「理不尽」を考える

「理不尽」について深く考えたことはありますでしょうか。

理不尽とは、簡単に言うと道理に合わないこと、あるいは矛盾していること、筋が通らないことなどを意味する言葉である。理不尽の「理」には物事の筋道、道理といった意味があり、「不尽」にはつくさないこと、つきないことといった意味がある。
出典:実用日本語表現辞典

前提として僕は理不尽が嫌いです。
時代の変化によって改善されつつあるみたいですが、例えば野球部は坊主じゃなきゃいけない、就活生は黒スーツに黒髪じゃなきゃいけないなどといった理不尽な慣習・しきたりにはなんの意味があるのか?本質から逸脱したナンセンスなものではないか?と小さい頃から幼心によく考えていたものです。

そんな僕ですが、過去自分自身が受けてきた理不尽に対して、どうしても納得がいかないものがあるかと聞かれるとすると、そのほとんどがNOに当たるということに近年気がつきました。

どうしてNOなのか?
それは、理不尽によって目的意識を再確認し、プラス思考に繋げる作業を無意識に行っていたからでした。

理不尽が嫌いと先ほど言いましたが、あくまで目についてしまう理不尽は外の世界の理不尽。
「野球部って坊主にしなきゃいけないの、かわいそう」「先輩、就活のために黒髪にしたんですか?大変ですね。似合ってないですよ」
といったもので、自分以外の他人が受ける理不尽を見るたびに「なんだかなあ」といった気持ちに今でもなります。
ですが自分に対する理不尽に対しては、理不尽な仕打ちを受けていること自体も忘れてしまうレベルなのです。
思い返せば僕自身もたくさんの理不尽を受けてきたと思います。周りのチームと同等のレベルだと思われないために点を取ったり試合に勝っても喜んではいけないというサッカースポーツ少年団に所属していましたし、中学生のころは校則に引っかかる髪ではないのにも関わらず、悪目立ちするという理由で美容室で髪の毛をカッコよくカットすることも禁止されました。
僕は小中高とサッカーをしていて、決して上手くはありませんでしたが10年間サッカーに夢中になっていました。理不尽に対する不満よりもサッカーができることへの喜びがはるかに上回っていたからこそ、全く気にならなかったのだと思います。理不尽が降りかかったとしても「○○だからいいや」「○○ができるだけ幸せ」という思考に自然となれていたのです。またその理不尽を乗り越えた先にあるのは、「○○な環境でもやっていけた」という大きな自信でした。

この気づきによって感じるのは、目的意識を持った上で目の前に現れる理不尽はその目的意識をよりシャープにしてくれるものなのではないかということです。
もちろん人それぞれだとは思いますが、僕自身に関しては完全にそうだと思います。坊主禁止の野球部で坊主を志願する部員がいたという記事を読んだことがありますが、その方の気持ちも納得できます。

結局なにが言いたいかというと、価値観が多様化する現代において多くの理不尽が見直されていると思いますが、理不尽によって成長できる人もいるということです。そういう意味では、まだまだ理不尽なしきたりが多そうなこの業界で勝負できるということは僕にとってはとても光栄なことだなと思います。

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