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霧の黄昏

第一部

 大柄な兵士が両手で大剣を振り上げた。
 騎士は、細身の身体をむしろその兵士に寄せるようにして懐に入り込んだ。右足を踏み込み、素早く大剣の描く大きな放物線の内側に入る。
 大人の身長ほどもあろうかと思われる大剣は空を切り、苔生した岩に当たって白い火花を散らせた。
 大剣を振り切って無防備になった兵士の首筋を狙って騎士は剣を叩き付けた。肉が潰れる嫌な音がして兵士は大剣を足元に取り落とした。騎士はその隙をとらえて右脚で兵士の胸板を蹴り上げ、大きくのけ反って露になった兵士の喉元に突きを加えた。
 樽型の鉄兜が吹き飛び、兵士の苦痛に歪む顔がさらされた。一瞬目が合ったその瞳が、闇に暗く瞬いたように見えた。
 チーズを切るように喉を貫通した剣先は、兵士の背後にある枝が曲がりくねった大樹の幹に苦もなく突き刺さった。
 騎士は声を発さず気合いを内に込め、一呼吸で剣を樹の幹から引き抜いた。兵士は首から血を振りまきながら、濡れた砂袋のような音を立てて地面に斃れた。
 明るかった空は既に力を失っており、重く湿った闇が騎士の身を抱きすくめてくる。
 騎士は血に濡れた剣を何度か振って汚れを飛ばし、鞘に納めた。襲撃者の屍体を一体ずつ探っていく。携帯用の食糧や薬草、弓矢を奪う。金貨や宝飾品もあったが、そのままにしておいた。この山の中では役に立たないし、かさばるだけだ。
 屍体から立ち上ってくる糞尿の異臭も、白金の鎧の下に着込んでいる布鎧まで染み込んでくる血液の生臭さも気にならないほど嗅覚は麻痺し、騎士は自分が女であることさえ忘れていた。敵を探る意識だけが研ぎ澄まされ、全神経は生き残ることにのみ注がれていた。
 屍体を検め終わり辺りを見渡した彼女は、すぐそばにある岩に直剣を立て掛けてフルフェイスの兜を外し、喉当てに手をかけた。
 大きく息を吸って呼吸を調える。兜を外して露わになった豊かな漆黒の髪が、大きく波打った。後頭部で長い髪を引き結んでおいた紐は解けてしまっていた。
 サンルイーズ山脈の中腹にあり、国の北方を護るアムラク神殿所属の騎士団から脱走して何日が経過したであろう。既に時間の感覚は失われ、彼女の疲労は精神的にも肉体的にも極限に達していた。
 不意に近くの闇が揺れた。彼女のうなじの毛が逆立ち、アドレナリンがふたたび彼女の身体を駆けめぐり、頭の芯に火をつけた。
 振り返りざまに立て掛けた鞘から剣を抜き、人の気配が満ちた闇に向かって突き出す。手応えがあった。
 剣は闇に潜んでいた別の兵士の兜をとらえ、ちょうど目の開口部を直撃した。絶叫を上げて兵士は剣を落とし、両手で顔を覆ってその場にうずくまった。
 もう一人の兵士が槍を繰り出したきたのに対して、剣を、円を描くようにして払い、刺突攻撃をかわす。
 舞い上がった長い髪が一瞬彼女自身の視野を遮り、左から迫ってくる剣を持った新手の兵士の姿を見失った。かろうじてその一撃を剣の鍔で受けたが、角度が甘かったために兵士の剣の切っ先が彼女の額を直撃した。
 鋭い痛みとともに強い衝撃が後頭部に抜け、急激に意識が薄れていった。身体が自分のものではないような気がした。何人もの足音が自分を囲むのを微かに意識しながら、彼女はそのまま深い闇の底に沈んでいった。

「お疲れではないですか。もう少しで着きます」
 ドルキン・アレクサンドルは雪になり切れない冷たい雨で濡れた古傷だらけの右腕を、顎と頬を覆う銀色の髭で拭いながら馬上から振り返った。髪のない年季の入った鞣し革のような頭皮から雨水が彫りの深い眼窩を伝って顎髭はぐっしょりと濡れている。辺りの気配を測るために既にフードは外してあった。
 ドルキンが騎乗している筋肉質のアダブル種の黒牡馬より一回り小柄で、白と黒の斑が周りの寒々とした森に溶け込んでその存在を目立たなくしている牝馬の上で、白い薄汚れたマントとフードを身に付けた女が微かに首を振った。フードのくぼみに溜まった雨水が牡馬の鬣に零れ落ちる。
 無口な女だ。ドルキンは、この女が無口であることをフォーラの神に感謝した。
 彼は女が苦手だった。姦しく騒ぎ立てる女はいつも彼をいらいらさせたし、女で身を持ち崩した騎士も少なからず知っている。何より彼が受け入れ難いのは、その時々で自分を変え、それを佳しとする女の性情であった。
 女はミレーアと名乗った。教皇の身の回りを世話する修道女である。まだ若い。外見は二十歳そこそこに見えた。
 ドルキンが聖堂騎士として円卓の騎士に任じられてから、三十年が経とうとしていた。
 唯一絶対の女神フォーラの恩寵を一身に受け、その神と教義を護ることに生命を捧げる、卓越した技能を持つ聖堂騎士でも円卓に任じられる者はほんの一握りであった。
 王都アルバキーナ守護神殿騎士団に所属する彼は円卓の騎士の中でも熟練の技を持ち、野心と情熱と若さに満ちた新参騎士の挑戦を幾度となく退けてきた。彼は人生の全てを神に捧げ、そろそろ老境に入るこの時まで妻帯したことがない。
 ドルキンが教皇から召喚を受けたのは一週間前のことだった。如何に高位の騎士と雖も、教皇から直接召喚されることはまずない。しかもドルキンの召喚は極秘裏に行われ、その事実を知る者は教皇の身の回りの世話をしていた修道女のみであり、腹心であるところの枢機卿たちにも知らされていなかったようだ。そしてドルキン自身も、召喚の事実を同僚の円卓の騎士たちに知らせることもなく、教皇の謁見が終わるとすぐに、従者も連れず北方へ向けて旅立った。
 謁見の場で、教皇はこの国の未来に暗雲をもたらす不吉な神の予言を宣託し、危機を未然に防ぐための旅立ちをドルキンに命じたのだ。教皇は修道女ミレーアの同道を義務付けると共に、それ以外の一切の従者、護衛の同行を禁じたのであった。
 ドルキンとミレーアは途切れることのない深い森の中を、ほとんど土に変りつつある湿った落葉の道を踏み締めながら進んでいく。時折聞こえる黒鵺の声が寂寞とした空気を切り裂いた。黄昏は近い。
 そろそろサンルイーズ山脈に達しているだろう。目的地であるアムラク神殿は、この山の中腹にある。ドルキンは馬を進めながら頭を上げて前方を見渡した。氷混じりの雨から霧雨に変わった空は茫漠としており、山頂は見えなくなっている。
 密生していた樹々の陰が途絶え、突然視界が開けた。
 綺麗に整地されたその場所は、神殿への入り口が近いことを示していた。白い巨石を彫って女神フォーラを守護する神殿騎士を模した像がお互いに向かい合うようにして佇立しており、無言で訪問者たちを誘っているように見えた。
 空気を切る、鋭い音が聞こえた。
 ドルキンは空気の震えを感じた瞬間、鐙から脚を外し、そのままわざと落馬した。標的を失った矢は湿った大木に深々と刺さり、いくつかの矢は霧雨の幕の向こうに力を失いながら消えていった。
 手綱を放して鞍に着けてあった盾を取り、湿った柔らかい土の上に落下すると同時に腰の剣を抜いたドルキンは、馬上のミレーアを仰ぎ見た。
 ミレーアは淡いオレンジ色の光に包まれていた。彼女に向かって放たれていた矢が、ドルキンが見ているその前で、オレンジ色の光の玉の中で停止して力を失い、地面に落ちた。
 ドルキンは神殿の修道女は神に祝福された術を使うという噂話を聞いたことを思い出した。それは魔法のようでもあり、神の奇跡のようでもあるという。
 ドルキンは立ち上がるとミレーアの乗った牝馬の手綱を引いて濃い森の木立に引き返した。うねった枝を持つ太い樹の陰に身を隠す。ドルキンの馬は後から尾いてくる。
「ここで待っていてください」
ドルキンはミレーアに囁き、樹の陰に身を移しながらその開けた場所を注意深く観察した。矢の射線から判断して、射手は正面の神殿騎士を模した巨石の方にいる。敵は多くない。放たれた矢の数とタイミングから人数は二、三人程度と見た。
 ドルキンは大柄な体格には不似合いなほど静かに、そして年齢に相応しからぬ素早さで森の中から巨石の裏側へ回り込んでいく。かつて若かりしころ、村を襲った二メートルを越す凶暴な銀狼を屠り、その皮を鞣して鍛え上げた鎧は強靭でありながら隠密行動を邪魔しない。
 巨石の陰には二人潜んでいた。その右奥にある、樹齢が数百年を経ているであろう大樹の枝の上にもう一人が見えた。ドルキンは、彼自身が銀狼であるかのように動いた。
 鐔に女神フォーラの意匠を施した短剣を右手に持ち、人差し指と中指を鐔に掛け、潜んでいる襲撃者たちの背後から近付いていく。
 まず、巨石の陰にしゃがみ込んでいた手前の男の口を左手で押さえ、頸椎を抉った。
 もう一人の射手がドルキンに気付き慌てて振り返ったが、その時にはその男も肋骨の隙間から斜めに入った短剣に心臓を貫かれていた。男は叫び声も上げることなく倒れ伏した。血は雨に溶けて静かに土中へ吸い込まれていった。
 枝が折れ、濡れた土に着地する音が聞こえた。ドルキンは三人目の射手を追った。
 短剣を胸の鞘に収めながら追いつくと腰の剣を抜き、森に逃げ込もうとする男の背中に右肩から叩き付けた。少し長めの刀身は右の肩甲骨と背骨を折って腰骨に達したところで止まった。
 濡れた土の上に倒れる前に射手の身体を抱きかかえ、そっと足元に横たえたドルキンは、そのままの姿勢で辺りの様子を窺った。人の気配はなかった。雨の音と、屍体の切断部から噴出し続ける血の音しかしない。ドルキンはしゃがみこんで屍体を検め始めた。
 初めて見る装備であった。鎧は革製であったが、ファールデン王国で一般的に見られるものとは色や形が全く異なる。わざと獣か何かの血を吸わせているのか、異臭のする深い紅褐色に染められた鎧は禍々しい不吉なものに見えた。
 屍体が身に着けていた短剣も見たことのない造形をしている。刃は曲剣のように反っており、切っ先が鈎型に手前へ折り返していた。ドルキンはファールデン王国のみならず近隣諸国の武器装備に造詣が深いが、少なくともファールデンと関係のある諸国の武器にはこういったものは存在しなかった。
 ドルキンは立ち上がり、注意深く辺りを見回した。襲撃を受けてから時間にして五分と経っていない。
 森を出て開けた場所から山腹に向かって大きな石階段が延びており、特徴のある形をした石門の向こうまで続いている。アムラク神殿への入り口だ。そして、その石段の所々にドルキンが斃したのではない屍体が、点々と転がっているのが見えた。
 ドルキンは階段を上り、あたりに散らばる屍体を一つ一つ検めていった。
 屍体の種類は二つあった。一つはドルキンたちを襲った射手と同じ装備をしていた。そしてもう一つは銀色の鎖帷子を身に纏い、斧槍状の武器であるハルバードを握りしめていた。一目でアムラク神殿の衛士と分かる屍体であった。その幾つかは白金の鎧を身に付けているので上級神殿騎士も何人か含まれているようだった。
 アムラク神殿の石階段は「神の階梯」と呼ばれ、本殿に到るまで二千段余あるといわれている。ドルキンは剣を握り直すと、ゆっくりとその階梯を登っていった。
 かなり大掛かりな戦闘が行われたようだった。石段の上に累々と横たわる屍体はこの寒さの中でも腐敗が始まっており、既に戦いに決着が付いて相応の時間が経過したことを示している。ドルキンが斃した射手たちは、神殿を襲った勢力の生き残りであったのかも知れない。

 本殿の手前にある巨大な石門に達したドルキンは、未だ渇き切っていない比較的新しい血痕が点々と奥の院に続いているのを見つけた。
 両手に握り締めていた剣を一度握り直してから、血痕を辿って奥の院に向かう。時は既に黄昏を終え、冷え切った空気を深い闇が支配していった。いつの間にか、雨は熄んでいる。
 女神フォーラを祀る神殿は、ファールデンのみならずユースリア大陸各地に点在している。それぞれの神殿に司祭が配置され、神殿の位がおのおのに異なっている。
 フォーラの秘蹟が残るといわれる七つの神殿を「聖堂神殿」と呼ぶ。聖堂神殿は教皇を直接補佐する枢機卿により治められており、その下部組織として司祭が治める各地の神殿が存在する。
 七つの聖堂神殿のうち最も地位の高い神殿が、アムラク神殿である。王都アルバキーナにあり教皇の居城でもある教皇庁も聖堂神殿の一つであるが、宗教的地位はアムラク神殿よりも低い。アムラク神殿はフォーラ神から最初に啓示を受けたと言われる神の子、「フィロ・ディオ・アーメイン」の出生地に最も近く、歴代の教皇もこの神殿から輩出されている。
 アムラク神殿の奥の院は、アーメインが生まれ落ちたチェット・プラハールの寺院の一部を移築したといわれ、フォーラ神信徒にとってはまさに聖地たる遺構となっている。その門が開かれることは滅多になく、普段信徒たちは形式だけ奥の院を真似た表神殿で儀式を済ませている。
 ドルキンは一枚岩で造られた巨大な石扉の前に立っていた。ドルキン自身は聖堂騎士として各地の神殿を訪れたことが少なからずあったが、アムラク神殿は男子禁制であったこともあり、神殿の門を越えたのは今回が初めてであった。教皇の許詞がなければ終生ここを越えることはなかったであろう。
 巨石の扉は女子供であれば辛うじて入れるほどに開いており、血痕はその奥深くに続いているように見えた。奥の院の中は塗炭を塗り込めたような闇に包まれている。心なしか生臭い微かな空気の揺らぎが奥の方から感じられた。
 ドルキンは渾身の力を込めて石扉を押した。僧帽筋が膨れあがり、肩に留めていた革鎧の留め金が音を立てて外れた。
 腰を落として少しずつ扉を動かすと、石と石が擦れ合って乾いた音がする。砕けた石がドルキンの髭に零れ落ち、雨に濡れた身体を白く染めて石畳の床に落ちた。
 ドルキンは扉の内側に据え付けられていた火の消えた松明を取り外し、扉の手前にあった篝火の炎を移した。奥の院の入り口に光が満ち、辺りの岩が奥に向かって長い影を落とした。
 奥の院の壁は古に行われたフォーラの儀式を描いた壁画になっており、石を敷き詰めた回廊が奥へ繋がっている。ドルキンは松明を左手に持ち、剣を右手で握り締めて極力音を立てないように石畳の上を進んでいった。回廊の所々に一定の間隔をおいて設けられている火の消えた松明に手にしている松明の火を移していく。
 血痕の主と思われる女がそこに倒れていた。身に纏った修道服は焦げて半身が露わになっていた。血に染まった白い乳房の半分も黒く焦げている。頭は原形をとどめないほどひしゃげており、手足も不自然な方向に折れ曲がったようになっていた。
 襲撃者によって傷を負わされた修道女が奥の院まで逃げて来、ここでとどめを刺されたのだろうか。それにしては、「神の階梯」で見た屍体とこの女の屍体とでは、あまりにも暴力の質が異なっていた。女の屍体に加えられたのは、暴力と言うよりは破壊と言った方が適切だった。
 突然、右上に大きな空気の揺らぎを感じたドルキンは、反射的に、身体を大きく前に投げ出し、そのまま前転して姿勢を低く構えた。頭を掠めて巨大な炎が振り下ろされ、敷き詰められた石の床を粉々に叩き割り、火の粉を振りまいた。
 ドルキンが持っていた松明は既に手を離れ、目の前に落ちていた。その数十倍はあろうかという炎の塊がドルキンの眼前に浮かび上がった。その炎が、巨大な槌が纏っているものであることに気付くのにしばらく時間がかかった。
 燃え盛る炎を纏った巨大な槌が再び振り上げられ、ドルキンの頭上目がけて振り下ろされた。槌の大きさは仔牛程もあった。溶岩の塊といった方が正確かも知れない。
 ドルキンの身体が、彼が考えるよりも速く動いた。炎槌の主の股座と思われる所を素早く潜り抜け、攻撃を躱しつつ背後に回り込む。
 奥の院の回廊は神像が祀られた大洞窟に続いていたようだ。ドルキンは自分の数倍の背丈はあろうかという槌の主の後ろから右脚の腱と思われる場所を狙い、渾身の力を込めて剣を叩き込んだ。剣が岩に噛まれたような音を立てて折れた。
 振り返って大きな咆吼を上げる「それ」の眼が憎しみの炎に燃え上がる。巨大な牡牛のような頭には二本の歪んだ太い角が生え、盛り上がった筋肉の鎧に包まれた身体そのものが溶岩でできているかのように各所から炎を噴き出している。数百の松明を灯したかのように周りが明るくなった。
 ドルキンは折れた剣を投げ捨て、左脇の鞘に納めていたフォーラの短剣を右手で抜いた。みたび振り下ろされた炎槌が顔を掠めた。銀の髭が黒く焦げ、嫌な匂いがした。
 ドルキンは炎を巧みに避けて巨大な槌から「それ」の腕を伝って猫のようにその肩へ登った。普通の人間であれば急所であるはずの首の後ろの部分に短剣を捻込む。刺さった。
 「それ」は激しく上体を振って左手を首の後ろにやり、ドルキンを掴もうとした。ドルキンは二度、三度と短剣を延髄に捻込むとその肩から飛び降りた。
 しかし、「それ」がドルキンの脚を掴むのが一瞬早かった。
 ドルキンはそのまま石畳みの床に叩き付けられ、左の肩胛骨と肋骨が折れた衝撃で息が詰まった。
 「それ」は両手で炎槌を振り上げ、身体を起こせないでいるドルキンに向かって叩き付けた。
 ドルキンはかろうじて身体を捻りその攻撃を躱したが、不十分だった。右前腕が肘の先から千切れ飛んだ。
 ドルキンは眼を閉じ、神に召される覚悟をした。手元に武器はなく、次の攻撃を避ける余力は残っていなかった。
 その時、轟音と共に大洞窟の天井が崩れてきた。月の光が射し込んでくるのが、微かに視野の隅に写った。
 次の瞬間、天から雷鳴が轟いて雷光が奔り、ドルキンが魔物の身体に残した短剣を直撃したように見えた。
 一瞬巨大な石像と化したように動きを止めた「それ」は、その姿のまま地響きを立てて岩や瓦礫が散乱する奥の院の床に倒れた。
 身に纏っていた炎が消えたかと思うと、「それ」の巨躯があっという間に黒い煙に包まれ、内側から破裂するように四散した。その衝撃に吹き飛ばされ、瓦礫に身体をしたたかに叩き付けられたドルキンは、意識を失った。

 額にひやりとした感触があった。次いで右腕に焼け火箸を突っ込まれたような激痛を感じた。
 眼を開けると、フードを脱いだミレーアがそばに蹲っており、横になったドルキンの額に手をあてていた。
「なぜ、私を呼ばなかったのですか?」
 ミレーアは表情を変えずに言った。肩まであるプラチナブロンドの柔らかい髪が軽く波打っており、前髪が汗で額に貼り付いている。大きな碧い瞳と卵形に縁取られた頬が彼女を幼く見せていた。薄い唇は意志の強さを感じさせる。
「呼んでいたら屍体が二つになっていたでしょう」
 ドルキンは激しい痛みと出血による眩暈に耐えながら呟いた。
「私はフィオナ様付きの修道女ですが、神の巫女でもあります。私の力を過小評価しないでいただきたいですね」
 ミレーアは形の良い眉を少しだけしかめ、左手に持ったドルキンの右前腕を肘の切断部に合わせてから、口の中で二言、三言、呪文のようなものを唱えた。
 襲撃者から矢を受けた時と同じ、淡いオレンジ色の膜がドルキンの右腕を包んだ。同時に灼熱の激痛は嘘の様に去り、優しい暖かさが右腕を包んだ。
 ドルキンが驚きと戸惑いを見せている間に、腕は元通り接合されていた。血は止まり、右手の指を動かすことも出来た。折れたはずの肋骨の痛みももう無かった。
「神殿の巫女が魔法を使うというのは本当だったのですね」
 ドルキンは、夢でも見ているような気分で自分の右掌を見つめた。
「巫女であれば程度の差こそあれ『神の祝福』を使えるのです。魔法ではありません」
 ミレーアは良く透る美しい声で応えた。立ち上がり、再びフードを被る。
「奥の院には魔物がいるとフィオナ様も仰っていたではないですか。今回の旅では私の力が必要になる、とも仰っていたはずです」
 ミレーアの声は静かだったが、表情には明らかにドルキンへの非難の色が浮かんでいた。
 その通りだった。確かに、教皇は宣託の中でアムラク神殿で異変が起こる可能性について言及していた。ドルキンの脳裏に教皇との謁見の場面が鮮やかに蘇った。
 一週間前。次代の教皇候補者に神の印を授ける「授印の儀」の前日に、ドルキンは、教皇の間に召喚された。枢機卿にも円卓の騎士たちにも告げられず、召喚は極秘裏に行われ、教皇の居室にはフィオナの侍女であるミレーアのみが控えていた。
「聖下、ご機嫌麗しゅう」
 天鵞絨の幕を捲り、人目を憚って修道士姿で教皇の居室に入ったドルキンはフードをとってからその場に跪き、面を伏せて挨拶を述べた。
「そのままで控えよ、ドルキン・アレクサンドル」
 教皇フィオナは擦れた小さな声でドルキンに声をかけた。
 ドルキンは部屋に入って直ぐに教皇の様子がおかしいことに気付いた。居室の中であるにもかかわらず分厚い外出用の正装を着込んでおり、フードを被ったままだったからだ。
「ご尊顔を拝するのは三十年ぶりでございまする。お変わりなく、恐悦至極に存じ上げます」
 しばし沈黙が続いた。
 漠然とした違和感を感じてドルキンは上目遣いに教皇を見た。だが、それが何なのか、その時ドルキンには分からなかった。不穏なざわつきだけが苦い酒のように胸の底に残った。
「どうされました、聖下……?」
 ドルキンは面を伏せたまま、視線を元に戻して言った。
 教皇はそれでもしばらく沈黙を守ったままだったが、やがて深く息を吸い、そして絞り出すようにして言葉を吐き出した。
「神の……フォーラ神の宣託を伝える。心して聴くが良い」
 そして教皇の宣託を聞いたドルキンは自分の耳を疑ったのだった。違和感は驚愕に変わり、そして困惑へと化した。このひとつきの間に、ファールデン王国のみならずこのユースリア大陸全土を危機に陥れる災厄が迫っていると言うのだ。そして、その災厄は人ならぬものによって引き起こされ、それを止めうるのはドルキンとミレーアだけだと聞かされたのだった。
「礼を言わなければなりませんね。ありがとう」
 ドルキンはそれだけ言って立ち上がり、二人の背後にある祭壇に歩み寄った。
 祭壇には旧い文字がびっしりと書き込まれている白い紐状の紙で封印された木の箱が奉じられていた。箱の脇に添えられているドルキンが持っていたのとはまた異なる意匠のフォーラ神の短剣で封印を切り、箱を開ける。
 中には一振りの斧が納められていた。短剣は魔物との戦闘で失ったものの代わりに左脇の鞘に収めた。
 この神斧は七つの聖堂神殿それぞれに一つづつ奉じられている神器のうちのひとつで、長さはドルキンの片腕ほどあった。柄の上端部に三日月状の曲線を描く斧頭が横向きに取り付けられていた。鈍い光を放つその刃は無骨ながらも強靭な斬れ味を感じさせる。教皇は宣託の中で、それぞれの聖堂神殿に奉じられているこういった神器たる武器をドルキンに集めるように指示したのだった。
 ドルキンは斧の柄を左手で握り、箱から取り出した。剣の鞘に巻いていた革の帯を取り外して斧に巻き付け、これを背負う。
「行きましょう」
 ミレーアに一度視線を向け、声をかけてから石扉に向かって回廊を引き返していく。
 ミレーアは軽く唇を噛んでいるように見えた。しかし、目深に被り直したフードでその眼の表情は窺えない。無言でドルキンの後を追ってきた。
 奥の院の外は冷たく透明な空気に包まれており、神殿が白い月明かりに煌々と照らされていた。
 神の階梯を降りて神殿の門前に拡がる暗い森の中に戻っていくドルキンとミレーアを、森の巨木の枝から白い梟が身動ぎもせず見つめている。
 ドルキンたちの姿が見えなくなると、梟は木の枝から飛び立ち、森の奥から現れた小さな影の肩にとまった。その影は、かたわらに寄り添う別の巨大な白い影と一つに溶け合うと、ドルキンたちの姿が消えた方向へ風のように走り去った。

 ユースリア大陸のほぼ中央に位置するファールデン王国は、フォーラフル川とシュハール川という二つの大河に挟まれ、豊かな自然に恵まれた沖積平野と北方に聳える峻険な山岳地帯からなり、南方のファラン海沿岸は海上交易の中心として栄え、名実共に大陸の要衝たる地位にあった。王都アルバキーナはその肥沃なシュハール川北岸に位置している。
 王国という名の通り、ファールデンには千年近く前から営々と続く王家が存在し、民の信望を集めていた。
 始祖アグランドは北方の山岳地帯出身であったが、卓越した山岳民族の戦闘技術とそのカリスマ性で、瞬く間に川下の農耕民族を席巻し支配下に治めた。彼は抵抗した兵士に対しては容赦なく厳罰と極刑を以て臨んだが、恭順の意を示した兵士や民に対してはほとんど暴力に訴えることはなく、のちに無血王と呼ばれた。
 ファールデン王国に唯一絶対の女神フォーラ信仰が持ち込まれたのは、第十三代グラフゥス王の御代、ファールデン紀七七〇年のことであった。北方のサンルイーズ山脈より更に北に奥深く、大陸最高峰のチェット・プラハールがある。この山の寺院で生まれたとされる、アーメインという娘が神の啓示を得た。
 元々ファールデンでは複数の土着信仰がアグランド以前から残っており、その信徒同士の争いが絶えなかった。五五〇年に勃発した「ボードゥル戦争」は、異なる神を信仰する土着信仰信者同士の宗教戦争であり、王国開闢以来最悪の内戦となった。
 死者は数百万人を超え、 国力は一気に傾いた。フォーラフル川以西の異民族から頻繁に侵入を受けるようになったのは、この頃からである。
 ボードゥル戦争当時の第十代国王、アドゥバールはこれを武力で鎮圧、事実上の禁教令を布いた。
 大きな犠牲を払ったこの戦争の傷が癒えない間は、みな彼の政治に良く従った。しかし、世代が変わり戦争を経験した者が戦争を語り継ぐこともなく、櫛の歯が落ちるように死に絶えていくと、王の政治に不満を持つ者が出てきた。
 そして一部の勢力は、信仰の自由を旗印にしてファールデン紀七六〇年、謀反の旗を翻した。世にいう「アルケイド十年動乱」である。
 第十三代国王グラフゥスは、宗教を弾圧するよりも慰撫する道を選んだ。グラフゥスは当時勢力を増していた女神信仰に目を付け、これを公式に国教として認めた。名実ともに正当性を得たフォーラ信徒は徹底的に他の土着信仰を排し、毀損し、根絶していった。王は国軍の力を使わずして、宗教的な不満と争いの種を自ずと取り除くことに成功したのである。
 王の目論見通り、謀反の旗は二度と翻ることはなかった。しかし、のちにこれがファールデン国の権力を王と教皇で二分する、二重権力構造の下地となってしまうことになる。
 アーメインは神の啓示を受けてすぐに、彼女を護る神殿騎士を引き連れて王都アルバキーナへ入った。グラフゥスは当時既に齢七十を超えており、アーメインが入城した時には病の床に就いていたとされる。
 アーメインとグラフゥスとの間にどういうやり取りがあったのか、どのような密約が結ばれたのかは記録に残っていない。記録に残っているのは、アーメインが王都に入った翌年、彼女が初代教皇として立った、という事実だけである。
 アーメインが教皇となって以降、唯一絶対の女神を仰ぐフォーラ信仰の頂点に立つ教皇は代々女性が務め、王権との微妙な力関係の中でファールデンは大陸の盟主としての道を歩んでいくことになる。
 時はアマード・アルファングラム三世の御代、ファールデン紀 一三一三年白い獅子の月。王都アルバキーナは、不穏な空気に包まれていた。
 王城を中心に扇形に発展したこの巨大な都市は、大きく三つの区画からなっている。
 シュハール川の反対側に位置する都市の境界は、複雑な迷路のように細かい通路が縦横無尽に走っており、主に傭兵や兵士の居住区であった。そこから王城に向かってなだらかな傾斜が続く区画は商業地区であり、種々雑多な商店や市場が建ち並んでいる。
 王城を頂点とし、これに隣接する地域は美しく区画整理され、全ての通路がメイヌ・タレラートと呼ばれる中央の街道に繋がっており、主として政治・行政そして宗教の中心となっている。
 第二十六代教皇フィオナ・ファルナードの崩御は、教皇庁のみならずアルバキーナ城に対しても大きな波紋を及ぼした。市井では教皇が暗殺されたとの噂がまことしやかに流れ、街ゆく人々の顔色も冴えない。
 教皇は王家と異なり、世襲制ではない。北方の護りの要であり、女神フォーラの祝福を最も受けているとされるアムラク神殿で幼少の頃から修行を積み、乙女の証を持つ神の啓示を受けた修道女のみが代々教皇として選出される。
 フィオナの齢は既に五十を超えており、白金と緋の法衣を受け継ぐ者の選定も進んでいたが、啓示を受けた「身世代(みよしろ)」(教皇となることができる資格を持つ乙女たちの呼称)の行方が分からなくなっていることも、王家の陰謀説を唱える者が現れる理由の一つとなっていた。
「陰謀など、断じてない!」
 アマード・アルファングラム三世は声を荒げて、枢密院から上奏されてきた報告書を足許に叩き付けた。
 アマードは温厚で公平な人物であったが、それが故に巷で陰謀説が流布されていることに我慢がならなかった。
 アマードは胸元まで伸びた白い髭を震わせ、天井が高く豪奢な内装で飾られた広い会議の間に据え付けられた大きな窓に歩み寄った。ここから街の中心を望むことができる。細密な彫り物が施された枠縁に手を掛け、暫く微動だにしない。
 歴代の教皇と国王の関係は、戦いと融和の歴史でもあった。双方が激しく対立し、神殿騎士と王国兵士が衝突した事例も一度や二度ではない。しかし、少なくともアマードは敬虔な神の信者でもあったし、教皇フィオナとはこの国の行く末について胸襟を開いて話すことができる関係にあると信じていた。
 一方で、アマードはここ数年、急激な自分の老いを感じていた。齢五十を過ぎてから授かった王子はまだ十一歳であった。ファールデン王国に於ける成人堅信は十三歳である。この国を託すにはあまりにも若すぎた。時世は必ずしも盤石とはいえなかった。
「陰謀ではないことは、ここにいる全員が分かっていることでございます。どうかお怒りをお鎮め下さい」
 大臣や将軍らが部屋の中央に据え付けられた大きなテーブルで国王を囲む御前会議の場で、枢密院議長のダルシア・ハーメルは、ちょうどアマードの向かい側の席から王に向かって静かに語りかけた。高齢の重臣たちが居並ぶその円卓の中では、眩しいまでの若さが目を引いた。みなの視線がダルシアに集まる。
 浅黒い肌に軽くウェーブがかかった黒髪が似合い、漆黒の瞳と引き締まった唇から覗く白い歯が清潔感を感じさせた。ダークブラウンのウェストコートと丈の短い漆黒の上着を瀟洒に着こなし、純白の袖に真っ赤なルビーのカフスが印象的だ。
 ダルシアはもともと財務府の官僚であったが、自ら望んで枢密院の構成員となり、その若さと野心でここ数年頭角を現してきた。その助言は的確で政策の執行もアマードの意を十分に酌んだものであったため、アマード自身も彼を重用してきた。
 重鎮である長老たちの中には彼を厭う者も少なくなかったが、ダルシアは今では事実上王の参謀であり、実質的な権力を掌握しつつあった。
「いずれにせよ浮き足立つ人心を押さえ、早急に善後策を執らねばなりません。西の異民族どもが国境を窺っているとの辺境守備隊からの報告も入っております」
 ダルシアは言いながら、右斜めに座っているダイ・カルバス将軍を一瞥した。将軍は大きく頷いた。
「陛下は国権の体現者として既に人心をしっかりと握っておられます。また同時に敬虔な神の信仰者でもあらせられます。次期教皇の選出にあたっては陛下の御意志が大きく尊重されましょう。陛下の意を酌む教皇が立てば、二分された国権を王権の元に回復し、このファールデン王国をより強大で確固なものとなさしめることも可能でしょう」
「またその話か、カルバス。その話はもうよい。国王であっても神の元では一介の信仰者に過ぎぬ。儂は教皇権に興味はないし、神の意に反してこれを簒奪するつもりもない」
 アマードは眉間に皺を寄せ、頭を軽く振った。カルバス将軍の顔に一瞬赤みが差したが、他の重臣たちからはむしろ安堵めいた溜息が漏れた。
「もうよい。みなの者もご苦労であった。下がってよろしい」
 長時間にわたっていた御前会議は、アマードの一言で終わった。
 ダルシアは、磨き上げられた石の廊下でカルバス将軍や財務大臣たちと一言二言言葉を交えたあとそこにひとり佇み、しばし眼を閉じて想いに耽った。端正な表情は静かで、内なる感情を窺い知ることはできない。
 そのダルシアを、広い吹き抜けになっているホールから王の書斎に向かう巾広の石階段の手前で見つめている人影があった。アマード王の妃、エルーシア・アルファングラムである。
 熱い視線に気付いたダルシアは王妃に向かって優雅に一礼し、周りに人がいないことを確認して微笑んだが、彼女が近付いてくる前に足早に大広間へ姿を消してしまった。
 エルーシアはダルシアの後を追いかけようとし、かろうじて思いとどまった。ここでは人目が多い。
 浅黄色のドレスに王家の紋章を施した白いカメオを胸元に着けたエルーシアは、ブロンドの長い髪をシニヨンに結い上げ、抜けるように白い肌をしていた。その頬は上気し耳朶まで桜貝のように染まっている。潤んだ目で陶然とダルシアの後ろ姿を見送っていた。
 そして、このまだ若い母親を追って庭園へ向かう小径に出てきた小さな影が水門の陰に立ち尽くし、黙ってダルシアとエルーシアを見つめていた。アマードの一子、王子エルサスである。
 もちろん、エルサスは母親がダルシアに抱いている感情など知るべくもなかったが、とはいえ、この場面を目撃して無邪気に母を求めて駆け寄る年齢でもなくなっていた。エルサスは母親に見つからないよう、静かに後退りして、王の居館へ戻っていった。

