見出し画像

人口617人から62781人に増えた話。

こんにちは、ハレルヤです。
今回は歴史のお話です。

北海道にある三笠市という地区をご存知でしょうか?

空知地方南部に位置し。西以外の三方を山に囲まれた地形。東部には桂沢湖があります。

人口は7853人(2022年)で、最近では三笠高校の学生で作った料理がとても話題になっています。

名産品や名物としては、三笠メロン・三笠スイカ・三笠たまねぎや三笠あすか梅の杜(旧三笠梅林邦梅園)の梅、炭鉱史跡群、アンモナイト化石等がある。
高校生が作った料理が食べられる。

燃える石 『石炭』の発見。

明治元年(1863年)三笠にとって大きな出来事が起こります。
『石炭』が発見されたのです。

石狩に住む木村吉太郎(きむらきちたろう)は現在の幌内(ほろない)地区で、偶然石炭の塊を発見しました。

木村はそれを持ち帰りましたがそれが石炭とは分からなかったそうです。
しかし、それが石炭だと知っていた者がいました。

その者が1871年(明治4年)に開拓使に知らせましたが、忙しいという理由で相手にされませんでした。

開拓使とは当時、北方開拓の為に置かれた官庁です。

そして次の年の1872年(明治5年)になって札幌に住む早川長十郎という男がこの話を聞いて、石炭の塊数個を掘り出し開拓使に届けました。

当時、開拓使にいた榎本武揚(えのもとたけあき)がその石炭を調べたところ、とても良質なものとわかり、明治12年(1879年)に幌内地区の石炭を掘り出すため北海道初の近代炭鉱となる『幌内炭鉱』が開鉱されました。

榎本武揚は幕末から明治にかけての有名な武士です。

空知集治監 (そらちしゅうちかん)

集治監とは今でいう刑務所です。

明治開拓の初期、北海道への移動手段は船で渡るしか方法がなかったため、囚人たちの逃亡の恐れの少ないこの地が集治監の設置場所として選ばれました。

そして、明治15年(1882年)三笠に空知集治監が設置されました。

この集治監には主に刑期10年以上の重犯罪犯が収監され、炭鉱労働や開拓作業などの労働に使われました。

空知集治監の収監人数は北海道の集治監で一番多かったそうです。

これは、石炭を多く採掘することを目的として炭鉱労働に囚人を用いた為であり、いかに当時エネルギー資源である石炭が重要だったかわかります。

また、空知集治監には政治犯も収監されていました。
その中には自由民権運動に関わった者もおり、明治24年(1891)には自由党総裁の『板垣退助』が慰問に訪れたこともあるそうです。

現在、空知集治監は煙突のみとなっています。
この煙突も囚人たちの手で作られており、囚人たちが三笠に残したものは計り知れません。
一番多い時の収監人数は3000人といわれています。

幌内鉄道を作る


明治12年(1879)に幌内炭鉱が設置されると、その石炭を輸送する為の鉄道を作る計画が立てられました。

炭鉱開発の計画を立てることになったアメリカ人 ベンジャミン・スミス・ライマンという地質技師にお願いし、幌内から岩見沢まで鉄道を作り、そこから石狩川を下って小樽港へ運び、大型船に積み替える計画を立てました。

最初の計画

しかし、岩見沢は湿地が多く石炭を船に積み込む施設を設置するには難しく、また冬は川が凍って石炭を運べなくなることから、幌内から小樽まで
鉄道を作り、小樽港から石炭を積み出す提案をしまいした。

工事はこの提案に基づき進められ、明治15年(1882)11月に北海道初の鉄道となる『幌内鉄道』が完成しました。

当時の様子
石炭を運んでいる。

開村

明治12年(1879)に幌内炭鉱が設置されると、ようやくこの地にも人が集まり始めました。
明治15年(1882)に空知集治監が設置れると、そこで働く人々や彼らに飲食を提供する人々も集まり何もなかった土地に戸数87戸、人口617人という集落が出来上がり、ついにには三笠市の前身となる市来知村(いちきしりむら)が開村しました。

その後、明治22年(1889)には幾春別村(いくしゅんべつむら)が開村し、明治39年(1906)4月には市来知村、幾春別村、幌内村が一つになって『三笠山村』(みかさやまむら)が誕生しました。

大炭鉱時代

三笠には多くの炭鉱が設置されましたが、特に幌加内炭鉱、幾春別炭鉱、奔別炭鉱(ぽんべつたんこう)の3つの炭鉱が有名です。

こうした炭鉱では昭和になると機械化が進み大規模に石炭が採掘されるようになりました。

幌加内炭鉱では、明治12年(1879)から平成元年(1989)までの110年間で合計5500万トン、幾春別炭鉱では、明治19年(1886)から昭和32年(1957)までの71年間で合計650万トン、奔別炭鉱では、明治33年(1900)から昭和46年(1971)までの71年間で合計2650万トンもの石炭が採掘されました。

大規模に石炭が採掘されるようになると三笠の人口は徐々に増加し、昭和34年(1959)には62781人になりました。

人口の推移

炭鉱まちの生活


炭鉱労働者は、主に炭鉱住宅と呼ばれる長屋(5軒から6軒が一続きの家)で生活をしていました。

長屋の生活は隣の声も筒抜けで、プライバシーはほぼありませんでした。
しかしそのことが、近所同士の結束を強くし、家族同然に思いやる生活を営んでいたそうです。

炭鉱では、24時間体制、8時間交代(7〜15時)(15〜23時)(
23〜7時)で石炭採掘を行っていたため、夜中に勤務する時には妻は足音を立てないようにしたり、子供を外へ連れ出したりしてゆっくりと休息できるようにしていたそうです。

炭鉱夫が住んでいた長屋


炭鉱のまちの文化

人々が集まると、そこに文化や慣習が生まれます。
北海道の盆踊りでは、『北海盆唄』という唄がよく歌われています。
この唄は、三笠の幾春別村の盆踊りで、炭鉱で働く人々によって歌われていたものが原型とされています。
皆さんも聞いたことがあると思います。


また、『なんこ』と呼ばれる炭鉱料理もあります。
『なんこ』とは、馬の腸を煮込み、味噌で味付けした料理で空知地方では郷土料理として知られています。

かつて、炭鉱では石炭を輸送する手段として馬が使用されており役目を終えた馬の腸を使用したのが始まりであるとされています。

まんぷく食堂にある『なんこ』

炭鉱の閉山


明治の頃から日本の近代化を支えていた石炭ですが、昭和37年(1962)の石油の輸入自由化によって日本は石油というエネルギーを使用するようになりました。

その影響や炭鉱での事故なども重なり幾春別炭鉱は昭和32年(1957)
奔別炭鉱は昭和46年(1971)幌内炭鉱は平成元年(1989)に閉山になりました。

現在の三笠


現在、三笠には豊かな自然が残されています。
特に、三笠の東側にある桂沢湖周辺では、500種類近くの植物が生い茂り貴重な動物たちも多く生息しています。

また、三笠に住む人々は地形や気候などの特徴を活かして生活を営んでいます。 幾春別川が長い年月をかけて浸食と氾濫を繰り返して形成された広い平地を使用して玉ねぎ、米、などの農産物が栽培されています。

また、達布山(たっぷやま)と呼ばれる小高い山の付近では、斜面を利用してワイン用のブドウが広く栽培されています。

三笠で作られているブドウ

今回は以上です。

サポートいただいた活動費は全額 複勝転がしに使わさせていただきます。💕💕💕 皆さんの応援待ってます!   (゚∀゚)ウキーー!!💕💕💕💕💕💕💕💕💕💕💕💕💕