ヨゼフ・チャペックと戦争

1.二つの戦争
 ヨゼフ・チャペックとカレル・チャペック。邦訳の点数だけみると、弟のカレルが圧倒的に多いため、兄ヨゼフについては「カレルの文章に挿絵を提供した画家」としてしか知られていないかもしれない。しかしながら、批評家F・X・シャルダが

「[ヨゼフは]世界を独特に眺める強烈な詩人であり[……]、カレル・チャペックは詩人というよりも、文明社会の意識を明確にもった重要な作家だ」[F. X. Šalda: Kritické projevy X. Praha: Československý spisovatel, 1957, s.142]

と述べたり、詩人サイフェルトによる

「私たちは確信している、カレルが偉大な作家であるとしたら、ヨゼフは偉大な芸術家であり、偉大な詩人である、と」[Jaroslav Seifert: Všecky krásy světa. Praha: Československý spisovatel, 1993, s.38.]

といった発言からもわかるように、ヨゼフは詩人としてもたかく評価されていた。画家としても「造形芸術家グループ」で重要な役割を果たすなど美術史に刻んだ足跡は大きいものがあるが、ここでは、作家・詩人としての兄ヨゼフの足取りをたどってみたい。
 チャペック兄弟の歩みは、いわゆる第一共和国と並行して展開しているが、換言すると、ふたりの主要な活動はふたつの戦争のあいだの約二十年に凝縮されている。
 ふたりの文学的なデビュー作、合作の『輝ける深淵Zářivé hlubiny』(1916)、カレルの『受難像Boží muka』(1917)、ヨゼフの『レリオLelio』(1917)、これらはいずれも第一次世界大戦のあいだに発表されたものであり、先行き不透明の状況を反映するかのように曖昧模糊とした世界観に貫かれている。
 短篇集『レリオ』の冒頭を飾る同名の「レリオ」は、ベルリオーズの同名の楽曲に触発されたものであるが、ベルリオーズ同様「生への帰還」が主題となっている。同短篇集はしばしば表現主義的と評されるように、形象化されえない心理状態を懸命に言語化する書き手の葛藤が看取される[以下は「レリオ」の冒頭と結びの引用]。

 死に瀕しているあの顔は、お前のもの。受難の印が顔に刻まれ、まだ正されていない不正の陰がその額に差す。唇はしなびた悪と堕落であり、瞼は閉じられている。この目が眺めることを望むものは、もはやこの世に何もないからだ。
 最後だと言ってもう一度復帰しようとするが叶うことはない! 原因不明の絶対的な不安によって、この哀れな魂は、歓喜すべき存在から切り離されてしまい、思わず涙がこぼれ、なすすべもない苦しみ、そして抑えることのできない痛みが出す音によって虚無の中へ運び去られてしまった。
 お前が生きていると実感するのは不安と刺激のみで、自分のものは何もない。空虚な夢を見て寝ている魂、手術台の上に広げられた感覚のない体。あなたは復活する、だが私は眠りに落ちることはなく、百倍の不安を感じながら生きている!
[中略]
 ――あの魂の不安のなかから出現したのは、悲しみにくれた顔だった。口は物憂げに傾き、無音の優しさで輝く瞳からは涙がゆっくりと、たえることなく、際限なく流れている。優しい恋人の微動だにしない顔は頭上にあり、お前の苦悩よりも同情がまさっている。愛と喜びを感じながら口づけしたいと思っていた口は死んでしまい、閉じられている。後悔と絶望を口にしたくないがゆえに。あの瞳は憂いに沈み、しくしくと苦悩を噛みしめながら泣いていた。あの唇は悲しげに傾き、あの顔の愛しい魅力は、永遠の喪失という悲哀と寂寥と化してしまった。
 いつの日か、光り輝く存在が、明るい服をまとい高貴な表情をした男の天使たちが降りてきて、かれらの到来によって、この堕落した精神に希望という輝く光線が放たれんことを。そのとき、かれらは叫ぶだろう。「お前は勝利した! 解放された!」と
[Josef Čapek: Lelio. Pro delfína. Praha: Dauphin, 1997, s.7, 8-9.]

