見出し画像

【2011.3.12】

あれからもう9年も経ったのですね。
長野県に生まれ、長野県に育った私が3月11日を振り返るのは何か違和感があるのかもしれませんが、32年間生きてきて最も長かった1日、それが震災翌日2011年3月12日です。

2011.3.11

その日は朝から先輩と集合住宅の現場に居た。
大型の機械の搬入になるので、人手がいるため、納入業者さん2名と私と先輩、そして設備の職人さん2名、よく顔を合わせるメンバーでいつものように仕事をこなした。
作業を終えて、先輩と私は昼前には現場を離れた。ラジオでは、東北で起きた地震を知らせるニュースが流れている。
その頃、同期が仙台へ転勤したと聞いていたので、電話をかけたが繋がらない。

予定もあったので、現場を離れてホームセンターに立ち寄った。家電コーナーで目に飛び込んで来たのは津波の映像だ。
何が起こっているのか理解できなかったし、日本で起きている事だと考えることができなかった。
直ぐに事務所にもどり、テレビで地震の惨劇を目の当たりにする。この日のことはそれ以降の記憶があまりない。

帰宅した後に夜のニュースで千葉の石油コンビナートが爆発した様子を目にして、漠然と明日は何処かへ救援に行くものなのだろうと思いながら眠りについた。

ガスの仕事をしていたので、大きな地震の際には復旧作業の応援で現地に行くことも特に珍しいことではないのです。

翌朝出勤すると社長から声をかけられた。

「郡山の支店が断水しているらしい」
「行ってもらえるか?」
二つ返事で了承し、数日分の着替えを用意した。
車は近くのレンタカーを手配し、在庫に余裕があるという工場から直接購入して、積載の許される限り積み込み、空いた隙間を無洗米やカップラーメン、電池などで埋めた。

行く先々で声をかけてくださる方には、「被災地ですか?」「頑張ってください」と声をかけていただき、東北を目指します。

長距離の移動に加え、現地の様子も分からないため、先輩社員と2人で目指すが、慣れない水の入ったペットボトルは思った以上に荷台を揺らし、カーブではハンドルをとられた。

群馬県、大田桐生までは高速を通行できたため、そこから先は下道を走ることにらなる。
高速を走っているあいだは、特に普段と変わらない雰囲気で通行していたのだが、震災翌日ということもあり、私たちのような荷物を届ける車両はまだ見かけなかった。

高速をおりて、宇都宮で転勤になった先輩とすれ違う。助手席の先輩が電話をかけると、この頃はまだ和やかな雰囲気で会話をすることができた。

しかし、既にガソリンスタンドには長蛇の列。コンビニはシャッターが閉まり、営業が停止して、トラックは駐車場で行き場を失っていた。

徐々に路面状況も悪くなり、渋滞し始め、停車した車の中でも地震の揺れを感じ、前の車両が跳ねるように揺れていた。

そして、会社から1本の電話が入る。
原発事故である。

会社ではニュースでは白い煙があがったとの情報を知らされ、ケータイが繋がりにづらくなり、電話でのやり取りができなくなった。
情報源はレンタカーのナビで見れるテレビだけ、引き返すこともできない道で脇道に入れないよう、ガードマンなのか、警官なのか、道を塞ぐように立っていた。

土地勘の無い土地で私たちは、ひたすら郡山を目指す。郡山へはいつ着くのか?ここは原発から何km離れているのか?
もしかすると、このガードマンの塞ぐ道の先に原発があるのか?
不安で窓も開けられない状態でただひたすら前に進むことしかてまきず、すれ違う車は満席の大型バスが被災者を避難させているのだろうという車両。
私たちと同じ方向に進むバスには人は乗っていない。

私たちは逃げる人と完全に逆走する格好になっていた。疲れはピークに達していたが、日をまたぐ前には郡山の支店に着くことができた。

私たちの到着を待っていてくれた人たちが迎えてくれた。夜中に着いたうえ、まだ電話が復旧しておらず、被害の全体像すら掴めていなかった。
「何か手伝うことは?」
と聞いてみたのだが、事故のこともあり気をつかったのだろう。
長野へ帰るように促された。

私たちはただ、水を届けるただけで何もすることはできなかった。帰りは会津を抜け、新潟方面から帰った。
車はほとんど通っていなかったように思う。
ただただ家路を急いだ。

気づけば13日の朝、日が昇り始めた頃、会社へ戻る。自宅に着いたのは昼前頃だったろうか。
死んだように寝て、翌14日月曜日は関東の本社へ備蓄の物資を運んだ。
長野から東北に運ぶより、本社から必要な地域へ振り分けるためだ。
トラック2台で関東を目指す、震災から3日経ったのに、高速の明かりは消え、東京の街を走る車もほとんど見ることはなかった。

車の走っていない東京など見たことがない。本当に、一体何が起きているのか分からないくらい、衝撃的な光景の連続でした。

32年生きてきた中で、たった4日間の出来事は、当たり前の日常は当たり前では無かったのだと。唐突に現実を叩きつけてきた。
何が起こるか分からない。そんな当然のことなのだが、意識からは遠のいてしまっていたのかもしれない。

そして、日本は今、歴史的緊急事態の真っ只中です。街に出れば噂が一人歩きをして犯人探しを始める日々。無実の人が吊り仕上げられ、自粛の連鎖で経済は停滞。日経平均は昨年の底値を割ったそうで、大規模な解雇や出勤停止も珍しくありません。

感染リスク・職を失う恐怖・仕事が無い苛立ち。終わりの見えない不安と、どうすることもできない現状に少しずつ歪みが大きくなっています。

そんな今だから、何処の誰が感染したんじゃないか?という噂よりも、あなたの大切な人と話しませんか?

不安はきっとみんな同じでしょう。
こういう時だからこそ、大事な人と向き合う時間をしっかりとってみてはいかがでしょう。

私たちは当たり前のように「いつか」という遠い未来の約束をしますが、その日を無事に迎える保証はどこにもありません。
追悼式は中止されましたが、命の尊さを教えられたこの日に、冷静になって、かけがえのない人たちと向き合いませんか?

その不安が1mmでも軽くなるよう話をしたい。

今日は気が済むまで話をしよう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?