研究員を探してたところにたまたまピースが当てはまったのだ。

そこで研究所にいる中山さんと同僚になった。今でこそ俳優のような雰囲気を漂わせる中山さんだが、当時は丸刈りにしていてビバリーヒルズ青春白書のデイビッド(ブライアン・オースティン・グリーン)によく似た風貌だった。それを伝えると「ああ、よく言われるんですよ」とややうんざりした様子だった。

私の職務はアジア太平洋地域のトラックII外交担当で、特に日・ASEAN賢人会議やアジア太平洋協力会議(CSCAP)といった国際会議を担当していた。若かったこともあり昼夜週末にも猛烈に働いた。(*尚、当時の職務を通じて得られた中山さんと私のトラック2外交の所見についてはこちらで読むことができる)。

当時の国問研は小和田恒理事長に率いられ、小和田理事長は驚異的なスケジュールで仕事をこなす一方で、国際会議等で多くの基調スピーチを行った。こうしたスピーチ原稿を研究員が起草することも、私たちの職務の一環だった。国問研が共催する会議で出張があれば、小和田スピーチが組まれ、そのスピーチ原稿を研究員が提案するという仕組みだ。こうしたスピーチを私と中山さんで何本つくったろうか。あれやこれやとアイディアを巡らせ、英語の表現に悩み、小和田理事長から深夜にFAXで返送されてくる手書きのコメントの解読に四苦八苦した。

中山さんを自宅に呼んで飲んだり、中山さんの自宅にお邪魔したこともあった。当時一人暮らしをしていた中山さんの家にはDJ機材セットがあり「私のつくったシーケンスなんですよ」とかけてくれた。「いや、ビックカメラのDJコーナーで機材揃えたんですけどね」と照れ笑いしていた。

研究所では夜な夜ないろいろな話をした。永井陽之助と佐藤誠三郎の話から、現代思想じみた話、村上龍の小説は内容に比してあとがきが凡庸だということ、原理原則をかざす人とは話が合わないこと、プラダの靴は使い回しがいいこと、神保さんとは女性を見る目が違うんですよ、といった話。そういえば結婚前に付き合った彼女を何人か紹介して、評価を聞くことを密かに楽しみにしていた。彼女たちと別れたときの愚痴も、迷惑がらず楽しそうに聞いてくれた。

国問研では同じ世代で中国研究をしていた飛鳥田麻生さんを加えて、よく食事会をしていた。年に数回だったろうか、少し背伸びをしたレストランに3人で訪れ、高いワインを飲んで散財するということを楽しんだ。互いに気に入ったレストランを紹介し、時間を忘れて会話することが心地よかった。

中山さんもこの集まりを気に入ってたのだろう、飛鳥田さんが米東海岸に引っ越した後でも、「今度ワシントン行くときは、飛鳥田さんを誘って食べに行きましょう」と提案してくれた。最後に3人で食べたのは、「ここのバッファローの肉が好きなんですよ」と言っていたワシントンのIron Gateだったように思う(写真)。

国問研時代は、午前9時台に出勤して終電時間まで滞在するというのが常だった。ときに夜10時頃から「やりますか」と大会議室にこっそり持ち込んだプレステでNBAのゲームや鉄拳2を終電時刻まで楽しんだ。NBAファンだった中山さんは、私がユタジャズのポイントガード・ストックトンのパスでマローンにシュートを決めさせる必勝法としたことを「保守的ですね」と酷評した。自らはLAレイカーズを選んで破天荒なシャキール・オニールで、私のガードを跳ね飛ばしつつ得点を重ねていた。鉄拳2では連続コンボを得意としていて、最後まで勝てなかった。いつも満足そうに終電に向かっていった。

こうした牧歌的な研究員生活が終わりを告げたのは、2001年の9.11事件だったように思う。あの日のことは、中山さんの9.11・20周年論文(理念なき大国間競争の幕開け)では、研究所で二人でテレビを朝まで見ていたことになっている。自分の記憶では、私は夜半まで六本木でビリヤードをしていて、中山さんの電話で「神保さんやばいですよ、今すぐテレビを見た方がいい」と呼び戻されたことが加わる。

それから、世界がどのように変化するのか、米国はどのように戦争を戦うのか、台頭するネオコンとは何か、グローバルな協調はどこまで可能なのか、といったことを毎日のように議論した。中山さんが中心となって、国問研研究員による9.11分析プロジェクトに取り組んだ。