 「不安」という精神状態を表す表現が頻出するなかで、書き手が描き続けるのは「顔」である。エゴン・シーレなど、同時代の中欧の画家が肖像画を探求し続けたように、ヨゼフもまた絵画そして散文において「顔」を模索する。不安定な精神状態のなか、書き手にとって唯一拠り所となる身体。ヨゼフが描く両者の葛藤はまさに中欧の表現主義の世界観に呼応するものであった。そのようにして考えると、多くの表現主義者の作品同様、『レリオ』は、当時はまだ掴みようがなく、不安を増長させる「戦争」という現象を補足しようという詩人の営為の結晶であったともいえる。

2.『足を引きずる巡礼者』
 童話、美術評論、エッセイなど、作家としても多岐にわたる活動をしたヨゼフであるが、戦争の面影がふたたび色濃く反映するようになるのは、晩年の作品群である。なかでも、異彩を放つのが、思索の書『足を引きずる巡礼者』[Kulhavý poutník. Praha: Fr. Borový, 1936.]であろう。聖書、ホラティウス、パスカル、サフォー、シェイクスピア、ゲーテ、さらには李白にいたる洋の東西の宗教家、文人たちの言葉を手がかりにしながら、ヨゼフは、魂の「巡礼」を試みる。ヨゼフにとっての巡礼者の雛形は、同書で引用されているヤン・アーモス・コメンスキーの『世界の迷宮と心の楽園』(1623)に見出される。現生の世界の巡礼を通して無益さを知ったコメンスキーの巡礼者は、自らの心の中に神を見出すのに対し、ヨゼフの巡礼者に終着点はない。そこでは「足を引きずる」ことの重要性が語られる。つまり、ゆっくりと歩むこと、いや、足を引きずってあえて遅く歩むことで見えてくるものの大切さが強調され、そのようなヨゼフの強い想いは哲学者や文人との対話によって深められていく。
 多岐にわたる題材を扱い、数多くの主題を有する書物であるが、巡礼者の目標をめぐって綴られる一節を引用しよう。

いかに歩みがゆっくりとして重いものであろうとも、足を引きずる巡礼者は、どこかへと向かっている、どこかへ、何かの目標にむかって歩いている。この目標――足を引きずる巡礼者がその旅の最後にたどり着こうとしている強固な意志が示すのは――死である。そう、早かれ遅かれ死ぬことだけは確実なのだ。
[Josef Čapek: Spisy Josefa Čapka II. Beletrie 2. Kulhavý poutník / Psáno do mraků / Báně z koncentračního tábora. Praha: Triáda, 2010, s.14:以下、ページ数のみを記載]

 この引用にあるように、「死」を措定したうえでの「生」の意味付けがなされ、書き手の「死」への意識が随所にうかがえる。同書には、「私はこの世で何を目にしたか」という副題が付されているが、視覚を通した身体的体験を「魂」の問題としてどのように位置づけるか、換言するならば、視覚など身体感覚では捉えられない「魂」をいかに日常において捉えようとするかといった「巡礼」の実践の問いかけがなされている。

3.『雲に綴って』
 『足を引きずる巡礼者』が巡礼というある種線的な流れが明確な書物であるのに対し、1930年台後半に執筆され、戦後に刊行された『雲に綴って』(Psáno do mraků (1936-1937-1938-1939). Praha: Fr. Borový, 1947.)の構成は、アフォリズム、日記の断片、思索的メモなどから緩やかなものとなっている。断章形式からなる構成は、パスカルの『パンセ』を想起させる。
 まず気づくのは、ヨゼフなりの芸術論、人生観をめぐる文章が随所にちりばめられており、画家として、芸術家として、そして何よりもひとりの人間として、高い倫理観のもとに生を営む詩人の告白、決意が感じられる点である。