 王都アルバキーナは、別名「双頭の梟」と呼ばれている。これは、王都の中心にふたつの「城」が存在するからである。
 一つは、言うまでもなく国王の居城であるアルバキーナ城で、王都の東を流れるシュハール川に面しており、その川から引いた水を城壁の周りに貯え環状堀とした堅牢な要塞城だ。巨大な主塔(ベルクフリート)と複数の門塔、側塔、城壁塔に囲まれた広大な城内に王が住む居館(パラス)が拡がっている。
 もう一つは、唯一絶対の女神を奉ずる、国教たるフォーラ信仰の頂点に君臨する教皇の居城ともいうべき教皇庁である。教皇庁はユースリア大陸に散らばるフォーラ神殿を統括する聖堂神殿の一つで、教皇のみならず宗教儀式に携わる司祭や修道女、枢機卿たちが住む広大な居住区を擁する。その構造は複雑で、かつてはアルバキーナ城とも地下で繋がっていたといわれる。
 教皇庁は王城の北、王城よりもシュハール川の上流に位置していた。壮麗な神殿様式の建造物は北西に長く、フォーラ神の像が彫り刻まれた大理石の円柱がいくつも屹立する北の大門から、教皇庁正門に到るまで扇型に白亜の階段が緩やかに続いている。
 正門を守る重厚な鉄の大扉を開くと、正面が拝殿と祭殿に向かう大廊下、左が修道院と司祭や修道女たちの居住区に繋がる回廊になっている。右側は蔵書が収められた書庫と大広間、そして教皇に次ぐ地位である枢機卿たちの居室がある。
 枢機卿カルドール・ハルバトーレの執務室は、正面の大廊下から二階へ続く螺旋階段を上り詰めたところにあった。教皇フィオナ・ファルナードが崩御した今となっては、カルドールは事実上フォーラ神殿の政治的な最高位にあると言って良い。踝まで沈む毛織物の絨毯を敷き詰めたその部屋は、贅を尽くした調度品と背の高い巨大な暖炉が目を引く。
 重い鉄製の扉が、剣の柄頭で叩かれる音がした。
 カルドールは、膝の上に乗せていた若い修道女を両手で抱えて脇に置き、右手の中指に残る女の残り香を愉しんでから指を舐めた。癖を持った黒髪の頭頂部は薄くなり、長年の不摂生が祟り身体の線もぶよぶよと大きく崩れ、湿った黒い頬髭の上にある眼は灰色に濁っていた。
 身の回りの世話をするその小柄な修道女は蹌踉めいて執務机の脇に座り込んだが、すぐに身繕いをして立ち上がった。
 扉が軋みをあげて開かれ、一人の男が執務室の中に入ってきた。
「カルドール猊下、お呼びでございますか」
 聖堂騎士の正装である鎧とマントを身に付け右腰に剣を帯びたその男は、銀色の兜を左手に抱え、右手でカルドールに敬意を示す印を結びながら、低いよく通る声で言い、片膝をついた。
「うむ、ご苦労。どうだ、外の様子は。少しは落ち着いたか?」
 華麗な刺繍が施された大きな椅子に埋まるように座っていたカルドールは、その騎士に尋ねた。威厳に満ちた声音であるが、尊大な響きは隠しきれない。
「遺憾ながら、聖下御崩御の影響は大きすぎました。円卓の騎士の協力も得て神殿騎士を王都及び近郊の神殿に配し、人心の安寧に努めておりますが、領民信者のみならず修道院の者どもも恐慌状態に陥っております。僭越ながら、一刻も早く次期教皇聖下の御叙任を進める必要があろうかと存じます」
 騎士は面を伏せたまま答えた。
「次期教皇聖下の御叙任の準備は粛々と進んでおる。武力を用いても構わん。とにかくそれまで領民信徒を抑えておくのだ」
 カルドールは不機嫌そうに騎士の顔を一瞥した。
「ところで、マリウスよ。聖下がご崩御された後、聖下付きの修道女と聖堂騎士が一人、王都を出奔したのは知っておろうな?」
 カルドールはいったん起こした身体を、背もたれに預けながら言った。
「は……」
 マリウスと呼ばれた騎士は曖昧に言葉を濁した。
 マリウスは教皇庁の聖堂騎士で、若いが既に円卓に任じられており、若手騎士の中心的存在であった。引き締まった褐色の肌に癖のある暗いブロンドの長髪と顎を覆う短めの髭が精悍だ。
「フォーラ神の御名において、お前に重要な任務を与える。聖下殺害の容疑者である聖堂騎士ドルキンと修道女ミレーアの追捕を命ずる。その間、教皇庁の衛士長としての任は一時解くこととする」
 マリウスは頭を垂れたまま唇を噛んだ。そして、顔を上げてカルドールに向かって言った。
「恐れながら、猊下」
 一呼吸置いてマリウスは一気に続けた。
「ご存じの通り、ドルキン卿は私の師匠でございます。彼はフォーラ神への信仰も深く、一生をその御心に捧げた者であります。私の知る限り、ドルキン卿が聖下を弑するなど、あるべからざることと存じまする」
 カルドールは濁った険のある眼で、じろりとマリウスを睨んだ。怒気にこめかみの血管が浮いた。
「お前の意見など、聞いておらぬぞ」
 腹の底に響く強い声で言ったカルドールは、苛立ちを押さえるかのように眼を閉じた。
「……だが、他ならぬお前の申し立てだ。何も知らぬとあれば寝覚めも悪かろう」
 カルドールは眼を閉じたまま続けた。
「ドルキン卿は聖下が崩御された直前に、密かに聖下に拝謁しておるのだ。我々枢機卿たちにも知らされず、お前たち円卓の者どもも知らずにおったろうが……」
 マリウスの表情に驚きが走った。初耳だったのだろう。
「どうやって聖下と繋ぎをつけたのかは、分からぬ。だが、聖下と最後に接したのはドルキン卿と聖下付きのミレーアだけなのだ。その翌朝、聖下は遺体となって発見された。遺体が発見された経緯はお前もよく知っておろう」
 もちろん知っている。あの日のことを決して忘れることはできない。マリウスは言葉を呑み込んだ。
「失礼いたしました。何卒、ご寛恕のほどを」
 マリウスは再び頭を垂れ、カルドールに赦しを請うた。
 師たるドルキンの罪を信じたわけではない。しかし、これ以上抵抗を試みてもカルドールの怒りを買うばかりである。それよりも、ドルキンと直接話をし、事の真偽を問うた方が良いと判断したのだ。
 カルドールの執務室を退室したマリウスは、教皇の寝室で観たその光景を思い起こして軽く身震いした。
 衛士の報告は速やかに行われ、マリウスより前に教皇の寝室に入った者は教皇付きの修道女と彼女を見つけた衛士のみであった。衛士長として教皇庁の刑事に従事していたマリウスは、カルドールよりも先に現場に駆けつけたのである。
 寝室の中は、凄惨を極めていた。 
 教皇の小柄な身体は寝台の上にあったが、五体が寝台の天蓋を支える柱に括り付けられていた。ぎりぎりまで引き延ばされた手足と首の骨は内部から砕かれており、皮膚だけで辛うじて身体が繋がっていた。
 胸から腹にかけて寝衣ごと縦に切り裂かれており、内臓は全て取り出されているように見えた。そしてそれが、あたかも祭壇に供えられた生け贄のように、寝台の側にある脇卓の上に載せた硝子の器に盛られているのだ。両眼は抉られ、歯も全て折られて切り取られた舌が別の生き物のように頭の横に転がっていた。
 血液の量から判断して、これらの残忍な行為は教皇が生きているうちに行われたことは明白であった。人間の所業とは思えなかった。ましてや、ドルキンがあのような真似をするはずがない。
 マリウスはしかし、教皇崩御の直前にドルキンが教皇に会っていた事実をどうとらえれば良いのか迷っていた。普段のドルキンであれば、枢機卿や他の円卓の騎士たちはともかく、マリウスには一言あるはずであった。
 いったい、教皇に、いや、ドルキンに何があったのか。
 マリウスは教皇庁の大広間の脇にある従者用の小扉を開き、外へ出た。教皇庁に併設されている修道院に向かう小道を歩きながら、マリウスは考えに耽っていた。
 頭を切り換えなければ。教皇を殺害したのが誰であれ、ドルキンを追う以上、優秀な若手の騎士を選んで同行させなければならない。誰を選ぶか。
 マリウスは部下のうち二人を選んだ。大人数を編成すると万が一のことがあった場合に話が大きくなり、内々で済ませるべき話も済まなくなる。
 マリウスは深い溜息をつき、彼の今の心のように重い石造りの門扉を開き、修道院に入っていった。

 夜明けの暁光に包まれたこの象牙の尖塔ほど美しいものはないと、ナスターリア・フルマードは思った。
 旧く打ち棄てられ遺跡となった古代フォーラ神殿に屹立する複数のミナレットが朝陽を浴び、国境線に沿って連なる長城の石塁に長い影を落としている。
 その城壁の上にある西の監視塔から、ナスターリアは異民族の支配下にある尖塔群とその向こうに悠々と流れるフォーラフル川を見下ろし、軽く溜息をついた。
 眺望の美しさに反して、近年辺境の治安は悪化するばかりであった。主な理由は国境を接する異民族国家であるスラバキアが度々国境線を侵して越境し、近隣の村や街を掠奪することが増えてきているからだが、もう一つ看過できなくなっているのは、地方のフォーラ神殿司祭たちの腐敗が進んできていることだ。
 ファールデン王国は別名ファールデン十三州と呼ばれ、国王の直轄領である王都アルバキーナと十二人の貴族領主が治める十二の州都で構成されている。貴族領主が領民に賦課する税や課役については法で厳密に定められており、彼らが勝手に民を搾取することのないよう厳しく管理されている。
 一方で教皇は、アルバキーナに教皇庁周辺の狭い区画を所有するのみで、その収入のほとんどは地方の司祭が運営している各神殿からの上納金で賄われている。自ずと地方の司祭、特に枢機卿と呼ばれる聖堂神殿司祭の力は増し、現在では経済的・政治的には教皇を凌ぐほどになってきている。
 枢機卿の腐敗に伴い、その下部組織に当たる神殿司祭にも腐敗が進んでおり、神の名の下に搾取が行われ、地方都市では貧富の差が拡大していた。富めるものは更に富み、司祭の贅沢濫費はむしろ禁欲的な貴族領主を凌ぐほどであった。
 王国大将であった祖父の血なのか、昨年異民族との激戦で戦死した辺境守備隊大隊長の父から受けた厳しい教練の賜なのか、ナスターリアは王国兵士の中でも抜群の戦闘能力とカリスマ性を受け継いだ。
 頭の後ろに束ねた母親譲りの柔らかい赤毛を見なければ、男と見紛うかも知れない。父親と同様長身で、細身の身体は柔軟性に富んでいた。今、この辺境守備隊でナスターリアに敵う兵士は一人もいない。
 ナスターリアは強固な意志を感じさせる濃い眉を顰め、グラウコーピス(海のグレー)と周りの兵士たちが呼ぶ瞳で早暁に届けられた封書を見つめていた。封蝋は既に開封されており、極秘文書であることを示す紅い梟の印璽が捺されていた。
 教皇が崩御した今こそ、二つに引き裂かれた王権を一つに復古せしめ、教皇派を一掃しなければならない。
 南方の港湾都市ヴァレリアを除く、王都の主たる貴族諸侯たちが誓約の儀を交わしたことが記されていた。王国軍将軍ダイ・カルバスからの直接の私信であった。
 カルバスはナスターリアの祖父の後輩にあたり、祖父が亡くなったあと王国軍大将として王国軍を率いた。幼いナスターリアを心にかけ、実の孫のように面倒を見てくれたものだ。
 カルバスは祖父とは違い急進的な国王信望者であり、常に国権の一元化をナスターリアやその父に繰り返し説いていた。
 カルバスはナスターリアに辺境から兵を起こさせ、時を同じくして各州都の軍隊を蜂起せしめ、教皇派神殿騎士を封じ込めようとしている。既に各地の神殿に近い貴族領では、若手貴族諸侯による準備が着々と進んでいるとしたためられていた。
 ナスターリアは、今兵を動かすことに躊躇を覚えていた。
 父の死後、辺境守備隊に大隊長は不在であった。三つの小隊と一つの中隊からなる辺境守備隊は、今、それぞれの小・中隊長の合議による運営を余儀なくされている。辺境守備隊の中隊長になったとはいえ、他の小隊長が黙ってナスターリアの出砦を見逃すはずがない。ナスターリアは他の部隊との戦闘を望まなかった。
 また、特に教皇が崩御してから異民族の動きが活溌になっている。昨日も大掛かりな戦闘が行われ、百名近くの死傷者が出た。四隊からなる守備隊のうちナスターリアの中隊がここを離れることは、国境を放棄することに他ならない。
 カルバスからの書簡には、今、枢機卿の中でも最も権力と富を意のままにしているカルドール枢機卿が、教皇亡きあとの教皇庁を我がものにすべく暗躍しており、王権にまで触手を伸ばしている様子が記されていた。カルドールは、教皇を暗殺し王都を出奔したとされる聖堂騎士と修道女を追っており、アムラク神殿から行方不明になった「身世代」を探しているらしい。
 父ならどう判断しただろう。祖父なら迷わず兵を挙げるだろうか。
 ナスターリアの母親は王都アルバキーナに健在であった。もう十年以上会っていない。
 男子に恵まれなかった父親は早くからナスターリアの素質を見抜いており、常に身近に置いて彼が知る限りの戦闘技術を教え込んだ。そのため優秀な兵士に育ったナスターリアであったが、一方で母親には縁が薄く、それだけ無意識のうちに母親の愛に飢えていた。
 彼女は父親が戦死した際、王都に帰ることを一度は熟考したのである。しかし、周りの状況がそれを許さなかった。大隊長の娘であり優れた戦士である彼女を、辺境守備隊が手放しはしなかった。
「フルマード隊長。失礼します」
 西の監視塔に上がってき、直立不動で敬礼する部下の声で我に返ったナスターリアは、右の掌を左胸に翳す敬礼をもってこれに応えた。
「隊長、ラードル殿が剣技場でお待ちしているとのことです」
「ラードルが? 分かった、ご苦労」
 ナスターリアは封書を内ポケットに仕舞った。監視塔の螺旋階段を下り、城砦の地下にある剣技場へ向かう。
 この城砦は、南と北、そして西に配置された監視塔と、長城と一体化した長大な砦からなっている。西の監視塔はフォーラフル川の急流流域に面した自然の要害となっており、ほとんど異民族の攻撃を受けたことがない。
 頻繁に攻撃を受けるのは南北の国境線で、これを護るためにナスターリアの中隊が北を、残りの三小隊が南を防衛している。西の砦は南を護る三小隊のうち一小隊が当番で駐屯しており、大隊長の私室や客間、幹部用の大食堂などは西の砦にある。士官の修練場である剣技場も西の砦にあった。
「待たせたな、ラードル」
 ナスターリアは、自分の半分ほどの身長しかないが、がっしりと小岩のような体格をしたその男に向かって敬礼した。
「今朝、着いたばかりだ。そのままここに来たから、別に待ちわびたわけじゃない。気にするな」
 地の底から這い出るような低い声でラードルは応えた。
 ファールデン王国兵の中ではドワーフは珍しい。ドワーフ族は古来北西の山岳地帯にある地下洞窟で暮らしていた一族であり、信仰も独自の多神教を奉じている。ファールデンの始祖アグランドが肥沃な下流域を征討するにあたり、背後からドワーフたちの攻撃を受けないよう当時のドワーフ王と盟約を結んで以降幾つかの部族が南下し、大多数は鉱工業に従事し、一部の部族が戦士として王国兵に採用された。
「将軍はお前の返事を持って帰れ、と言っていたよ」
 ナスターリアは剣技場の壁に架けられていた刺突剣レイピアを手に取り、振り向きざま、不意にラードルを突いた。
 ナスターリアの突きは鋭く、真っ直ぐに伸ばした右腕が微かに曲がって刃身に微妙な捻りが加わっていたことは、常人の眼には留まらなかったであろう。だが、ラードルは右腿に重心を乗せながら体幹を微妙に外し、これを避けた。顔を覆う長い灰色の髭が数本宙に舞った。
「父親も、レイピアの使い方は今一つだった。腕が曲がる悪い癖は父親と同じだな。肘は伸ばしたまま。肩と手首で角度をつけて突く、と教えただろう」
 ナスターリアとすれ違いざまに、眼にも留まらぬ速さで一閃させた戦斧を右腰に納めながら、ラードルは言った。
 ナスターリアの長い髪を束ねていた飾り紐が戦斧に切断され、腰の辺りまで柔らかい赤毛が落ちて拡がった。ラードルの斧捌きだけは、ナスターリアの理解を越えていた。力任せに使うはずの斧を、何故この男は繊細な短剣のように扱えるのだろう。
「異民族の動きが激しくなっている。今ここを動くわけにはいかない」
「それが答えか?」
 岩がこびり付いたようなラードルの額と鼻の間から覗く小さな眼が微かに動いたように見え、軽く溜息が聞こえた。
「お前に、言っておかなければならないことがある」
 ナスターリアの形の良い眉がぴくりと動いた。
「枢密院議長、ダルシアは知っているな? この計画は、奴が将軍に上申したものだ」
 ナスターリアの肌が自身の髪のように紅く燃え上がった。
「ダルシアが……あの男が今回の作戦を立案した、と言うのか?」
「ああ、そして今、お前の母親はダルシアの庇護下にある。随分と体調がお悪いらしい」
 ラードルは頷いて言った。
「母が……」
 ナスターリアは絶句した。
 暫くそのままそこに立ち尽くして身動きもしないナスターリアをラードルはじっと見つめていたが、やがて重い身体を軽々と扱い、彼女が下りてきた螺旋階段を上り始めた。
「あと一日、ここにいよう。それまでに結論を聞かせてくれ」
 振り返りもせず、ラードルは言った。

 鋭い突きを上段に放つと見せてこちらのガードを誘い、次の瞬間深く踏み込んで中段の装甲が薄い脇腹を巧みに狙ってくる。
 踏み込んできた突きをこちらが剣で払いざま腕に刃身を叩き込もうとすると、左手に持った大盾で弾かれる。
 穂先の根本部分にある羽根のような突起が、敵の身体に刺さった時に歯止めとなる槍の達人として知られるヘルガー・ウォルカーは、いったん剣のそれになった間合いをじりじりと外し、距離を取ろうとする。
 膠着状態になった。ヘルガーは間合いを取ろうとし、ナスターリアは間合いを詰めた。羽根槍の長い間合いは剣には不利だ。
 ヘルガーが更に後ろに下がろうとするところに、ナスターリアはむしろ走り込み、右足でヘルガーの大盾を強く蹴った。ナスターリアの急な動きに狼狽したヘルガーが盾を蹴られて一瞬両足が揃ったところに体身を入れ替えて振り向きざまに片手で剣を叩き付ける。
 ヘルガーもこれに応じて鋭い槍の一撃を放ったが、体勢が崩れていたため不十分な突きとなった。ナスターリアの反応は速かった。
 不十分なそのヘルガーの突きを左手の小盾で弾き、その反動で大きく後ろに仰け反ったヘルガーに身体を寄せるようにして頸元に剣の切っ先を見舞った。剣先が喉に触れる寸前で止める。ヘルガーの喉仏がごくりと動くのが見えた。
「そこまで!」
 ナスターリアやヘルガーと同じく、辺境守備隊の隊長であるオグラン・ケンガが立ち会いを止めた。ヘルガーは口の中で何事かを罵りながら、痩せた体躯に不似合いな大盾を背負い、細い白い眼でナスターリアを睨んだ。
 ナスターリアは涼しい瞳と一礼でこれに応じた。ヘルガーは大盾と槍を担いで、のそのそと剣技場の隅に退場した。
「次は俺の番だな。ニア、審判してくれ」
 ニアと呼ばれた小柄な褐色の肌をした女は頷いて前に出た。
 オグランは、背負っていた常人の背丈程もあろうかと思われる長い刃身を持つ大剣を、肩に担いで剣技場の中央に進み出た。
 ナスターリアとオグランはお互いに五、六歩ほどの間合いを置いて一礼した。ナスターリアは左手に小盾、右手に直剣を握り、オグランは巨大な剣を両手で持って下段に構えた。
 その瞬間、ナスターリアは急激に間合いを狭めた。そのタイミングを待っていたかのようにオグランは下段から上段に向けて大剣を斜めに振り上げた。
 盾で受けるような愚かな真似はしない。ナスターリアは紙一重、ぎりぎりのところでオグランが振る大剣を見切って、相手の懐に入る隙を窺った。
 しかし、オグランは振り切ったところで剣を止めず、そのままの勢いで肩に担いで突きの体勢に入る。この重い両手持ちの剣を、隙を作らずに振り回すオグランの膂力には凄まじいものがある。
 オグラン・ケンガは身長二メートルを超え、全身が分厚い筋肉の鎧で覆われている。盛り上がった僧帽筋で埋まった首と圧倒的な胸筋が太すぎて鎧が身に着けられないため、平時はもちろん戦闘時でさえ上半身は革製のギャンベゾンしか着ていない。彼が大剣を背負うと、それが普通の剣に見えた。
「なんだ、どうした? いつものお前のキレがないぞ!」
 汗は筋肉の表面に薄く拡がっているものの、息も上がらずにその鉄の塊のような大剣を肩に担いでオグランは言った。
「鬼の中隊長殿が、そんなことじゃ困るぜ」
 ニヤリと笑ってオグランは肩に担いだ大剣を再び両手に持ち、ナスターリアの細い腹部に向かって横殴りに斬りつけた。
 ナスターリアはそれを避けられなかった。赤いキルトのギャンベゾンすれすれで剣が止まった。ヘルガーとニアから思わず声が漏れた。
「やめだ、やめだ。こんなんじゃ練習にならん。ヘルガー、ニア、先に上がっていてくれ」
 ニアは軽く肩を竦め、顎でヘルガーを促し、螺旋階段を上がっていった。ヘルガーはぶつぶつ言いながらニアの後を追った。
 オグランのスキンヘッドの下にある小さな丸い眼が曇った。斜めに大きな切り傷の跡がある頬を太い指で掻きながらナスターリアの顔を覗き込む。
「大丈夫なのか? 今朝から様子がおかしいぞ。隊長がそんなことでは部下に示しがつかん。どうしたんだ」
「オグラン……お前に聞いて欲しいことがあるんだが、部屋まで来てくれるか?」
 ナスターリアは意を決したように、伏せた眼をオグランに向けて言った。まともにナスターリアと眼が合って、瞳を覗き込まれたオグランは大きな身体に似合わず狼狽え、耳の下から鼻まで真っ赤になった。
「あ、ああ。いいとも。なんだ、改まって」
 ナスターリアは持っていた盾と剣を剣技場の壁に架け、先に立って螺旋階段を上がっていった。オグランは大剣を背負い、その後に続いた。思わず、ナスターリアの形の良い脚に眼がいったオグランは慌てて眼をそらす。
 西の砦には大隊長の私室と、その他の隊長が共有して使っているいくつかの私室がある。ナスターリアはそのうちの一つを使っていた。松明が二つおきに灯された薄暗く狭い廊下の途中に、その私室はあった。
 鍵を開けたナスターリアは、簡素な木製の机の前にある傷だらけの椅子を扉側に向けて座った。壁に架けられた燭台の蝋燭から、頼りなげな光がナスターリアの端正な横顔に陰を落とした。
「入ってくれ」
 扉の前で入り口を巨体で塞ぐように立っていたオグランは、身体を二つに折って部屋に入ってきた。
「そこを閉めて」
 オグランは後ろ手に扉を閉めた。立ったままナスターリアを見つめる。
「母が……王都に私の母がいることは知っているな?」
「母? お前のお母さん?」
「もう十年も会っていないけれど」
「ああ、知っている。去年大隊長が亡くなった時、王都に帰るって言っていたのは、お母さんがいたからだろう?」
 一瞬落胆の表情を見せたオグランは、背負った大剣の柄に彫られた竜を指先で弄りながら言った。
「今朝早くに、その母が体調を崩していて、あまり良くないという知らせがあった」
「……あのドワーフか」
 オグランは腕を組み天井を見つめた。
「王都に帰りたいというのか?」
 暫く黙って再びナスターリアに視線を落としたオグランは、深く息を吐きながら言った。
 ナスターリアはオグランの視線に眼を反らし、頷いた。
「お前、何か隠してるな? あのドワーフが来てから、お前の様子がおかしいことには気付いていた。去年王都に帰ることを断念したお前が、突然お袋さんの話をするのも納得がいかん。本当にあのドワーフは、そのためだけにわざわざこんな辺境くんだりまで来たのか?」
 オグランは、閉じた部屋の扉の前から大股にナスターリアの前まで歩いてきた。ナスターリアの足許に跪いてその手を取る。ナスターリアの肩が、ぴくりと動いた。
「俺には全部、話をしてくれ。一体何があった? どうしたというんだ?」
 ナスターリアは、オグランの瞳を見つめ返した。グラウコーピスの瞳が哀しみとも諦めともつかない複雑な表情を見せて、そして閉ざされた。たとえオグランといえども、将軍の密命を漏らすわけにはいかない。
「何も隠してはいないよ、オグラン。私は王都に帰る。私の隊は、貴方に指揮を執って欲しい」
 オグランは静かに立ち上がった。暫くそのままナスターリアを見下ろし、その柔らかい赤毛を見つめていたが、岩のような掌で彼女の赤毛に触れ、そして踵を返して扉の方へ歩いていった。
「分かった。必ず、帰ってこいよ」
 オグランは振り返らなかった。
 その巨体が消え、静かに扉が閉じられた。ナスターリアは、一瞬椅子を離れて扉の方に駆け寄りかけ、辛うじてそれを思いとどまった。握りしめた拳の、細い指が白くなった。

 翌日の早暁、ナスターリアは馬上の人となっていた。ドワーフ兵ラードルと共に辺境守備隊の西の砦を発したのであった。
 あの後、ナスターリアは砦の小隊長であるオグランとヘルガー、そしてニアの三人を大隊長室に呼び、王都に帰ること、ナスターリアの中隊の指揮はオグランが執ることを話した。そして、ナスターリアの中隊とオグランの小隊は一つの中隊となり、事実上、オグランが辺境守備隊の主たるリーダーとなった。
 ナスターリアとラードルは極力主要街道を避け、小さな街道を選んで先を急いだ。馬に鞭を加え、疾駆して一路王都を目指した。
 陽が高くなり、気温が上昇してきた。二人は小さな湖に立ち寄り、馬に水を飲ませた。
「将軍は納得しないだろうな」
 ラードルが低く呟いた。
「異民族の攻勢が増しているこの時期に、辺境から大規模な兵を挙げるのは現実的ではないよ、ラードル。それよりも隠密裏に潜行して貴族領地の兵士たちと連携し、ゲリラ戦で主たる枢機卿領である聖堂神殿を押さえ、その機能を断つ方が効果的だ。王都でも性急に兵を動かすべきではない」
 ナスターリアは、湖水に浸した冷たい手拭いで首元を拭きながら言った。
 ナスターリアは王都に戻り、直接将軍を説得するつもりであった。彼女はカルバスのやり方の中に彼らしからぬ性急さを感じていた。
 しかも、あの男、ダルシアが関与しているとなると物事をそのまま受け取ることはできない。このままではカルバス自身が反逆者となりかねないのだ。アマード王は敬虔なフォーラ神信者でもあるのだから。
「昼間のうちにできるだけ進んでおこう。この分だと明るいうちにシドゥーラク州には入れるな。カルサスの街で宿を探そう」
 ラードルが地平線を指さしながら言った。
 この辺りは乾燥した無樹林で、背の低い多肉植物が多い。シドゥーラク州に入ると更に乾燥が進み、その州の大半は砂漠である。
 ナスターリアとラードルがシドゥーラクの州都カルサスに着いた頃には夕闇が迫っており、地平線には儚げに陽の光が残っていた。
 カルサスは古より伝わる聖なる泉から湧き出す清水によって発展してきた。蒼の泉と呼ばれるその湧泉は街のほぼ中央に位置し、街を潤すには十分な水量が湧出していた。そこには聖堂神殿がある。
 ナスターリアとラードルは、大きな岩に囲まれた崖上に立っていた。カルサスは太古の大きな地殻変動による断層でできた深い構造谷の中にある。ここから見下ろすと崖の壁部に小さな無数の住居がへばり付いており、州都の中心部である谷底まで延々と続いている。
 二人は、動物の骨や皮を組み合わせて造られた、灰色にくすんだ住居に沿って狭い板の通路を下りていく。陽は既に落ち、切り立った崖に切り取られた狭い空から漏れてくる月明かりだけが、辛うじて足許を照らしていた。
 ラードルは、岩盤を掘り抜いて作られた岩の燭台に灯されていた松明から貰い火をし、自らの松明に火を移した。
「気付いたか?」
 ラードルが松明を左手に持ち直し、右手を腰の戦斧に添えながら言った。
 ナスターリアは軽く頷き、既に腰の曲剣を抜いていた。軽く彎曲した細身の刃が白く光った。左手には先端が鋭利な、十字形をした長めの刺突短剣が握られている。
「静かすぎる。人の気配がしない」
 ラードルは姿勢を低くし、音を立てないように、慎重に歩を進めた。崖の壁に密集している貧民窟の家々からも、谷底にある一般領民の家からも声一つ漏れ聞こえてこなかった。
 盆地のような谷底に到着した。家々の明かりは消え、聞こえてくるのは谷を渡る風とそれに巻き上げられる木の葉の乾いた音だけだった。
 ナスターリアは、戸口に宿屋の屋号を示す板きれが打ち付けられている小屋の扉を押してみた。陰気な軋んだ音を立てて扉は開いた。
 ナスターリアは扉の陰から中の様子を窺い、滑り込むように中に入った。ラードルは扉の外で周囲を警戒している。
 突然、黒い小さな塊がナスターリアに向かって飛び出してきた。ナスターリアは思わず身体を捻ってそれを避けた。そして、その瞬間、それが小さな子供であることに気付き、ラードルに向かって叫んだ。
「その子を捕まえて!」
 ラードルは、扉から飛び出してきた子供の首根っこを押さえた。小屋の中に入って扉を閉める。
 手足をばたばたと振るわせて抵抗する少年をナスターリアが抱きかかえる。腕に噛みつこうとするその頭を撫でながら言った。
「お父さんとお母さんは?」
 ナスターリアの胸の中で落ち着きを次第に取り戻してきたその少年は、静かに首を振った。瞳はどこか遠くを見ている。ナスターリアは少年の眼が見えていないことに気付いた。
「街のみんなはどうしたの?」
 少年はただ首を振るだけであった。言葉も喋れないのかも知れない。ナスターリアとラードルは眼を見合わせて肩を竦めた。
「このままにはしておけない」
 ナスターリアが言った時、ラードルが眼で合図した。小屋の外で微かに音がし、何かが動く気配がした。
 その時、大人しくなったと思っていた少年が、思いのほか素早くナスターリアの腕の中から抜け出して扉を開け、外に飛び出していった。思わずナスターリアが手を伸ばして小屋の外に出ようとした。
「しっ、待て!」
 ラードルに左腕を引っ張られ、ナスターリアはその場に尻餅をついた。
 宿屋に面した街の中央広場は蒼の泉に面しており、昼間は人々の憩いの場になっている。蒼の泉は聖堂神殿の拝殿に直接つながっていて、泉と共に神殿も人々が自由に往来できるようになっているため、この神殿は「民の聖堂(ファラミア・エスターテ)」と呼ばれ親しまれている。
 中央広場の真ん中辺りで、大きな影が蠢いているのが見えた。
 その影から蔓のような細長いものが幾つも伸び、広場を走り去ろうとした少年の脚を捕らえた。ナスターリアはラードルに制されたことも忘れて小屋を飛び出し、曲剣を抜いて広場に駆け寄った。
 広場中央にあった影が、切り取られた夜空から覗く微かな月明かりにその姿を露わにした。
 そいつは、小さな節を持った無数の細い脚が身体の下部にびっしりと生えた昆虫のように見えた。扁球をした身体の側面からは茶色の蔓のような触手がこれも無数に伸びている。その上部には肉塊が堆く無造作に積まれており、その腐臭が鼻腔を刺激した。
 その昆虫のような化け物は少年を触手で手元に手繰り寄せると、脚の間から細い無数の緑色に濡れた触手を剥き出しにし、少年の口や鼻の穴に侵入し始めた。少年はしばらく踠いて抵抗していたが、触手に包まれ身動きを封じられると痙攣を始め、じきに動かなくなった。
 化け物は、動かなくなった少年を茶色の触手で背中に堆積した肉塊の上に積み上げた。肉塊を包んでいた薄い緑の粘膜が少年の身体に滲み込んでいった。
 そこで初めて、化け物の背中に堆く盛り付けられている肉塊の正体が分かった。肉塊はこの化け物に襲われた犠牲者たちのものであったのだ。そのうちの幾つかはまだ息があるように見える。
 化け物はナスターリアに気付き、カサカサと乾いた音を立ててこちらに移動してきた。茶色の触手が数本、ぴくりぴくりと動いて様子を窺う。背中から肉塊が幾つか、ぼとりぼとりと音を立てて落ちてきた。
 ナスターリアは、するすると伸びてきた一本の触手を剣で切断した。茶褐色の体液が飛び散ってマントを汚す。しかし、触手は次々とナスターリアに向かって伸びてくる。
 化け物の背中から落ちてきた肉塊が、ゆっくりと立ち上がってきた。腐敗し身体の崩れた犠牲者たちは、触手の相手をしているナスターリアの背後から近寄ってくる。
 その気配に気付いて振り返った彼女に何人かがしがみつき、押し倒した。その隙を逃さず茶色の触手が地を這い、ナスターリアの脚を狙った。
 左手に松明を持ち、宙を高く舞ったラードルは、着地ざまにその触手を踏みつけ、踵で磨り潰した。右手に握った戦斧でナスターリアに覆い被さっている腐った屍人たちを切り裂き、払い除ける。
 ラードルはナスターリアの手を引き、立たせた。ナスターリアのフードが取れ、豊かな赤毛が薄い白鉄の鎧に拡がった。その鎧の胸から腰にかけて腐肉がこびり付いている。ナスターリアは、鋭い舌打ちをして剣を構え直し、ラードルに向かって叫んだ。
「こいつはなんだ、いったい?」
「分からん。こんな生き物は俺も見たことがない。聖堂神殿がある聖地に、こういう化け物がいるはずはないんだが……」
 左手に持った松明で化け物の触手を牽制しながらラードルは応えた。
 化け物の背中から降りてきた屍人たちが次々とナスターリアたちを襲ってきた。腐敗し過ぎてただの肉塊になってしまっている者もいる。
 屍人たちは頭を切断されても怯まずに迫ってくる。ナスターリアは剣で屍人の脚を切断し動きを封じようとしたが、それでも這って近寄ってくるのだ。
「切りがないぞ」
 ラードルは屍人に戦斧を振るいながら言った。
 ナスターリアは、先の少年が襲われた光景を思い起こし、ふとあることに気付いた。あの積み上げられている腐肉が、こいつの餌だとすると……。
「ラードル、松明を!」
 松明をラードルの左手から受け取ったナスターリアは、屍人の攻撃を左右に避けながら化け物に向かって走った。触手が次々と伸びてくる。
 剣で触手を断ち切ったナスターリアは、そのまま化け物の前まで走っていき、大きく跳躍した。伸びてくる触手が一瞬ナスターリアを見失った。
 空中で体勢を入れ替え、化け物の背中に着地したナスターリアは腰の鞄から松脂の入った革袋を取り出し、中身を肉塊にぶちまけた。
 松明の火をこれに引火させると同時に再び跳躍し、化け物の背から飛び降りる。化け物の上部が炎に包まれ、化け物の悲鳴とも犠牲者たちの悲鳴ともつかぬ甲高い声が響き渡り、ナスターリアの肌に粟が立った。
 ラードルは腐肉の焦げる悪臭に顔を顰め、化け物を挟んでナスターリアの反対側に位置を移して戦斧を構えた。
 化け物の背中の肉塊は数十分にわたって燃え続けた。あれだけ堆積していた屍体が燃え尽きると、残されたのは乾いた甲虫の抜け殻のような本体だけであった。
 ナスターリアは裂帛の気合いとともに化け物に剣を叩きつけた。栄養源を失った化け物は、もはや干からびた抜け殻に過ぎず、真っ二つに切断された。真っ黒な煙が僅かに残った茶褐色の体液とともに化け物の身体から噴出し、あたりに四散した。ナスターリアは後ろに飛んでこれを避けた。残骸と化した化け物がもう動くことはなかった。
「ラードル、神殿に行ってみよう。何が起きたのか見届けておきたい」
 ラードルは戦斧を腰に納めながら頷いた。
 本来であれば、聖堂騎士の本拠地に乗り込むなど、今の自分の立場を考えるとやるべきではない。しかし、これだけの異変が起きているのに一人の聖堂騎士もいないというのはどうにも解せない。いや、もはや街全体が空っぽになっているといって良かった。
 ナスターリアとラードルは、蒼の泉から拝殿に続く広い階段を慎重に上がり始めた。依然として、辺りに生きている人間の気配はない。
 その階段を上り詰めたところに壮麗な門扉があった。
 ナスターリアはこれを少しだけ開いて拝殿の中を覗いたが、そのまますぐに扉を閉じた。滅多に顔色が変わらない彼女の表情が強張り、青白く見えた。
「どうした?」
 一歩後ろに下がったナスターリアに代わってラードルが前に出て、扉に触れた。ラードルのブーツが扉から漏れ出している血溜まりを踏んだ。ラードルは一瞬逡巡したが、思い切ってその扉を開いた。
 どろっ、と赤黒い塊が拝殿の中から流れ出た。白い大理石の壁は血飛沫で赤く染まり、床は五体がバラバラになって四散している屍体で埋め尽くされていた。その血と肉の海の中に無数の緑色の卵状の物が浮いている。
 先ほど倒したのと同じ昆虫のような化け物が数匹、祭壇を囲むように蠢いていた。祭壇の上には、それよりさらに二廻りは大きく、細長い身体に透明な羽を生やした別の化け物が見えた。巨大な排卵管のようなものが身体の端から突きだしており、そこから卵状のものが次々と産み出されている。
 祭壇の周りにいた魔物がラードルに気付き、血の海に浮いた肉を掻き分けながら拝殿の扉に近付いてきた。ラードルは押し出されてきた肉塊を押し込みながら扉を閉めた。
「これは、いかん。逃げるぞ」
 ラードルは呆然と立ち尽くすナスターリアを促して、神殿の階段を走り降り始めた。ナスターリアもそれに続く。
「いったい、カルサスに何が起きたというんだ」
 走りながらナスターリアはラードルに声をかけた。
「分からん。だが、恐らく、神殿の者共だけでなく、街の住民は皆、あの化け物に引っ張り込まれ、奴らの餌になったということだろう」
 ナスターリアとラードルは貧民窟が密集する断崖の小径を駆け上っていった。昼間は気温が上がるこの地域も、日暮れと共に気温は氷点下まで下がる。しかし、その凍てつく寒さにもかかわらず、ナスターリアとラードルの身体は汗ばみ、暑く火照ったままだった。
「何があったにせよ、とにかく、王都に急ごう。将軍にここで起きたことを報告する必要があるし、もしかすると戦略を一から練り直す必要があるかも知れん」
 ラードルが言った。ナスターリアは頷き、魔物から救えなかった少年の顔を脳裏から消そうと頭を振った。
 崖の上に到達したナスターリアとラードルは再び馬上の人となった。王都に向かい、乾いた大地を蹴って漆黒の荒野を駆けて抜けていった。