こうした不穏な雰囲気は、ジョージ・W・ブッシュ政権のイラク戦争によってさらに増幅していった。当時私が『中央公論』に投稿した論文「先制行動を正当化する米国の論理」を中山さんは高く評価してくれ「論壇デビューですね、やりましたね」と目を細めてくれた。

このころ、世界各地から国問研を訪問する客人(研究者や官僚など)にだいたい対応していたのが、中山さんと私で、また国際研究交流でもよくプレゼンテーション役で借り出された。今日に続く英語プレゼンテーションの妙は、このころの経験の積み重ねによるところが大きい。

中山さんは国問研時代に「米国共産党研究にみる政治的知識人エートスの変容」という博士論文を青山学院大学に提出し、一足先にPh.Dとなり主任研究員にも昇格した。私自身はこの分野に立ち入ることはほとんどできなかったけれど、ロシア革命を記録した米国人ジャーナリスト、ジョン・リードの半生を描いた映画「レッズ」が好きだ、と伝えるととても喜んでくれた。そういえば、中山さんを自宅に招いてマイケル・ジャクソンのDVD「ヒストリー」を観たときに「これは革命思想ですね」と言ってたことを覚えている。

そうこうして国問研時代にも転機が訪れ、私は2003年に国問研を離れ、中山さんも研究業績が高く評価され2006年から津田塾大学准教授、2010年に青山学院大学教授に就任した。このころは外部の研究会で一緒になったり、海外で同じ会議に出たりといった以外、あまり濃密な記憶がない。中山さんが再び同僚となるのは、2014年に慶應SFCに教授として就任してからのことだ。実に10年ぶりに同じ組織に所属することになった。

慶應義塾大学で同僚となった頃には、中山さんの活躍は磨きがかかっていった。その言論には価値へのコミットが反映され、曖昧さを許さない凄みが加わっていった。中山さんの凄みを感じた機会は数多いが、中でも米ウイルソンセンター・ジャパンスカラーだった2019年にワシントンDCで開催された日米安保セミナーは圧巻だった。

中山さんは「米国政治」というセッションで登壇し、米国政治の分断状況を選挙や議会分析を通じて見事に看破して、同じく登壇したカート・キャンベル(現インド太平洋調整官)も舌を巻いていた。米国の第一線シンクタンカーや議会関係者を前にして、こんなプレゼンができる日本人がいるんだな、と誇らしく思ったことを覚えている。

米国の思想的分断を深く理解するからこそ、その分断のなかで保たれるべき日米関係を、中山さんは常に考えていた。だからトランプ政権下であっても「日本にはプランBはない」という言論姿勢を明確化していった。(そのくせ、シン・ゴジラでゴジラがB2爆撃機を背中のビームで撃墜したときは、何故か感涙したと言っていた)

混沌とした国際情勢で道標を提示できる人は多くないが、中山さんは明らかにその中心的な存在になっていった。だからこそ、2022年のロシアのウクライナ侵攻後に、日本社会は中山さんの言論を求めたのだろう。そしてそれは見事だった。

生前「確信する絶対主義者」と「悪しき相対主義者」のどちらにもなりたくないと言っていた中山さんは、厳然たる世界のパワーを踏まえつつ、国境を超えたヒューマニズムを尊重していた。立場の違いを超えて中山さんに耳を傾け、共感する人が多かった理由だと思う。

このヒューマニズムは、自分の孤独な探究心が、決して理解されないだろうな、でも理解して欲しいな、という感覚によって成り立っていたものだと思う。突き詰めて立場を明確にする人たちを「いっちゃってる人たち」と動物観察のように愛しみながら、でもそれらの人々に個人としての人格、同じような孤独な探究心を持った人なんじゃないか、ということを見出そうとしていた。だからこそいつもフェアネスを重視して、それが害されることに対して立ち向かうことを恐れなかった。

自分の勝手な思い込みかもしれないが、中山さんってこういう人ですよね、という中山さんとしては知られるはずもないが知ってほしいという感覚を、自分はわかっているつもりだ。「それは神保さんの中山像なんじゃないの」と言いながら、よく嬉しそうにしていたことを覚えている。

人生のいろいろな場面でお世話になった中山さんに、自分は感謝の気持ちを伝えられなかった。今でも写真をみるとJIIAで一緒だった頃のように「神保さん、やばいんじゃないの」と語ってくれる気がする。

たぶん自分の人生の目標は、我武者羅に働いて、成功や失敗を茶化しつつ、社会的な評価を讃えあい、喜びと悲しみを共有し、一線を引いた後に中山さんたちと盃を傾けて、重ねた年月を回収することだったように思う。


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