「やりたいことと、しなければならないことのあいだで、私たちの生活はすべて、成り立っている」[354]
「一瞬の霊感によって、つくるのではない。絶え間ない緊張感のなか、つくるのだ」[122]
「魂は、世界を、生を、全体として受けとめる。宇宙の恐ろしさ、永遠や無限の破壊力とともに。――個人が受けとめるのは、一部のみ。だがその一部をすべてとみなし、全人生、全世界と見なしてしまうのだ」[139]

 と同時に、同書は、ナチスの勢力拡大に並行するかたちで執筆がなされたということもあり、「戦争」のモチーフはむしろ主要な要素として前景化している。

戦争:人々はみずから土を耕したり、家や町や道路や橋や鉄道を建て、そのあと、土、家、道路、橋、鉄道をみずから破壊する。私たちが古城の廃墟を眺めるように、次世代は、鉄筋コンクリートの廃墟を見ることになるのか?[188]
今日、戦争およびその悲惨さがもたらす恐怖とは、もっとも卑しく、もっとも悪臭を放つ人間の本能が自由な畑に解き放たれてしまうのではないかというきわめて独特な恐怖のことだ。ヨーロッパ、その文化が戦争で消滅するとしたら、イペリットやエクラジットによってではなく、戦争というしがらみのさもしい利己主義によってだろう。[208]
戦争。愚鈍な従順さゆえに命を落とす者、確固たる確信のもと命を落とす者、それは同一ではない。[249]

 その際、ひとつの特徴として指摘できるのが、平和、平時の状況をつねに意識しながら、戦争を語るという姿勢である。それは、ナチス・ドイツの勢力が拡大し、なかでも1938年のミュンヘン会談、翌39年のボヘミア・モラヴィア保護領化によって、チェコスロヴァキアという国名が一旦地図の上から消えるという武力衝突とは異なる戦争の様相が当時進行していたこととも無縁ではないだろう。

平和は、善を進展させる契機である。だが戦争は、勇敢さと犠牲心の美徳を進展させる。痛みは、労働と希望を。これらすべては、歴史の定めによって、私たち民族に与えられたもの。だが重く、重く、困難であることか。でもなお、私たちには生きるべき理由がある。[254]
浅はかさと道徳的無関心さが群がる平和は、戦時ほど血は流れないものの、戦争同様有害なものである。[244]

 ミュンヘン会談、保護領に関する議論は「小民族」というレベルに引き付けられることがあるが、ヨゼフはこの問題を、「人間性」「永遠性」というより高次のレベルに昇華させ、具体的な歴史的な文脈のみへの収斂を拒んでいる。

小民族の困難な運命。自由を恐れ、自由をかけて戦うことは、自由を享受しつつもそれが何か分からずにいることよりも、道徳的に価値のある生活の位相にある。/人間は、平和な存在であるだけでなく、破滅をもたらす存在でもある。いかに平和を享受するか、いかに不幸を享受するか、すべてはこれ次第だ。かよわい、浅はかな者は、歴史の破滅の犠牲になるばかりか、平和の犠牲にもたやすくなってしまう。/人間性と永遠性という顔の前で価値があるのは、取るに足りない生ではなく、悲劇的な生である。[251]