 北方の峻険な山岳地帯も、標高によって様々な表情を見せる。寒々とした針葉樹林を抜けて山を下るにつれて大地も灰色一色から茶色や緑色へ変化し、思わぬ景観が顔を覗かせてくれる。
 聖堂騎士ドルキン・アレクサンドルと修道女ミレーアは、貴族領主オードゥルンが治めるザルガース州に足を踏み入れつつあった。ザルガースはサンルイーズ山脈を北に望む湖水地方で、州の八割は湖で占められており、大小合わせると数百に上る湖が点在するといわれている。ザルガースには七聖堂神殿の一つ、サルバーラ神殿がある。
 ドルキンは、アムラク神殿の奥の院に奉じられていた神斧を背負い、黒い牡馬の背中に揺られながら湖畔を進んでいた。ミレーアの斑の牝馬がこれに続いている。
 透明な水面の上をダイアモンドの塵のように朝陽が踊る。水辺には背丈の短い淡緑色の植物が生い茂り、小さな黄色や白い花が咲き乱れている。美しい風景であった。
 この広大な湖は、マーレン湖という。徐々に強くなり始めた朝の陽射しを受けて湖面から水蒸気が立ち上り始め、湖畔は靄に煙っている。その向こうには針葉樹と広葉樹が混合した鬱蒼とした森が見えた。サルバーラ聖堂神殿は、この森を抜けた先の、イータル湖に浮かぶ島にある。
 ドルキンは、湖の水が広い範囲で侵潤しているその森に入った瞬間に嫌な予感がした。樹高が高く、山頂付近に比べると広葉樹が目立つこの森は、湿度が高いために常に霧が発生しており見通しが悪い。
「様子を見てきます。ここで待っていてくれますか」
 ドルキンは馬を下り、ミレーアに言った。ミレーアの口が開きかけた。
「分かっています。今度なにかありましたら、あなたを呼びます」
 ミレーアはフードを被ったまま頷いた。馬から下り、ドルキンと自分の馬の手綱を引いて蘚苔類に覆われた大きな岩の陰に入る。
 ドルキンは馬の鞍に差していた投擲ナイフを、いくつか自分の腰の革ベルトに移した。姿勢を低くして辺りの様子を窺う。
 霧が濃くなってきた。銀色の髭に小さな水滴が生まれ、みるみるうちに大きな水玉となって軽金と皮のブーツの爪先に落ちた。
 微かに人の気配がする。十人。いや、もう少し多い。だが、脅威となるほど近くにいるのは、三人、と見た。
 ドルキンは極力水音を立てないように、足を上げずにすり足で歩き始めた。ミルクを溶かし込んだような森の中を注意深く進んでいく。ドルキンでなければ恐らく方向感覚を失い、戻るべき道も見失ったであろう。
 左側で人が動く気配がした。低い水沈植物の葉が揺れ、濡れた苔が踏みつぶされる音がした。甲冑の金属板同士がぶつかる聞き慣れた重い音がし、霧の中から白金のプレートアーマーの姿が現れた。槍の穂先に斧頭、その反対側に鋭く尖った突起が取り付けられているハルバードを構えている。
 同時に背後で短く、ミレーアの叫び声がした。その瞬間、その聖堂騎士はハルバードを腰に乗せるようにして大きく旋回させ、ドルキンを真横に薙ぎ払ってきた。
 ドルキンは背中の斧を抜き、ハルバードの斧側の柄に近い部分に斧頭を添えるようにしてこれを受け流した。騎士の攻撃の勢いを利用して身体を入れ替え、その背後へ回る。そのまま、斧を下段に構えながら騎士の膝の裏を強く蹴った。騎士は膝を折る形で地面に俯せに倒れた。
 ドルキンは素早く膝で騎士の腰を踏みつけた。左手で兜を押さえ、騎士が水分を十分に含んだ林床で溺れないよう頭を傾けさせ、右手の斧を首元にあてがった。騎士の肺から息が絞り出される音がした。
 その時、霧の幕を潜り抜けるようにして複数の人影が現れた。聖堂騎士の装備を身に着けた騎士たちだ。ドルキンが脅威と感じた気配は、彼らのものであったようだ。
 聖堂騎士の一人が、重い柄頭と柄から成る大振りの打撃武器であるメイスを右手に持ち、フォーラ神の遣いとされる梟を意匠した紋様に飾られた盾を左手に構え、じりじりと近づいてきた。
 その後ろから、球状の柄頭に鋭い複数の棘を備えたモーニングスターを右手に持つもう一人の騎士が後ろ手に回したミレーアの手首を左手で握ったまま近づいてきた。
「ドルキン様、どうか抵抗なさらず、我々に同道いただけないでしょうか」
 モーニングスターを持った騎士が、姿勢を正しながら言った。
「マリウスか」
 ドルキンは騎士の兜を押さえていた手を緩め、斧を彼の首から遠ざけた。だが、まだ解放はしない。そして尋ねた。
「教皇庁の聖堂騎士が、なぜこんなところにいるのだ?」
 マリウスは、右手のモーニングスターを腰へ納め、装飾が施された円筒型の兜を脱ぎながら応えた。波打った長いダークブロンドの髪が汗に濡れている。
「ドルキン様を追ってアムラク神殿へ参りました。しかし、私たちが到着したときにはあなたの姿は既になく、あるのは累々と重なる神殿騎士と修道女の遺骸だけでした」
 マリウスは少し眉を顰めたが、すぐに表情を和らげて続けた。
「危うく見失うところでしたが、何とかお二人の痕跡を見つけ、後を追ってここまでやってきました。どうやら、師の教えを生かすことができたようです」
 ドルキンは苦笑いした。
「お前は私の弟子の中で、最も優秀だった。跡追の技術は私よりもお前の方が上だろう。だが、なぜ私の跡を追うのだ」
 マリウスの瞳に憂愁の色が浮かんだ。
「私たちは、カルドール枢機卿にあなたを捕縛するよう命を受けています。……聖下暗殺の罪と、神に対する背信の罪によって」
「何だって、私が?」
 ドルキンは驚愕したが、すぐに頭を振りながら言った。
「いや、待ってくれ、聖下が……暗殺された、と言ったのか?」
「やはりご存知ありませんでしたか……。あなたが王都を発った日、聖下は崩御されたのです」
「馬鹿な! 聖下は……」
 ドルキンは思わずミレーアを見た。ミレーアの顔から血の気が失われ、唇が微かに震えている。マリウスが手首を握っていなければ、その場に蹲ってしまっていたかもしれない。
「いったい、何があったというのだ」
 ドルキンは思わず拘束していた騎士を放り出し、激しくマリウスに詰め寄った。
 もう一人の騎士がメイスでこれを制しようとしたが、その瞬間、メイスを持った腕は逆手に絞りあげられ、その騎士の肩の骨が悲鳴を上げた。
「ドルキン様!」
 マリウスの呼びかけで我に返ったドルキンは、呆然と騎士の腕を手放した。自由になった騎士は、ドルキンの右手から神斧を取り上げた。ようやく身体を起こしたハルバードを持っていた騎士が、ドルキンの腹を柄で殴ろうと腕を振り上げた。
「やめろ!」
 マリウスは鋭く、その騎士を叱った。
「礼を失するな。この方は私の師匠でもあるのだ。無作法な振る舞いは私が許さん」
 騎士は慌てて武器を納め、頭を垂れて素早くマリウスの後ろに下がった。
 ドルキンは激しく頭を振り、血を吐くように呟いた。
「そんな馬鹿なことがあるはずがない……聖下が……フィオナが死んだ、だと……」
 しばし、沈黙が森の中を支配した。森の木々が囁くように葉を揺らしている。
 ドルキンは静かに頭を上げ、マリウスに向かって言った。
「フォーラの神に誓って言うが、私は聖下が崩御された事実を存じ上げなかった。ましてや、聖下を弑するなど、あり得ぬ」
「私も、ドルキン様がそのようなことをするはずがないとカルドール猊下に申し上げたのですが、猊下はドルキン様が聖下の崩御後すぐに王都を出奔したことが何よりの証拠だと。猊下はドルキン様が聖下と極秘裏に会われていたこともご承知でした」
「カルドール様は……猊下は誤解されておられるのだ。拝謁を願って私から直接ご説明申し上げる」
 ドルキンは声を絞り出すように言った。
「今、王都に戻ってはなりません」
 ドルキンとマリウスの間に割り込むように、ミレーアが手首を後ろ手に掴まれながらも強く訴えた。頬には赤味が戻ってきている。
「ドルキン様、フィオナ様の御宣託をお忘れですか? 今、王都に戻れば必ず囚われの身となりましょう。それでは、フィオナ様の御意に沿うことが出来ません」
「どういうことですか?」
 マリウスがミレーアに尋ねた。ミレーアは俯いた。
「聖下が私を召喚されたのは、フォーラ神の御宣託をお伝えになるためだった。その内容は我々二人限りという聖下の強いお言葉があったのでこの場では話せぬが、この国の存亡に関わるのだ」
 ドルキンがミレーアの代わりに答えた。
「御宣託の内容を私にお聞かせ願うことはできませんか?」
 マリウスはドルキンの眼を見た。ドルキンはその視線を正面から受け止めたが、静かに首を横に振った。
 マリウスはしばらく沈思し、ドルキンに言った。
「私は、ドルキン様がどのような方か良く存じ上げております。枢機卿猊下から追捕の命をいただいた際にも、その罪状についてはにわかには信じ難いものでした。私はドルキン様を信じ申し上げております。ただ、しかし、円卓の神殿騎士として枢機卿猊下から受けた命を反故にすることもできません」
「お前の立場はよく分かるよ、マリウス。私でも同じことを言うだろう」
 ドルキンは静かに微笑みながらマリウスを見つめた。
「王都に参れとは申しません。しかし、この近くにある聖堂神殿まで同道いただけませんでしょうか。サルバーラの枢機卿に立ち会っていただき、ドルキン様の無実を証明する手を尽くしましょう」
 公平な言い分であった。そして、ドルキンにもサルバーラに行かねばならない理由があった。ドルキンはミレーアに言った。
「この男は信頼して良い。ここはマリウスの言うことに従おう」
 ミレーアは無言であったが、表情には同意の色が見えた。マリウスは、二人の騎士たちに命を下した。
「サルバーラ神殿へ行く。アムラク神殿での件もある。警戒を怠るな。アルギール、後ろを頼む」
 マリウスはドルキンに向かって軽く頭を下げ、言った。
「ドルキン様、ありがとうございます。くどいようですが、決して抵抗をなさらぬようお願い申します」
「分かっている。弟子を裏切るようなことはしない」
 ドルキンは柔らかい笑みを見せて言った。

十一

「ファルカー、先頭を行け」
 マリウスは一人の騎士を先頭に立て、続いてドルキン、マリウス、ミレーア、そしてもう一人の聖堂騎士であるアルギールの順に森の中を進んだ。太陽が頭上近くまで上り、陽が射してきた。一行を包んでいた霧も次第に晴れていった。
 森を抜けたドルキンたちは、眼前に広がるイータル湖の異景に瞠目した。湖自体の大きさはマーレン湖ほどではないが、湖畔には真っ白な植物が群生しており、湖面も純白のシーツを敷き詰めたように乳白色に光っている。湖のほぼ中央に島があり、その周りを白い巨木が取り囲んでいた。それらがそれぞれ空に向かって伸びており、白亜の周柱に見えた。
 ドルキンたちはイータル湖畔に到着した。水深は非常に浅い。水面が真っ白に見えたのは、湖底に白い沈水性植物がびっしりと繁茂しているのが、水深が浅いために水面を白く見せていたものであることが分かった。
 先頭を行くファルカーが、メイスを構えながら静かに湖面に足を入れた。湖底の太い藻のような植物が柔らかく脚に絡み歩きにくい。
 ドルキンが湖に足を踏み入れた、その瞬間であった。ファルカーの叫び声が上がった。ドルキンは顔を上げ、ファルカーを見た。
 ファルカーの膝から下が真っ白に見えた。いや、足下から湖底の白い藻が這い上っているのだ。膝から腰が白く染まり、ファルカーはメイスを放り投げて両手で藻を払おうとした。
 それは、藻ではなかった。白い小さな蛇がファルカーの足下から続々と這い上ってきているのだ。白金の甲冑の隙間から次々と白蛇が侵入してくる。
 ファルカーは気が狂ったように腕を振り回し、甲冑を脱ごうとした。しかし、甲冑の中には既に白蛇が満ちており身動きができない。ファルカーの動きが止まった。
 兜と甲冑の間から白蛇が沸き、円筒形の兜に呼吸と視野確保のために開けられた穴から次々と白蛇が落ちてくる。ファルカーは動きを止めたままゆっくりと湖の中に倒れた。水飛沫が上がる。その姿は、白い苔に覆われた小山のように見えた。一瞬の出来事である。
「来るな!」
 ドルキンは自分に続き湖水に入ろうとしていたマリウスを制し、足下から這い上ってくる白蛇を、手に持った腰の投擲ナイフで切り刻んで払い落とした。切っても切っても這い上がってくる。切りがない。
 数歩湖水に足を踏み入れていたマリウスは慌てて岸に戻り、ソールレットからグリーブに纏わり付いている白蛇をモーニングスターで叩き潰した。何匹かは甲冑の中に侵入していたため、サーコートと甲冑を慌てて外す。リネンを幾層にも重ねて縫い合わせたキルト状のギャンベゾン姿になり、侵入してきた白蛇を払い落とした。
 ミレーアは蒼白な顔色で立ち尽くし、両手で唇を押さえている。肩が大きく震えていた。アルギールはミレーアの手を縛めることも忘れ、呆然とハルバードを両手に持ったまま、この光景を眺めていた。
 ドルキンの銀狼の革鎧には甲冑のように白蛇が這い入る隙間はなかった。ドルキンは背負っていた神斧を背中から抜いて足許に叩き付けた。
 足元に絡みついていた白蛇が水飛沫と共に散り散りに逃げていった。アムラク神殿に奉ぜられたこの大斧には、不思議な力が秘められているようだ。白蛇はこの斧を忌避し、斧が振り下ろされた場所から渦が拡がるように散っていくのだ。
 本来の湖底が見えた。ドルキンは白蛇が散った跡を辿って、岸辺に戻ってきた。
「大丈夫か?」
 マリウスは頷き、ドルキンに言った。
「これは……いったい……サルバーラに何が起きているのですか」
「説明は後だ。聖下の御宣託に関係があるとだけ言っておく。とにかく、神殿に向かおう」
 ドルキンはマリウスの手を引き、立ち上がらせながら言った。
「向かうと申されても、どうやって……」
 アルギールが叫ぶように言った。
「とにかく、甲冑を脱げ。それから、私が先頭を行く。この斧で白蛇を追い散らすから、その跡を辿って素早く私に続け。それから、念のためにこれを持っておけ。メイスやハルバードでは対応できない」
 ドルキンは三人に投擲ナイフを渡した。マリウスは一瞬躊躇したが、意を決したようにドルキンに言った。
「師よ、あなたの仰せの通りにしましょう。アルギール、松明を準備しておけ。蛇は火を嫌う。二人が逃走することはないと私が保証しよう。とにかく周囲への警戒を怠るな」
 アルギールは慌てて甲冑を脱いだ。松明に火を点け、荷物とハルバードを背負った。
 ドルキンは慎重に湖水に足を踏み入れた。白蛇たちが小さくうねってさざ波を作った。斧を両手で持ち、足許の水面に円を描くように払う。白蛇は斧の刃を嫌って四方へ散っていった。
 一行はドルキンの後に素早く続く。最後尾のアルギールは火の点いた松明で近づいてくる白蛇を牽制した。
 一行が湖中央の島に辿り着くまで十数分ほどであったろうか。結局水深はここまで変わらなかった。白蛇も島にまでは上陸してこなかった。
 ドルキンは注意深く島を観察した。上陸してみると、湖畔から見た時よりも大きく感じた。複雑に絡み合う白い巨木が島の中央まで続いているように見える。まさに自然が作り出した神殿であった。
「枢機卿は、神室がある島の奥の拝殿にいらっしゃるはずです」
 頬に生気が戻って来たミレーアは、島の中央を指さしながら言った。
「よし、行こう。だが、油断するな」
 ドルキンは神斧を両手に持ち、先頭を進んでいった。マリウスとミレーアがそれに続き、アルギールはしんがりを務めた。
 目の錯覚か?
 目の前にある白い巨木の太い枝が動いた。アルギールは思わず眼を擦り、その白い枝に触れた。
 アルギールの悲鳴にドルキンは振り返った。アルギールは腕から肩に掛けて白い巨大な枝に巻き付かれ、それを振り解こうとしていた。
 次いで、ミレーアの悲鳴が上がった。それまで白い巨木だと思っていた木々の枝が次々と白く太い蛇と化し、上から落ちてきた。ミレーアは数匹の白い大蛇に巻き付かれ、押し倒された。フードが外れ、プラチナブロンドの髪がこぼれた。
 ドルキンとマリウスは、素早く動いた。ドルキンは、ミレーアに巻き付き、胸から首にかけて締め付けようとしている白蛇の頭を左手で引き剥がし、右手の大斧でその首を断ち切った。鈍い音がして蛇が離れ、頭を失った胴体がのたうち回る。同じようにして脚から腰に巻き付いていた蛇を叩き斬る。
 マリウスはモーニングスターを握り、アレギールの首に噛みついていた白い大蛇の胴体を殴りつけた。鋭い棘で皮膚を引き裂かれた大蛇は、頭をマリウスに向けて威嚇した。その頭を叩き潰す。
「マリウス、切りがない、走るぞ!」
 ドルキンはミレーアを左手で抱きかかえ、大斧を右手に持って走った。
 マリウスはアレギールが事切れていることに気付き、強く唇を噛んだ。一瞬逡巡したが、アレギールの持っていた荷物とハルバードを取り、巻き付いてこようとする数匹の大蛇を躱し、ドルキンに続いて走った。
「拝殿だ!」
 ドルキンは、大きな波のように押し寄せてくる白い大蛇たちを大斧で掻き分けて叫んだ。マリウスも、ハルバードで大蛇を薙ぎ払いながら走ってきた。
 二人は拝殿の広い白亜の階段を駆け上って大きな扉の前で振り返り、それぞれ大斧とハルバードを構えた。無数の白い大蛇たちは階段の下で無念そうに蜷局を巻き、頭を持ち上げてこちらを威嚇している。だが、階段を登ってこようとはしない。
 ドルキンは抱えていたミレーアを拝殿の前に下ろし、マリウスの肩に手を添えた。マリウスの肩は震えていた。部下を失った哀しみが故だった。ドルキンは言った。
「勇敢な聖堂騎士だった。彼らは自分の義務を果たしたのだ」
「まだ若い未熟者でしたが、私にとってはかけがえのない者たちでした。ドルキン様、ありがとうございます」
 マリウスは、かつての師弟時代のようにドルキンに頭を垂れた。

十二

 ドルキンとマリウスは、拝殿に繋がる巨石の扉に向かった。体重を乗せ、二人で扉を押す。石が軋む大きな音がして、門が開いた。
 拝殿の中はひんやりとした空気と静寂に包まれていた。先程までの異変が嘘のようだ。中央の神室に向かってすり鉢状に灰色の石段が続いている。空間は思ったより広く、天井が高い。
 ドルキンは神斧を背負い、石段をひとつひとつ下りていった。ミレーアとマリウスがこれに続く。石段の途中、真ん中の辺りでミレーアが控えめな声で呼びかけた。
「猊下! バルカール猊下! おられますか?」
 サルバーラ聖堂神殿の主たる枢機卿の名を呼ぶミレーアの声がドーム型の天井に共鳴し、小さな細波となって響き、そして消えた。
 ドルキンは神室の前に立った。ミレーアに後ろに下がるよう右手で指示し、マリウスに眼で合図した。マリウスは頷いてハルバードを両手で構え、神室の扉を挟んでドルキンの反対側に立った。
 ドルキンは神室の扉に手を掛けた。思いのほか、音を立てずに扉が開く。薄暗い神室の中には、ひとつ、人影があった。床に蹲っているように見える。
「猊下」
 ドルキンはその人影に声を掛け、後ろから肩に触れた。枢機卿の正装を身に付けたその死骸はそのまま仰向けに倒れ、頭部が神室の扉から外に覗いた。
 ミレーアが短く叫び声を上げた。倒れた弾みに金銀の刺繍が施された高位司祭の帽子が取れ、その下から干からびたどす黒い、木乃伊のような相貌が現れた。
 ドルキンが枢機卿の屍体を検めようと手を伸ばした瞬間、大きな地響きが拝殿を包んだ。ミレーアは立っていられずに石段に座り込んだ。揺れは一段と大きくなり、ドルキンは慌てて神室から飛び出した。
 ドルキンが神室から飛び出すと同時に、大理石の神室を粉砕しながら、地下から巨大な白い影が沸き立つように眼前に現れた。その衝撃で石段に激しく身体をぶつけ、神室に向き直ったドルキンは、我が目を疑った。
 神室があった拝殿のほぼ中央に立ち上がったのは、背の高い女の姿だった。ただの女の姿ではない。全身が白い鱗で覆われている。上半身だけが人間の女の形をしていた。その長い髪は真っ白な無数の細い蛇でできており、頭頂部から腰にかけて無数に絶え間なく蠢いている。下半身は幾つもの太い尾に分かれ、それぞれの先端に大きな蛇の頭を持ち、それらが鎌首を上げて赤い眼でドルキンを睨み付けた。
 白蛇の魔物は大きく上半身を振った。頭部の長い白蛇が数十匹の塊となってドルキンを襲う。
 ドルキンは横に跳んでこれを避けた。蛇たちはドルキンが立っていた場所にぶつかって散り、再び集まって絡み合いながらドルキンの後を追った。
 ドルキンは竦み上がっているミレーアの手を引き、拝殿の外へ向かった。追いすがってくる魔物の尾をハルバードであしらっていたマリウスも、これに続いた。
 拝殿の外に出たドルキンは、白い階段の下がいまだに白い大蛇で満ちているのを見た。階段の途中で立ち止まり、後ろを振り返る。外に飛び出してきたマリウスを追って、魔物は何本もの尾で石扉を破壊しながら目の前に現れた。砕けた扉の破片がマリウスの背中に飛び散った。
 ドルキンは大斧を両手で構え、マリウスを追って背後を見せた白蛇の魔物の尾のひとつに叩き付けた。先端の蛇の頭が千切れ、千切れた頭がミレーアの目の前に転がった。ミレーアは座ったまま後退った。
 白蛇の魔物は他の尾を大きく震わせてドルキンを払おうとした。注意がドルキンに向いた瞬間に、マリウスがまた別の尾をハルバードで切断する。魔物が白蛇の塊をマリウスに投げつけた。
 まともにそれを食らったマリウスに蛇たちは絡みつき、マリウスは身動きが取れない。その彼を、尾の一つが襲った。下半身から胸部に向かって巻き付く。ドルキンはマリウスを助けようと近付いたが、他の尾たちがそれを許さない。マリウスの手からハルバードが落ちた。
 ドルキンは大斧を振るい、迫ってくる別の尾を叩き切った。切られた蛇の頭は独立した生き物のようにうねり、ドルキンの頭を狙って飛んだ。後ろにステップして辛うじてそれを避けたドルキンを、更にもう一つの尾が狙う。ドルキンの太腿に巻き付いた。
 白蛇の魔物は、マリウスの胴体とドルキンの脚を巻き締めたまま階段を下りていく。階段の半ば、彫刻が並ぶ手すり側に座り込んでいるミレーアを、尾の一つが威嚇した。ミレーアは動くことができなかった。
 魔物は階段の下に降り、白い大蛇たちが蠢いている一帯にドルキンとマリウスを放り込んだ。大蛇が待ちかねたように二人に殺到する。ドルキンとマリウスの姿が大蛇の群れの中に埋まり見えなくなった。
 ミレーアは震えながらも、口の中で神への祈りを唱えた。ミレーアの右手に淡いオレンジ色の光が生まれた。ミレーアはそれをドルキンとマリウスがいるはずの場所に向かって投げる。光は大蛇たちの中に吸い込まれていった。
 ミレーアの「神の祝福」は生命を生かし、回復することができる。しかし、攻撃したり破壊したりすることができないのだ。ミレーアが今できることは、ドルキンとマリウスが生きていることが前提だが、その彼らに対してダメージを和らげる祝福を与え続けることだけである。
 魔物は白蛇の髪を逆立てて振り返った。ミレーアに向かって階段を上り始める。下半身の、全ての蛇の頭がミレーアを威嚇し、耳障りな摩擦音を出した。ミレーアは思わず身震いして後退りした。
 ミレーアの細い首筋に魔物の尾が巻き付こうとした時、雷鳴が轟き大音響と共にその尾を雷が直撃した。大蛇の頭をした尾は吹き飛び、緑色の血と白い肉片がミレーアの頬と髪に飛び散った。
 深碧のローブを着、フードを被った小さな少女がいつの間にか階段の下に立っていた。丸く膨らんだ先端に蒼い大きな玉が埋め込まれている木の杖を両手でかざしている。彼女が呪文を詠唱すると同時にその周りに炎の柱が立ち上がり、白い大蛇たちが黒焦げになって吹き上げられた。
 少女の後ろから真っ白な塊が疾風のように飛び出し、ドルキンとマリウスに群がっている大蛇たちを蹴散らした。体長二メートルをゆうに越える巨大な狼だ。
 ドルキンは生きていた。
 大蛇の拘束から解放されたドルキンは、周囲を一瞥し状況を把握すると、地面に転がっている大斧を手にしてミレーアに迫っていた魔物へ突進した。尾の先端の蛇に斧を振り下ろす。魔物は大きく上体を揺らして白蛇の塊を投げ付けたが、ドルキンは横に身体を投げ出して避け、起き上がると同時にもう一つの尾に斧を叩き付ける。
 巨大な白狼もドルキンと反対側の尾に食らいつき、それを喰千切った。少女は階段の下に蠢いていた大蛇どもを炎の柱で一掃していた。そして、杖を頭上に掲げて白蛇の魔物に向かって呪文を詠唱すると、空には雲一つないというのに、再び雷鳴が轟いて天から雷光が走り、魔物本体の頭部を直撃した。ドルキンはそれがアムラク神殿で自分を救ったものと同じであることを悟った。
 さらにもう一本、尾の先にある蛇の頭を叩き切っていたドルキンは、魔物の背中に回り込んだ。両手で大斧を振り上げ、雷が走って縦に焦げて煙が上がっている背中に叩きつけた。斧の刃は魔物の背中から腹に達し、下腹部に食い込んで止まった。夥しい黒煙が吹き上がり、魔物はそのまま崩れ落ちた。
 ドルキンは大斧をその場に放り出して、マリウスに走り寄った。白蛇の魔物と大蛇に巻き締められたマリウスは微動だにせず、呼吸している気配がなかった。マリウスの胸に耳を当て心音を探る。
 フードを被った少女は、肩から斜めにかけた革袋から白い布を取り出し、ミレーアに近付いた。顔に付いた緑色の血を拭き取る。呆然と座り込んでいたミレーアが、ようやく我に返って少女を見上げた。
「ありがとう。あなたは……」
 少女はにこりともせず、「カミラ」と答えた。
 いつの間にかあの巨躯の白狼が、カミラと名乗った少女のそばに控えている。カミラは白狼の頭を撫でた。
「我らは『森の静者』。森と河の安寧を護る者」
「あなたたちが、森の静者? あの、ボードゥル戦争以来森深くに隠遁し、滅多なことでは姿を見せない……そして、この世の終末、禍いが地上を覆う時、その姿を現すといわれている?」
 カミラは小さく頷き、フードを取った。フードを避けた白い小さな梟が、肩の上で羽ばたいた。短い銀色の髪が軽く揺れる。
「地の奥深く封印され、忘れ去られた力が甦ろうとしておる。このままでは森も河も、生きとし生けるものが全て根絶やしになるだろう。この大地を護るために我らは遣わされた」
 軽やかな透き通った声だが、妙に古めかしい口調でカミラは言った。
 彼女の銀色に近い前髪は額に垂れて切り下げられており、後ろ髪は襟足辺りで無造作に切り揃えられていた。横に尖った耳が、猫のように動いた。
 森の静者はこの大陸の太古から存在する伝説的な一族で、かつてはファールデン王国の東に広がる森に数多く住んでいたと言われる。しかし、ファールデン紀五五〇年に勃発したボードゥル戦争でそのほとんどが殺され、それ以降その姿を見た者はほとんどなく、残っている文献も少ない。
 その寿命は長く、生き残った者は数百年にわたって生き続けていると言われる。ある者は彼らを小神族であると言い、またある者は人狼であるとも言う。カミラも少女に見えるが、実際のところ何歳であるかは分からない。
「聖堂騎士ドルキンの名は、我らにも聞こえておる。お前が、かつて斃した銀狼を覚えているか?」
 カミラは、マリウスのそばに跪いているドルキンに向かって声をかけた。
「……何十年前のことになるのか……王都の南の外れにある村を襲い、女子供をみな殺しにした狼か……。確かに、私が成敗した」
 ドルキンは動かなくなったマリウスの手を胸の前で組ませながら、呟くように答えた。その狼はまさに、今ドルキンが身に付けている革の鎧となった銀狼である。
「あやつは、この者の父親であった。歳を経て狂乱し、森の静者としてあるまじき行為に及んだ」
 ドルキンは白狼を見た。その瞳に一瞬哀しみの色が差し、消えた。白狼はドルキンに近付き、ドルキンの腕に頬を擦りつけた。ドルキンはその頭を撫でた。
「我らはお前に感謝しておるのじゃ。そして、この者も父に再会できて喜んでおる」
 ドルキンは白狼を優しく抱いてやった。そして、呟いた。
「アムラク神殿で私を助けてくれたのは、君たちか……」
 白狼は眼を閉じ、暫くそのまま佇んだ。
「ドルキン様、マリウス様は……」
 ミレーアに問いかけられ、振り返ったドルキンは哀しげに首を振った。
「私は、最高の弟子を失ってしまった……」
 ドルキンの瞳から頬に零れ落ちた涙を、白狼が舐めた。
 ミレーアは立ち上がり、倒れているマリウスに近付いていった。そして口の中で神の言葉を呟く。淡いオレンジ色の光がミレーアの手を静かに包み、ミレーアはマリウスの左胸にその手を置いた。
 マリウスの手が微かに動いた。ドルキンはマリウスの上体を起こして、支えた。
「マリウス! しっかりしろ!」
 マリウスは静かに眼を開けた。
「私は……一体……」
「フォーラの神の祝福だ。ミレーアがお前を取り戻してくれた」
「まだ無理をしてはいけません。もう少し時間が経っていれば戻ってくることはできませんでした。戦いの途中でかけておいた祝福の効果があったのかも知れません」
 ミレーアは、マリウスの額にも掌を当てて言った。
 ドルキンは深い安堵の息を吐いて、しばし神に感謝の祈りを捧げた。そして、ミレーアの腕にマリウスを任せると立ち上がって再び拝殿の中へ戻っていく。粉々に砕けた神室の正面にある祭壇に近付き、そこに納められた水晶の小剣を手にした。
 マリウスのところに戻ったドルキンは、アムラクの神斧を背負い水晶の剣を腰に納めた。
「もうすぐ夜になる。少し歩かなければならないが、いったん馬の所まで戻ってそこで今晩は休もう」
 ドルキンはマリウスに肩を貸して立ち上がった。来た道を、肩を並べて戻っていくその師弟のあとから、ミレーアとカミラが続く。白狼はゆっくりと尻尾を振りながら、ドルキンとカミラの間を行ったり来たりしていた。

