飯島周先生の想い出

 

 去る7月18日、飯島周先生が鬼籍に入られた。追悼の意を表して、以下では、先生との個人的な想い出を綴ってみたい。

 私が初めて飯島先生にお会いしたのは、今から三十年ほど前の1991年のこと。同年に設立された東京外国語大学のチェコ語専攻の授業に、非常勤講師として出講されていたのだった。当時、同専攻には千野栄一先生しか専任の教員はいなかったため、千野先生のたっての要望で飯島先生に非常勤をお願いしたと伝え聞いたことがある。噺家のように話が巧みでウィットに富んでいた千野先生に比べ、飯島先生の印象は穏やかで物静かな方だなというのが第一印象だった。お二人が生涯関心を抱き続けチャペック兄弟にたとえると、千野先生が社交的な弟カレルだとしたら、飯島先生はすこし控えめで慎重な兄のヨゼフといった関係だったように思う。じっさい、飯島先生と千野先生は東京大学文学部言語学科卒であったが、飯島先生のほうが一歳年上であった。

 一年生向けのチェコ語の授業は、千野先生が、月、水、金の1限に、飯島先生が土曜日の1、2限に担当されていた。千野先生はご自身の著書『チェコ語の入門』(白水社)、飯島先生は社会主義のチェコスロヴァキアで使われていた英語版のCzech for Foreignersを教科書として使っていた。飯島先生の朴訥な話し方に正直幾度となく眠気が誘われたが、けっして感情を表に出さない、その穏やかな姿勢に学生ながら惹かれていた。そんな穏やかな飯島先生が息を乱して教室に入ってきたことが一度だけある。それは、冬のある日、都内も大雪に見舞われ、主要な路線が軒並み運休となった。西ヶ原の大学に来たのは、近隣に住んでいる人か、都電荒川線でたどりつくことができたひとだけ。数人の友人たちと、「さすがに今日の授業は休講だろうね」と話していると、がたんとドアが開いた。飯島先生が額に汗を流しながら、教室に入ってきたのだ。「遅れて申し訳ありません」と学生に敬語を使って、傘を畳み、汗を拭っているその姿は今でも忘れられない。国立にお住まいだったので、どうやって西ヶ原まで来たのかは、今でも謎のままだ。けれども、授業そして学生に真摯に向き合う飯島先生の姿勢には心が打たれた。

 じつは、私の名前が初めて商業誌に掲載されるきっかけを作ってくださったのも飯島先生である。『ユリイカ』(1995年11月号)でカレル・チャペックが特集されることになり、その年譜の下準備を担当したのだった。振り返ってみると、お粗末な出来だったと思うが、飯島先生、石川達夫先生が朱を入れてくださり、お二人とともに私の名前が掲載された。初めての活字は誰にとっても印象的なものだが、とりわけ一学生だった私にとって大きな励みになった。

 1995年から2年間、私はチェコ政府による国費留学の機会を得たが、そのことを報告すると、飯島先生は「ぼくの分まで、学んできてください」とおっしゃった。飯島先生自身は、いわゆる長期の留学体験はされていない(短期留学の際は、シベリア鉄道で現地に向かったという)。チェコ人との直接の交流が限られていた時代にほぼ独学でチェコ語を習得されたことは脱帽するしかない。私が留学してからも、飯島先生は私のことを気にかけてくれ、プラハで学会があった折にはデイヴィツェのビアホールでビールをご一緒したことは貴重な想い出となっている。また当時進行していた『カレル・チャペック小説選集』(全6巻、1995‐1997年、成文社)でもすこしお手伝いする機会に恵まれた。『流れ星』部の下訳をしたのだが、私の訳はほとんど使い物にならなかったにちがいない。掛詞やニュアンスはまだ十分に理解できていなかったし、直訳の域を脱していないものだった。今考えると、おそらく下訳という名目で、翻訳の修練の機会を与えてくれたのではないかと思う。でも、徹底的に文章を読み込み、訳出していくというプロセスを体感できたことは、私自身にとって大きな財産になった。

 千野栄一先生が2002年に他界されると、飯島先生は、チェコ関係の学会、協会などで細やかな対応をされた。跡見学園女子大学の学長を務められ、各種団体の会長も歴任されたが、けっして偉ぶる態度は見せず、つねに一人ひとりと真摯に向き合う姿勢を大事にされていた。またお酒、とりわけビールを好まれ、毎回といっていいほど懇親会は必ず参加され、年齢や性別を問わず、いろいろな人たちと言葉を交わすのを楽しむ姿は印象に残っている。

 『言語学のたのしみ』、『外国語上達法』、『プラハの古本屋』といった名著、名エッセイを次々に輩出した千野先生に比べると、飯島先生の著作は多くはない。『ポケットのなかのチャペック』という不朽のエッセイで、日本の読者にチャペックの魅力を紹介し、また日本チャペック兄弟協会の会長を長年務めていたということもあり、チャペック=千野先生という印象もあるが、翻訳に目を向けると、じつは、千野先生が訳したチャペックは『ロボット』(岩波文庫)などそう多くはない。これに対して、飯島先生は、チャペックの哲学三部作『ホルドゥバル』『流れ星』『平凡な人生』(成文社)に加え、『チャペック エッセイ選集』(全6巻、恒文社)、エッセイ集『未来からの手紙』『こまった人たち』(平凡社ライブラリー)、旅行記『北欧の旅』『オランダ絵図』(ちくま文庫)など、多くのチャペック作品の翻訳を手がけられた。それまで重訳が多かったチャペック作品をチェコ語から翻訳し、なかでも、魅力が重訳では十分に伝わらないエッセイを数多く日本語にされた意義はとても大きい。そして、長年にわたるチャペックへの愛情を結実させたのが『カレル・チャペック 小さな国の大きな作家』(平凡社新書、2015年)である。同書は、今後、かならず参照すべきことになる基本文献であるだけではなく、チャペックという作家の魅力を存分に教えてくれる手引き書でもある。

 自分も多少なりとも翻訳をするようになってわかるのは、上の世代の人びとの翻訳があってこそ、今の自分がいるという感覚である。ハシェク、チャペック、サイフェルト、ハヴェルといった基本をなす作品の翻訳があったからこそ、私は、ラジスラフ・フクス、ミハル・アイヴァスといった新しい作家たちの翻訳をてがけることができた。そう考えると、飯島先生が日本におけるチェコ文学の受容にもたらしたものはとても大きいものであり、先生の訳書は今後も広く読まれる書物として残り続けるだろう。

 晩年、松籟社の「ボフミル・フラバル・コレクション」で、飯島先生とともに、訳者として名前を連ねることができたときは教え子として嬉しくてたまらなかった。個人的には、飯島先生が訳された『厳重に監視された列車』は、主人公ミロシュ・フルマの揺れる思いを見事に日本語に移し替えた名訳だと思う。

 今でもどこかでビールを飲んでいると、「やあ、阿部君」と右手をあげて、先生がお店に入ってくるような気がしてならない。でも、もうそのお姿を拝見することは叶わない。おそらく、今頃は、天国で千野先生とビールを飲み交わしていらっしゃるにちがいない。

2020年7月24日
合掌

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