 ヨゼフは毎日のようにこのアフォリズム、格言を綴っていたが、その試みは二次大戦が勃発する1939年9月で中断することとなる。

4.『強制収容所からの詩』
 戦争の痕跡がもっとも深く刻まれているのは、彼の遺作となった詩集『強制収容所からの詩』(Básně z koncentračního tábora. Praha: Fr. Borový, 1946.)である。文字通り「強制収容所」で執筆された本書は、特殊な位置づけをもっている。まず、イツハク・カツェネルソン『滅ぼされた民の歌』などとともに、強制収容所内で執筆され、現存する貴重な詩集であること(もちろん、その性格付けは大きく異なる)。次に、小説、エッセイ、評論など多岐にわたるジャンルを手がけたヨゼフにとって、唯一の「詩集」であること(ただし刊行は没後)。そして、ヨゼフ本人の詩作品のみならず、翻訳も収録されている点などが挙げられる。
 では、これらの詩篇はどのように執筆され、どのようにして本の形となったのか。まずは執筆の経緯を振り返ってみよう。
 第二次世界大戦が勃発した1939年9月1日、ヨゼフは妻と滞在していたジェリフでゲシュタポに逮捕され、パンクラーツを経由して、ダッハウ収容所に収監される。同年9月26日にはブッヘンヴァルト収容所に移送される。ここでは、保護領の人質としてチェコの政治家、文化人、労働者など約八百人が収容され、すくなくとも1941年春までは強制労働が課せられないなど、他の囚人たちに比べると比較的よい待遇を受けており、収容所では講義なども行なわれ、ヨゼフも弟カレルについての講義を行なったとされる。1941年の復活祭以降、チャペックも労働を余儀なくされ、画家エミル・フィラらとともに、ナチスの親衛隊(SS)の家系樹の作成などに携わったほか、隊員のためにチロルの風景画なども描いていたといわれる。
 ブッヘンヴァルト収容所では、ヨゼフが詩の翻訳も手がけていたことがわかっている。訳出されたのは、中世スペインのホルヘ・マンリーケ(1440-1479)、英国のヒレア・ベロック(1870-1953)、ルパート・ブルック(1887-1915)、アイルランドのジェームズ・スティーブンス(1882-1950)、ジェイムズ・ジョイス(1882-1941)の詩篇であり、ブルックとジョイスは二篇、その他は一篇ずつ、計七篇の詩が現存している。マンリーケを除き、いずれも英語の詩であり、チェコ語への訳出はヨゼフの翻訳が初めてである。
 スティーヴンスの「風」など、ヨゼフ自身の詩作にも呼応するモチーフが見られ、のちのザクセンハウゼンでの詩作を予兆するものとなっている。
 1942年6月26日にはザクセンハウゼン収容所に移送され、同年10月か、11月頃にベルリン・アレクザンダー広場の収容施設に7週間滞在し、再びザクセンハウゼン収容所へ戻る。同収容所では、ドイツ装備工房(Deutsche Ausrüstungwerke)に付属する作業場の「画家Kunstmaler」として勤務する。同年12月にはヨゼフは詩作を始めたとされる。メモ程度のものであれば後世に伝えられることはなかったかもしれないが、幸いにも、同工房には、タイプライターを自由に扱えるオストラヴァ出身のヨゼフ・ペカーレク(1895-1985)も勤務していた。ヨゼフが詩を書いていることを知ったペカーレクは、自身そして他の囚人のためにタイプ原稿を作成することを決心する。1943年春には、25ページにも及ぶ初めての原稿ができあがり、その後も機会を見つけては、ヨゼフの手書きの原稿をタイプで活字化していた。その経緯について、ペカーレクはチャペック研究者イジー・オペリークに宛てた手紙の中で次のように述べている(ヨゼフ・ペカーレクの手紙、1978年9月18日付け)。

私はヨゼフ・チャペックの原稿から詩をドイツのタイプライターで、つまりハーチェクやチャールカなしで、五枚ずつ、要するにオリジナルと複写四枚で、転写しました。今、あなたがお持ちの複写原稿は私が手元に残しておいたもので、他の三つの複写はチャペック氏に返しました。詩には著者名は記しませんでした。詩は、当時私がタイプライターで仕事をしていたDAW(Deutsche Ausrüstungwerke)の職場で書いたものです。ある時、詩を打っていると、SSのレルクに見つかり、何をしていると詰問されたので、チェコの歌を書いているんですと答えました。罰を受ける可能性があったので、原稿をタイプライターから引き抜き、すぐに廃棄しました。彼が去ってから、また原稿を複写しました。もしそのSSがチェコ語をできたら、私、そしてチャペックの身に何が起きていたかは想像できません。それからも私は詩を複写し、チャペックに渡しましたが、そのあとの顛末はわかりません。[599]