第二部

十三

 人の囁く声がしたような気がした。エルサス・アルファングラムはアルバキーナ城の居館にある自分の寝室で眠っていたが、微かに聞こえる物音に目覚めた。
 この数日、深夜になってから怪しい物音を耳にすることが多くなった。最初は風の音か侍女たちが用を足す足音かと思っていたが、今、そっと頭を持ち上げて周りの様子を窺うと、エルサス付きの侍女たちは眠りこけて動く気配はなかった。
 エルサスは天蓋から垂れている華麗な刺繍が施された天蓋幕を捲って寝具を抜け出し、足を忍ばせて寝室を出ていった。囁き声と微かな物音は、ここ数日の間エルサスの眠りを浅いものにしていた。
 装飾窓から月の光がエルサスの相貌を照らし出した。まっすぐな短いブロンドの髪は母親譲りだろう。十一歳にしては強靱な顎、碧い瞳には一点の曇りもない。就寝時に履く寝室用の履物を脱いで左右の手に提げ、足音を立てないよう素足でゆっくりと歩いていく。
 今日こそ音の正体を突き止めようと、少年ならではの好奇心と探求心に突き動かされるように、エルサスは広い廊下を進んだ。右手の窓から射し込む月明かりが、左の壁に掲げられている王家代々の肖像に格子状の影を落としている。
 音は王妃の間から聞こえてきているようだ。その前に控えているはずの侍女も椅子に座ったまま意識を失ったように眠っている。エルサスは異変の兆候を感じ取ったが、好奇心の方が勝った。
 壁に顔を寄せ、侍女を起こさないよう細心の注意を払いながら壁伝いに王妃の間を覗いた。寝室の前でも、やはり侍女二人が肩を寄せて長椅子の上で深い眠りに落ちているように見えた。王子と王妃付の侍女は交代で夜を徹することになっている。普段であれば居眠りも許されない。
 異音は明らかに母后の寝室から聞こえてくる。王妃の間の扉を開いたエルサスは静かに扉を閉め、滑り込むように部屋に入った。
 王妃の間と寝室の間に扉はない。エルサスは天鵞絨の幕を捲り、そっと寝室を覗き込んだ。寝台は寝室の向こう側の壁に頭側の辺が接するように置かれている。エルサスは、その豪奢な寝台の上で白い肢体を露わにした母の姿を見て凍りついた。
 彼女の上で激しく律動し、乱れた長いブロンドの髪の間から覗かせている顔に見覚えがあった。いつだったか、父王の書斎前の石段の下で、母親が見つめていたあの男ではないか。
 男の動きが激しくなるにつれて母親の喘ぎ声も高まり、低い男の呻き声とその腕を噛んでも押し殺しきれずに漏れる彼女の叫びが交錯した。
 男が身を起こす気配がした。エルサスは辛うじて、居室の横にある次の間に転がり込むようにして身を隠した。両手で耳を塞ぎ、激しく頭を振った。言葉にはできない激しい感情が混ざり合って彼の小さな身体の中に満ち、うなじから電流が走って一瞬ブロンドの髪が逆立ったように感じられた。
 しばらくして身繕いを終えたらしい男は王妃の間を出て、密やかに大広間の方へ歩いていった。エルサスに気付いているのかどうかは分からない。
 エルサスは深呼吸し、震える身体を両手で抱き締めながらその男の跡を尾けた。男は居館の構造を熟知しているかのように迷いがなく、影のように館の中を歩いていく。
 男は大広間を通り過ぎ、普段人が出入りしない居館南西の端にある地下への扉を開けた。薄暗い階下へ下りていく。扉の前にいつも立っている衛士も壁にもたれ掛かるように座り込んでおり、意識を失い昏睡しているように見えた。
 居館の地下には、古来より使用されていた迷路のような地下道と地下室があり、その幾つかはかつて地下牢も兼ねていたと言われている。エルサスは父王から禁じられていたこともあり、まだそこへ入ったことがない。
 地上で館を照らしていた月明かりは、地下まで届かない。漆黒の闇に包まれているにもかかわらず、男は迷いもなく地下道を歩んでいく。
 エルサスの心臓が早鐘のように鳴っていた。自らを包む暗闇と黴びた匂いのする空気、そしてこの世に自分しかいないのではないかと思わせる静寂は、エルサスの燃えていた頭を少しずつ冷やしていった。
 突然、男が消えた。
 闇の中に溶けてしまったかのようであった。男の姿を見失い、我に返ったエルサスは自分のいる位置も見失った。
 エルサスは、数百年前に没した王や王族たちが自分を凝視しているような錯覚と恐怖に襲われ、思わず母の名を呼んだ。か細い声が、漆黒の地下道に反響し、そして闇に呑まれていった。
 男は錆びかかった鉄の鍵をゆっくりと回して錠を解き、古く傷んだ小さな扉を押した。扉は高い軋みの叫びを上げながら、ゆっくりと開いた。
 扉を閉じて鍵を掛け、石組みの螺旋階段を更に下っていく。男の影を、壁に架けられた松明が異形のもののそれのように細く長く落としていた。
 螺旋階段から更に三カ所、鍵のかかった扉と迷路のようないくつかの通路を経て、男は地下からその建物の中に入った。またもや螺旋階段があり、今度はそこを上がっていく。
 三階層上がった男は懐から取り出した鍵を鍵穴に挿し、金細工が施された扉を開けた。中に入ると、北側に据え付けられている巨大な暖炉で赤々と炎が瞬き、薪が小さく弾ける音だけがしていた。
 月明かりが縦長の窓から狭く射し込むその部屋は、高い天井が一面の絵画に覆われており、フォーラ神が泉の中で復活し人々に祝福されている様子が再現されている。壁には歴代の教皇の肖像画が飾られていた。
 ちょうど第二十六代教皇フィオナ・ファルナードの肖像画の下に天鵞絨の幕が吊られており、隣の部屋からの入り口になっている。その狭い入り口から背中の曲がった背の低い老婆が幕を干からびた手で捲り、教皇の居室に入ってきた。汚い灰色のフードとローブを身に付けている。
「少し、お遊びが過ぎるようだね」
 森の老木が軋むような声で老婆が言った。
「若い女の肉はいい。しかもあの女は王妃だ。何かと便利だろう」
 神殿の権威を象徴する建築的な意匠を施した大きな木製の飾椅子に深く腰を沈め、枢機卿カルドール・ハルバトーレは呟いた。豊かな癖を持った黒髪がみるみるうちに薄くなり、王妃を抱いていたときには刃物のように研ぎ澄まされていた身体の線も、あっという間にぶよぶよと崩れた。
 その相貌は先ほどまでの枢密院議長、ダルシア・ハーメルのものではなく、湿った黒く長い髭に覆われた下膨れの顔に戻っており、老婆を見返す眼は灰色に濁っていた。眼の下の大きな隈がその相貌を一層陰湿なものにしている。
「アマード王に昔日の勢いはない。今や実質の王権を動かしているのはあのダルシアという小僧だが、それも既に我々側に取り込んだ。いずれ利用価値がなくなれば、あの女もフォーラの神の贄とすればいい」
 カルドールは彫刻が施された袖机からイール酒の瓶を取り出し、そのまま喉を鳴らして飲んだ。口の端から琥珀色の液体が零れ落ち、ガウンの襟を濡らした。
「フォーラの女神は、男を知らぬ乙女しか受け付けはせぬよ」
 老婆が乾いた声で言った。
 カルドールは鼻を鳴らし、口の中でくぐもった笑い声を上げ、老婆を見据えた。
「それにしても、フォーラ神の呪詛の力というのは凄まじいものだな。神の祝福は生命を燃やし生かすことが出来るが、呪詛はそれを凍らし破壊することが出来る。意思の弱い人間の心を操ることも、姿を思いのままに変えることも児戯に等しい。この力があれば、この国を大きく変えることが出来る」
「フォーラ神はもともと双生神なんだよ。二神にして一神。一神にして二神。いずれを欠くことも出来ない絶対の存在なんだ。歴史の闇に埋もれてしまっているだけで、どちらも力を失ってはいない。勝手にお前達が片方を忘れ去っていただけさ」
 老婆は耳障りな甲高い声で笑った。カルドールは蝦蟇のような顔を歪め、勢いを増した炎をじっと見つめた。
「件のドルキンとかいう聖堂騎士と『身世代』が一緒にいる、という情報は間違いないんだろうな?」
 カルドールは炎を見つめたまま言った。
「教皇候補となる乙女たちは、みなアムラク神殿で身を浄めるのじゃ。その聖堂騎士とミレーアがアムラク神殿に向かったことは私の卦にもはっきりと出ておる」
 老婆の声は擦れていたが、その声音には確信が感じられた。
「なんとしてでも、身世代の身柄を確保しなければならん」
 カルドールは独り言を言うように呟いた。
 次期教皇候補となるアムラク神殿の修道女は六人いたが、そのうちフォーラ神から啓示を受けた乙女は一人のみであった。エレノアという名の、バーデン州貴族領主ファーガソン・フォルバーレの末娘であった。ファーガソンはカルドールが買収していた貴族のうちのひとりだった。その娘が啓示を受けたと聞いたカルドールは自分の勝利を確信したのだった。
 しかし、その娘が教皇フィオナの崩御と前後して行方が分からなくなっている。身世代がいなくては教皇を立てることができない。神の呪詛の力を取り込んだカルドールにとって無垢の娘を意のままにすることなど容易い。王権を排除して国家権力を神の名のもとに統合し、この手に握るための正統性の証でもある。
「四十年ほど前にもこういうことがあったね」
 老婆は天鵞絨の幕の向こうにゆっくりと消えながら言った。
「あの時は啓示を受けた身世代は二人いたが、今回は一人しか居ないのだ。なんとしてでも見つけなければならん。既に聖堂騎士らと『宵闇の刃』に後を追わせたが、お前の力を以てしても居場所を見通すことはできんのか?」
 老婆から答えはなかった。
 カルドールは軽く舌打ちを鳴らし、忌々しげに天鵞絨の幕を睨み付けた。そして立ち上がると、勢いを失った暖炉の火に飲み残しのイール酒を注いだ。炎は魔物のように撥ね、勢いを取り戻した。

十四

 アルバキーナ王城から続く広大な石の屋外階段は、王の居館の二階にある大広間の入り口まで続いている。王子エルサスは、その居館の西に拡がる地下迷路の一室で蹲っていた。
 錆びた鉄格子の扉は既に動かない。窓もないその部屋の、石で組まれた冷たく湿った壁には鉄の輪と、それに繋がった朽ちかけた鎖が無造作に転がっており、かつては人が囚われていたことを窺わせる。
 冷たい床に座り込んで、どのくらい時が経ったであろうか。膝まである前開きの白い絹のシャツを着、裸足でしばらく座り込んでいたエルサスであったが、暗闇に目が慣れてくると恐怖感も薄れ、周りの様子を見る余裕が出てきた。
 耳を澄ませてみると、この地下迷路も完全な静寂というわけではなかった。微かにどこからか吹いてくる風の音と鼠の鳴き声、そして何人かの人々が秘かに囁き合うような声とも音ともつかないものが耳に届いた。
 エルサスは立ち上がり、壁に身体を寄せるようにして音がする方向へ歩いていった。一度恐怖が去ると、むしろ冒険に対する期待感の方がそれを上回っていた。ましてや父王アマードは決してエルサスを甘やかしていたわけではない。既に後継者として帝王学教育を始めていたし、剣術と馬術については専門の教師を付けていた。年齢から来る精神的なひ弱さは、いずれ経験が克服してくれる。
 何度も石壁に突き当たっては角を曲がり、手探りで地下道を進んでいたエルサスは、前方に木製の頑丈な扉を見つけた。鍵は付いていない。扉の隙間から微かに灯りが漏れているようだ。人が囁くような音はこの扉の向こうから聞こえる。
 エルサスは全ての体重をかけ、両手で少しずつ重い扉を押して開き、半分開いたところで部屋へ身を滑り込ませた。中に入ると、扉は自らの重みで勝手に閉まってしまった。エルサスは慌てて扉を開けようとしたが、内側に把手がないため、体重をかけて引くことができない。重い扉はびくともしなかった。
 エルサスは扉を背にして目を凝らした。奥に細長く広がっているように思えるその部屋は、足元は真っ暗であったが、壁に掛けられた蝋燭の炎で奥がかろうじて見える。エルサスは微かにちらつく蝋燭の灯がある方へ、足で床を探るようにして進んでいった。
 突然、甲高い子供の叫び声がした。啜り泣くような声も聞こえる。
 部屋の奥で蝋燭の灯に映し出されたのは、エルサスと同じくらいか、もっと歳下の少女たちの姿であった。皆、一糸纏わぬ状態で蝋燭の灯の下に身を寄せあって蹲っている。
「君たち、どうしたの?」
 エルサスは囁くように声を掛けたが、少女たちの反応がない。よく見ると、少女たちは死んだ魚のようにうつろな眼をしており、何人かは口からよだれを垂れ流している。彼女らの口からは独特の薬草のような匂いがし、それをかいだエルサスの頭もふらふらしてきた。少女たちは何か薬のようなものを飲まされているようだ。
 エルサスは反応のない少女たちをそのままにして先に進んだ。突き当たりの扉に鉄格子の窓が、ちょうどエルサスの眼の位置にある。叫び声と啜り泣きはこの向こうから聞こえてきた。
 格子窓からその部屋の中を覗いたエルサスは、息を呑んだ。
 部屋の中央には少女が三人天井から吊り下げられている。三人とも両手を枷のようなものに戒められ、天井からぶら下がっている鎖にその枷が引っかけられているようだ。
 それほど広くない部屋の四隅には、赤黒い三角のフードとローブを着た人影があった。中央にぶら下げられている少女の前に同じ服装の人影が立っており、左手に梟の飾りの付いた錫杖を、右手に鋭く湾曲した刃の剣を持っている。いずれもフードの陰に隠されて顔が見えないが、体格から判断して大人の男だろう。
 少女の胃の辺りが切り裂かれており、深紅の臓物が露出していた。錫杖を持った男は少女の臍のあたりに剣を差し込むと、さらに縦に引き裂いた。悲鳴が上がらないということは、その少女は既に絶命しているのだろう。啜り泣きはその左右に吊り下げられている少女たちのものであった。
 男は錫杖を祭壇の脇に置いて、代わりに大ぶりの杯を左手に持った。右手の剣で少女の下腹部から赤黒いものを切り出すとその杯に載せ、祭壇に戻して錫杖を大きく左右に振り、どこの言葉か分からない呪文のような言葉を繰り返した。祭壇に祀られた神像の前にある大きな篝火の炎が勢いを増し、天井まで炎が立ち昇った。杯はあと二つあった。残りの二人の少女も同じ運命を辿るのだろう。
 エルサスはこの凄惨な光景を目の当たりにして頭に血が上るのが分かった。怒り、恐怖、そして嫌悪。何故かあの母親の部屋で見た光景とイメージが重なり、激しい眩暈に襲われた。エルサスはその場に胃の中のものを吐いた。吐くものがなくなっても、胃液を吐き続けた。
 エルサスの吐瀉の音に気付いた祭壇の男たちは、エルサスが覗いていた扉に駆け寄ってきた。エルサスは慌てて引き返そうとしたが、胃はひっくり返ったように痙攣し続け、動くことができない。扉が開き、三角フードを着た男にエルサスは右腕を掴まれた。
 その時、エルサスは、自分でも信じられない行動に出た。胃液をまき散らしながら、エルサスはその男に体当たりして突き飛ばすと、そのまま神像が置かれている祭壇に向かって走った。何故そうしたのか、後で考えても分からなかった。
 エルサスはそのまま祭壇に突っ込んだ。神像が吹き飛び、祭壇が壊れた。少女の臓物が入った杯の横にある強烈な刺激臭のする油状の液体が辺りに飛び散った。フードを着た男たちに付着する。
 祭壇の蝋燭の火が液体に引火し、一瞬にして部屋が猛火に包まれた。火は男たちを呑み込み、更に腹を割かれた少女とその横に吊り下げられている少女を包んだ。少女たちにはその液体が身体に塗り付けられていたらしい。
 少女たちの絶叫と男たちの苦悶の叫び声が交錯した。業火と化した炎がエルサスにも迫ってきた。
 炎がエルサスを呑み込む前に、エルサスは祭壇の後ろの床に開いている穴を見つけた。選択の余地はなかった。エルサスがその穴に飛び込むと同時に炎が部屋全体を覆い尽くした。エルサスはそのまま急勾配の坂を転がり落ちていった。エルサスの悲鳴が穴の中に木霊し、そして消えた。
 教皇庁の地下深くにある古い獄舎には、昼間でも明かりが射すことがない。かつては異教徒や背信者が繋がれた牢獄の冷たく湿った石の壁と床は、そこに幽閉された者の心も身体も凍てつかせたことだろう。
 狭い牢に閉じ込められた少年たちは、身体を寄せ合ってその寒さに耐えていた。教皇庁から、王都とその近郊の村に住む子供たちに召喚令が届き始めたのは教皇が崩御してすぐのことであった。召喚された子供たちは少年と少女に分けられ、この牢には少年のみが収容されている。
 ふと、暗闇の中に微かな灯りが揺れた。脚を引き摺るような足音が近付くにつれてその灯りが次第に明るさを増し、それは老婆が手にしている松明の灯りであることが分かった。
 老婆は錆びた鉄格子の牢の前に立ち、松明を顔の前に掲げて少年たちを見渡した。汚れた茶色のフードを被っているので、老婆の表情を少年たちから窺うことはできない。
 老婆に付き従っていた二人の男のうち、背が低く太った男が牢の鍵を開けた。軋んだ嫌な音を立てて錠が開き、その男は牢内に入った。少年たちを扉から遠離らせる。老婆も太った男に続いて中に入った。もう一人の背の高い男は、牢の前で周囲を警戒している。
 老婆が数人の少年を指差し、太った男が指差された少年たちの手枷に鎖を通して数珠繋ぎにした。少年たちは空腹と疲労のためか、殆ど抵抗を示さなかった。目は虚ろで顔に精気はなく、太った男に引き摺られるようにして牢の外に出る。
 老婆を先頭に太った男が少年たちの鎖を引き、背の高い男が少年たちのあとに続いた。暗く狭い通路を、老婆と背の高い男が持った松明が鬼火のように揺れながら進んでいく。
 老婆は勾配の強い石造りの螺旋階段を昇り始めた。少年のうち何人かが段差に脚を躓かせて転びそうになるのを、太った男は鎖を引いて無理矢理起き上がらせた。
 螺旋階段の行き着いた場所には大聖堂に続く木の扉があり、老婆は鉄の輪でできた把手を引いてその扉の中に入った。少年たちと二人の男もその後に続く。
 教皇庁、即ちアルバキーナ聖堂神殿の大聖堂の中は、地下牢の冷たさが嘘のように蒸し暑かった。空気は水蒸気をはらみ、ねっとりと肌に纏わり付く。
 背の高い男と太った男は、毛穴が全部開いたかのように吹き出してくる汗を拭いもしない。濃い朱の革の鎧に水滴が張り付き、足元に滴り落ちた。少年たちも額に玉のような汗をかき、髪の毛が突然の雨に降られたかのように濡れて縮んでいた。
 老婆は大聖堂の奥にある拝殿へ向かって歩いていった。本来であればそこにはフォーラの神を奉る祭壇があるはずであった。しかし、その祭壇があるはずの場所から大聖堂の中央部に亘って、巨大な赤黒い肉塊が小山のように横たわっていた。
 老婆はその分厚い肉の壁の近くまで行き、フードを取って顔を上げた。饐えた汗の匂いと、肉の腐臭が鼻についた。
「新しき血と肉をもって御身を復し、幼子の魂をもってその呪いを還らせたまえ」
 老婆が「神の呪詛」の言葉を吐くと、鞴を鳴らすような音とともにその肉塊は歓喜の声を上げた。ぬめぬめと濡れた肉の襞がゆっくりと開いていった。
 少年たちを繋ぐ鎖を持った太った男は少年たちの手枷を外して一人ずつ服を剥ぎ取り、その肉襞の前に少年を立たせた。少年たちは朦朧とした意識の中で男のなすがままであったが、肉塊が少年を包んだ瞬間、正気に戻って叫び声を上げた。声はすぐに遮られ、肉塊は次々と少年たちを呑み込んでいった。
 背の高い男はそのおぞましい姿に耐え切れなくなったのか、目を背けて額の汗を拭った。太った男は恍惚とした眼をして、少年たちが肉塊に摂り込まれているのを眺めている。
 少年たちを全て呑み込んでしまうと、肉塊はその内側からあたりに響き渡るげっぷのような音を立てて大きく震え始めた。酸が肉を焦がすような刺激臭があたりに拡がった。
 老婆は満足げに頷くと再びフードを被り、脚を引きずりながら二人の男たちとともに、再び地下道へと戻っていった。

十五

 しばらく意識を失っていたようだ。エルサスは炎に焦がされ痛む背中をかばいながら身体を起こした。
 自分の身体の上にあるものに気付いて慌てて立ち上がろうとしたが、あたりに散乱しているそれに躓き、その弾みで隣にも転がっているその物体に顔から突っ込んでしまった。
 その部屋は恐らく、生け贄の儀式が終わったあとの屍体を始末する専用の部屋なのであろう。既に白骨と化した屍体や乾いてミイラ化した屍体、そしてまだ肉片が残っており白い小さな虫が群がっている屍体が無数に積み重なっていた。さまざまな長さと色の髪の毛が辺りに散乱している。その部屋に満ちている強烈な死臭に、エルサスは先ほどとは異なる、純粋な吐き気を催して更に胃液を吐いた。
 しばらくして胃液すら吐き尽くし、完全に吐くものがなくなったエルサスはようやく胃液と涙にまみれた顔を上げた。臭いにも鼻が慣れてしまい、感覚も麻痺してきた。周りを見渡すことができるようになったエルサスは、身体に絡みついている死骸の肉片をはたき落として、屍体が起き出してくるのではないかという恐怖と戦いながら屍体の山から抜け出した。
 エルサスが落ちてきた場所の反対側に窓のない木製の扉があった。その扉に向かって左側の燭台には火の点いた蝋燭が挿さっていた。エルサスは散乱している屍体を極力避けながら蝋燭に近付き、燭台ごと蝋燭を手にした。
 扉の鉄輪の把手をゆっくりと引っ張ってみた。扉は開いた。
 エルサスは半分開いた扉の陰から外をそっと覗いた。目の前に四角い石が敷き詰められた廊下が続いており、その左右には鉄格子が嵌められた小さな窓のある扉が並んでいる。所々にしか燭台には蝋燭が灯されておらず、その廊下がどれ程長いのか、部屋が幾つあるのかはここからは分からなかった。
 不意に鍵を開ける音がして、並んでいる部屋のうちの一つの扉が開いた。エルサスは扉の陰に顔を隠し、扉を細めに開けて外の様子を窺った。
 扉から出てきたのは、腰の曲がった老婆であった。薄汚いローブを着ており、フードを目深に被っているため顔は見えない。扉に鍵をかけ、エルサスがいる部屋とは逆の方向に脚を引きずりながら歩いていく。
 エルサスは老婆の姿が見えなくなるまでその場で待った。扉が軋んで開く音がし、次いで静かに閉じる音と鍵を掛ける音が聞こえた。エルサスはその場でしばらく様子を見た上で、再び扉をそっと開けた。
 老婆が出てきた扉は手前から五つ目の部屋のものだ。素足のエルサスは湿って滑りやすい石の廊下を、ゆっくりとその扉に向かって歩いていった。
 部屋の前に立ったエルサスは、扉に嵌められた鉄格子の窓を見上げた。中を覗き込むには身長が頭ひとつほど足りない。
 エルサスは屍体が散乱した部屋に戻り、改めて中を見回した。扉の右手に積み重なっている屍体の下に、木製の小さな椅子があった。手に取ってみると脚の部分が腐っており手荒に扱うと折れそうであるが、まだ使えそうだ。
 エルサスは老婆が出てきた部屋の前にとって返し、その椅子を扉の前に置いて壊れないよう慎重にその上に乗った。ちょうど目の位置が鉄格子の窓の下から少し上に達した。部屋の中は真っ暗であったが、エルサスが蝋燭の灯った燭台を顔の横に翳すと、部屋の中から声がした。
「誰?」
 少女の声だ。ここにも捕らわれた少女がいるのだろうか? だが、この少女はちゃんと声を出した。エルサスは一瞬うろたえ、その拍子に乗っていた椅子の脚が外れて壊れた。部屋の中が見えなくなった。
「あ、僕、いや、私の名はエルサス。君は?」
 ためらう気配がし、しばらく沈黙したあとに少女が応えた。
「エレノア」
「エレノア……。君も他のみんなのように捕まってしまったのかい?」
「他のみんな? いえ、私、アムラク神殿にいたの。時間がどれだけ経ったのかもう分からないけれど、みんな殺されたわ。私ももう駄目かと思った」
「アムラク神殿ということは、君は修道女なのかい? 神殿にいた神殿騎士たちはどうしたの? 君たちを護るのが仕事だろう」
 再びしばし沈黙したエレノアは、か細い震える声で応えた。涙ぐんでいるように聞こえた。
「赤い……赤い革の服を着た人たちが、突然襲ってきて……炎の……炎の魔物が……」
 こらえ切れずに啜り泣き始めたエレノアに、エルサスは慌てた。
「しっ、泣かないで……何とか……うん、何とか助けてあげるから」
エルサスはエレノアを慰めようと、扉の外から囁いた。確かに、先ほどの少女たちとは違うようだが、ここにいる以上安全であるとは言えない。
「本当に?」
「うん。だから泣かないで。必ず助けに戻ってくるから、このまま待っているんだよ?」
「はい……」
 エルサスは扉から離れ、老婆が姿を消した扉に向かって静かに歩き始めた。耳に全神経を集中する。
 扉一つ一つに耳を付け、部屋の中の様子を探る。何れも人の気配はなかった。
 部屋は二十あった。扉を一つずつ開けてみる。鍵が掛かっていない扉は三つだけだった。どれも部屋と言うよりは独房と言った方が正確だ。
 エレノアが囚われている独房の隣にも鍵が掛かっておらず、扉が少し開いたままであった。エルサスは、そこに入って死角となっている扉の陰に隠れてじっと待った。
 何時間経過したであろうか。微かに聞こえた扉を開ける音に、エルサスは我に返った。いつの間にか眠り込んでしまったようだ。王宮の寝室を出てから短時間の間に思いもかけぬ出来事が次々と起こり、長時間緊張を強いられていたためであろう、疲れが出てしまっていた。エルサスは慌てて身体を起こした。
 扉を開けたのは先の老婆ではなかった。ボロボロのローブを着た、ずんぐりとした背の低い男がエルサスの潜んでいる扉の前を通り過ぎていった。エレノアに食事を持ってきたようだ。
 男はエレノアの部屋の前で立ち止まると辺りを見回し、しばらくそのまま聞き耳を立てた。何も異常がないことを確認すると自ずと忍び笑いが漏れた。
 男は慌ただしく鍵を開け、扉をそのままにして中に入った。扉が開いたままなので、部屋の前にある燭台の蝋燭の灯りが部屋の中を照らし、藁で作られた簡素な寝台の上に座っているエレノアを映し出した。
 漆黒の長い髪が細い腰の辺りまで真っ直ぐに伸びており、真っ白な肌が薄暗がりに寧ろ映えていた。眉の辺りで切り揃えられている前髪の下に星を湛えた闇夜のような瞳が大きく輝いていた。整った柔らかな輪郭に縁取られた頬は監禁されているにもかかわらず健康的な桜色を保っており、淡い紅の唇から覘く歯は真珠のようであった。男は思わず生唾を飲み込んだ。
 男は運んで来た茶色の粥状のスープを、扉の横にある木製の古びた棚の上に載せた。エレノアを上目遣いに見、薄ら笑いを浮かべながら寝台に近付いていった。エレノアが顔を背けた。
 男は垢にまみれた右手でエレノアの髪を弄った。そして顔を近付け、勿体ぶるように囁いた。生臭い息がエレノアの頬にかかる。
「今、誰もいないんだ。婆さんも見張りの奴らも。俺たち二人だけだ」
 思わず立ち上がり、男から逃れようとしたエレノアの腕を、男が掴んだ。そのまま押し倒そうとする。悲鳴を上げようとしたエレノアの口を、男が左の掌で塞いだ。
 隣の独房から足を忍ばせて背後に近寄っていたエルサスは、男の腰に差してあった棍棒を素早く抜き取った。驚愕して振り返ろうとする男の横っ面に両手で握り締めた棍棒を叩き付けた。男はスープを置いた棚に激しく顔を突っ込み、頭から吐瀉物のようなスープを被った。
 エルサスは棍棒を再び振り上げ、体重を乗せてその男の頭を真上から殴り落とした。頭蓋骨が潰れる鈍い音がする。男の耳の穴から血が垂れ、一度大きく痙攣した後動かなくなった。エルサスは棍棒を振るい続けた。いつしかそれが、母の寝室で見た男の姿とだぶっていた。
 鈍い音を立てて棍棒が根元から折れた。
 エルサスはようやく男を殴るのを止めた。肩で大きく息をしているエルサスの、白いシャツの前が真っ赤に染まっている。振り返ったエルサスの姿を見て、エレノアが手を唇に当てて小さく声を上げた。
 我に返ったエルサスは、棍棒を握りしめていた指を左手で一本一本外さなければならなかった。折れた棍棒を投げ捨てたエルサスは、エレノアの手を取って言った。
「逃げよう。ここにいては駄目だ。こいつがさっき言ってたろう。あの婆さんも見張りもいないって。逃げるのは今しかない」
 白いワンピースの修道服に白い毛織のブーツを身に付けているエレノアは少し後退ったが、エルサスに圧倒されるように頷いた。
「ここでちょっと待ってて。様子を見てくる」
 エルサスは倒れている男の服をまさぐった。鉄の鍵束が腰のベルトにぶら下がっていた。これを奪って、男が入ってきた扉へ向かう。扉は閉まっていなかった。
 その殺風景な部屋には大きめの木のテーブルと使い古した椅子が三脚置いてあり、壁には灰色のフード付きローブが掛けてあった。正面にこちら側と同じような扉がある。部屋に入ったエルサスはその扉に近付き、鉄輪の把手を握って引いてみたが、扉は開かなかった。男から手に入れた鍵を試してみる。三本目の鍵で錠が開いた。
 エルサスは振り返り、ローブを壁のフックから取った。ローブの下に剣が立て掛けてあった。
 エルサスはローブを頭から被り、剣を手にとって鞘から抜いてみた。あまり手入れはされていなかったが、武器としては十分通用する物であった。そのままではローブの裾が長すぎるので、腰の辺りで三回ほど折り込んで腰紐で強く留めた。そこに剣を差した。
 エルサスはエレノアのいる独房に戻り、その手を引きながら言った。
「鍵が開いたよ。こちらから出られそうだ」
 エルサスは錠を開けた扉の前に戻ると、これを静かに開けて様子を窺った。人の気配はない。地下の迷路を抜け出す自信はなかったが、とにかくここから逃げなければ。
 エルサスは剣を右手に握りしめ、エレノアの手を左手で引いて先に進んだ。
 エレノアは一瞬躊躇して独房の方を振り返ったが、意を決したように修道服に付いたフードを被り、エルサスの後に続いた。
 エルサスは出てきた扉に鍵をかけた。彼は今まで感じたことのない高揚感と充実感に包まれており、不思議な自信に満ちていた。エレノアを助けるためであれば何でもできるような気になっていた。エレノアが、とても大事なもの、何よりも大切なものに思えてきたのだった。
 エルサスたちが地下獄舎を脱出して間もなく、牢へ繋がる見張り部屋の鍵が開けられ、老婆と三人の朱色の革鎧を着た男たちが入って来た。
「なんてことだよ。フォーラ神の儀式の間を焼いてしまうとは。おかげで娘たちを何人も死なせてしまったじゃないか。乙女の証を持つ娘は貴重なんだ。最近の司祭たちは自分の愉しみのために儀式をするから困る。あのカルドールといい、愚かな連中さ」
 老婆が掠れた声で独り言のように呟いた。そして見張り部屋に誰もいないことに気付くと、辺りを見回しながら叫んだ。
「ゴーガル! ゴーガルは、どこだい?」
 老婆は舌打ちをしながら牢へ向かった。
 薄汚れたフードを目深に被った顔を上げ、エレノアがいたはずの牢の扉が開いているのを見た老婆は、見かけに似合わない敏捷さでその独房に駆け込んだ。三人の男たちもその後に続いた。
 息を呑む声が聞こえた。そして、一瞬の間をおいて男たちが部屋から飛び出してきた。その背中に向かって老婆は叫んだ。
「身世代、身世代を探すんだ! 逃がすんじゃないよ!」
 その場で男たちの足音が遠ざかるのを確認した老婆は、フードを取った。ひとしきり獄舎を歩き回り、エルサスとエレノアの痕跡を検めた。そして、再びフードを被ると何度か深く頷いた。

