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「やりたいこと」より「やれること」をやるのも悪くない

やりたいこと、自分の好きなことで食べていけたらいい。きっと誰もが思うことじゃないだろうか。僕もずっとそう思ってきた。

僕はマジシャンになりたかった。もちろん本物の魔法使いではない。手品師というやつだ。20代の10年間はマジック抜きには語れない。マジックと出会い、のめり込み、プロマジシャンになりたいと真剣に思っていた。

新卒で入った会社を辞め、プロマジシャンの名刺とパンフレットをいろんなところで配り、自ら飛び込み営業をして得たイベント出演の仕事をコツコツやった。ステージのあるショーパブのような店で店員をしながらマジックを演じ、夢だった自分のマジックバーを開店した。

だが、マジックバーは経営がうまくいかず、自分の店を優先させた結果、それまで収入のメインであったイベント出演などの他の仕事はなくなってしまった。裕福とは言えないまでもなんとか自分ひとり食うくらいの収入は得ていたのだが、その収入も途絶え借金ばかりが膨らんでいった。

20代も終わる頃、マジックバーの店舗の家賃も払えなくなった僕はプロマジシャンの夢を諦めた。挫折だらけの人生だったがそれまでの挫折とはまったく違う。人生をかけた挫折だった。

それから当時付き合っていたカノジョの家に転がり込み、半年ほど日雇いのような仕事をしながらダラダラとしていたのだが、いつまでもそんな生活をしているわけにもいかない。

就職しよう――そう思ったが、職歴といっても高卒で建設会社で働いた時期が少しがある程度で、あとはフリーのマジシャンとちょっとだけの飲食店経営。一体なにになれるのだろう。

この経歴で僕にできそうな仕事は建設関係しか思いつかなかった。一応現場経験もある。それなりに資格も持っている。とはいえ、経験年数は少なくブランクは大きい。

そうして悩んでいた頃に知ったのが現在勤めている会社だった。マンションを管理するそこそこ大きな会社で建設系技術者の採用募集があったのだ。建設工事がメインではない会社。もしかして穴場かもしれない。それに待遇も悪くない。

募集要項を見ると奇跡的に僕の持っているいくつかの資格がピンポイントで並んでいる。新卒で入った会社が田舎の小さな会社だったので、なんでもやらなければならず、細々した資格をとっていたのが役立ちそうだ。

そうやって採用試験を受けた。そして、途中いろいろとあったものの、僕はなんとか就職することができた。そしてマンションの管理を行う職場に配属された。

それからは生活が一変した。毎日決まった時間に起きて満員電車で会社に向かう。マンションの住人から「エアコンが動かない」とか「雨漏りがする」といった不具合の連絡を受けて業者を手配する。賃貸マンションを退去する人がいれば、その部屋に行って次の人のためにリフォームをする。

職場にはやることはたくさんある。だが、どれも自分が望んだ仕事ではない。挫折の末に行き着いた仕事。どこかにいつもそういう思いがあった。だから、やらないといけないことを淡々とこなし、日々をやり過ごした。そこで僕は給料のためだけに働いていた。

ある日、マンションを退去するお客様と立会で部屋の中を確認することになった。かなり古いマンションで、新築の時から契約しているお客様だ。書類を確認すると、なんと45年も住んでいる。

現地で待ち合わせていると5歳くらいの男の子を連れた女性がやってきた。

「お待ちしておりました。それではご一緒に中の確認をお願いします」

僕が玄関を開けると「ただいま!」と言って男の子が勢いよく中に飛び込んだ。

「もう、ここに入れるのも最後ね」

女性がそう言ってあとに続く。

部屋の確認はすぐに終わった。なにせ45年も住んでいれば内装はほぼ減価償却済みなので修理費用を請求する内容などほとんどない。だが、男の子の部屋から出たくなさそうな様子を感じた僕は少しだけ待ってみようという気になった。

「生まれたときからここにいるんです。父と母が結婚したときに契約したそうですから」
「ご実家だったんですね」
「そうですね。あの子にとってもそうかも知れない。親子3代住んでいるいえですから、思い出がたくさんあります。ちょっとさみしいですね」

その後、10分ほど、その家での思い出話を聞いた。さすがに個人情報なので記事には書けないが、とても素敵な話だった。家は人の生活を支えている。頭ではわかっていたが、それを強く意識した瞬間だった。

「本当に長くお住まいいただき、ありがとうございました」

いつもの愛想笑いではない。自然な笑顔でお客様を送り出した。今日はいい日だ。そう思った。

僕の仕事もこうして日々を暮らす人たちの家を守っているのだと思った。自分の「やれること」で誰かの役に立つのも悪くない。僕は仕事の続きをやるために事務所に向かって歩きだした。その足取りはいつもより少し軽かった。

#はたらいて笑顔になれた瞬間

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