 このようにしてできあがったタイプ原稿は複数存在し、ヨゼフの妻ヤルミラ・チャプコヴァーもまた、早くも1943年のうちに、収容所に研修で滞在した大学生の集団からヨゼフの原稿を受け取っている。現存している原稿により、ヨゼフは1945年2月まで、130篇の詩を執筆していることがわかっている。
 1945年2月25日、ヨゼフはベルゲン・ベルゼン収容所へ移送される。同年4月4日、生存していた最後の記録が残っているが、その後の足取りは不明である。収容所は、4月15日、英軍によって解放され、25日からはチフス蔓延のため行なわれてこなかった遺体の識別作業が開始される。つまり、4月5日~4月24日のあいだにチャペックは亡くなったとされるが、遺体も識別されていない。ヨゼフの執筆した詩集は、詩人ヴラジミール・ホランによって編纂され、ヨゼフの死後、1946年に刊行されている(その後、増補版は1980年に刊行されている)。

 ヨゼフの詩は、きわめて簡素な言葉で綴られている。証言によれば、ヨゼフはほかの囚人たちの前でたびたび朗読し、囚人たちは感銘して耳を傾けていたという。同じく強制収容所で執筆され、戦後発見されたカツェネルソンの詩は、滅びつつあるユダヤの民の最後の詩人としての声が二人称によって呼びかけられるが、ユダヤ系でない読者はその詩を前にして、指をくわえてみていることしかできない、居心地の悪さを感じる。それは、絶対的な他者性の感覚でもある。ヨゼフの詩もまた、収容所にいる者にしかわからない感覚、見えない風景が綴られている。

捕虜の散策 Ⅰ
石の壁の矩形
四方を鉄の門で囲まれ
空は遠く締め出されている
壁の上には有刺鉄線
これが私たちの庭、私たちの園
石の壁の矩形
捕虜たちはその周囲を歩く
遠くから軍人の命令が聞こえる
始終、あとにつきまとってくる
――これが私たちの日常――[398]

あるいは、

囚われの時
これは生ではない、息苦しい棺
墓石の土が重くのしかかる
先が見通せない、星のない夕闇
それはまるで死のごとく――ああ、捕虜となって
過ごした日々、月々、年々――
復活はいつか、蘇るのは、
棺の中で立ち上がるのはいつか、
墓石の重い蓋が開くのはいつか、
闇から明るい日が光るのはいつか、
私たちが自由になるのはいつか
――私が自由になるのは? [408]

 「石の壁の矩形」という閉ざされた空間における精神の閉塞感は「棺」「墓石」といった言葉によって強められ、「自由」への想いが綴られる。しかしながら、ここにカツェネルソンの詩に見られるような居心地の悪さはそれほど強くは感じられない。なぜなら、ここでは「私たち」という一人称複数の形が用いられているからである。もちろん、主たる語り手は「私」である。だが、「私たちの日常」という言葉が発せられるとき、それは、同じ収容所にいるほかの囚人に対して投げかけられた「声」が想起され、そしてまた、この詩篇を手に取ってよむ私たち読者の存在もまた「私たち」の範囲に含められることとなる。それゆえ、最後の一行で一人称複数から一人称単数への話者が変わることによって、読者はふたたび「私」ではない自分を意識せざるをえない。
 閉塞感からの脱出という主題は、収容所を主題にする詩篇に限定されるものではない。たとえば、次の「風」という詩の初めの一連を読むと、自由の象徴としての「風」への憧憬を語る詩篇を想像する。

ああ、風よ、ぼくはいつも君をあがめていた
君が好きだった、とくに夏はそうだ
丘の上や高みの日当たりで
穀物畑を梳かし
少女たちの髪をかき乱していたね
庭でうなり声をあげたり
昼前に嵐を引き起こした時も
いつもぼくは君が好きだった

