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人生を使って何をするか?

この問いに2つのタイプがいるように思えた。それがエントリーを書き始めた理由だ。それは「知識や好奇心を自分の外部に求める人間」「刺激が自分の内部から発生するタイプ」こんな感じだろうか。

自分にとって、ユーレカって叫びたくなるのは、大抵がコンテンツを摂取しているときだ。それは、物理の新しい見方とか、社会学的な知見に相関性を身言い出した時とか、たまたま見かけた青い鷺が翌日みた映画の重要なモチーフになっていたりとか、そんな時だ。

でも、それは、結局十分に楽しめるだけの参照経験データがどれだけ意味づけされて保持されているか、ということに影響してしまう。往々にして、参照経験データは、ハードシングスから発生することが多く、その「ハード」性は予測不可能性と重要な相関があるために、それを意識的にせよ、無意識にせよ、一見「無茶」な状況にいかに身を置くかにかかっている。だから、もしその後の人生でその刺激を楽しみたいなら、何らかの理由でそうした状況になるべく多くの時間身を置く必要がある。

最近、会話をしながら、「意味づけ作業」と、それに参照できるような過去体験の言語化と再定義を行う飲み会の時間が多い。それはそれでとてもありがたく、いつの間にか自分語りのような話題に付き合わされる方はたまったもんじゃないかもだけど。この「意味づける」ってことが、参照経験データと意味とを紐づける作業なんだけど、これを怠ると、一つの経験から得られる効用(僕の場合は好奇心の満足だったり、精神的な快楽だったり)の最大化ができず、むしろ経験認知がパターン化して、収穫逓減していくのではないか。

つまり、外部刺激からの快楽追求は原理的にその効用を漸次的に逓減させていく。だから、振り返りによるFBが必要となるが、そのFBから有益な「意味」を見つけられるかどうかは、その振り返りに使える情報量=(意味付けされた)経験量に依存する。だから、意味づけを怠ってひたすら経験を貪っても、その行き着く先は「常に新しい経験を求めて、いつしか感性が磨耗したリスクジャンキー」になってしまうのではないか、ということだ。

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