十六

「ナーニャ様、早く、早く!」
 軽やかな少女の声が白樺の林に響いた。
 鵜の月、初夏の緑は目に鮮やかで、太陽の光が降り注ぎ群青色に輝く湖畔の丘一面に薄黄色の花が咲き乱れていた。
 少女は白樺の木に手を掛けてその周りを回った。白いローブの下に白いワンピースの清楚な修道服を身に着けており、フードを外した長い黒髪が爽やかな風に舞った。その後をもう一人、同じ服装をした少女が追う。この少女はフードを被ったままだった。
「アナスタシア、待って!」
 アナスタシアと呼ばれた少女は立ち止まって振り返ると、細く白い腕を追いかけてきた少女に向かって差し出した。息を切らして追いついた少女は、その手を握って微笑んだ。
「フィオナ、あなたは身体が強くないのだから、走っちゃだめでしょ」
 アナスタシアは悪戯っぽく笑い、フィオナを引き寄せてその胸に耳を当てた。動悸が激しい。
 アナスタシアは左手でフィオナのフードを取り、右手で背中を優しく摩った。フィオナの淡いブロンドの髪が肩の辺りまでこぼれた。
「だってアナスタシアがそんなに走るから!」
 フィオナは頬を膨らませてアナスタシアに抗議した。アナスタシアはその頬を指でつついた。ようやく、初老の修道女であるナーニャが二人に追い付いてきた。
「アナスタシア様、修道女ともあろう者がそんなに走ったりしてはいけません!」
 ナーニャは荒い息を落ち着けながら、何とか威厳を保とうと錫杖を胸の前に持ち、フォーラ神への祈りの動作を見せた。
「いいのよ、私は修道女なんかにならないの。神殿騎士、いいえ、聖堂騎士になるのよ!」
「またそのようなことを……。お二人は身世代としてアムラク神殿にお仕えする身なのですよ! 今日は教皇聖下の御印綬を枢機卿猊下から頂かねばならないのですからね」
 不意にナーニャの後ろに黒い影が立ち上がったのを見て、フィオナが叫び声を上げた。振り返ったナーニャを、灰褐色の剛毛で覆われた丸太のような腕が襲った。灰色羆だ。老修道女は半身を抉られ、白樺の林に向かって吹き飛んだ。白樺の白い幹に血飛沫が散る。
 一瞬の惨劇にアナスタシアとフィオナは凍り付いたように動くことができない。
 灰色羆は北方の高山地帯に生息する獰猛な肉食熊である。体長は大きいもので三メートルに達する。ナーニャを襲った灰色羆も優に二メートルは越えている。大きな身体に反して俊敏に二人の少女に迫り、後ろ脚で立ち上がった。
 アナスタシアとフィオナは、お互いを庇いながらその場にしゃがみ込んだ。
 灰色羆が二人に覆い被さろうとしたその時、鋭く空気を切る音と共に矢が続けざまに飛んできて、灰色羆の鼻に当たった。灰色羆は咆吼を上げながら矢が飛んできた方向を睨んだ。
 次の瞬間、矢がまた飛来し、灰色羆の左目に命中した。灰色羆は大きく両腕を振り上げ、上体を仰け反らせた。
 白樺の林の奥から灰色の髪をした少年が足早に現れ、弓を背負いながら腰に差してある剣を抜いた。両手で握る。
 片目を失った灰色羆は怒り狂い、四つん這いになって少年に向かって突進した。
 少年は猛進してくる灰色羆の死角となる失われた左目側に身体の位置を取り、その吐き気を催すような獣臭が感じられる距離まで近付いた時、剣を灰色羆の鼻に叩き付けた。灰色羆は再び仰け反り、咆吼を上げた。
 その機会を逃がさず少年は剣を水平に構え直し、そのまま身体ごと灰色羆の頭に剣をぶつけた。
 少年の剣は灰色羆の口から入り、首の後ろの頸椎に達した。断末魔の呻きと共に凄まじい蒸気のような息を口から吐き出した灰色羆は、その場に尻餅をつく。眼から光りが失われ、そのまま動かなくなった。
 少年は、灰色羆の口から剣を抜いた。どす黒い血の塊がその口から零れた。
 動転して身体の力が抜けてしまい、座り込んだままの少女たちを一瞥した少年は、剣を腰の鞘に納め、にこりともせず無言で白樺の林に向かって歩いていった。
 二人の少女は、立ち去っていく少年に声を掛けることもできなかった。
 昔の夢を見ていたようだ。
 若い頃の夢を見ることなど、ここ久しくなかった。ドルキンは苦笑して身体を起こした。そろそろ見張りを交代する時間だ。
 サルバーラ神殿を後にしたドルキンたちは、広大な湖水地方を抜けて、大陸の中央部に広がる草原地帯に達していた。今は教皇暗殺の犯人として追われる身である。ドルキンたちは街道を避け野に入り、野宿をしながら南下していた。
「マリウス、時間だ。交代しよう」
 草原に打ち棄てられた古い見張り場は小高い丘の上にあった。中心に篝火があり、その周りを崩れかけた石の壁が囲んでいる。マリウスは焦げ茶色のマントに身を包み、その壁に作られた小さな窓から丘の下を見渡していた。冷たい風が、マリウスが被っているフードを激しく揺らした。
 マリウスは眼前に広がる地平線を見ながら呟いた。
「ドルキン様、いったいこの国に何が起きているというのでしょうか。ファールデンはフォーラ神の祝福を与えられた国であったはずです。東方の『呪われし森』ならばともかく、この国はあのような魔物たちが跋扈して良い所ではありません」
 ドルキンは火が消えた篝火の前に座りしばし黙っていたが、ついに決意したようにマリウスに言った。
「教皇聖下は、宣託の内容をミレーアと私以外に知らせてはならないと言われた。だが、お前にはある程度話しておいた方が良いように思う」
 マリウスはドルキンの向かい側に腰を下ろした。
「フィオナは私に苛酷な運命が待っていると言っていた」
 ドルキンは教皇を敬称ではなく名で呼んだ。
「聖下が……」
「うむ。フィオナと会ったのは四十年振りだった。彼女が神の啓示を受けたあとアムラク神殿で〝除穢の儀式〟を受け、教皇庁に上がる前に会ったきりだ」
「アナスタシア様の行方が分からなくなったのも、その頃ということでしたね……」
 ドルキンの表情が俄かに曇り、深い眼窩の奥で黒に近いグレーの瞳が寂寥の色を帯び、そしてその眼が閉じられた。それに気付いたマリウスは慌てて言葉を継いだ。
「それで、聖下は何と」
 ドルキンは薄っすらと淡い光りを帯びて来た円い地平線を見つめながら顎に手をやり、銀色の髭を弄った。
「いにしえより封印されていた邪悪な力が蘇ると。アムラク神殿に封印された『神の禁忌』が破られてしまうと」
「神の禁忌……それはいったいどのようなものなのですか」
「かつてこの国に蔓延していた邪教があったことは知っているな」
「ええ、古来からフォーラ神に敵対していた邪神を崇める異教徒が、この国にも多くいたという話ですね」
「そうだ。五百数十年前、その邪神は自身を守護する魔物たちと共にフォーラ神の巫女によって聖堂神殿に封印されたのだ。しかし、アムラク神殿に伝わる禁忌が破られると、各地の聖堂神殿に封印された魔物たちがこの世に解き放たれてしまうというのだ」
「あのサルバーラにいた蛇の魔物が、封印を解かれた魔物だというのですか」
「うむ。アムラク神殿にも巨大な牛の頭を持つ炎の魔物が出現していた。恐らく、禁忌を破ったのは、我々が到着する前に神殿を襲った連中の仕業だろう。私とミレーアも襲撃を受けた」
「何者ですか?」
「分からん。フィオナもそこまで具体的には話してくれなかった」
「破られた禁忌を元に戻すことはできるのですか?」
「教皇に叙任される前の『身世代』がアムラク神殿で行う『身世篭もり』の祭儀を毀損することで禁忌は破られる。これを元に戻すためには、一度出現した魔物を斃し、各聖堂神殿に奉じられた聖なる武具をもって、北の最高峰、チェット・プラハールの神殿で改めて身世篭もりを執り行う必要がある」
「チェット・プラハール……あの『神の子(フィロ・ディオ)』アーメイン聖下の生まれた地で……」
「そう。あの決して人を寄せ付けることのないと言われた、雪と氷に閉ざされた古代聖堂神殿だよ」
 マリウスは絶句した。
「彼女から聞いた宣託はそこまでだ……そして、彼女は最後にこうも言っていた」
 しばらく間を置いてドルキンは呟いた。
「アナスタシアを……アナスタシアを救え、と」
「アナスタシア様を? アナスタシア様は生きておられるのですか?」
 ドルキンとアナスタシアが再会したのは、ドルキンがアナスタシアとフィオナを灰色羆から救った数日後のことであった。
 ドルキンはアナスタシアとフィオナが身世代としてアムラク神殿に奉喚される道程の護衛騎士に選ばれ、王都に近いファルマール神殿からアムラク聖堂神殿の入り口までを共にしたのである。
 まだ少年であったドルキンが、抜けるような白い肌と漆黒の長く美しい髪を持つ少女に恋心を抱いたとしても責めることはできないだろう。少年らしい潔癖さで自分の任務を全うしたドルキンであったが、その後、年に一度アナスタシアとフィオナがファルマール神殿で行われるフォーラ神聖誕祭の為に帰郷する度に、フィオナの手引きでアナスタシアと密会した。
 アナスタシアは騎士としての素質も持っていた。アムラク神殿の聖堂騎士から手解きを受けた彼女は、ドルキンと会う度に強く、そして美しくなっていった。数年後にはドルキンと剣を交えても三本に一本はドルキンが不覚を取ることもあるほどであった。
 ドルキンが若手聖堂騎士として確固とした地位を築く頃には、アナスタシアもアムラクの女神殿騎士として名前が知られるようになっていた。しかし、どんなにお互いの想いが強くなっても、どんなに強くお互いを求めることがあっても、二人は剣を交える以外に触れ合うことは遂になかった。ドルキンはフォーラ神に全てを捧げる聖堂騎士であったし、アナスタシアは次期教皇となり得るフォーラ神の「身世代」であった。
 アナスタシアがアムラク神殿の神殿騎士団を脱走し行方が分からなくなったのは、フォーラ神の啓示を受けた数日後のことである。代々、身世代の中から神の啓示を受けるのは一人であるが、歴史上、何度か複数の乙女が同時に啓示を受けることがあった。この時も、フィオナと、アナスタシアの二人が神の啓示を受けたのである。
 アナスタシア失踪の報を受け取ったドルキンは自分の立場を顧みず王都を出奔し、彼女を探した。ファールデンのみならずユースリア大陸をその姿を求めて彷徨った。しかし、彼女の行方は杳として知れなかった。
 その後、フィオナは正式に第二十六代教皇となり、ドルキンはアナスタシアへの想いを永遠に封印して円卓の騎士となったのであった。
「分からないのだよ、マリウス。彼女と再会したとき、私はなんとも言えない違和感を感じたのだ。それが何故なのか、いまでも分からない。ただ、フィオナは思い悩んでいるようだった。深く。彼女は私が立ち去る時、こうも言った。己の運命と対決せよ、神の御心ではなく自分の心に従え、と」
「神の御心に従うなと?」
 ドルキンは否定も肯定もしなかった。そして呟いた。
「私は今しばらく、宣託に従って自分の運命に身を委ねてみようと思う。そうすれば、フィオナが何を思い悩んでいたのか、分かるような気がするのだ」
 マリウスはフードを取って、跪いて言った。
「ドルキン様。私はあなたに返し切れないほどの恩を授かりました。今こそ私があなたのために働く時です。どうか、あなたの運命の旅に私もお連れ下さい」
 孤児であったマリウスの才能を見抜き、王都騎士団に引き抜いたのはドルキンであった。
 当時ドルキンは十数人の孤児を養っていたが、そこから弟子に取り立てたのはマリウスが初めてであった。マリウスはドルキンの期待に良く応え、円卓の試練もドルキンに次ぐ最年少記録で克服した。子がいないドルキンにとってもマリウスは我が子同然の存在であり、幾度も修行の旅を共にし、もはやかけがえのない分身であるといって良かった。ドルキンとアナスタシアのことを知っているのは、今やマリウスのみである。
「顔を上げなさい、マリウス。お前は私に何の恩義も感じる必要はないのだよ。私の虚しい人生は、お前によって満たされていたのだから。お前は自分の為に、自分の人生を生きよ」
 そう言ってから、ドルキンは自分の人生が虚しいと吐いた自分の言葉に驚いた。神の祝福を受け、神に殉じた自分の人生を虚しいと口にするとは……。
「ドルキン様、私はもう自分の人生はあなたと共にあると決めたのです」
 決然と言い切ったマリウスをしばらく見つめていたドルキンは、その肩に右手を置いた。
 二人はどちらからともなく手を力強く握り合った。もはや言葉は不要であった。師弟二人の影が、ゆっくりと昇ってきた朝陽を受けて長く見張り場の石の壁を越え、丘の下まで伸びていった。

十七

「何者かがこちらに向かっておるようだ」
 いつの間にかドルキンとマリウスの傍に立っていたカミラが言った。白狼はまだうっすらと星が残っている西の空に向かって低い唸り声を上げ、警戒の姿勢を取っている。
 ドルキンは石の壁に身を寄せながら、未だ暗い西の地平線に目を凝らした。ミレーアも起きてきて、壁の割れ目から地平線を見つめている。
 小さな砂煙が徐々に大きくなり、濛々と巻き上がる砂埃と化し、ドルキンたちが潜んでいる見張り場がある丘の前を数十の騎馬兵士たちが駆け抜けていった。朝陽が昇る方向に向かってまっしぐらに疾駆していく。地を蹴る馬蹄の音が次第に遠ざかり、再び砂煙が小さくなっていった。
「慌ただしいな」
 立ち上がったドルキンは呟いた。
「東は王都の方向です。あの装備は王都兵士のものですから、この周辺の守備兵でしょう。この辺りの守備兵に招集が掛かっているとしたら、王都で何かあったのかも知れないですね」
 マリウスが徐々に明るさを増してくる陽差しを左の掌で避けながら言った。
「王都にも聖堂神殿がある。禁忌が破られたとなれば神殿のある教皇庁にも異変が起きているだろう。王都の警備が強化されているとしたらやっかいだが、聖堂神殿を避けて通るわけにはいかない」
 ドルキンはマントを羽織りながら言った。
「私たちの目的は教皇庁内にあるアルバキーナ聖堂神殿のみです。ですから、王城には近付かない方がいいと思います。教皇庁には地下から近付くことができるかも知れません。以前、フィオナ様から教皇庁の地下には古代に作られた地下道が網の目のように拡がっており、シュハール川から入ることができると聞いたことがあります」
 ミレーアが言った。
「よし、直接王都に向かわず、迂回して川上からシュハール川を舟で下っていこう。ミレーア、地下道への入り口に案内してくれ」
 シュハール川はサンルイーズ山脈をその源流としている点では、もう一つの大河フォーラフル川と同様であるが、フォーラフル川が比較的川幅が狭く急流であるのに対して、シュハール川は川幅が広く水深が浅い。肥沃な堆積物を流域にもたらし、自然災害も少ない。ゆったりと平野を流れるシュハール川が母なる流れといわれる所以である。
 そのシェハール川の、王都より上流の小さな三角州に漁師たちが住む寒村がある。ドルキン一行は年老いた漁師から舟を一艘購入し、シェハール川を下った。舵はマリウスが取る。
 川を下るに従って右岸の岸壁の上にアルバキーナ城の黒い影が近付き、徐々に大きくなってくる。何時の間にか暗い雲が空を覆い始め、太陽が登り切っていないにもかかわらず辺りが薄暗くなってきた。生暖かい風が川面を渡り、波も出てきた。ドルキンたちが乗った舟が波のうねりで大きく揺れた。
「マリウス様、舟を左岸に着けて下さい」
 ミレーアが右手で舟の縁に掴まりながら左手で指さし、波の音に打ち消されないよう大きな声で言った。
 マリウスは大きく舵を切り、王城とは逆の方向に舟を進めた。背の高い葦が茂る川岸に舟を着岸させる。
 ドルキンは荷物を背負って先に下り、舫い縄を引っ張って舟を岸に近付けた。ミレーアとカミラ、白狼が順に岸に下りた。マリウスは舵が川底にぶつかって折れないよう舟の上に引き揚げてから舟を下りた。
 ドルキンとマリウスは舟を葦の茂みの中まで引っ張り込み、発見されることのないように隠した。
 ミレーアは葦の葉を掻き分け、悠久の年月の間に川が岸を削って出来上がった崖に近付いていった。この崖の上から東には、かつて東ファールデンと呼ばれた広大な樹海が広がっており、事実上のファールデン王国の東側国境線となっている。
 ミレーアは崖の下にある大きな岩と岩の間に蹲り、両手で砂を払い始めた。
「ここが入り口なのか?」
 ドルキンがミレーアの手を止め、マリウスと一緒に堆積している砂や石ころを取り除き始めた。
 地面に蓋を填め込んだような鉄の扉が現れた。
 ドルキンとマリウスは扉に彫り込まれた溝に手を掛けた。呼吸を合わせて渾身の力を込め引き上げる。錆び付いてなかなか開かない。二人の顔が真っ赤になり、上半身の筋肉が膨れ上がった。
 扉は大きな軋みを上げ、穴に吸い込まれた空気によって砂が舞った。血のような鉄錆の臭いが鼻をついた。
 ドルキンは慎重に穴に足を踏み入れた。大人の人間がようやく一人通れる程度の狭い通路が地下に向かって続いている。背負った荷物から火打金と火打石を取り出し、火口に火を付けた。硫黄を付けて乾かした付け木に火を移してから松明に火を点ける。
 ドルキンのあとに、ミレーア、カミラ、白狼そしてマリウスが続いた。地下の固い岩盤を穿って掘った通路は急な坂道となっており、下へ続いている。岩壁の隙間から地下水が染み出ており、時々上から首元に滴が落ちてくる。
「足下が滑りやすくなっている。気を付けて」
 ドルキンは背後に向かって声をかけ、一歩一歩踏み締めながら通路を下っていった。
 ミレーアが足を滑らせた。
 流石に悲鳴を上げはしなかったが、ドルキンの脇を擦り抜けるようにしてミレーアが坂道を滑り落ちていった。ドルキンは腕を伸ばしてミレーアを掴もうとしたが、届かない。
 ドルキンはミレーアを追い、身を低くして跳んだ。坂道が急なので一度滑り落ちると止まらない。身体ごとミレーアに飛びついて自らの体重で滑落を止めるしかないと判断した。しかし、ドルキンはミレーアの身体を押さえることはできたが、滑落は止まらない。
 急斜面の狭い通路から突然広い空間へ出たかと思うと、ドルキンとミレーアはそのまま大きく宙に放り出された。ドルキンはミレーアの頭を胸に抱え込んで庇い、身体を丸くして衝撃に備えた。
 大きく弧を描いて洞窟の宙に舞った二人は、地底に拡がる湖に着水した。そのまま数メートル湖水に突き刺さるように沈む。高い水飛沫が上がり、鏡のような湖面に波紋が拡がっていった。
 ドルキンはミレーアを右手に抱えたまま左手で水を掻き、両脚で強く水を蹴った。二人の身体が水面から飛び出し、ドルキンは息を大きく吸った。ミレーアはぐったりとしており、気を失っているようだ。
 ミレーアを抱きかかえたまま、装備を確認する。背負っていた荷物は落としてしまったが、背中に括り付けていた斧と腰に差していた水晶の剣は失わずに済んだようだ。松明は言うまでもなく消え失せている。
 不思議な地底湖であった。洞窟の空間は暗闇に覆われているのだが、湖水が青白い色を帯び、宙に向かって仄かに光りを放っている。地底湖のどこかが外界と繋がっており、その明かりが水の中に反射して湖水を伝わってくるのだろうか。ドルキンは青白く透明な水の中でミレーアを仰向けに浮かべ、その背中に身体を合わせて横向きに引っ張るようにして泳いでいった。
 黒っぽい岩に覆われた岸に辿り着いたドルキンはミレーアを抱きかかえ、乾いた平らな岩の上に寝かせた。胸に耳を当て心音を探ったが、異常はなかった。水を飲んだ形跡もない。
 ドルキンは立ち上がり、辺りを見回した。天井が高く、かなり広大な空間が広がっている。大洞窟だ。
 マリウスたちは、どうしただろう。
 この場合、自分たちの後を追ってはならない。最も賢明なのは、来た道を引き返すことだ。マリウスなら、恐らく自分を見失ったあと、無闇に探索することはしないだろう、とドルキンは考えた。
 ミレーアが意識を取り戻した。軽く呻いて上体を起こし、頭を左右に振る。
「ごめんなさい」
 ドルキンはミレーアが取り乱していないのが有り難かった。普通の女ならこうは落ち着いていられないだろう。
「立てるますか? とにかく、ここを離れましょう。誰も助けには来ないし、恐らくマリウスたちは一度引き返し様子を見て待機していると思います」
 ミレーアは頷いて立ち上がった。ドルキンとミレーアは地底湖からぼんやりと漏れる光を頼りに、岸辺に沿って歩いていった。

十八

 その頃マリウスは、ドルキンの予想通り来た道を引き返していた。道案内であるミレーア無しに地下通路を進むのは、やはり危険であった。
 マリウスは再び舟を川に出し、カミラと白狼を乗せて王城側の川下にあるバーラサクス村に向かっていた。バーラサクスの村はマリウスが育った村であり、ドルキンが孤児たちを育てていた小さな修道院がある。
 村の船着き場に舟を舫ったマリウスは、カミラと白狼を連れて村の外れにある修道院に向かった。修道院はシュハール川に面しており、正面の門をくぐるとこぢんまりと整地された庭がある。その周りは背の低いプリペットの生垣で囲まれていた。春になれば、淡い黄色の斑が入ったライム色の葉が生垣を覆うのだ。
 マリウスは幼少の頃、良くここでドルキンに剣の型を教わったことを思い出した。甘酸っぱい想い出が込み上げてくる。この修道院を訪れたのも数年ぶりであった。
 石造りの修道院は長年風雨に晒されて角が取れ、ところどころ穿たれている。建物に歩み寄ったマリウスは、ふと、まだ陽が高いこの時間に子供たちが外で遊んでいないことを不審に思った。
「カミラ、ちょっと外で待っていてくれるか?」
 カミラは白狼の首を撫でながら頷いた。マリウスは修道院の古ぼけた木の扉に歩み寄り、拳で何度か扉を叩いた。
 マリウスの視線より少し下にある扉の覗き窓に被せられていた覆いが取り外され、見覚えのある優しい老人の眼が覗いた。覆いは直ぐに元に戻され、同時に鍵を回す音がした。扉が開く。
「マリウス様、これは驚きました。あなたでしたか」
 灰色のローブを着た老人は、以前よりも小さく頼りなげに見えた。この修道士は王都にある神学院の元教授で、ドルキンが幼少の頃からその側に付き、教育と身の回りの世話に従事していた。マリウスがドルキンの庇護下に入ってからは、マリウスに対してもドルキンに対するのと同様の愛情を注いでくれたのであった。
「シバリス様、お久しゅうございます」
 マリウスは跪いて長い無沙汰を詫び、右手を胸の前で斜めに切るフォーラ神への祈りの印を示した。シバリスはマリウスを部屋の中に通し、扉を閉じようとした。
「あ、少しお待ち下さい。連れの者がおります」
 マリウスは扉から外に出て、カミラに手招きしようとした。そして、カミラの傍に見覚えのない白いローブを着た白髪の若い男が立っているのを見て、思わず腰の剣に手を添えた。
「大事ない。キースじゃ」
「キース?」
「我らは人の姿にも獣の姿にも変ずることができるのじゃ」
 キースと呼ばれた青年は、無言でマリウスに一礼した。確かに豊かな白髪といい、憂いに満ちた灰色の瞳といい、あの白狼のものを彷彿とさせた。何れにせよ、狼を子供たちがいる修道院に入れることはできない。人の形になれるものなら、それに越したことはない。
 マリウスはカミラとキースを修道院の中に通した。シバリスに紹介する。カミラの尖った猫のような耳がせわしなく動いた。
「シバリス様、子供たちは息災ですか?」
 部屋の中にも子供たちがいない。マリウスはシバリスに問うた。シバリスは困惑とも怒りともつかぬ複雑な表情で応えた。
「皆、教皇庁に召喚されておる」
「皆、ですと!? 何故、また?」
「ここの子らだけではない。王都周辺の少年少女に等しく召喚令が出ておる。隠そうとすると神殿騎士どもが無理矢理連れていくのじゃ。理由は分からぬ」
 尋常な事態ではなかった。王都に、いや、教皇庁に一体何が起きているのか……。
「シバリス様、実は……」
 シバリスには事実を包み隠さず話をしておいた方が良いと判断したマリウスは、王都を出奔したドルキンを追ってアムラク神殿へ向かったこと、サルバーラで起こったこと、地下通路を使って教皇庁に潜入しようとしたことを語った。
 最初は驚いて聞き入っていたシバリスであったが、徐々に表情が険しくなり、マリウスの話が終わる頃にはその年輪のような深い皺が刻まれた面に暗い翳が差していた。
「マリウス様、フォーラ神の禁忌が破られてしまったことは、間違いがないと存じまする。由々しき事態となりました……。今まで、ドルキン様やあなた様にお伝えしておりませんでした、フォーラ双生神の話をしておくべき時がきたのかも知れませぬな」
 苦渋に満ちた表情を浮かべたシバリスは、マリウスに次のように語り始めた。
 フォーラ信仰の歴史は古い。ファールデン紀元前を遙かに遡る太古からフォーラ信仰は存在し、元々は原始太陽教に近い古代の信仰であった。当時、フォーラは陰と陽、影と光の二律双生の世界観に基づいた双生神として誕生し、荒ぶる神と和ぎる神という二つの性格を併せ持っていた。
 荒ぶる神としてのフォーラ神は残酷な破壊神であり、人々の死と夜と憎悪を司った。和ぎる神としてのフォーラ神は生と朝と愛を司った。前者は常に乙女を生贄として求める激しい神であり、呪詛の力を以て人々を支配した。後者は乙女の敬虔な信仰心を求め、穏やかな祝福の力を以て人々を治めたのである。
 荒ぶるフォーラ神を守護するのは七つの魔物であった。フォーラ神の頭、胴、左右の手、左右の脚、そして心臓に魔物が宿っており、荒ぶるフォーラ神が生贄を求めるのはこれらの七つの魔物がそれぞれそれを求めるからである。
 魔物たちは貪欲であった。フォーラ神殿の司祭に男性司祭が多いのは、かつて神殿に奉じた女性司祭が全て荒ぶるフォーラ神と七つの魔物に生贄として捧げられ死に絶え、諸儀式が行えなくなったことから、主として神儀の形式と執行を担保するために男性司祭を奉喚していた頃の名残であった。
 荒ぶる神と和ぎる神の双生神信仰は、本来不即不離であり、片方が強くなれば片方がこれを律し、双方が常に拮抗し、形影相同の関係にある。しかし、ファールデン王国第十三代国王グラフゥスがフォーラ神信仰を国教とした際に、荒ぶるフォーラ神と七つの魔物を封じ、それに仕える修道女及び司祭を根絶やしにした。
 国の安寧を護る守護宗教としてのフォーラ信仰に、荒ぶる神は不要である。荒ぶるフォーラ神は禁忌として大陸最高峰のチェット・プラハールにある古代フォーラ神殿に封印され、歴史の闇の中に葬られたのであった。以降、和ぎるフォーラ神は唯一絶対の神としてその神格性を意図的に高められ、厳しい戒律と共に現在の姿を形作っていった。
 全てを語り終えたシバリスは、深い溜息を吐いた。マリウスは目を伏せて身動ぎもしなかったが、暫時続いた重い沈黙を破った。
「それでは、以前栄えていた邪神というのは、フォーラ神の敵などではなく、フォーラ神そのものだと言うのですか?」
「はい。邪神がフォーラ神の敵という教えは、国教としてのフォーラ信仰を意図的に広めるための作り話に過ぎませぬ。以前から、双生神の片割れである荒ぶるフォーラ神に仕えていた修道女と司祭が生き残っており、その末裔が地下に深く潜り本来のフォーラ神の力の復活を待っているという言い伝えはございました……。彼らは過激な狂信者たちで歴史の表舞台には出てきませんが、彼らに暗殺された歴代の王族、枢機卿も少なくなかったと、教皇庁の司祭の間では公然の秘密となっていました」
「今回の禁忌破戒は彼らによってもたらされたと?」
「それは、分かりませぬ。しかし、彼らの組織は地下で大きく成長を遂げており、独自の暗殺集団を持っていると言われています。彼らが関与した証拠はございませぬが、事ここに到っては、関与していないと考える方が難しいかも知れませぬ」
 マリウスは伏せていた眼を上げシバリスを見た。
「まさか、聖下を弑し奉ったのも……」
「分かりませぬ。しかし、ないとも言い切れませぬ……」
 再び重い沈黙が部屋の中を支配した。マリウスもシバリスも腕を組んで沈思したまま、互いに言葉を発することが出来ないままであった。

十九

 どのくらい歩いたであろうか。ドルキンが屈まねば歩けないほど低く狭い隧道から、天井も高く明らかに人手で作られた広い地下道に突き当たった。
 ドルキンは左右の気配を慎重に探り、隧道から静かにその石畳みの通路に降り立った。地下道は薄暗かったが、所々に松明の点いた突出し燭台が壁面に掛けられており、辺りの様子ははっきりと分かった。ドルキンに続いてミレーアも隧道から出てきた。
 ドルキンは空気の流れを測った。右から左へ静かな空気の動きがあった。ドルキンは右へ向かう。自分の現在地が分からない場合、風下に進むのは危険であることをドルキンは経験から理解していた。第一に敵が近付いてきても気付くことができない一方、自分の気配をいち早く敵に知らせることになる。第二に空気は時間が経てば立つほどその気配を変える。常に新しい空気に向かって進むことが生存率を上げる。
 ドルキンは前方から人が走ってくる足音を耳で捉えた。一人ではない。二人? いや、五、六人か?
 ドルキンはミレーアに後ろに下がっているように左手で合図し、腰に納めていた水晶の剣を抜いた。背中の斧ではこの場所は狭すぎて振り回すことが出来ない。剣を胸の前辺り、中段に構える。
 松明は数個おきに点けられていたため、こちらに向かって走ってくる人影が少年と少女のものであることに気付くのにしばらく時間がかかった。壊れた幻灯機のように灯りがその小さな姿をちらちらと映し出す。そして、その少年と少女の後ろから幾つもの人影が追いかけてくるのが見えた。
 少年は少女の右手を左手で引き、彼の右手には古びた鉄の剣が握られていた。黒く血に濡れている。ドルキンに気付いた少年はその場に立ち止まり、剣を構えた。
 少女の手を離し、両手で剣を握り締めてドルキンの方に向かって飛び込んでくる。腰の据わった良い太刀筋だ。しかし、相手はドルキンである。少年が身体ごと剣を前方に突き出した時には既にドルキンは少年の背後に回り込んでおり、横を擦り抜ける際に軽く少年の右手の甲を剣の柄頭で叩いていた。少年の手は痺れ、剣が落ちて床で鐔を中心に一回転して止まった。
 ドルキンは少年の後ろにいた少女を少年の方に押しやり、叫んだ。
「ミレーア!」
 後方に控えていたミレーアは、少年と少女に近付き、二人の肩を抱いて更に後方に下がった。少年は身体の大きさに合わないフード付きのローブを着ており、少女はミレーアと同じフォーラ神殿の修道服を着ていた。
 追い付いてきた男たちはドルキンを見て驚いたらしく、手前で立ち止まりそれぞれが刃の短い曲剣のような短剣を構えた。ドルキンはその武器に見覚えがあった。アムラク神殿でドルキンとミレーアに矢を射掛けてきた、あの紅い革の装備の襲撃者が所持していたものだ。
 一番前にいた男がドルキンの顔を目がけて短剣を一閃した。ドルキンはこれがフェイントであることを見切っていた。剣を中段で右手首を中心に回転させるように振った。男は次の攻撃をドルキンに加える前に手首を切り落とされ、短剣と共に手が床に落ちた。
 ドルキンは手首から先がなくなった男の左腕に沿って剣を水平に突いた。あばら骨を砕いた剣先は男の心臓に吸い込まれた。
 激しく血を噴出させながら前屈みに倒れかかる男を避け、ドルキンは身体を水平に一回転させて二人目の男に迫り、剣を左首筋に叩き込んだ。血飛沫が上がる。
 三人目の男は、ドルキンが二人目の男に向かって剣を振り切ったところを狙って、ドルキンに身を寄せながら右首筋を短剣で切り込んできた。ドルキンは剣を振り切った勢いでもう一回転し、振り向きざまに左脚の踵で男の顎を蹴り上げた。男の首の骨が折れ、有らざる方向に曲がったまま崩れ落ちた。口から泡を吹いている。
 ドルキンは斃した男たちに近付いてしゃがみ込んだ。装備と武器を検める。アムラク神殿で見かけた未知の勢力は、この者どもであったのか……。ドルキンは立ち上がり、ミレーアたちの所に戻った。少年に向かって言う。
「君たちは何者だ? 何故ここにいる?」
「まず貴公から名乗られよ」
 少年は必死の面持ちで叫んだ。再び少女の手を握っている。
 ドルキンは苦笑し、剣を納めながら言った。
「これは失礼した。私の名はドルキン。ドルキン・アレクサンドル。こちらはミレーアと申す」
「ドルキン? あの聖堂騎士の? 円卓の騎士のドルキン卿?」
 少年の表情に興奮の色が奔り、そして慌てて言葉を継いだ。
「私の名はエルサス。エルサス・アルファングラム。命を助けていただいたこと、お礼を申し上げる」
 今度はドルキンが驚く番であった。アマード・アルファングラム三世の一子、エルサス王子が何故こんな地下道にいるのか。
 エルサスの後ろで少女が被っていたフードを取り、ドルキンに一礼した。
「アナスタシア」
 ドルキンの口から思わず声が漏れた。その黒く長い髪の少女はアナスタシアの少女時代に瓜二つであった。ドルキンは眩暈がした。少女は不思議そうな表情を見せ、名乗った。
「私の名前はエレノアと申します」
 これを聞いたミレーアが、驚いて言った。
「エレノア? まさか、当代身世代のエレノア様でございますか?」
 エレノアは恥ずかし気に小さく頷いた。
 ドルキンとミレーアは顔を見合わせた。王子と神の啓示を受けた「身世代」が何故このような場所にいるのか……。更にミレーアが問い掛けようとしたとき、エルサスたちが走ってきた方向から大勢の人間の足音とざわめきが伝わってきた。今度は五人や六人ではなさそうであった。
「話はあとだ。行こう」
 ドルキンは三人を促し、ミレーアを先頭に来た道を遡って走り始めた。エルサスとエレノアの後ろにドルキンが続き、背後を牽制する。複雑に入り組んだ迷路のような通路を、一行は走り続けた。
 ミレーアは極力狭い道を選ばず、より広い通路を選びながら先導していった。ドルキンはそれを感心して見ていた。迷路に入ったとき、最もやってはならないことは、より狭い隘路に向かうことである。大抵の場合それは行き止まりに繋がる。特に人の手で作られた迷路は、より広い路を選ぶことによって最終的には出口に到ることが多い。
 ミレーアが立ち止まった。大きな木の扉を前にしてドルキンを振り返った。そのあとに扉に到達したエルサスとエレノアもこちらを振り返った。三人とも額に汗が噴き出し、肩で息をしている。
 ドルキンはまだ追跡者たちを撒けていないことを知っていた。木の扉の鉄輪の把手を引いてみる。鍵が掛かっており扉は開かない。足音が迫ってくる。
 ドルキンは三人を扉から離れさせて右手に持っていた水晶の剣を鞘に納め、背負っていた大斧を両手に持った。大きく深呼吸して斧を扉の鍵の部分に振り下ろす。斧は鈍い音を立てて鍵穴が空いている部分に食い込んだ。
 右脚で扉を押さえながら斧を引き剥がす。再度渾身の力を込めて斧を振り下ろした。斧は鍵穴をウォードごと破壊し、扉を貫通して止まった。
 ドルキンはその扉の鍵の部分を強く蹴った。扉が大きな音を立てて外れ、人が通れる隙間が空いた。素早くミレーアがその隙間をくぐり、エルサスとエレノアの手を引く。
 ドルキンは右手に大斧、左手に水晶の剣を持ち、追い付いてきた追跡者たちを仁王立ちとなって迎えた。
 ドルキンの表情が凄まじい鬼の形相となった。
 最初の男が三日月の形をした刀を持つシミターを一閃させた。左手の剣でこれを受けたドルキンは、右手で斧を男の頭上目がけて振り下ろした。男はそれを剣の刃で受け止めようとしたが、ドルキンの斧はその刃を粉砕し、そのまま男の顔面を縦に裂き、鎖骨を折って止まった。それを見た後に続く男たちは一瞬怯み、背後に後退した。
 ドルキンはその隙を捉まえ、素早く身を翻し、武器を両手に持ったままミレーアたちがくぐった壊れかけた扉に体当たりした。扉は蝶番ごと吹き飛んで倒れた。
 そのままの勢いを利用して頭から一回転したドルキンは素早く立ち上がり、周りを見回した。その部屋はカタコンベであった。神殿の地下に拡がる大規模な墳墓だ。
「ドルキン様、こちらです!」
 ミレーアの声にドルキンが顔を上げた。ミレーアたちは既に上階へ続く螺旋階段を駆け上がっていた。ドルキンもそれに続いた。
 黒壇のように赤黒い革の鎧を身に付けた男たちがカタコンベに殺到してきた。ドルキンはミレーアに追い付いた。
「私について来て下さい。カタコンベから拝殿への路は私が知っています」
 ミレーアはプラチナブロンドの髪を翻して先頭を走り始めた。エルサスはエレノアの手を握り、その後に続いた。ドルキンは後方に注意を払いつつ、その後を追った。
 厚く垂れ下がった蜘蛛の巣を両手で払い、ミレーアは走った。ドルキンは振り返り、狭い階段を駆け上がってくる追跡者の先頭を脚で蹴った。その男が仰向けに倒れ、後ろに続く男たちが次々と倒れて階段の下に落ちていった。
 ドルキンたちは遂に地上階へ達した。そこは教皇庁に属する神殿の拝殿があるべき場所であった。階段から続く狭い通路を駆け上がってきたミレーアは、そこに拡がっている光景に思わずその場に立ち尽くした。
 拝殿には濛々と白く濃い霧のような蒸気が充満しており、視界が悪かった。そして蒸し暑い。ミレーアの身体を熱い蒸気が包み、衣服を染透って肌にその重い水滴が粘り着くようであった。
 祭壇の方向に何か大きな黒い山のようなものがあり、時折大きく脈動している。灰色の濃霧が視界を妨げ、それが何であるのか見届けることは出来なかった。そして、その黒い山が少しずつこちらに近付き始めたとき、エルサスとエレノアがミレーアに追いついた。
 それは巨大な赤茶色の肉塊であった。粘液で表面がぬらぬらと光り、強烈な悪臭とともにその物体が近付いてくる。そこにドルキンが追いついてきた。ドルキンは立ち尽くしているミレーアたちに向かって叫んだ。
「何をやっている! 止まるな、走れ!」
 我に返ったミレーアはエルサスとエレノアに拝殿の出口を指で示し、ついて来るよう促した。その時、追跡者たちが拝殿に傾れ込んできた。彼らはドルキンを見つけると、それぞれ剣を構え迫ってきた。
 突然、追跡者の一人が悲鳴を上げた。ドルキンは悲鳴がした方を見た。その男は肉塊から伸びた長い襞のようなものに巻かれ、押し倒されていた。肉塊が次々とその上に覆い被さっていく。
 押し倒された男の装備と肉の溶ける嫌な臭いがした。男は絶叫を上げた。肉塊の間からはみ出ていた男の手は、みるみるうちに白骨と化し白い蒸気を発した。
 その肉塊はいくつもの塊が積み重なったような形をしており、そのひとつひとつが襞のように延び、人間の肉を求めて触手のように伸びてくる。肉塊の塊は次々と見境なく追跡者たちを襲った。新鮮な肉であれば誰のものでもよいのだ。各所で悲鳴が上がった。
「くそっ。何だ、これは!」
 ドルキンは、包み込もうとしてくる肉の塊を水晶の剣で切り払いながらミレーアたちの後を追った。しかし、拝殿の出口は既に肉塊の一部によって塞がれ、ミレーアたちは行き場を失っていた。追跡者たちは次々と肉塊に飲まれ、断末魔の叫び声を上げている。ドルキンたちも完全に囲まれた形となった。
 その時、白い大きな影が疾風のように拝殿の出口を塞いでいる肉塊に襲いかかった。食い千切られ、噛み千切られた肉の破片が、その場でのたうち回り、黒い水蒸気を発して消えた。狼の姿のキースは、縦横無尽にその場を跳ね、次々と肉塊を引き裂いていく。肉塊本体から聖堂全体を揺り動かす唸り声が響き渡った。
 マリウスがハルバードを大きく旋回させ、肉塊を切り刻んでいく。肉塊の体内に溜まっていたガスが傷口から辺りに吹き出した。
 ガスは引火性であるらしく、聖堂内の燭台から落ちた蝋燭の火が肉塊に燃え移り始めた。マリウスはガスを避け、持っていた松明で肉塊から延びてくる襞を牽制したが、肉塊は火には耐性があるようだ。マリウスに向かって残りの肉襞を伸ばし、包み込もうとする。
 木の杖を両手に握りしめたカミラは、呪文を唱えながら肉塊に向かって杖を振り下ろした。きめ細かく燦めく白い霧が肉塊の上に降り注いだ瞬間、襞は凍てつき、動きを止めた。
 凍りついた肉塊を、マリウスはハルバードで叩き割った。肉の壁に塞がれていた拝殿の出口が現れ、扉が大きく開いた。
「ドルキン様、こちらでございます!」
 忘れようにも忘れられぬ懐かしい声に、ドルキンは思わず振り返った。
「老師!」
 ドルキンはミレーアにシバリスを指し示し、エルサスに目で合図した。ミレーアはシバリスが開いた大きな鉄の扉に向かって走った。エルサスもエレノアの手を引いて扉の中へ飛び込んだ。その後にカミラとキースが続く。
 肉塊がいったん萎縮し、肉の襞が本体へ戻っていったのを横目で睨みながら、ドルキンとマリウスは武器を構えたまま、出口の扉を一気に駆け抜けた。
 アルバキーナ神殿は、教皇の居城である教皇庁と一体化しており、神殿といっても神殿らしい構造物は地下に拡がるカタコンベと教皇庁の正面広場に通じる拝殿、そしてそれに連なる神室のみである。シバリスがドルキンたちを導いた大きな鉄の扉は、正面広場に通じる正門であった。
 シバリスはその広場の脇にある、裏庭に通じる小さな門扉の閂を外してくぐった。ドルキンたちもそれに続いた。
 裏庭はシュハール川に面しており、ドルキンたちが上流の村で漁師から購入した舟が川辺に舫ってある。ドルキンは舫いを解き、マリウスは舵を取った。
 シバリスは船尾に乗り込み、エルサスはエレノアの手を引いて船首へ乗り込んだ。次いでミレーア、そしてカミラと白狼が舟に乗り込んだ。
 教皇庁はアルバキーナ城よりも川上にある。舟は緩やかな流れに乗ってシュハール川の右岸寄りを進んだ。暫くすると、眼前に王城が圧倒的な姿を以て迫ってきた。
 断崖に面した城壁塔に兵士たちの姿が見え、彼らの動きが慌ただしくなった。どうやらドルキンたちの舟に気付いたらしい。兵士の一人がこちらを指さし、他の数名が弓を番え、矢を放ってきた。矢が数本舟の縁に刺さり、幾つかは川面に落ちた。
「マリウス!」
 ドルキンは舵を取っているマリウスに向かって叫んだ。マリウスは既に舵を切り始めており、舟は大きくシュハール川の中央へ向きを変えた。矢が次々と降ってくるが、ほとんどが届かない。
 ドルキン一行を押し潰すかのようであった王城の巨大な影が少しずつ離れ、舟が下流に進むにつれて小さな黒い景色の一部となっていった。