 しかしながら、第二連で「風」の位相が一変する。「痩せさらばえた肋骨に/突き刺さる」風は、収容所にいる囚人の身体に苦痛をもたらすものでしかなくなってしまう。

でも、お願いだ、今は吹かないでくれ
せめて妙な風はやめてくれ!
君が吐き出す息があまりにも冷たく
ぼくらの冷え切った痩せさらばえた肋骨に
突き刺さるのを知らないのだろう
ゆらゆらと揺らめくぼくたちの命の火が
消えてしまうかのようだ
(…)[427]

 このように、ヨゼフは平易な言葉を選びながらも、時折、体に突き刺ささる「風」を吹かせ、収容所体験のない人びとが、安易に自身の体験を重ね合わせるのを拒絶する。だがそれは対話を拒む絶対的な拒絶ではなく、「私」と「あなた」のあいだに存在する隔絶しがたい壁の意識の表れでもある。そういうとき、詩人の眼差しは水平方向から垂直に変わり、「葉のない木」に向けられる。

1944年12月
収容所の泥の上に葉のない木が数本
天の方へ聳えている――
何かを乞う手のように
何も持たず、ただ帰宅を望む手
よるべない暗い運命よ!
日、週が日に日に過ぎゆく
何という苦しみ、ああ、生きながら生きず、
死すことなく死んでいる者よ――
――いや、苦悩する者は生きている
愛、欲望、希望を抱いているからだ
希望の手を持ち上げ
かすかな希望のなかにいる者も同じだ
収容所の泥の上、木々の枝のように、
葉のない枝のように、天の方に聳える
――早くも冬! クリスマスのひと時!
君は家にいる、いとしい家に
六度目のクリスマス……あと何回?
待つばかりの君は苦悶する
妻と子どもは家庭に置いてきたのだ――
――鳥よ、灰色の空を羽搏くのだ―― 
[498]

 ヨゼフの現存する詩篇の最晩年のものとされるこの詩のタイトルには年月が刻まれている。六度目のクリスマスを収容所で過ごす「私」と、愛する人のいない家でクリスマスを過ごしている「君」の光景が描かれるが、両者が交わる可能性は不透明のままである。それゆえ、詩人は両者をつなぐ存在として「鳥」にすべてを仮託し、壁を越えて「空」に「羽搏」かせる。
 すでに見たように、初期短編「レリオ」は「お前は勝利した! 解放された!」という表現で結ばれている。一次大戦中の不安感に充ちた閉塞感は「希望」という言葉によって束の間の光を得るが、それから二十年後、もうひとつの大戦が大きな影を落とす。そしてヨゼフ・チャペックというひとりの人間の遺骸が見つからなかったように、詩人・画家の物理的身体は徹底的に破壊されてしまった。しかしながら、様々な人びとの手から手へと渡されていったタイプ原稿のおかげでヨゼフの詩は生き延び、彼の詩篇は「鳥」のように「羽搏」いた、そう、言えないだろうか。楽園は心の中にこそあるというコメンスキーの考えに依拠しながら、ヨゼフは「魂」の巡礼を身体体験だけではない位相においても捉えようとしていた。『レリオ』と晩年の三作品は一見するとまったく異なる次元の作品のように思われるかもしれない。しかしながら、そこに二つの戦争という状況を設定することによって、これらの作品は「魂」の巡礼、模索という点において共通点があることに気づく。つまり、「風」が吹いて身体が傷つき、痛みをおぼえたとしても、希望をいだく魂だけは「勝利」へと「羽搏く」ことができる。ヨゼフの初期作品と晩年の作品は、二十年の時を隔てているが、その内実において驚くべき呼応を見せているのである。

初出:飯島周/小野裕康/ルカーシュ・ブルナ編『チャペック兄弟とその時代』(日本チェコ協会・日本チャペック兄弟協会、2017年)、149‐161頁。

(C)Kenichi Abe, 2017.

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