『うちのネコが死んだ』&『オルゴールのように』 あとがき

はじめましての方ははじめまして、そうではない方はいつもお世話になっております。
吹井賢です。

こちらは創作対象2024年に応募した、二つの詩、『うちのネコが死にました』と『オルゴールのように』の解説です。詩の解説なんて、無粋そのものなので、嫌な方はブラウザバックをよろしくお願いします。まあ、大した解説はないのですが……。

 ・『うちのネコが死にました』
 文字通り、うちのネコが死んだ話です。書かれている内容はほぼ、事実に基づいています。七五調で、飼い猫に関する事柄を繰り返す詩ですね。面白いのは、冒頭と終盤以外、飼い猫は「よそのネコ」と呼称されていることです。詩に書いた通り、よそからやって来たネコなのです。うちにやってきた段階でかなりの高齢で、あと数年の命だろう、と診断されていました。
 この詩の核は、そんな「よそのネコ」だったネコが、「うちのネコ」になる、という部分です。よそからやってきたネコ。その人生の大半を、漁師の街で過ごしたネコ。そんな彼に対し、語り手は「あの街に帰りたい?」と問い掛けながらも、同時に、「もしも生まれ変わったら、またうちに来てくれるか?」とお願いをします。ネコは、答えることはありません。何せ、死んでしまっているのですから。
 ネコは漁師の街に帰るのではなく、“うち”に埋められました。これからずっと、そこに眠り続けるのです。語り手は思います。「お前がどう思おうとも、お前はずっと、うちのネコだよ」「お前との思い出を、ずっと変わることなく、大事にし続けるよ」。だから、この詩の最後は、「うちのネコは、うちのネコ」という同語反復を行い、「僕の大好きな、うちのネコ」で結ばれるのです。
 「よそのネコ」であった彼が、“うち”のことをどう思っていたかは分かりません。これまでも、これからも、ずっと。でも、少なくとも語り手は、「うちのネコ」を愛しています。これまでもずっと、これからもずっと。
 

・『オルゴールのように』
 打って変わって、自由詩です。はじめて自由詩を書きました。言うまでもなく、“オルゴール”とは、親の隠喩です。同じ言葉だけ繰り返すオルゴールを、語り手は「鬱陶しいな」と感じています。
 オルゴールは年を取っていきます。老いていくんです。けれど、繰り返す言葉はいつでも同じです。「オルゴール(親)も、いつか死んでしまうんだ」。そのことを理解した語り手は、「ゆっくりがいいな」と願います。ゆっくりと音量は小さくなり、ゆっくりと再生速度は遅くなり、けれどもずっと、今までに通りに、繰り返してほしいと。そして、オルゴールがいなくなる前に、その言葉を刻み付けると誓います。そう、オルゴールのように、いつでも、何度でも、心で鳴らせるように。
 終盤のパラグラフでは、今度は語り手が「オルゴール」として語られます。そして、親になった語り手は、やはりオルゴールのように、子に対して繰り返します。「ちゃんとしろ」「気を付けてね」と。きっと、語り手の子は、親である語り手のことを鬱陶しく感じているでしょう。でも、それでいいのです。オルゴールとなった語り手は、かつてオルゴールが繰り返した言葉の意味を真に理解し、そして、子に対して伝えたいことは、たった二つだと、「しっかりと生きろ」「どうか健康に気を付けて」だけだと、気付いたからです。
 なお、この詩はオマージュとアンチテーゼが含まれています。前者は『化物語』内の『まよいマイマイ』ですね。「八九寺は繰り返した。壊れたラジカセのように。壊れていないラジカセのように」だったかな? そんなフレーズがあるのですが、『まよいマイマイ』は、子の親に対する物語なのですが、それのオマージュとして、親が子に対して想う詩にしてみました。もう一つは、JAM PROJECTの『GONG』のアンチテーゼですね。『GONG』は、本当にカッコいい曲なのですが、中盤で「もしも力尽きたら、銀河の海に散ろう」という旨が歌い上げられて、まあカッコいいんですけど、彼等の子の立場では、「いやいや、カッコ悪くてもいいから、家に帰ってきてよ」「そして、ゆっくりと隣で老いていってくれよ」という思いがあるのも事実だと思います。鬱陶しく感じながらも、繰り返される言葉を大事にするから、と。

 この作品が、皆様の一時の楽しみになれば、それが作者にとって最高の喜びです。
それでは、吹井賢でした。


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