二十

 王城の政務室に慌ただしく複数の足音が響いた。アマード・アルファングラム三世はやつれ果てた姿で、王家の紋章が掘り刻まれた膝掛椅子に深く座り、辛うじてその身体を支えていた。
 アマードは王子エルサスが行方不明になったこの数日で一気に老け込んでしまっていた。王妃エルーシアはエルサスが自分とダルシアの密通の場を見てしまったために城を出奔してしまったのではないかと思い悩み、不安と自責の念で半狂乱となった。今は精神状態が不安定のため城の一室に軟禁されている。
「何事だ。王の御前であるぞ。場所を弁えぬか!」
 司令官が、装備も解かずに駆け込んできた城兵を叱咤した。
「申し訳ありません、閣下。しかし、エルサス殿下を発見したという急報が入りまして……」
「なんだと! それは確かなのか? 殿下はどこにおられたのだ?」
 司令官が叫ぶように城兵を問い質すと、彼と並んで御前に控えていた王国軍将軍ダイ・カルバスがゆっくりとこちらを向いた。
 アマードがよろめきながら立ち上がり、カルバスを押しのけるようにして、ひざまずき控えている城兵に近寄った。司令官が一歩後ろに下がり、カルバスの方をちらりと見た。城兵は、頭を垂れたまま報告した。
「はっ、つい今しがたシュハール川を、聖堂騎士どもが殿下を拉致して下り、逃亡いたしました」
「何と……。聖堂騎士が? なぜ聖堂騎士と分かった?」
 アマードは兵士を直接詰問した。兵士は平伏して答えた。
「殿下を拉致した者共は五人でした。そのうち一人が聖堂騎士の甲冑を身に着け、舟の舵を取っておりました。聖堂騎士の名前はマリウス。自分は奴と、何度か試合で剣を交えたことがございますゆえ、あの姿形を見間違えることはございませぬ」
「ああ、神よ……。フィオナが崩御してからというもの、何もかもおかしくなってしまった……。カルドールめ、一体何を企んでおる……」
 アマードは深く息を吐き、肩を震わせたかと思うと、その上体が大きく揺らいだ。昏倒して倒れ掛けた王にカルバスが素早く近寄り、身体を支えた。
「陛下、お気を確かに。おい、陛下を御居室へお連れしろ」
 カルバスは王の側近に命じた。
「カルバス、すまぬ。やはり儂が間違っておったのかも知れぬ。あとを……あとを、頼む……」
 アマードは苦し気にカルバス将軍に囁き掛けると、側近と衛士に支えられながら蹌踉として政務室から立ち去っていった。そこにはもう獅子賢帝といわれたかつての英雄の姿はなかった。
 カルバスは王の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、司令官に向き直った。
「閣下、時は参りました。今こそ我々の本懐を遂げる時ですぞ」
 司令官が言った。
「フォルカ、よもや抜かりはあるまいな?」
 カルバス将軍は深く頷いて、フォルカ王国軍司令官に問うた。
「はい。既に兵の主力部隊を教皇庁に展開済みです。各貴族領の諸侯たちからも挙兵の準備は完了しているとの報告が上がってきております」
 司令官は答えた。
「よろしい。主力部隊を教皇庁に突入させよ。枢機卿、司祭は全員拘束する。抵抗するものは斬り捨てて構わぬ。南部方面守備大隊から五十名ほど選んで、エルサス殿下の探索にあたらせる。王都全域に戒厳令を敷き、全ての領民の外出を禁ずる。これを破るものは例外なく捕縛し、投獄するように」
 将軍は一気に命を下した。そして司令官に、
「それから、ダルシアを。地下牢のダルシア・ハーメルを連れてこい」
 と加えた。司令官は頷き、先ほど政務室に駆け込んできた兵士に同じ命令を発した。
 王城の牢は王の居館と反対側にある東の城壁の地下にあった。巨石を組んで構築された獄舎は堅牢でかつ側面がフォーラフル川に接しており、脱出することはまず不可能である。
 ダルシアとの密会と不倫を錯乱した王妃自身の口から聞かされたアマード王は激怒し、ダルシアを枢密院議長の任から解いてこの王城地下の牢に投獄した。ダルシアにとっては心当たりのない濡れ衣であったが、他ならぬ王妃の自白だ。どのような申し開きも通りはしなかった。
 城兵と獄吏が慌ただしく彼の牢の錠を開けたとき、ダルシアは寝台の上に端座しており、静かに微笑んでいた。端正な引き締まった相貌に緊張はなく、むしろ城兵たちから伝わってくるこの城の混乱を愉しむ趣が眼に現れていた。しかし、その深淵のような瞳は虚無に満ちていた。底知れない深い闇のようだ。
 ダルシア・ハーメルは、王都の貧しい貴族の生まれであった。貴族は自分の所領を持ち、そこからの税収とその身分に応じた王からの下賜金によって生計を立てていたが、バロネットと呼ばれる准男爵の爵位を持つ身分の低いダルシアの父親には所領もなければ下賜金も僅かばかりのものであった。
 父、アドル・ハーメルは貴族としては底辺の職である王国兵下士官であったが、若い女と駆け落ちして幼いダルシアとその母親を捨てた。ダルシアも父親の記憶がほとんどない。父親の出奔後、母親は織物の内職で家計を支えてきたが、とても追いつくものではない。借金のみが重なり、幼いダルシアも近くの市場で働くようになった。
 当時敬虔なフォーラ神教徒であった母親は乏しい蓄えから神殿司祭への上納金を欠かさず、ダルシアも神殿で母親と共に祈りを捧げる日々であった。しかし、無理を重ねて身を削り、心を削ってきた母親がついに倒れた。医薬に費やす蓄えもなく、ダルシアにできるのは神に祈ることばかりであった。
 ダルシアの祈りに反して母親の病状は悪化し、ダルシアが市場での労役を終えて帰宅した冷たい雨の日の早朝、母親はこの世を去っていた。人知れず尽きた、儚く、幸薄い命であった。骨と皮ばかりの、虫けらのような死骸だけが残された。
 ダルシアは父方の親戚に引き取られたが、男色を好む叔父の腹を刺して重傷を負わせ、各地の孤児院を転々とすることになった。しかし、次第にその類稀な頭脳と美しさで頭角を現し、十五歳の時に王都の貴族で上級官僚であったファルアラン伯爵の養子となり、その寵愛を受けた。その後、王都大学を首席で卒業すると同時に、財務府へ任官されたのであった。
 ダルシアの心の底深くに澱のように拡がり沈んでいた暗い怒りや憎しみは、誰に向けられたものでもない。それは不治の病のように彼の心を蝕み、朽ち果てさせた。彼にとっては王も神も国も、自分自身でさえ意味のあるものではなかった。命とは暗い虚空から零れ堕ちた塵芥に過ぎない。尽きれば再び虚空に戻るだけの話だ。
「ダルシア。当初の手筈通り、教皇庁は押さえた。各地の聖堂神殿も諸侯軍による制圧が始まっている。お前の書いた筋書き通りになってきたな」
 カルバス将軍は、喜色を隠さずに言った。部下の兵士たちを全員下がらせているので、執務室には将軍とダルシアの二人きりである。
「閣下、王による国政の統一は私たちの長年の悲願でした。ようやく訪れたこの機会を逸しなされますな」
 いましめを解かれた両手首をさすりながらダルシアは言った。
「分かっておる。だが、唯一の計算違いはエルサス殿下が聖堂騎士どもに拉致されたことだ。アマード王があのようなお姿になられた以上、跡を継ぐ者はエルサス殿下しかおらぬ。なんとしてでも取り返さなければならん」
 カルバスは執務机の椅子に深く腰掛けたまま言った。
「その点については私に考えがあります」
「ほほう。どのような考えか聞かせてもらえるかな」
「辺境守備隊を。西の辺境から帰ってくるであろうナスターリア・フルマードに一働きしてもらいましょう」
 ダルシアはカルバスの向かいに置いてある背の高い椅子に浅く腰掛けて言った。
「ナスターリア? サルマドフ・フルマードの孫か。しかし、彼女には使いを送ったが、未だ返事がない」
 カルバスが憮然とした表情で言った。
「彼女は、今、王都へ向かっていると思いますよ」
「何? お前は彼女には辺境の砦から兵を挙げさせよ、と言っておったではないか。命令書にもその旨明記してある」
「ええ。しかし、彼女の性格からいってそれを額面通り受け取ることはないはずです。必ず直接王都に戻り、私たちにその真意をただそうとするでしょう」
「なんだダルシア、お前は最初から彼女を王都へ呼び戻すつもりだったのか?」
 ダルシアはいたずらっ子のような無邪気な笑顔で答えた。
「ただ帰って来いと言って、言うとおりに帰ってくるような女ではありませんからね。それに、ひとつ、だめ押しもしておきました」

二十一

 舟は再びバーラサクス村の船着き場に舫われていた。舟の周りを小さな羽虫が飛び回っている。羽虫は小さな柱のような群れを作り、狼の姿をしたキースのあとについてきてその尻尾に纏わり付いた。キースの上に乗ったカミラは振り向き、右手でその柱を追った。追われた羽虫の柱が崩れ、距離をおいてまた小さな柱になった。キースは羽虫から逃れるかのようにして走りだし、先を行くドルキンに追い付いた。
 かつてドルキンとマリウスの師匠であったシバリスの修道院に到着した一行は、質素な聖堂に案内された。マリウスは窓際に立ち、周囲を警戒している。シバリスは肘掛のない古びた木製の長椅子に腰掛けた。ドルキンはそのシバリスの足許に跪いて、フォーラ神への祈りの印を切った。
「ドルキン様、どうぞお座りなされ。皆様も、さあ」
 シバリスの勧めに応じて、ドルキンとミレーアはシバリスの向かい側にある長椅子に腰掛けた。エルサスとエレノアは壁際の小さな長椅子に並んで座った。カミラとキースはマリウスの傍で、やはり外の気配を気にしている。
「老師よ、お変わりなくご壮健のご様子、お慶び申し上げます」
 ドルキンはシバリスに言った。
「よして下され、ドルキン様、私ももう歳じゃ。かつてのようには参らぬ。しかし、今日は久し振りに若返った気がしましたぞ」
 シバリスが微笑みながら言ったが、すぐに引き締まった表情に変わり、言葉を続けた。
「ドルキン様、話はマリウス様から伺いました。フォーラ神の禁忌が破戒されたとのこと。あの教皇庁の拝殿の有様……。あれはまさに『荒ぶるフォーラ神』の守護魔物の一体に相違ありませぬ。我々を襲撃した者どもは、恐らく邪神を信望する狂信者たちの暗殺集団、『宵闇の刃』」
「荒ぶるフォーラ神、ですって?」
 ミレーアがぴくりと身体を震わせた。シバリスがミレーアの方を見た。
「シバリス様、この者はミレーアと申します。私とともに聖下の宣託を受けた者にございます」
 ドルキンがミレーアを紹介した。
「おお、貴女がミレーア殿か。聖下の信望厚き巫女と聞いておる」
 ミレーアは頬を微かに染め、シバリスに一礼した。そして居住まいを正して言った。
「シバリス様、今回聖堂神殿に現れた化け物は、フォーラ双生神の荒ぶる邪神を護るといわれている魔物であり、私たちを襲撃したのはそれを奉ずる司祭の末裔たちだと仰るのですか?」
「おお、ミレーア殿は、フォーラ双生神を既に承知されておられたか」
「いえ、予てから耳にはいたしておりましたが、まさかそれが事実であるとはとても信じられない思いでございます……」
「どういうことですか?」
 ドルキンがミレーアとシバリスを交互に見ながら言った。シバリスはマリウスに話した内容を再び口にした。そして、
「フォーラ双生神の歴史は禁忌として邪神ともども封印されたのじゃ。それを知るものは教皇庁でも一握りの司祭だけとなってしまった。ドルキン様が受けた聖下の宣託は、およそ察しがつきまする。禁忌破戒から三十日以内に禁忌を再度封印せねば、今はまだ聖堂神殿の領域のみに縛されている魔物どもがファールデンのみならずユースリア全土に散ることになりまする。多くの人々が死に、この大陸は再び暗黒の時代に戻ってしまうでしょう」
 と加えた。ドルキンはシバリスの言葉に頷き、そして言った。
「聖下は、双生神については何も仰らなかったが、禁忌を再び封印するよう私に宣託なされた。既にアムラク神殿で禁忌が破戒されて十日あまりが経っている。残された時間は少ない。出来るだけ早く、各地の聖堂神殿を回らなければなりません」 
「この修道院にはもう大したものは残っておりませんが、旅のために必要なものがありましたら遠慮なくお使いくだされ」
 シバリスは言い、壁際に小さく座っている少年と少女に目を移した。
「この可愛いお子方は?」
「アマード・アルファングラム三世のお世継ぎであられるエルサス殿下と、先に行方不明といわれていた当代身世代、フォーラ神の啓示を受けられた、エレノア様でございます」
 ドルキンが答えた。
 シバリスは驚愕したが、さすがにドルキンの師匠だけあって取り乱すことは無かった。ドルキンとシバリスの論点はエルサスとエレノアを今後どの様に扱うかに至った。
 エルサスは王城に帰すとして、エレノアの処遇をどうすべきかドルキンは悩んでいた。庇護者たる教皇フィオナは既に亡き人であり、何よりも邪神狂信者たちに追われている。
 ドルキンは、エレノアをシバリスに預けることを提案した。魔物が待つと分かっている各地の聖堂神殿に、身世代を連れて行くわけにはいかない。
 エルサスを除いて全員がドルキンの提案に賛同した。エルサスは王城に帰ることを拒否し、エレノアと一緒にいたい、エレノアを護ると主張した。
「殿下。殿下は城へお戻り下さい。父君、母君が探しておられましょう。正直に申し上げます。殿下がここに残られると非常に目立つのです。エレノア様が静かに安全に過ごすことが出来るよう御協力をいただけませぬか」
 ドルキンは子供だからといって侮らず、理を尽くしてエルサスを説得した。
 エルサスはエレノアを見た。光を湛えた黒い大きな瞳がエルサスを見つめている。
「私ではエレノアを護れぬと申すのか?」
 ドルキンはエルサスの眼を見て、はっきりと頷いた。エルサスは唇を噛み、俯いた。肩が小刻みに震えている。エルサスは涙を出さないように必死に堪えているように見えた。暫くそのまま黙していたエルサスが、突然ドルキンの足許に跪いて言った。
「ドルキン殿、どうか私に剣を教えてくれ! 私はもっと強くなりたい。貴方のように。私を貴方の旅に連れていっては貰えぬか?」
 ドルキンは必死に訴えるエルサスの手を取って言った。
「殿下。どうかお顔をお上げ下さい。今回の旅は、私自身今迄経験したことがないほど過酷なものとなるでしょう。そのような旅に王子たる殿下をお連れすることは出来ません」
「この国に何か異常な事態が起きており、危機が迫っていることは理解しているつもりだ。父上は、もうお年を召してしまいかつてのようにこの国を救うのは難しいと思う。父の跡を継ぐのは私しかおらぬ。私は父から王として在るにはどうすべきかを学んできた。剣術も馬術も良い師に恵まれて修練を積んできた。今の私に足りぬのは、経験なのだ。今の私に必要なのは、母の温かい胸でも父の慈愛に満ちた眼差しでもない。経験と試練が必要なのだ」
 ドルキンは驚いた。決して侮っていたわけではないが、まだ幼さの残るこの少年がこのように物事を考え、それを真っ正面から訴えてくることに心を打たれた。しかし、ドルキンは静かに言った。
「仰ることはよく分かります。しかし、たとえそうだとしても、父君、母君に何も告げずに旅立つことは、親子の信義に反します。まずは、一度城に戻られ、十分に準備を整えてからあらためて出立を考えるべきです」
 そこまで言われると、エルサスとしても反論ができなかった。確かに、自分は今、行方不明の身であるはずだ。王城の者たちが自分を探しているだろう。だが……父上はともかく、母上のもとに今は帰りたくない……。母親の寝室で見てしまったあの光景がエルサスの脳裏をよぎった。今は母に対する嫌悪感と喪失感の方が大きかった。エルサスは黙って俯いた。
「出発の準備を急ごう。老師よ、突然の訪問で大変お世話をお掛けしました。申し訳ございませぬ。エルサス様とエレノア様を、よろしくお頼み申しましたぞ」
 シバリスは微笑みながら頷いた。
 ドルキンたちはそれぞれの装備を検め、荷物を纏め始めた。事を急がねばならない。身軽であることが重要である。携行するのは必要最低限の装備にした。
 荷物を思い思いに抱えたドルキン一行は、修道院の小さな門の前で振り返り、シバリスたちに再開を約し、別れを告げた。シバリスとエレノアから少し離れたところに立っているエルサスは、いつまでもドルキンたちの後ろ姿を見つめていた。
 村の船着き場に足を踏み入れようとした時、ドルキンは異常に気付いた。
 そろそろ陽が暮れ、村々の家に明かりが灯る時分だというのに船着き場に漁師たちの舟が一艘も帰ってきていない。傍らにある漁師の家も廃屋のように真っ暗だ。ただドルキンたちが乗っていた舟が、夕方から強くなってきた北風に揺れているのみであった。
 ドルキンはマリウスに目で合図した。辺りは既に薄暗かったが、マリウスはこれを察してドルキンから離れ、後ろに下がった。その瞬間、漁師の家々の窓から燃え盛る松明が幾つも放り投げられると同時に、明るくなった船着き場に矢が雨のように降り注いだ。
 ドルキンは前方に走って矢を避け、後退していたマリウスはミレーアを背負っていた大盾の陰に押し込んだ。大盾に矢が次々と刺さった。カミラとキースは何時の間にか姿を消している。
 漁師の家や船宿の屋根の上から、十数人の射手が狙いを付けている。漁師の家々に潜んでいたのであろう兵士たちが剣や槍を構えて足早に出てきて、ドルキンたちを包囲した。五、六十人はいるであろうか。舟を舫ってあるシュハール川を背にしたドルキンたちにじりじりと迫ってくる。
 ドルキンは背負っていた大斧を両手で持ち、顔の前で構えた。マリウスは大盾でミレーアを庇いながら、少しずつ後退る。ドルキンのブーツの踵が川に達し、更に足首まで浸かった。それ以上後退できなくなったのを見計らって、兵士たちが殺到した。
 雷鳴が轟き、夜の帳が下りた空に雷光が奔った。
 凄まじい風が吹き上げてきた。風は渦を巻いて太い空気の柱を形作り、みるみる内にそれが何本にも分かれ、地上にあるものを吸い上げ、上空に放り上げた。兵士たちも例外ではなかった。必死に地面に伏せたり物に掴まろうとしていた兵士は、渦を巻く風の柱に翻弄された。辛うじて木にしがみついた兵士たちの武器は、そのまま空中に巻き上げられた。
 マリウスはミレーアの左手を引き、カミラが起こした幾筋もの竜巻の間隙を縫って舟に飛び乗った。ドルキンはそのあとから斧を構え、周りを警戒しながら舟の縁に手をかけた。と、その時、ドルキンに向かって小さな影が走り寄ってきた。
「エルサス様!」
 どうしても王城に帰りたくないエルサスは、密かにドルキンたちの後をついてきたのであった。
「エルサス様、もうここまで来たら引き返すことはできませんぞ? 本当によろしいのですな?」
 エルサスはドルキンの目を見て深く頷いた。
 ドルキンは溜め息をついてエルサスを舟に乗せた。舫いを解いて桟橋を強く蹴り、シュハール川に船首を向ける。舟は岸を離れ、川下の闇に溶けるように吸い込まれていった。
 ドルキンは舟の中を素早く探った。状況から判断して、王国兵が舟に何も仕掛けをしないはずがない。
 あった。見覚えのない樽が船尾の右の舷側にある舵取り板の下に括り付けられていた。
「ドルキン様!」
 ミレーアの叫び声に振り返った。舟の底に巧妙な切り目が入れてあり、そこから川の水が激しく流れ込んできている。樽の中には恐らく火薬が詰まっており、爆発も時間の問題だろう。既に沈没を始めている舟を守ってもしょうがない。
「川に飛び込め!」
 ドルキンは躊躇するエルサスの肩を抱いて一緒に水中に飛び込んだ。マリウスとミレーアもこれに続いた。四人の姿が川の中へ消えた瞬間に樽が爆発した。轟音を立てて舟が吹き飛ぶ。舵の破片が宙に舞った。黒い川面に白い泡が渦を巻き、そして消えた。

二十二

 手に持っていた槍を落とした音で、兵士は我に返った。何時の間にか居眠りをしていたらしい。昨日は甘いカシュールの酒を飲み過ぎた。翌朝早いのは分かっていたのだが、みなが盛り上がっている中で、朝番の自分だけ飲まずに早く寝るなんてことは出来なかった。
 西の監視塔で巡邏の任に当たっていた兵士は、立ち上がって大きく伸びをした。次の瞬間、こめかみに矢を受けた。反射的に矢を抜こうと両手を挙げた兵士の眼と胸に次々と矢が刺さった。兵士は声を上げることもできず、石で組み上げられた城郭に倒れかかり、そのまま監視塔から城壁の外に落ちていった。
 陽が昇ってくるまでは、今少し時間を要す。
 早暁の淡い光りも未だ見えない暗闇の中で、フォーラフル川に近い古代フォーラ神殿の尖塔群の麓を蠢く影が見える。数千の騎馬が粛々と打ち棄てられ崩れかけた遺跡群の中を進んでいるのだ。何れの馬にも枚を噛ませてあり、蹄には厚く布を巻いてある。
 先頭を行くひときわ巨躯の牡馬に跨がっている女は長身で、肉付き豊かな筋肉質の身体をしていた。白獅子の頭の皮を剥いで作った兜を被り、同じく白獅子の革で作った鎧を身に着けているが、それでもその見事な身体の線を隠し切ることは出来ていない。
 野生動物のように鋭く光る大きな目と、若い血潮を感じさせる鞣革のような象牙色の肌に入れ墨を施したその女は、フォーラフル川の岸辺で一度止まり、右手を上げてあとに続く兵士に合図した。
 二人の兵士が馬を下り、荒縄を幾重にも糾って耐久性を増した縒り縄を括り付けた大人の腕ほどもある鋼でできた矢と、巨大な弓を持ってきた。その弓は剛性と柔軟性を併せ持った大木からなる弓幹を強靭な動物の腱で固めた複合弓であり、とても常人の力では引けるものではない。
 その弓を兵士から受け取った女は、大きく深呼吸すると一気にその弓弦を引ききった。矢に結わい付けられている縄は塒を巻いた巨大な蛇のように女が跨がっている悍馬の脇に置かれている。
 十分に引き絞られた弓矢が放たれ、鋭く風を切る音とともに対岸に生えている大木の幹に刺さって貫通した。兵士たちがその縄を引くと、鋼でできた矢は幹の向こう側に錨のように引っ掛かり、止まった。兵士たちは、こちら岸にある大木にその縄を堅く巻き、縛りつけた。
 巨大な弓と矢を兵士に手渡した女は、左手で馬の手綱を取り、右手でその縒り縄を握り締めると、躊躇なく岩を砕くフォーラフル川の激流を渡り始めた。騎馬兵士たちもこれに続く。何騎かが激流に飲まれて馬ごと下流に流され白い飛沫の中に消えていったが、彼らは一言も声を上げることなく粛々と川を渡った。
 この月、西の砦の巡邏を担当していたのはヘルガー・ウォルカーの小隊であった。
 かつて異民族が激流のフォーラフル川を越えて西の砦を攻めてきたことはなかった。北あるいは南の砦では、付近の村や街が掠奪されて砦付近まで異民族が迫ることもあり、そのたびに辺境守備隊が迎撃し、国境線まで追い返した。
 それに比べると西の砦は、どちらかといえば北と南の砦の守備で精神的にも肉体的にも消耗した兵士たちを癒す場所として機能していた。従って、他の砦よりも警備は手薄であることは否めない。
 ヘルガーが兵士たちの騒ぐ声で眼を覚まし、砦に満ちてきた焦げる臭いと黒煙に気付いて私室から出てきた時には既に陽が昇りかけており、砦は騒然とした空気に包まれていた。
「どうした! 何事だ」
 ヘルガーは前方から走ってくる兵士を呼び止め、その肩を掴んだ。
「異民族です! スラバキアの軍勢が城壁を越えて砦に侵入してきました」
「なんだと」
 ヘルガーはいったん私室に戻り、鉄製の鎧を装備して愛用の大盾と槍を手にした。大盾を持つ左手が微かに震えた。
 西の砦を制圧したスラバキア軍は三手に分かれた。一隊は砦の長城の中を北の砦へ向かい徒歩で攻め入った。もう一隊は騎馬で長城の側面に沿って北上し、北の砦に外から攻め入った。そして残りの一隊は南の砦に通ずる通路と門を守った。
 西の砦から直接王都に向かうためには、ファールデン王国の西の国境近く、フォーラフル川流域に広がるグレイウッドの森を越えなければならない。グレイウッドの森は樹齢を重ねた黒い巨木が深く茂る樹海であって、騎馬戦には向かない。遊牧民族であるスラバキアが騎馬を駆使した有利な戦いを行うためには、北の砦を押さえて樹海と北方の小国カザールの国境との間に広がる狭い草原地帯を突破する必要がある。
 北の砦は外から攻めるには難攻不落と言って良かったが、内側から攻められることを想定していなかった。この月、北の砦の守備にあたっていたおよそ五百名のニア・サルマの小隊は、戦闘が始めってしばらくの間は砦の外から迫るスラバキア軍に激しく抵抗し良く戦ったが、長城の内部から北の砦に侵入してきた別働隊からの挟撃に遭い、徐々に劣勢に陥っていった。
 ファールデン王国辺境守備隊隊長オグラン・ケンガが、南の砦から長城を北上して北の砦に到着した時には既に陽が落ちており、北の空には色鮮やかなオーロラが煌めき始めていた。
 オグランは西の砦から異民族侵攻の報を受けると同時に、南の砦の防衛を貿易商人ギルドの傭兵に委託し、中隊小隊合わせ千数百名を率いて北進した。通常であれば二、三日かかるところをほぼ半日で駆け上ってきたオグランの部隊は、長城の内部からスラバキア軍を攻め立てるとともに北の砦を外から包囲しているスラバキア軍の後背を襲撃した。
 予想より速いオグランの動きに、スラバキア軍は北をニア・サルマ、東、南をオグラン率いる守備隊に囲まれ身動きが取れず、戦況は膠着状態となった。
 スラバキア軍は、女王ヒルディア自らが指揮を執っていた。素晴らしい体躯をした長身のその女王は、白獅子の兜を脱ぐと北の砦の監視塔に上がり、眼下を見渡した。
 長城と一体となった砦の正門の前には巨木を組んだ幅広の橋があり、フォーラフル川から水を引いて作られた深い堀に架かっている。今はスラバキア軍によって閉じられたその門と砦の間には南北に延びる広場があり、スラバキア軍の主力約二千騎が横に長く三列に展開していた。
 砦の南回廊付近から正門の内側はスラバキア兵が支配しており、強固な城壁は今のところスラバキア軍にとって有利であった。しかし、監視塔よりも北にあるサンルイーズ山麓の草原地帯に続く北門の外はニア・サルマ率いる王国兵守備隊が未だ死守しており、そこを突破しない限りスラバキア軍は王都への道を開くことができない。
 また、正門の外にはオグラン・ケンガが指揮する兵士のうち約九百名が複数の隊列に分かれ、魚の鱗のような隊形を取って城壁から一定の距離を置いて北の砦を包囲しており、残りの数百余名は長城内部の南回廊にあるスラバキア軍が築いたバリケードを挟んでスラバキア兵と睨み合っている。
 籠城戦はヒルディアの得意とするところではない。広大な平地を戦場にしてはじめて騎馬兵の戦闘能力が生きてくるのだ。
 ヒルディアの決断も速かった。王国兵のうち最も防衛戦が薄いのは北門の部隊である。この夜は雲が多く新月であったこともあり、いつもより闇が深かった。ヒルディアは、北の砦に非常用の隠し通路があることを知っていた。暗殺に長けた数十名の精鋭をそこから密かに出砦させると共に、特に弓の上手い射手を選抜して監視塔から連なる北門の上にある長城の櫓に集めた。
 北の砦の隠し通路から影のように忍び出たスラバキア兵は、徒歩でフォーラフル川を渉った。北の砦あたりも水の流れはまだ速いが、他の流域に比べると川幅が比較的ひろく水深は浅い。黒い影の一団は川の流れに逆らわず、川上から川下へ斜めにフォーラフル川を横切っていく。足音は岩にぶつかる早い流れの音に掻き消されて、聞こえない。

二十三

 北の砦を守っていたニア・サルマは、部隊を三つに分け、三角形の地形に沿って北門から縦に三列に配していた。怪我を負った者、休息が必要な者を中央に寄せ、前方を手厚くし、最後尾に主力の一部を置くことも忘れていなかった。
 オグランが援軍として到着したとはいえ、守備隊の中では最も規模が小さな隊である。物量で押し込まれたらひとたまりもないことを彼女は理解していた。小隊長の中で最も若いニアは現場の兵士から昇進して間がなく、指揮官としての経験も浅い。しかし、そのぶん現場を熟知している彼女は、兵士の士気と健康状態を常に注意深く観察していた。
 ニアは先ほどから何度か、隊列の先頭から順番に兵士たちの様子を見ながら、最後尾に向かって歩いていた。
「マルカス、傷の具合はどうだ?」
 ニアは中央の隊列の一番後ろに座っていた傷付いた兵士に声をかけた。マルカスはニアと同郷で、小隊長に昇進するまでニアのパートナーとして組んでいた兵士であった。
「ああ、もう大丈夫だ。いつでもお前の盾になってやるぜ」
 ニアは声こそ上げなかったものの、笑顔を見せた。マルカスは左脹ら脛を、毒を付着させた剣で刺され、組織の壊死を防ぐためにその周りを大きく刃物で抉られていた。どんなに頑強な兵士でも一ヶ月は動けないはずだった。
「期待してるよ」
 ニアは座り込んでいるマルカスの肩を右手で軽く叩いて言った。両手に持っている藁と布切れで作られた人形は娘からお守りとして渡されたものだろうか。はにかみつつ、マルカスもそれに笑顔で応えた。
 立ち上がったニアは、再び隊列の前方に向かって歩き始めた。今夜は敵の襲撃はないのだろうか。細い眉を顰めて革製の兜を焦げ茶色の癖のある短い髪の上に冠った時、ニアは不意に背後で殺気に闇が揺れたのを感じた。ニアは咄嗟に振り返り、腰の剣に手をかけ鞘を払った。
 急拵えの小さな篝火の炎に先ほどまで話をしていたマルカスの影が浮かび、炎の揺れに合わせて踊ったように見えた。ニアが駆け付けたとき、マルカスは喉元を抉られ、その場に倒れ伏していた。抱きかかえていた人形が黒く血に濡れて地面に転がっていた。
 周りにいた他の傷を負った兵士たちも、マルカス同様に地に倒れ伏している。ニアはマルカスに駆け寄った。
 その瞬間、篝火のない漆黒の闇の中から白い光が閃き、ニアの首筋を狙って剣が突き出された。ニアは辛うじてその攻撃を手に持っていた剣の鍔で防いだ。
 白い火花が散り、剣を受け止めた勢いでニアは二、三歩後ろに退いた。周りを三人ほどの敵に囲まれている。みな、獣の革を鞣して作った鎧を身に着けており、顔は毛皮のマスクで隠されているが、どうみても身体付きは女のそれである。マルカスの喉笛を掻き切ったのと同じであろう、鉈の形をした鋭利な剣を構えている。
 ニアが敵の襲来を自分の小隊に伝えようと声を上げかけたとき、長城の櫓の上から弓矢が激しく降り注ぎ始めた。ニアの小隊に動揺が走り、隊列の中で兵たちが狼狽しているのが分かった。
 このままでは隊が混乱する。敵に囲まれたニアは歯噛みをした。敵の刺客は他にも隊列の中に紛れ込んでおり、篝火を消したようだ。闇に包まれた隊列から部下たちの悲鳴があがり始めた。
 この刺客たちは、ヒルディアによって北の砦の隠し通路から放たれたスラバキア兵であった。フォーラフル川を渡って大きく迂回し、密かに忍び寄ってニアの小隊の横腹をついたのであった。
 これとほぼ時を同じくして、ヒルディアの指揮によって北門から弓による一斉攻撃が仕掛けられた。更にヒルディアはこれらの動きに先立って、南回廊のオグラン部隊にも攻撃を仕掛けていたため、オグラン部隊の注意は南側に払われていた。
 正面の刺客が腰を低く構えて大きく脚を踏み込んできた。ニアは下から上半身に向かって突き上げてくるその剣を、身を横に捌いて避けようとした。そこに右後ろにいた刺客が剣を閃かせ、同時に左後ろの刺客もニアを襲った。
 ニアは一人目の攻撃を捌くと、二人目の攻撃をそのまま身体の位置を入れ替えて辛うじて躱し、振り返る勢いで身を寄せてその脇から肩に向かって剣を撥ね上げるようにして刺し込んだ。二人目の刺客の左脇の動脈が切断され、血飛沫が舞った。しかし、三人目の攻撃を躱しきれない。刺客の剣がニアの喉を襲った。ニアは死を覚悟して思わず目を瞑った。
 次の瞬間、刺客の頭は巨大な大剣の一撃を横殴りに受けて肩甲骨の辺りから原型を留めない状態で吹き飛んだ。目を見開いたニアは、オグラン・ケンガが仁王立ちに愛用の超特大剣を構え、そのまま二人目の刺客の股の間から上に向かって斬り上げたのを見た。
 身体の臍まで達した大剣を引き抜かないまま、オグランは最初にニアを襲った刺客に上段へ振り上げた剣を叩き付けた。大剣に刺さったままの身体と、頭から胸まで斬り下げられたその身体が垂直に交わり、そのまま壊れた藁人形のように吹き飛んでいった。
「オグラン!」
「おう、大丈夫か、ニア。行くぞ」
 オグランは、腰にぶら下げていた常人の頭ほどもある角笛を吹いた。腹の底に染み渡るような音色が早暁の空気を震わせた。漆黒の闇は徐々に払われつつあり、空気が白く光を帯びて透明になってきた。
 オグランの角笛に合わせて守備隊全軍が攻撃を開始した。正門前の大橋が爆破され深い濠に水飛沫を上げて墜ちると、行き場を失ったスラバキア兵は浮き足立った。狭い空間で戦うことに慣れていない兵士たちは、広い場所を求めて長城の中を北門へ移動し始めた。
 時を同じくして南回廊のバリケードが突破され、合流した六百名を加えたオグラン配下の部隊およそ千人が北の砦に傾れ込んだ。南門を護っていたスラバキア兵を北に押し込み、南門を解放して外に待機していた部隊が合流すると、スラバキア兵は先を争って北門へ逃げ込んできた。
 ヒルディアはいったん退却することを決断した。砦の中で戦うのはあまりに不利である。隊列を立て直して軍兵に対する指揮命令を徹底する必要がある。しかし一方で、今がファールデン王国の辺境守備隊に痛撃を与えるチャンスであることもヒルディアは理解していた。
 ヒルディアは全軍に北の門から打って出、フォーラフル川をいったん越えてフォーラ神の尖塔遺跡まで撤退する号令を出した。ファールデン王国守備兵が遺跡まで深追いしてくれれば、まだ勝機がある。
 スラバキア兵は北門を開け放ち、数百の騎馬兵がファールデン王国兵の隊列に向かって馬を走らせた。距離を置いて馬上から弓矢を射かける。その間に、残りのスラバキア兵たちは粛々とフォーラフル川の方へ退いていった。
 王国兵たちは、片膝を立ててしゃがみ込み、盾に身体を寄せた。盾に矢が雨のように降り注いだ。
 オグランは、隊列を維持してその場に待機するように伝令を走らせた。動き回る騎馬兵に向かって攻撃を加えるのは愚の骨頂である。スラバキア兵が自分たちを挑発して誘い出そうとしていることは明白だ。
 その時、スラバキア兵の後を追うように、北門から鬨の声を上げながら馬に乗った一団が砂煙を巻き上げて駆け出てきた。スラバキア兵ではない。アダブル種の黒馬はファールデン王国の軍馬である。
 背中に王家の紋章の盾、右手に短い槍を持った騎兵が、王国兵守備隊に弓を射掛けていたスラバキアの騎馬兵たちの横腹に攻め込んでいった。スラバキア兵の隊列が乱れる。
「ヘルガーだわ」
 ニアがオグランの方を振り向き叫んだ。騎馬兵士の先頭は、大盾を背負い左手で手綱を捌き、右手に羽根槍を手にしているヘルガー・ウォルカーであった。
 オグランは鋭く舌打ちをして、傍に控えている兵士たちに命じた。
「馬を回せ! お前たち、ついてこい! ヘルガーを援護する」
 オグランは振り返ってニアに言った。
「このまま隊列は維持しておけ。俺たちに何があっても異民族たちを深追いしてはならんぞ。俺たちの仕事は国境を護ることだ。いいな?」
 オグランは大剣を背負い、引かれてきた巨躯の黒馬に跨った。
「行くぞ!」
 オグランは黒馬に鞭をくれ、地響きを上げて騎馬の先頭を駆けた。オグランに続く騎兵は百騎あまりだった。

二十四

 フォーラフル川を越えて逃げていくスラバキア騎馬兵の後を追い、渡河しようとしているヘルガーに追いついたオグランは、ヘルガーに向かって叫んだ。
「何をやっている、ヘルガー。深追いするな。戻って来い!」
 ヘルガーは左目の隅でオグランを一瞥したが、馬を止めようとしない。部下の騎兵を引き連れてそのままフォーラフル川を渡った。
 追われていたスラバキア兵は本隊と合流し、更に自国内へ引き潮のように撤退していった。ヘルガー一隊はその後を追う。オグランたちもヘルガーに続いて川を渡った。
 眼前に古代フォーラ神殿の遺跡が迫ってくる。美しい尖塔が、幾つも地上から生えたように屹立しており、朝日を浴びて黄金色の光を帯びていた。スラバキア兵はその尖塔群の間を縫うように整然と進んでいく。既に隊列は整えられ、兵たちも平静を取り戻していた。
 オグランはヘルガーの後を追って、遺跡と遺跡の間を通り過ぎようとした。そこは白亜の尖塔に囲まれた広大な神殿跡で、既に構造物は朽ちてほとんど土と化している。無造作に伸びた常人の腰の高さほどの雑草が生い茂っていた。
 オグランは馬を止め、左手を挙げてあとに続く部下たちに停止を命じた。砂塵が巻上り、馬たちの嘶きが聞こえた。
 神殿跡の中央に整然と隊列を整えたスラバキア兵数百騎が待ち受けており、その最前列で、オグランが騎乗している悍馬に見劣りしない、黒熊のような馬に髪を振り乱した素晴らしい肢体をした女が跨がっている。背中から大きな三日月型の曲刀を抜く。朝日を背後から浴びたその長い琥珀色の髪が血のように真っ赤に見えた。
 オグランは後ろを振り返り、唇を噛んだ。遺跡の陰から滲み出るように別のスラバキア騎兵が現れ、オグランたちの退路を断っている。王国兵たちの間に動揺が拡がった。
 その機を捉えたかのように、ヒルディアはオグランに向かって馬首を向け騎乗したまま疾駆してきた。ヒルディアに付き従っている騎馬兵たちは鶴翼に隊形を取り、オグランの隊を押し包むように前進してきた。
 オグランは背負っていた大剣を右手で引き抜いて両手で持ち、脚で馬躯を制してヒルディアを迎え撃つべく馬を走らせた。オグランとヒルディアの身体が馬上で剣を介して一つに交わった。ヒルディアの曲刀の一撃をオグランは大剣の刃で受け、鋭く刃がかみ合う音とともに火花が散った。
 オグランはヒルディアと行き違った勢いのままに、ヒルディアの後ろに続いていた騎馬兵たちを大剣で薙ぎ払った。数人が馬ごと身体を撫で斬りにされて地面にその四肢が飛び散った。ヒルディアも同様に、ファールデン辺境守備兵たちの頸を曲刀で刎ねていった。両軍の騎馬兵が激しくぶつかり合い、剣戟の音と悲鳴が交錯した。
 オグランとヒルディアは再び騎上で向かい合った。ヒルディアは両手で曲刀を持って構えた。オグランも同様に大剣を上段に構える。ほぼ同じ呼吸で二人は同時に馬体を蹴り、急速にお互いの距離を縮めた。
 擦れ違う瞬間、オグランは剣を斜めに振りヒルディアの胴体を狙って斬り下ろした。手応えがあった。しかし、真っ二つに斬り分かれたのは、ヒルディアが騎乗していた馬の胴体であった。ヒルディアはオグランの大剣が振り下ろされる一瞬前に騎上から宙に跳び、オグランの乗っている馬の頸を水平に薙ぎ払っていた。
 切断された馬の首がオグランの左肩を強打し、馬体はそのまま脚を折るようにして前のめりに倒れた。オグランは身体の流れに逆らわず、そのまま馬の前に頭から飛び込んで受け身を取りつつ一回転して膝を突き、大剣を中段に構え直した。目の前にヒルディアの燃えるような瞳が迫った。
 ヒルディアは巨大な曲刀を軽々と振り、オグランを攻め立てた。オグランは大剣の刃でこれを受け、すかさず大剣をヒルディアの頭をめがけて振り下ろした。オグランの僧帽筋が膨れ上がり、常人の目には止まらない速さで大剣が何度も振り下ろされる。ヒルディアはこれを刃一枚のぎりぎりで見切って捌いた。
 オグランは、ヒルディアが曲刀を逆手に持ち直す瞬間を見逃さなかった。右脚でヒルディアの腹部を蹴り、重い剣を振り上げる時間を惜しんで大剣の柄頭で顔面を殴った。ヒルディアの鼻腔から血が吹き出し、豊満な体躯が仰向けに倒れた。オグランはそのヒルディアに馬乗りになり、大剣の刃を頸元に押し付けた。
 オグランがヒルディアの首を取ろうとした時、オグランの腹から槍の穂先が生えるように突き出てきた。
 オグランの手から大剣が落ちた。オグランは信じられないものを見るように自らの腹を見下ろし、槍の穂先を両手で掴んだ。しかし、羽根槍の羽のような突起が背中に引っかかって、前からは容易には抜けない。
 オグランは左手を背中に回して背中から槍を抜こうとした。振り返ったオグランが見たものは、大盾を背負ったヘルガー・ウォルカーであった。手にした槍をオグランに突き立てている。
「ヘルガー……何故だ?」
 ヘルガーは一度槍をオグランから抜いて大きく振り被り、体重を乗せて再びオグランの背中に深々と刺した。オグランの形相が変わった。羽根槍が刺さったまま立ち上がったオグランは、身体を大きく回してヘルガーを背中から振り落とした。
 大剣を拾い、上段に構えてヘルガーに迫る。ヘルガーは立つことができずに座り込んだまま後退った。
 オグランは剣を振り下ろした。が、その瞬間、オグランの肘から先がヒルディアの曲刀に切り払われ、大剣を握ったままの腕が宙へ飛んだ。
 振り返ったオグランの腹部にヒルディアの曲刀が深々と刺さった。ヒルディアは曲刀を捩じりながらオグランの腹から引き抜いた。オグランは臓腑を撒き散らしながら、大木が倒れるように仰向けに倒れた。
 ヘルガーはようやく立ち上がり、左足でオグランの頭を蹴って唾を吐いた。
「ざまあねえぜ」
 オグランが率いていた兵士たちはほとんどがヒルディアの曲刀の餌食となったか、スラバキア兵に切り刻まれていた。ほぼ全滅である。
 ヒルディアは、曲刀を背中に納めた。その時、少し離れた遺跡と遺跡の間からファールデン王国兵と思われる一群の兵隊が姿を現した。
 ニアであった。オグランの後を追って、数百騎を引き連れて進軍してきたのだ。
 ニアは、ヒルディアたちから距離をおいて隊列を整えた。射手に弓を引かせた状態で待機させる。倒れているオグランを目にしたニアは、悲鳴に近い声を上げた。
「オグラン!」
 ニアは、油を塗りたくったように紅い返り血を浴びたヒルディアと、薄ら笑いを浮かべているヘルガーを睨み付ける。ニアの一隊が弓を引き構えているため、スラバキア兵も軽々に動けない。矢を放つ合図のために左手を肩の高さまで上げたまま、ニアはヘルガーに問うた。
「ヘルガー。裏切ったのか? 何故だ!」
 ヘルガーは鼻で嗤って応えた。
「俺が仕えているのはアルバキーナの王様でもフォーラの女神様でもねぇよ。ずうっと前からな。この大陸を支配するのはファールデンじゃあない。スラバキアだよ。我が敬愛する女王が、この大陸を治めるのだ」
 ヘルガーは恭しくヒルディアの足元に跪き、そのつま先に接吻した。
 スラバキアはファールデン王国からは蛮族と蔑まれ、教皇庁からは異民族として異端扱いを受けていたが、元々はファールデンよりも歴史が古く、狩猟の女神を信仰する女性だけで構成された独特の騎馬民族国家であった。
 スラバキアには男が存在しないため、子孫を残すために他の国や民族の男の元に行き交わる。国に戻った女が男児を産むと、そのまま殺してしまうか不具にして奴隷にした。
 ファールデン王国始祖アグランドが東西ファールデンを統一して以降もしばらくその習慣はファールデンに残っており、歴代の王もこれを特に咎めることはなかった。しかし、第十三代国王グラフゥスが女神フォーラ信仰を国教と定めて以降これが教義で禁じられ、ファールデンに入ったスラバキアの女たちは、みな異教徒として地下牢に投獄され、そのほとんどが拷問を受けた上に惨殺された。
 スラバキア歴代の女王たちにとってはファールデンは子孫を残すためには必要な土地であり、宗教上認められている男の狩り場であった。また、長く続いた虐殺と弾圧の歴史によって、ファールデン王家は彼女たちにとって民族的復讐の対象そのものであった。しかし、ファールデンの国力は強く、長らくそれを実現することが出来なかった。
 スラバキアの女王たちは代々ファールデンに密偵を多く放って機会を待ち、密偵たちも世代を継いでその女王たちに仕えていたのである。ヘルガーの一族も、数代前にスラバキアからファールデンに侵入した密偵の末裔であった。
 もう躊躇するものは何もない。オグランの仇を取るのだ。
 ニアが矢を左手を素早く下ろすと同時に、数百の矢の雨がスラバキア兵の頭の上に降り注いだ。
 それとほぼ同時に、スラバキアの騎兵がニアたちに向かって殺到した。何人かは矢を受けて馬から転げ落ちたが、騎兵の勢いは止まらず、そのまま王国兵の隊列の中に傾れ込んできた。ニアは、隊列が乱れた部下たちに向かって叫んだ。
「退くな! 迎え撃て!」
 ニアが叫び終わらないうちにヒルディアの曲刀がニアを襲った。馬が大きく竿立ちになり、曲刀の一撃は避けられたものの、ニアはそのまま落馬して背中を強打した。痺れて身体が動かない。辛うじて左手で左の腰から剣を抜いた。
 ヒルディアはその左手を右足で踏みつけ、そのまま右膝でニアの胸を押さえつけた。ニアの息が詰まった。
 ヒルディアは曲刀を無造作に振り上げた。
 ニアがもはやここまで、と眼を瞑ろうとした時、背後から近付いてきた大きな影が、ヒルディアに体当たりした。ヒルディアがニアの上から転げ落ちる。
「逃げろ。兵を連れて撤退し、国境線を守れ」
 両腕を失い血まみれのオグランがヒルディアに覆い被さり、言った。
「ぐずぐずするな! このままでは全滅する。国境を越えて態勢を立て直すんだ」
 ニアははだけた鎧を左手で押さえて立ち上がり、右手で馬の手綱をつかんだ。
「オグラン!」
「俺はもう保たん。王都に……ナスターリアに伝令を飛ばしてこの状況を伝えるんだ。こいつらを王都に一歩たりとも入れてはならん」
 ニアは身が引き裂かれる思いで馬に跨がり、兵に退却の下知を出して馬の腹を蹴った。涙が止まらない。
 馬は大きくいななき、フォーラ神殿の遺跡の間を駆け抜けていった。何人かのスラバキア兵が退却していくニアと王国兵の後を追った。
「ナスターリア……」
 混濁していく意識の中でオグランは呟いた。目が霞む。
 最期の力を振り絞って覆い被さっていたオグランを、ヒルディアは身体から引き剥がして立ち上がった。凄絶なまでに美しい笑顔を見せる。
「死なすには惜しい男だが」
 ヒルディアは俯せに倒れて動かないオグランを脚で踏みつけ、両手で掴んで振り上げた曲刀をその頸に向かって裂帛の気合いと共に振り下ろした。オグランの頭が血飛沫とともに朽ちた神殿の床に転がった。
 オグランの首を拾って左脇に抱え、しばらく考え込んでいたヒルディアは、兵士たちに命じた。
「いったん国境から退く。本隊に合流せよ」

二十五

 左手に鷲と金の天秤を意匠したファールデン王国の紋章が鋳込まれている丸い鉄の盾を持ち、右手に幅広のブロードソードを持った兵士と、両手で長槍を握った兵士が辺りを見回し警戒しながらその石造りの修道院に近付いていった。建物の周りは、既に数十人の王国兵士によって取り囲まれている。
 槍を持った兵士は扉の蝶番側に身を寄せた。剣を持った兵士が深く息を吸って、扉を拳で叩いた。覗き窓が開き、老人のものらしい眼が見えた。
「どちら様じゃな?」
 老人が思いのほか透る声で、扉の向こうから尋ねた。
「王都守備隊である。扉を開けよ」
「何の御用かのう」
「聞きたいことがある。扉を壊されたくなければ、大人しく扉を開けよ」
 兵士は剣の切っ先を、覗き窓の老人の眼に向けた。覗き窓に蓋がされ、鍵を開ける音がした。扉が少し、開いた。
 剣を持った兵士は、軽鉄のブーツの足先を開いた扉の隙間にこじ入れた。もう一人の兵士は、槍を背負って両手で扉を強引に引き開ける。剣を持った兵士がすかさず扉の内側に入った。庭に潜んでいた数人の兵士が扉に殺到する。
「手荒いことはやめてくだされ……」
 剣を持った兵士に突き飛ばされたシバリスは、尻餅をついたまま兵士たちに言った。建物に乱入してきた兵士のうち二人が剣を突きつけてきた。他の兵士は修道院の奥まで踏み込んで捜索を始めている。最後に入ってきた隊長らしき男がシバリスに尋ねた。
「マリウスという名の聖堂騎士を探している。ここは奴が育った修道院と聞いているが、立ち寄ってはいないか?」
 シバリスは首を横に振り、応えた。
「確かにマリウスは幼き頃この修道院で育ちましたが、もう何年も顔を見ておりませぬ。あの者がどうかしましたか?」
「奴が何をしたかを知る必要はない。隠し立てするとためにならんぞ? 正直に申せ」
 王都南部方面守備隊副長はシバリスの質問には答えず、さらに問いを重ねた。
「なにも隠してはおりませぬよ。この修道院ももう古くなってしまいましてのう。訪う者もすっかりいなくなりました」
 修道院の中を捜索していた兵士たちがばらばらと戻って来た。
「部屋を全て捜索しましたが、誰もおりません。この爺、独りのようです」
 副長はシバリスに言った。
「奴がもしここに立ち寄るようなことがあれば、すぐに守備兵に報告せよ。いいな?」
「承知いたしました」
 シバリスは逆らわず穏やかに応対し、一介の老人を完璧に演じていた。手掛かりにならぬと見た副長は、兵士たちに命令した。
「一度城に戻って司令官閣下の指示を仰ぐ。そこのお前とお前、ここに残れ。念のためにこの爺を見張っておれ」
 兵士たちは足音高く修道院から出て行った。
 扉の外に二人見張りが残った。シバリスは扉に鍵を掛け、軽い溜息を吐いた。
 覗き窓の蓋を外し、外を見てみる。兵士たちが修道院の門をくぐって出ていくところであったが、ちょうどそこに通りかかった馬に騎乗した二つの影が現れた。
 一人は女のようであった。軽装備の甲冑にフードとマントを身に付けている。もう一人は男であろう、背は低いがずんぐりした筋肉質の小山のような身体をしている。
 女の方が副長と話をしている。シバリスは嫌な予感がした。
 その予感は的中し、一度修道院を離れかけていた兵士たちが、またこちらに戻ってくるのが見えた。覗き窓の蓋を素早く閉める。
「エルサス殿下が聖堂騎士らに拉致されただと? 見た者がいるのか?」
 ナスターリア・フルマードは、王都南部方面守備隊副長に問い掛けた。副長はナスターリアの身分と階級を知って、直立不動で立っている。
「はっ、城壁塔におりました見張りの兵が、シュハール川を下って逃亡する聖堂騎士と拉致された殿下を目撃しております。フォルカ司令官閣下の指示で捜索をしていたところ、この村の船着き場で発見し、捕らえようとしたのですが……」
「逃げられたのか? 王都守備兵ともあろう者が、たかだか一人の聖堂騎士に後れを取ったというのか?」
 ナスターリアの表情が険しくなった。切れ長の眼が細められ瞳の光りが分からなくなる。副長の顔色が蒼白になった。言葉にできない重圧をナスターリアから感じ、額に玉のような汗が浮き始めた。
ナスターリアは馬を下り、半ば失神しそうになっている副長に問うた。
「ここは?」
「はっ、この修道院は、その聖堂騎士が育った場所との情報がありまして、念のため捜索を……」
「案内せよ。私自ら捜索する」
「はっ!」
 副長はぎこちなく身体を回し、ふたたび修道院の門をくぐった。ナスターリアと、馬から下りたラードルもこれに続いた。兵士たちは慌てて副長の後を追う。
 副長は修道院の扉の前に立ち、二人の見張りの兵士を下がらせて叫んだ。
「じじい! もう一度ここを開けよ!」
 扉はなかなか開かなかった。扉を叩き壊そうと近寄ってきた見張りの兵士が手斧を構えた時、ナスターリアがそれを制止した。
「お前たち、何をやっている。領民に対して手荒な真似をするな」
 ナスターリアはフードを脱いで扉の前で敬礼し、口上を述べた。
「王国辺境守備隊隊長ナスターリア・フルマードと申す。夜分恐れ入るが、公務執行のためにいささかお尋ねしたい儀があり罷り越した。扉を開けていただけぬか」
 鍵を開ける音がし、扉が開いた。白い髭を生やし、薄い灰色のローブを着た老人が現れた。ナスターリアは改めて敬礼した。
「御老体、ご面倒をおかけします。お邪魔してもよろしいか?」
 ナスターリアはあくまで丁重な態度を崩さなかった。シバリスは彼女を一目見て、尋常な遣い手ではないことを見極めた。
 表には顕さないが、シバリスは静かに緊張していた。
 シバリスはナスターリアを建物の中に迎え入れた。ラードルは建物の外で退屈そうに、兵士が持つ松明の灯りに照らされた庭のプリペットの生垣を眺めていた。ナスターリアは一緒に屋内に入ろうとした兵士を制し、外で待っているように指で示した。
「御老体。実は、アマード・アルファングラム三世陛下のご嫡男、エルサス王子が聖堂騎士に拉致され連れ去られたとの報告が上がっております。その聖堂騎士は御老体もご存じの者とのことで、我らは王命により彼を追い、殿下を取り戻さねばなりませぬ。少しでもご存じのことがあればお教え願いたい」
 ナスターリアはシバリスの眼を見ながら語りかけた。シバリスの瞳の色は全く変わらなかった。老境を迎え、残りの人生を全て神への祈りに捧げる、一介の老修道士に見えた。
「あの者がそのような大それたことを……。先ほども兵士の皆様にお話しいたしましたが、ここ数年マリウスには会うてはおりませぬ。しかし、そういう事情であれば、よけい私のところには参りますまい……。お役に立てず、誠に申し訳なく存ずる」
 ナスターリアはシバリスをしばらく見つめていたが、ふと視線を外し、辺りを見渡して言った。
「先程も兵士たちがお邪魔したとは思いまするが、もう一度部屋を検めさせていただいてよろしいか? 御老体にご案内いただけると助かります」
「はいはい、よろしゅうございますよ」
 シバリスは頷いて、部屋の中へ振り向こうとした。シバリスが背中を見せた瞬間、ナスターリアの眼が殺気をはらみ、鋭く瞬いた。剣を抜き、シバリスを一閃のもとに……。
 切られた、とシバリスは感じた。思わず身体が動いた。しまった、と思った。そして、シバリスは背中に浴びせかけられたのが剣ではなく、ナスターリアの声と殺気であったことに気付いた。
「御老体、只者ではないな。素性を明かされよ」
 ナスターリアの剣は実際には抜かれてはいなかった。シバリスは静かに眼を閉じた。ナスターリアの心の剣に反応してしまった自分を悔やんだ。ゆっくりと振り返ってナスターリアを見た。
「私はシバリスと申す修道士でございます。特に隠すような素性ではござらぬが、以前は王都神学院の教授を務めておりました」
 表情を変えぬままじっとシバリスを見つめていたナスターリアは、呟いた。
「シバリスという名の聖堂騎士が、かつて円卓の騎士の最高位にあったと聞いたことがある。もう引退されたそうだが」
「それは同名の別人でありましょう……」
 シバリスは眼を閉じて静かに言った。
「御老体。申し訳ないが、身柄を拘束させていただく。話は、城で詳しくお聞かせ願いたい」
 シバリスは抵抗しなかった。抵抗できなくもないが、こちらも無傷では済むまい。また、エルサスはあの日から行方が分からなくなっているので家捜しされても困ることはないが、隠れているエレノアを下手に見つけられても困る。
 シバリスは、ナスターリアに後ろに付き添われる形で修道院を出た。副長はシバリスの腕に手枷を付け、馬に乗せた。シバリスは、脇を騎乗したナスターリアと副長に固められ、城まで護送されていった。
 シバリスが王国兵士らに捕縛され、修道院から連れ去られてどのくらいの時間が経っただろうか。修道院の小さな礼拝堂の壁に彫り込まれているフォーラ神の像が静かに動いた。
 闇の中で神像が生きているかのように動き、止まる。神像の裏に人一人がやっと入れる空間が開き、修道院の壁に地下へと繋がる出入り口が姿を現した。
 細い手が神像の腰の辺りに触れ、次いで長い髪の少女の白い顔が現れた。神像の胸の辺りに覗き窓の仕掛けがあったが、シバリスから使うことを禁じられていたため、エレノアはシバリスに何が起きたのかを知ることが出来なかった。複数の人間の怒鳴り声や騒がしい物音が消えてしばらく時間が経ったので、表へ出てきたのだ。
「シバリスさん」
 エレノアは小さな声で呼んでみた。返事はない。
 エレノアは真っ暗な修道院の中を、足を忍ばせて歩いた。雲に隠れていた月が再び顔を覗かせ、窓からその明かりが差し込み、エレノアの影を壁に長く映した。
 修道院の中に人の気配はない。エレノアは溜め息をつき、礼拝堂にある古びた木の長椅子に腰掛けた。そして、途方に暮れたように、小さな窓から仄かな光を投げかけている細く青い月を見上げた。

二十六

 ラードルは、かつてファールデン王国中央守備隊の大隊長であった。昨年その任を辞して、現在はゲリラ戦専門部隊である鷹嘴隊の隊長を務めている。
 彼の兵歴は長く、先の「大崩流」が彼の初陣であった。大崩流とは、異民族スラバキアが国境を越えて深く国土に侵入してくることをいう。ナスターリアの父親と知り合ったのもその頃で、当時の王国兵の中ではナスターリアの父と並んで「双璧」と並び称されていた。
 彼の父親も兵士であったが、ラードルが幼少の頃に異民族との戦闘で命を落としている。母親は彼が生れ落ちて間もなく亡くなっており、彼は母の顔を知らない。孤児となって以来、兵士であることが彼の人生でありその全てであった。
 ラードルは待つことに慣れていた。凍てつく針葉樹林の茂みの中、砂漠の灼熱の丘陵の陰、彼は標的が現れるまで何時間でも何日でも待つことができた。ドワーフは元々辛抱強い種族であるが、その中でも彼はとりわけ待つことを倦まない戦士であった。
 今も、彼は鬱蒼と広がる森の樹の陰で石のように踞っていた。ナスターリアと王都の守備兵たちが去って、二度目の夜が来た。
 あの修道士が只者でないことは、ラードルにも一目で分かった。幾度もの修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の戦士の匂い。自分やナスターリアの父親と同じ、血と、死の匂いがした。
 あれほどの男が何の抵抗もなく縄を打たれたのだ。この朽ちた石の修道院に何も秘密がないわけがない。ラードルはここで待つことをナスターリアに提案し、彼女は完全に同意した。
 文字通り石のように気配を消していたラードルが空気の揺らぎを感じたのは、月が出ていれば天空に差し掛かっていたであろう時刻であった。今宵は新月。月は無かった。ラードルは小山のような身体に似合わない身軽さで、静かにその場から動き始めた。
 ラードルが姿を消してしばらくして、暗い朱色の革の鎧に同色のフードとマスクを身に付けた男たちが、影のように修道院を取り囲んだ。一人が木の扉に近付き、先が鈎状になった細長い鉄の棒を鍵穴に差し込んだ。
 数秒を経ずして錠が解け、扉が音を立てずに開いた。五人ほどが素早く修道院の中に入り、扉の外には三人の見張りが立った。残りは、遠目に修道院を取り囲んで森の陰にそれぞれ潜んでいる。
 修道院の中に入った男たちは、めいめい散って各部屋を探索した。
 一人の男が礼拝堂の壁に飾られているフォーラ神像の仕掛けに気付いた。彫像の掌に乗った梟の飾りを水平に捻ると、彫像が滑るように動き、壁に階下へ繋がる穴が開いた。男は左脇の革鞘に納めた短剣を引き抜き、身を屈めてその穴に入っていった。
 真っ暗な穴の中に狭い階段が続いており、男は壁を左手でなぞりながら階段を静かに降りていった。地下室の入り口で一度動きを止め、念のためにしゃがみ込んで真っ暗な部屋の様子を窺う。空気に体温が感じられ、微かにかぐわしい若芽のような香りが鼻腔をくすぐった。
 正面に小さな木の机と椅子があり、その左側に寝台らしきものがある。右側の壁面には本が納められた棚が天井まで埋め込まれていた。藁のマットレスに白い布を敷き延べただけの寝台の上の毛織の掛け布団が、人の形に膨らんでいる。
 男は姿勢を低くしたまま短剣を握り、時間を掛けて寝台に近寄っていった。人は眠っていても、ある一定の距離まで近付くと気配を悟られてしまうことがあるが、男は今までの経験からそのギリギリの距離と呼吸をわきまえていた。
 寝台に手を延ばし、掛け布団を静かに捲った。男は思わず口の中で罵った。そこに人間はいなかった。掛け布団を丸めて、人の形に寝かせてあったのである。
 修道院の地下室にある大きな本棚には仕掛けが施されており、エレノアでも動かすことが出来た。シバリスから万が一の時のためにと渡された水晶でできた聖なる梟の首飾りが微かな光を放った時、エレノアはこの隠し通路を潜り、森の外まで続く狭い横坑を抜けていた。
 シバリスは修道院の周囲にフォーラ神の祝福による結界を張っていた。その結界を越えるものがある時は、それが人であれ魔物であれ聖なる梟の水晶が知らせてくれるのだ。
 エレノアは、シバリスから渡されていた村娘の服に着替えていた。修道服は横坑を抜けてすぐの森の中にあった岩の陰に隠した。シバリスは万が一の事態に備えて修道院を脱出する方法と、エレノアがそのあと向かうべき場所も教えていた。
 今、エレノアはその指示に従って、王都近郊にあるファルマール神殿へ向かっていた。そこにいるはずの、アルマという名の修道女を訪ねるようにとシバリスは言っていた。
 ファルマール神殿は聖堂神殿ではない通常の神殿だが、毎年フォーラ神の聖誕祭が行われる由緒ある神殿である。身世代としてアムラク神殿に上がった乙女たちも、ここの出身者が多い。
 突然、漆黒の闇を切り裂く、黒鵺の鋭い鳴き声がした。びくりと身を竦めたエレノアは、その場にしゃがみ込んで辺りの気配を窺った。
 黒鵺が数匹羽ばたいて飛び去っていく音がし、森は再び元の闇と静寂に包まれた。エレノアは胸元の梟の首飾りが再び光を帯びていることに気付いた。シバリスは、この水晶自体が小さな結界を形作り、それを身に付けるものを守ってくれると言っていた。そして、その結界を破ろうとするものが近づくとき、その水晶が光を帯びて警告してくれる、と。
 正面の闇が大きく揺らいで立ち上がったように見えた。首飾りの水晶が放つ光が強くなった。エレノアは最初それを灰色羆かと思ったが、目の前に現れた巨大な獣は大きな翼を持っており、彼女を包み込むかのようにそれを拡げた。
 エレノアはシバリスから渡されていた、神の祝福が与えられた小振りの剣を抜いた。その獣は短く尖った嘴から長い舌を吐き、剣を握ったエレノアの右手首に巻き付けた。握力を失ったエレノアの手から、剣が腐りかけた落ち葉の上に落ちる。ほとんど黒に近い暗い灰色の翼がエレノアを包み、獣の顔がエレノアに迫った。
 鳥。それも、巨大な梟に見えた。嘴の上の眼がエレノアを覗き込んだ。虚ろな感情のないその眼球は、死そのものを連想させた。エレノアの肌が粟立った。急激に意識が遠のき、身体の力が抜けていく。どこか遠くで、微かに呪文を呟く男の声がしたような気がした。黒いフードを被った太った蝦蟇を思わせる男の姿が瞼の裏に浮かんだ。
 エレノアは意識を失い、柔らかい腐葉土の上に倒れた。梟は巨大な鉤爪でその身体を掴み、大きく羽ばたこうとした。
 その時、ひゅっ、と空気を鋭く切って飛んできた手斧が梟の額に食い込んだ。梟は掴んでいたエレノアを落とし、甲高い鳴き声を上げて身体を捩じった。
 梟の正面から真っ直ぐに走ってきたラードルは、右手に持った戦斧を振り被り、梟の胸に叩き付けた。そのまま体重を乗せるようにして腹まで縦に切り裂く。素早く戦斧を引き抜いて、怯んで姿勢が低くなった梟を横薙ぎした。
 梟の首が飛んだ。同時に黒い水蒸気のようなものが巻き上がって宙に舞い、巨大な梟の姿がみるみるうちに霧散した。梟の甲高い断末魔の鳴き声は、人のかすれた叫び声に変じた。
 枢機卿カルドール・ハルバトーレは、覗き込んでいた黒水晶が粉粉になると同時に、弾かれるようにその場から吹き飛び、床に尻餅をついた。水晶の欠片が額を傷付け、そこから幾筋もの血が鼻の横に伝わって流れ、ローブの襟を汚した。
 「宵闇の刃」がエレノアを拉致することに失敗しただけでなく、神の呪詛の力で召喚した魔物も何者かによって斃されてしまった。カルドールはローブの裾で額の血を拭いて立ち上がり、粉々になった水晶を足で何度も踏みつけた。しばらく罵り声を上げながらそうしていたカルドールだったが、突然壊れた人形のように、教皇の居室にある象牙飾りの椅子にぐったりと身体を預けた。
 ラードルの足下に、首のない齢を経た小さな梟の死骸が転がっている。ラードルは足でこれをつついて反応がないことを見極めると、地面に転がっている手斧を拾った。梟の死骸の隣に横たわっているエレノアをそっと抱き起こし、背負う。
 ここに留まっていてはいけない。ラードルは既に数人の足音が近くまで迫っていることを聴き取っていた。修道院を包囲していた男たちであろう。ラードルはエレノアを背負ったまま、森の中を抜ける風のようにその場から走り去った。

二十七

 王城の西側に隣接した区画は官吏や軍の高官たちの館が建ち並んでおり、南側に拡がる上級貴族の邸宅の壮麗さに比べると質素ではあるが、落ち着いた清潔な佇まいを見せている。月明かりと控えめなオレンジ色の街灯が街並みに趣を添えており、そのもっとも南、目抜き通りであるメイヌ・タレラートに面した枢密院議長ダルシア・ハーメル邸は一枚の絵を思わせる美しさであった。
 広い居室には色味を抑えた渋い絨毯が敷き詰められており、据え付けられている背の高い暖炉ではときおり薪が弾け、小さな炎が幾つか散っている。スロートまで長く延びた炎はナスターリア・フルマードの影を壁から天井にかけて黒々と映しだし、灰になった薪が崩れるとその影が大きく揺れた。
「最後に君とこうやって話をしたのは、いつだったろうね」
 ダルシアは年代物のイール酒を硝子の杯に注ぎ、長椅子に腰掛けている普段着姿のナスターリアに手渡しながら言った。グラスを渡した手でナスターリアの肩に触れ、そのまま彼女の背中を撫でた。
「やめて」
 ナスターリアは、一瞬、何年かぶりに蘇ってきたその感覚に耐え、腰まで降りてきたダルシアの掌を右手で払いのけた。ダルシアは苦笑しながら、手にした自分の杯をひと息に飲み干した。
「まだ父上が亡くなったことを、私のせいだと思っているのかい?」
 ナスターリアは黙ったまま暖炉の炎を見つめた。彫りの深い相貌を、炎の影がより一層引き立てている。
「あの作戦を将軍に上奏したのは、確かに私だ。だが、計画通りに作戦を遂行しなかったのは、君の父上の方だ。私が立案した通りに進めていれば、誰一人として我が軍からは犠牲は出さなかったはずだよ」
 ダルシアはイール酒を自分の杯に注ぎながら言った。
「辺境の村を丸ごと囮にし、村人を犠牲にして敵を殲滅する作戦などに父が従うと思ったのか?」
 普段は情熱的な炎のような光を宿しているナスターリアの瞳が、冷たく青い光を帯びた。
「あれは軍事作戦だったんだよ。父上のお気持ちは一市民としては理解できるが、作戦自体参謀本部によって正式に検討され承認されたものだった。軍人である以上、私情に囚われず命令に服すべきだったと思うがね」
 ダルシアがそう言い終わるか終わらないうちに、ナスターリアの平手が飛んだ。
「君は野薔薇だ。美しいが、棘が鋭すぎる」
 ダルシアはナスターリアの掌を受け止めるとその横に座り、耳元で囁いた。
「そういうところに私は魅かれたんだ。君は信じてくれないかも知れないが、私は未だに君のことが忘れられない」
 ダルシアの声は高くもなく低くもない。ただ、身体の芯に直接響く。
「母上を軟禁している男の吐くセリフではないな」
 いつもの私を取り戻せ。ナスターリアは自分に言い聞かせながら辛うじて言葉を発した。
 この男の甘い言葉は毒蜂の蜜だ。王都にいた頃、まだ小娘だった自分にはそれが分からなかった。だが、今は分かる。この男は、人ならば当然持っているべき愛とか情けといった感情が欠如しているに違いない。おそらく、他人どころか、自分自身でさえ愛することもないのではないか。
「軟禁とは人聞きが悪いね。君の母上は父上を亡くされてから精神的にも肉体的にもずいぶん弱っておられたぞ。それが分かっていて王都に帰ってこなかった君が、私を非難するのかい? 母上は、私の保護なしでは父上の後を追われたかもしれなかったんだよ」
 ナスターリアは心臓を鷲掴みにされたような気がした。どのような戦いでも、どのような敵でも決して怯まぬ自信があるナスターリアだったが、今、彼女はダルシアの言葉に激しく動揺していた。
「全て私に任せておけばいい。何も案ずることはないんだ。君の母上は、単に私が衷心から保護差し上げているだけだ。他意はない。今回のことも、私には君が辺境で挙兵しないことは最初から分かっていたよ。きっと王都に戻ってきてくれると信じていた」
 干葡萄を数粒摘んだダルシアは、その幾つかは自分の口に、残りをナスターリアの口へ差し出した。部屋は汗ばむほど暖まってきており、仄かに鼻腔を擽る白檀のような香りが心地よく漂ってきた。ナスターリアは思わずダルシアの差し出した干葡萄を口にした。
 ダルシアの指を口の中に感じたとき、ナスターリアの頭の芯で濃厚な蜜の塊が弾けた。溶け始めた蜜はナスターリアの頭の中から溢れ出し、その肢体をゆっくりと包み込んでいった。
 たとえそれが毒蜜であったとしても、もう手遅れだった。ナスターリアの心と身体は痺れ、ダルシアの見た目より逞しい両腕に抱き締められてもそれに抗うことは出来なかった。ナスターリアは目眩く感覚に身を任せ、静かに眼を閉じた。
 鳥のさえずりで目が覚めた。ナスターリアは自分がどこにいるのか、最初は分からなかった。
 狭い窓から差し込んでくる眩しい朝の日差しが、そこがダルシアの寝室であると気付かせてくれた。と同時に、言いようのない自己嫌悪の波がナスターリアを襲った。傍にダルシアはいなかった。
 シーツに身体をくるんだまま、寝台から落ちるように滑り降りたナスターリアは、乱れた豊かな赤毛を左手で掻き上げ、扉の脇に据え付けられている大きな鏡に自分の姿を映してみた。気分は最悪であるにもかかわらず、普段より輝き上気した肌は、右の乳房に斜めに刻まれた刃創以外はナスターリアを数年前に戻したかのようであった。ナスターリアは、深い溜め息をついた。
 今日は王城に上がってアマード王に拝謁しなければならない。病の床から出てくることができていれば、の話だが。
 ナスターリアが王都に帰ってきた時には既にアマードの衰弱は激しく、事実上政務を執り行うことは不可能であった。今日まで拝謁が遅れたのはそれが原因だが、病状はむしろ悪化していた。
 ナスターリアは、王城に行ってもう一つやらなければならないと考えていたことがあった。それは、あの村外れにあった修道院で出会った老騎士と話をすることである。シバリスと名乗ったあの老人が、聖堂神殿の円卓でかつて最高位にあった騎士であることは城に残されている文書からも裏付けがされた。
 王都に帰還した後、ナスターリアは砂漠の都市カルサスで起きたことを全て将軍とダルシアに報告したのだが、不思議なことに彼らはあまりそれに興味を示さなかった。ナスターリアは、カルサスの聖堂神殿で起きていた異変について、あの老騎士の意見を聞いておきたかったのだ。
 脱ぎ散らかされた着衣を再び身に付けたナスターリアは、用意されていた朝食をとることもせず、使用人たちの好奇の目に見送られながらダルシアの館を出た。ダルシアは既に登城しているとのことだった。
 目に鮮やかな赤毛を自然に肩から背中に流し、タイトな白いローブに緋色のサーコートを纏った一見貴婦人に見えるナスターリアが、愛用の剣を身に付けて街を歩いている姿には、街ゆく誰もが思わず振り返らずにはいられなかった。
 ナスターリアの父親の館は、目抜き通りのメイヌ・タレラートから少し離れた王城に接する区画に現存していた。母親は、今はこの館には住んでおらず、ダルシアが言った通り彼の営む施療院の一つに収容されている。
 もちろん、王都に戻ってすぐ母親には会いに行ったのだが、別人のように衰弱した母親はナスターリアを見てもそれが誰であるかを認識できなかった。やはり、昨年帰ってきておくべきだったのか。ナスターリアは悔やんだ。
 ナスターリアは父親の館で鎧とフード付きのマントに着替えた。髪を後頭部でまとめて王国兵士士官の正装となり、王城へ向かった。

二十八

 王城に着いたナスターリアは城の裏手にあたる北の通用門からシュハール川に面した兵士用通路を通って石の階段を上がり、守備兵の溜まり場を経由して南東の螺旋階段を上がったところにある政務室に入った。ナスターリアの勇名は城内にも轟いているようで、すれ違う兵士たちがみな立ち止まってナスターリアに敬礼した。
「陛下との謁見は難しそうだ」
 政務室に入ったナスターリアに、表情を変えることなくダルシアは告げた。
「先ほど侍医から報告を受けたのだが、衰弱が激しくとても人と会える状況ではないらしい」
「お歳を召されたとはいえ、そのように急に病状が悪化されるなんて……。一昨年の辺境守備隊謁見の儀の際は、国境まで下向されるほどお元気であらせられたのに……」
 ナスターリアは、にわかに信じ難い気持ちであった。ナスターリアの知っている王は、老いたとはいえなお「獅子賢帝」と呼ばれた風格と権威に満ちていた。
「こうなると、お世継ぎについても早急に手を打たなければならない」
 ダルシアは隣に立っているカルバス将軍をちらりと見ながらナスターリアに言った。
「拉致されたエルサス殿下を早急に奪還せねばならん。陛下に万が一のことがあれば、エルサス殿下はただ一人の王位継承者だからな」
 沈痛な面持ちで将軍は言い、そしてナスターリアに向き直って言葉を継いだ。
「ナスターリア・フルマード、貴公を王都守備隊副司令官に任ずる。今朝の幕僚会議において、私の推薦で発議し満場一致で昇進が決まった。また、以前送った命令書に従わなかったことは不問に付す。その代わりに貴公には新たに重要な命令を受けてもらおう。エルサス殿下の奪還について、貴公に指揮を執ってもらいたい。必要な人数は集める。すぐに発ってくれ」
 ナスターリアは将軍に向かって最敬礼し、言った。
「ありがとうございます。謹んで拝命いたす所存でございます。殿下奪還に必要な兵員ですが、ラードル隊長の鷹嘴隊の者を数名貸していただければ十分です。また、殿下と聖堂騎士を追うためにも、あのシバリスという老人とラードル隊長が連れてきた娘と話をさせていただきたい。何か手がかりを知っている可能性が高いと考えます」
 シバリスは王城の地下牢に投獄されていた。エレノアは牢ではないが厳重に見張りのついた塔の一室に監禁されている。
「あの二人については、既に尋問官が尋問を始めている。なかなか口を割らないらしいが」
 ダルシアが唇の端を歪めて、言った。
「あの老人は元円卓の騎士です。強制的な拷問は逆効果かと存じます」
 ナスターリアは将軍の眼をことさら意識して応えた。
「そこまで言うなら、ここは副司令官に任せてみよう、ダルシア議長。全ては殿下奪還のためだ」
 カルバス将軍はダルシアに言った。
 ダルシアの眼に拒否の色が走ったことをナスターリアは見逃さなかった。何故ダルシアは、私があの老人たちと話をすることを望まないのだろうか。ナスターリアは表情を変えずに思った。
「閣下のお考えのままに」
 ダルシアもすぐにいつもの表情に戻り、一礼しながら言った。
 ナスターリアは側塔から続く長い螺旋階段を降りて獄舎の入り口に向かった。狭いが分厚い扉の前に上半身の筋肉が異様に発達した獄吏たちが座っており、ナスターリアを嘗め回すように見た。
 ナスターリアはダルシアのサインの入った通行許可証を見せて獄舎に入った。獄舎には灯りがなく真っ暗で、獄吏の溜まり場に架けられている数本の蝋燭が唯一の光源であった。獄吏はその蝋燭の一つを手にすると、ナスターリアの先に立って獄舎の奥に進んでいった。
 ナスターリアは獄吏の後について、彼が右手に持っている蝋燭の火だけを頼りにシバリスの牢の前まで歩いていった。獄吏から蝋燭と鍵を受け取り、身振りで持ち場に戻るよう指示した。
 ナスターリアは牢の中を蝋燭で照らした。シバリスらしき人影は薄汚れた粗い布にくるまり、堅そうな木製の寝台に横たわっていた。
「シバリス殿。起きておいでか?」
 ナスターリアは牢の鉄格子越しにシバリスに声を掛けた。寝台の上の影が微かに動いた。蝋燭の灯では牢の中を全て照らすことは出来ず、シバリスの様子はしかとは分からなかった。
「お話したいことがある。入ってもよろしいか?」
 ナスターリアは再びシバリスに話しかけたが、シバリスから返答はなかった。
 しばらく間を置き、牢の鍵を開ける。念のために腰の剣に手を添えながら、慎重に寝台に近付いていった。蝋燭を掲げてシバリスを包んでいる布をめくった。
 修道院で着ていたローブも剥ぎ取られ、古びた腰巻きだけの姿で横たわっているシバリスの背中に、古い剣創だけではなく最近付けられたであろう、生々しい傷跡がいくつも刻まれていた。顔は青黒く腫れ上がり、眼は潰れて見えなくなっているようだ。手足の指は一本一本折られており、拷問の激しさを容易に想像させた。
 ナスターリアはむしろ怒りを覚えて思わずシバリスを抱きかかえた。尋問官の馬鹿どもに拷問を許可したのは将軍か、それともダルシアか。左手でシバリスの頬を撫で、固まってこびりついた血痕を拭った。喋ることは出来るように歯は折られていないようだ。
「シバリス殿、しっかりなされよ! このような仕打ち、なんとお詫び申し上げればよいか分からぬ。私がここにお連れしたばかりに……」
 何故かは分からないが急に胸に込み上げてくるものがあり、ナスターリアは思わず涙で言葉を失った。唇を強く噛む。
「……あなたが謝ることはありませぬよ……」
 シバリスが呼吸の隙間から辛うじて声を絞り出した。
「シバリス殿!」
「お若いのに大したものだ。あなたの剣は、私ではとうてい躱し切れまい。太刀筋はお祖父様ゆずりですな……」
「祖父を、祖父をご存知なのですか?」
 ナスターリアは驚いてシバリスの顔を見直した。
「かつての王国軍大将、サルマドフ・フルマード。若き日に何度かお手合わせいただきました。素晴らしい人物であられたよ」
 シバリスの声は笑っていた。ナスターリアはあまりの意外さに言葉が出ない。
「確か、ナスターリアと申されたな。あなたにも、まだ赤ん坊のころですがお会いしたことがありますぞ。大きく……そして立派になられましたな……」
 そのシバリスの声を聞いた時、ナスターリアは決断した。
「シバリス殿、どうかお聞きください。私は将軍閣下よりエルサス殿下を拉致した聖堂騎士を追う勅命を得ました。王国軍兵士としては、その命に背くことは出来ません。しかし、どうしても私には貴公が手塩にかけて育てられたマリウスという騎士が、本当に殿下を拉致したとは思えないのです。円卓の騎士の最高位にあられた貴公の薫陶を受けた男が、謀略を働くということが信じられません」
 ナスターリアは半ば本気で、そして半ばシバリスの信頼を得てその言葉を引き出すために、静かにしかし熱意を込めて話した。
 シバリスは大きく頷いた。そして、言った。
「……言葉を作る必要はありませんぞ。もとより、あなたには本当のことをお話するつもりでおりましたゆえな……」
 ナスターリアは人さし指を唇に当ててシバリスの言葉を遮った。抱きかかえていたシバリスを一度寝台に戻し、牢の鉄格子まで戻って獄吏たちが聞き耳を立てていないか様子を窺った。こちらに注意を払っている気配はない。
 再び寝台のシバリスを抱きかかえ、耳元で囁いた。
「私も貴公に聞いていただきたいことがあります。王都に向かう途上、シドゥーラク州の州都カルサスで……」
 ナスターリアとシバリスの会話はそれから一時間ほど続いた。
 獄舎を出たナスターリアは、王城の円塔にある部屋の一つに囚われている少女、エレノアの元を訪れた。ドワーフのゲリラ部隊隊長ラードルとその配下も一緒だ。
 尋問官はエレノアを拷問するべく準備をしていたが、ナスターリアはこれを禁じた。王都を不在にしている間、エレノアとシバリスに危害が及ばないよう、ラードルの配下を護衛を兼ねた見張りに仕立て、ナスターリアは、聖堂騎士マリウスを追ってその日のうちにラードルとともに王都を後にした。
 辺境守備隊小隊長ニア・サルマの命を受けた兵士がその書簡を持って王都に到着したのは、その直後のことであった。

二十九

 ファールデン王国の版図は、古くは王都アルバキーナの近くを流れるフォーラフル川より東の広大で豊かな森林地帯まで広がっていた。
 緑の木々と湖、獣たちの生命に溢れた鬱蒼たる広葉樹林帯であった東ファールデンは、ファールデン紀五五〇年に勃発したボードゥル戦争により、その様相を一変させてしまった。王朝開闢以来、最大最悪の土着信仰宗教同士の内戦は、東ファールデンの多神教を奉ずる「森の民」と、当時はまだ正邪両方の神格を併せ持つフォーラ神を奉る西ファールデンからの移住者との間で勃発した。
 東ファールデンの土着民族であった森の民は、火の神、水の神、風の神、そして木の神を主神とする自然崇拝民族であり、「森の静者」を神の代行者として崇める人々であった。その生活は素朴で、気性が穏やかかつ従順であったため、ファールデン王国始祖アグランドもこれを尊び、決して武力を行使することはなかったという。
 その森の民の少女たちが立て続けに行方不明になったのは、ファールデン紀五四五年が明けて直ぐのことである。最初に発見されたのは、東ファールデンの背骨と言われたカラルレン山麓にある村の娘であった。父親とともに狩りに来ていた十歳の少年が彼女の遺骸を見つけた。
 当時のカラルレン山麓は緑豊かな森林であったが、野生動物も多く、その幾つかは灰色羆のように獰猛な肉食動物であり、猟師など狩りを営む者を除いて村人は決して一人では森に入ることがなかった。その少年は父親とはぐれ、一人で山麓を彷徨っていた。
 夕暮れが迫り、進むべき方向を見失っていた少年は、自分の胴体の何倍もある樹木が生い茂る樹海へ足を踏み入れていた。その中でも塒を巻くようにうねっているひときわ巨大な樹の裏側にぽっかりと開いた洞(うろ)への入り口があった。少年はこの洞で夜を明かし、朝を待とうとした。
 その洞は思いのほか深く、洞窟のように地下まで続いていた。少年が洞の奥に足を進めていくと、猟師である父親が若い鹿を捌いたときと同じような血と肉の匂いがした。
 少年は、樹の中にできた坑道のような狭い通路から、突如ひらけた広い洞に出てきた。部屋の中央には異形の石像と平たい巨石を積んで作られた祭壇があった。
 遺骸はまだ新しかった。祭壇の上で仰向けに横たわっているその頭は切断され、首の下から臍のあたりまで鋭利な刃物で切り裂かれていた。内臓は取り去られており、祭壇の周りの器に盛られている。祭壇の脇にある大振りの金色の杯の上に長い髪の頭部が置かれていた。
 恐る恐る近付いた少年は、その場に凍りついた。その頭は自分と同じ村に住む少女のものであったのだ。
 森の民の娘たちが勾引かされ荒ぶるフォーラ神の生贄にされる事件は、それからも東ファールデン各地で相次いだ。ついに耐えかねた森の民の一部の若者たちがフォーラ神殿を次々と襲って破壊し、司祭と修道女を惨殺するという事件に発展していった。
 当時のフォーラ信仰の中心は、北の最高峰チェット・プラハールにある古い寺院跡に建立された神殿であった。その最高位にあった聖堂神官は森の民に対する聖戦を宣言、東ファールデンをフォーラ神の名の下に浄化することを決めた。
 民族浄化は常に大量殺戮を伴う。荒ぶるフォーラ神の呪詛の力によって人間性を失った信者たちはただ殺戮を目的とし、聖戦という名の下に編成された遠征軍には一抹の憐憫の情もなかった。森の民はほぼ全滅し、根絶やしとなった。
 森の民の激しい抵抗を抑えるために使われた神の呪詛によって、東ファールデンは荒廃し、呪われた土地となった。かつての緑の森は姿を消し、その大半が灰色の濃霧に覆われた、異形のものが蔓延る冥府の森と化した。
 ドルキン一行は、白狼姿のキースに跨がって進むカミラを先頭に、白い骨のように痩せ細った木々と乾いた灰色の大地が一面に広がる森の残骸の中を進んでいた。森とは名ばかりで緑の木が一本もない。辺りは濃い霧に包まれており、既に夜は明けているはずなのに薄暗く見通しが利かない。
 最後尾をミレーアと並んで歩いていたエルサスは、ふと左に見える背の高い木の根元に、白い影がぼんやりとうずくまっているのに気付いた。白いワンピースを着た黒い髪の少女に見えた。後ろ姿だが、背格好がエレノアによく似ている。
 エルサスは招かれるようにその白い影に近寄っていった。少女は肩を震わせて泣いているようであった。
「その影に近付いてはならぬ」
 カミラが鋭く、叫んだ。
「えっ」
 エルサスがカミラの方に顔を向けたその時、小さな少女の形をしていた白い影が突如どす黒い影と化して大きく立ち上がった。ミレーアが慌ててエルサスの腕をつかんで抱き寄せるのと、渦巻く黒い影がエルサスを襲ったのがほぼ同時であった。
 カミラの樫の杖から白く眩しい光が発せられ、エルサスとミレーアを包んだ。黒い影はその光りに激しくぶつかり、そして四散しながら大きく弾き返された。
 黒い影は再び一つになると、両手を広げるように大きく拡散し、ミレーアとエルサスを護るその光の周りを遠巻きに窺い、そしてしばらくして消えた。
「い、今のは」
 エルサスが生唾を飲み込み、慌ててミレーアから身体を離しながら訊いた。
「かつての森の民の魂……かつてお前たちが起こした忌まわしき戦いで用いられたフォーラ神の呪詛によって森の民は滅亡したのじゃ。呪詛で呪死した者は呪われた存在となり、永遠に霊魂としてこの世を彷徨う。うかつに近付くと取り憑かれ、彼らと同様呪死することになるのじゃ」
 カミラが囁くように説明した。エルサスの背筋に冷たいものが走った。目を凝らすと、森のそこかしこに濃い灰色の影が漂っている。
「我が『大地の恵みの力』を持ってすれば、彼らは我らに近づけぬ。そちの神の祝福でも彼らを除けることが出来よう。だが、無闇にこちらから近付かぬことじゃ」
 カミラはエルサスを見、ついでミレーアに視線を移して言った。
 呪われた森はますます深くなり、緑の森であれば樹海と言えたかも知れない。しかし、乾いた枝が白骨を想起させるこの景観は、果てしなく寂寞とした寒々しいものであった。
 進むにつれて、辺りには灰色の霧が更に濃く満ち、昼間であるにもかかわらず宵闇のようだ。ドルキンは松明を火打金と火打石で灯すと、一つはマリウスに渡し、一つは自分の左手で持った。しかし、普通の闇と違って思ったよりも明るくならない。
「そろそろ、聖堂神殿が近い。この道はかつての参道だな」
 ドルキンが足元を指さしながら言った。
 痩せ細った白灰色の木々と寒々しいだけの風景が、少しずつ変わってきた。道のところどころに明らかに人の手による石造りの像や石畳の欠片が転がっており、しばらく進むと道の両脇にドルキンの背の丈より高い大理石の円柱がいくつも並び始めた。一行は、参道に沿って立つ円柱の間をゆっくりと進んでいく。
 神殿の参道をさらに進むと、荒れ果てた広場に出た。風化してほとんど廃虚と化し、辺りを漂う亡霊たちに侵食され尽くしたかのような白色の建造物が細い木々に囲まれており、濃い鉛色の空と不吉なコントラストを見せていた。スヌィフト聖堂神殿だ。
 ドルキンは堅く閉ざされた門に手を触れ、この不吉な神殿を見上げた。灰色の雲に包まれた尖塔の先端で微かに雷が瞬くのが見えた。門は冷たく体温を奪い、ドルキンの吐く息が白くなってきた。
 氷のように凍てついた門を両手で押してみると、びくともしないかと見えた門が、意外にも滑るように開いた。
 ドルキンは腰からサルバーラの水晶の剣を抜いた。呪詛で死んだ霊は普通の武器では除けることが出来ない。祝福儀礼を与えられた武器か、あるいは聖堂神殿に奉じられた聖なる武器であれば霊を退け滅することが出来る。宝斧でも効果はあるはずだが、素早く扱えて手元のコントロールがやりやすい方を選んだ。
 ドルキンは神殿の敷地へ一歩足を踏み入れた。黒い珠のような石を敷き詰めた参道が、聖堂への入り口の扉まで続いている。
 辺りを警戒しながら慎重に聖堂の入り口まで進む。マリウスは、全員が中に入ったことを確認してから一番最後に門をくぐった。
 カミラが突然悲鳴を上げた。
 上空から風のように現れた青白い光の玉は、カミラを包み込むと、その小さな身体を空中に持ち上げた。勢いで蒼いフードが外れ、銀色の短い髪ととがった耳が顕になった。キースが牙を剥き光の玉に素早く噛み付いたが、その鋭い歯は空を噛む。光の玉は、そのままもがくカミラを連れ去り、神殿の尖塔の方へ消えた。
 今度はエルサスが叫び声を上げた。別の光の玉が同じようにエルサスを包んで、彼の身体を空中に持ち上げたのだ。
 エルサスの脚を掴もうとしたマリウスも、また別の光の玉に取り付かれ、それから逃れようと激しく身を捩る。ドルキンが剣でマリウスを傷付けることがないように、身体すれすれの間合いで水晶の剣を振るった。水晶の剣の一撃を受けた光の玉は、甲高い女の叫び声を上げて四散した。
 マリウスに取り憑いていた光の玉は消えたが、エルサスを包んだ光の玉はそのまま彼を神殿の尖塔へ連れ去ってしまった。マリウスは舌打ちし、雷光が奔る尖塔を睨み付けた。
 武器を円卓儀礼で祝福を与えられたメイスに持ち直したマリウスと水晶の剣を手にしたドルキンは、しばらくその場で辺りの様子を窺ったが、光の玉が更に現れることはなかった。
「今のは、一体……」
 マリウスが周囲に目を配りながら言った。
「二人を連れ去ったのは濃い灰色の影ではなかったし、森の民の魂とは異なる力を感じた。恐らくこの聖堂神殿で復活を遂げた魔物だろう。尖塔には祭壇と神室がある。先を急いだ方が良さそうだ」
 ドルキンは言い、聖堂の石造りの扉を両手で押して開け、中の様子を窺った。聖堂の内部は思ったよりもきれいで、ドルキンの姿が鏡のように床と壁面に映し出されている。
 聖堂は緩やかな傾斜の螺旋回廊になっており、上階にある神殿の尖塔へと続いているようであった。青白い炎の点いた蝋燭が一定間隔を置いてぼんやりと壁に灯されている。蝋燭ではなく死者の魂なのかも知れない。それほど熱を感じさせない光であった。
 ドルキンは扉の外を振り返り、マリウスに入ってくるように目配せした。マリウスは軽く頷き、霊たちの襲撃に備えてミレーアを後ろから抱きかかえるようにし、聖堂の中へ入っていった。キースがその後に続く。
 永遠に続くように見える鏡の通路とその脇の壁に青白く浮かび上がる炎は、時間の感覚を麻痺させ、天地が逆になってしまったような錯覚を抱かせた。

三十

 緩やかな坂になっている螺旋の回廊を神殿の内周に沿って登っていくと、広い拝殿に出た。
 中央のフォーラ神像の上に大きなぼんやりとした青白い光の玉があり、ドルキンたちを見つけるといくつもの小さな光の玉に分かれた。キースが低く唸り警戒の声を上げた。ドルキンとマリウスは武器を構えた。
 次の瞬間、小さな光の玉が次々とドルキンたちを襲ってきた。ドルキンは水晶の剣で応戦しようとしたが、動きが素早く、身体の周りを纏わり付くように動くのでなかなか剣で捉えることが出来ない。子供のからかうような笑い声が響き渡った。
 邪霊を除ける守護の祝福を詠唱しようと手を上げたミレーアに、小さな光の玉が群がった。青色の光に包まれて動きを封じられる。詠唱が出来ない。
 ドルキンはミレーアを包んでいる光に向かって水晶の剣を振るおうとしたが、その剣を握る右手に同じように光の玉が群がり、それを封じようとした。マリウスがメイスでドルキンの手に纏わり付いた光の玉をたたき落とす。そのままミレーアの全身を包む光の玉にもメイスを振るおうとする。しかし、光の玉があまりにも薄くミレーアを包んでいるので迂闊に攻撃するとミレーア自身を傷つけてしまいそうだ。マリウスは逡巡した。
 ふと、前方の祭壇の上に二つの影が立ち上がった。一つはカミラ。もう一つはエルサスのものだった。
 カミラが右手の樫の杖を頭上に翳し、口の中で呪文を唱えた。鏡のように磨き上げられた床の上にどす黒い泉のようなものが幾つか湧き出で、冷たい溶岩のようにぼこぼこと泡立った。
 不浄が溢れたような泉から黒いローブとフードを纏った骨と皮ばかりの異形が生まれ出でるように現れた。両手で長く湾曲した鎌を持っている。三日月の形に弧を描いた、月の光のように冷たい光を放つその刃先が、ドルキンとマリウスを襲った。
 一方、エルサスは腰に差していた剣を抜いて両手で持ち、動きを封じられているミレーアに向かってふらふらと近付いて剣を振り上げた。見開かれた眼は虚ろで、光がない。
 キースがカミラに向かって走ったが、カミラの杖から閃光が走り、キースを直撃した。白い身体に血が散り、キースは祭殿の壁際まで吹き飛んだ。
「いかん、二人とも憑依されている」
 ドルキンは黒いフードの異形が繰り出す攻撃を姿勢を低くしながら避け、まずエルサスに体当たりした。しかしエルサスは怯むどころか、むしろドルキンの方が彼に払い倒された。水晶の剣がドルキンの手から飛んで落ちた。
 エルサスはドルキンに向き直り、馬乗りになった。少年とは思えない力で首を締めつける。ドルキンは背中の大斧に手を伸ばしたが、相手はエルサスだ。大斧だと手加減が難しい。
 かつてボードゥル戦争で最も悲惨だったのは、「憑依の呪詛」であった。呪詛で生まれた悪霊たちが森の民に憑依し、悪霊によって呪死させられた犠牲者たちは己も悪霊と化して同族を襲った。父親が子を襲い、娘が母親を襲う凄惨な仲間同士の戦いとなった。
 しかも呪死した人間はさらに他の人間へ憑依するために、瞬く間に東ファールデン全域に呪死と憑依が拡がった。凶悪な遠征軍たちによる蹂躙よりも、速く、確実に森の民を根絶やしにしたのだった。
 異形の者が次々と振り下ろしてくる鎌の攻撃を祝福儀礼が与えられた大盾とメイスで躱していたマリウスは、じりじりと後退りしながら悪霊たちに縛められているミレーアに近付いていった。この絶対的な不利の状況をなんとか打開するためには、まずミレーアを救出して守護の祝福を発動してもらう必要がある。しかし、この状況でミレーアを全く傷付けずに、悪霊だけに攻撃を加える自信はマリウスにもなかった。
 マリウスは横薙ぎに頭部を攻撃してきた黒いフードの異形たちに向かって大盾を投げつけ、異形たちが一瞬怯んだ隙をついてミレーアに突進した。青い光に包まれているミレーアをそのまま強く抱きしめた。
 確信はなかった。しかし、マリウスの白金の鎧はメイスや盾と同様に祝福儀礼を受けている。祓魔の効果があるかも知れない。
 果たして、ミレーアを包んでいた青い光の玉の群れは、背筋が凍るような甲高い悲鳴を上げて、マリウスの腕や胸の間から引き千切られるように四散し、霧消した。
「大丈夫か?」
 マリウスはミレーアに言った。
「く、苦しいです……」
 マリウスに強く抱きすくめられたミレーアは、顔を赤らめて呟いた。その瞬間、大きな鎌が二人を襲った。
 マリウスはミレーアを拝殿の脇にある天鵞絨の幕に向かって突き倒し、自らは背負っていた斧槍を手に取り、その柄で振り下ろされた二つの鎌を受け止めた。無論、この斧槍も祝福儀礼が与えられている。同時に、左手に握っていたメイスをミレーアへ向かって放り投げた。
 華麗な刺繍が施された幕から起き上がったミレーアはメイスを受け取り、それを両手で構えながら光の玉を牽制し守護の祝福を詠唱した。暖かいオレンジ色の光がミレーアを覆い、青い光の玉たちはミレーアに近付くことが出来なくなった。
 その状態でミレーアは別の祝福を唱え、左手に生じたオレンジ色の淡い光をドルキンとエルサスに向かって投げつけた。ミレーアの手から放たれた祝福の光はエルサスを直撃した。
 ドルキンの首を締めつけていたエルサスは一瞬怯み、ドルキンから手を放した。ミレーアが自由になっているのを一瞥すると、そのまま拝殿の外へと駆け出していった。
 身体を起こしたドルキンは水晶の剣を拾い、その後を追う。ミレーアの祝福が使える状態になっているのであれば、ここはマリウスだけに任せて大丈夫だろう。
 憑依されたエルサスは、尖塔の最上階にある拝殿から螺旋回廊を一階の聖堂に向かって駆け下りた。少年の足とは思えないほど速い。
 複数の青白い光の玉が空中に生じ、ドルキンめがけて襲ってきた。ドルキンは水晶の剣を左手に、大斧を右手に持った。光の玉を左手の剣で斬り払い、払い切れないものは斧の刃で防ぎながら走った。
 斬り払われた光の玉は次々と甲高い叫び声を上げて飛び散った。剣の隙間をかいくぐった光の玉も、纏わり付こうとするのをドルキンが巧みに防ぐので憑依することが出来ない。
 一階の聖堂に駆け込んだエルサスは、石扉を押し開けて神殿の外に出た。神殿の門から内側の敷地はまだ魔物の領域のようだ。そしてそこには、神殿の中にはいなかった森の民たちの呪死した霊たちがあちこちにたむろしている。
 エルサスは門の手前でドルキンを待ち受けていた。その周りを魔物によって活性化された霊たちが、黒い影と化して盛んに飛び回っている。
 ドルキンはエルサスを傷つけてもやむを得ないと覚悟した。この状況で紙一重の攻撃をすることは不可能だ。憑依されたエルサスをもはや子供とは思わない方がいい。
 ドルキンは両手で大斧を持ち直し、エルサスに向かって走った。憑依して呪死させようと黒い影が一斉にドルキンを襲った。鬼の形相になったドルキンは次々と黒い影を切り裂き、悪霊たちは斧の霊力によって滅せられていった。
 ドルキンが黒い影を引き裂くために振るった斧が、その重みで一瞬の隙を作ってしまう。そこを狙って、エルサスが剣でドルキンを襲った。エルサスには天性の剣の才能があるようだったが、ここではそれがドルキンにとっては裏目に出た。振り下ろした斧を握った上手の右手首をエルサスは的確に捉えて狙った。
 ドルキンは自ら右側に倒れて辛うじてそれを躱した。はやり手加減はできない。
 倒れたドルキンはそのまま受け身をとって一回転し、エルサスの背後に回り込んだ。斧を左手だけで持ち、水晶の剣を右手で再び腰の鞘から抜いた。左腕をエルサスの左脇から首に巻き付け固め、右手の剣をエルサスの首筋にあてがった。エルサスは人間のものとは思えない力でこれに抗った。
「殿下、お許しください」
 ドルキンは心の中で呟き、右手の剣を手前に引こうとした。
 その時、ドルキンは背後に悪霊とはまた違う殺気を感じた。慌ててエルサスの身体を放し、前に蹴った。同時にもう一度地面に自らも身体を投げる。一連の動きは頭で考えたというよりも身体が勝手に動いていた。
 ドルキンがいた辺りを一丁の戦斧が風を切って飛び去り、傍にあった石柱を砕いて地面に落ちた。
「動くな!」
 女の声だ。ドルキンは左足を立て、地面に右膝でひざまずいた姿勢のまま声の方を見た。
 小岩のようにがっちりとした小男がエルサスに走り寄った。女は白鉄の鎧に黒いマントとフードを身に着けていた。

三十一

 カミラが召喚した黒いローブの異形が振り下ろしてくる鎌を両手で持った斧槍で巧みに捌き、マリウスは左側の異形に肉迫した。
 地を蹴ると同時に斧槍を両手で振り上げ、鎌を振り下ろして隙ができた異形の頭上へ振り下ろした。手応えもなく頭から腰の下まで斧槍の斧部分が貫通し、床を砕いて止まった。黒い水蒸気が飛び散るようにしてその異形は霧散した。
 マリウスは、もう一人の異形が背後から自分に迫ってきていることを気配で感じていた。そいつがマリウスに向かって鎌を一閃させた瞬間、マリウスはそのまま斧槍を大きく旋回させてその攻撃を弾き、異形の腰の辺りを横薙ぎに切り払った。異形は黒いローブごと両断され、同じく黒い水蒸気を上げて飛び散った。
 神殿の魔物に憑依されたカミラは再び呪文を詠唱し始めていたが、それよりも一瞬速く、人の姿となったキースが呪文を唱えた。
 カミラとキース、それぞれの手から発した眩しいまでの光の塊がお互いに向かって放たれ、交錯した。キースの発した火の精霊の矢が一瞬速くカミラを直撃し、彼女は背後に吹き飛んだ。キースは呪文詠唱を終えると同時に姿を白狼に変じ、カミラの放った雷の精霊の矢を紙一重で避けていた。
 カミラの姿は銀色のリンクス(オオヤマネコ)に変わっていた。祭壇の脇に倒れて起き上がれないでいるが、腹部が呼吸と共に動いているところを見ると死んでいるわけではなさそうだ。その傍らに駆け寄った白狼は、焦げたカミラの美しい銀色の背を舐めた。神殿の魔物も、人型ではない獣に憑依することは出来ないようだ。
 憑依する主を失った魔物は一つの大きな青い光の玉となってまとまり、祭壇上の空間で揺れ動きながらマリウスの隙を窺っている。
「この魔物は私に任せてください」
 ミレーアが祭殿の中央に進み出た。両手を大きく広げて祝福の詠唱を始める。マリウスがその脇で護っているため、魔物は近付くことが出来ない。
 ミレーアの身体の中心からまばゆいばかりの大量の光が発して、マリウスでさえあまりの眩しさに思わず目を逸らした。
 ミレーアの柔らかなプラチナブロンドの髪が光と共に踊り、彼女の身体が宙に浮いた。瞬く間にその光は祭殿の中を満たした。青い光の玉の魔物が、ミレーアが発した光の渦に呑み込まれた。
 湖に落ちた血痕が薄まって水に混じって消えるように、青い光が少しずつ剥がれ落ちては消え、その後に両手で抱えることが出来るほどの大きさの透明な珠が残された。中心にどす黒い影がとぐろを巻くようにちろちろと蠢いている。これがこの神殿の魔物の本体だろうか。
 マリウスはその珠に近付き、斧槍を振り上げて叩き付けた。その瞬間、その珠は落ちた水滴が弾けるように、四方に散った。
 神殿の中央に屹立している尖塔が真っ白な光に包まれて、灰色の濃い霧で薄暗い夕闇のようになっていた辺り一面が、突然朝が訪れたように明るくなった。
 眼の前に突如広がった白い閃光に、ドルキンとナスターリアは反射的に手で眼を覆った。エルサスを挟んで対峙していた二人は、スヌィフト聖堂神殿の尖塔から発した光が神殿の外に向かって四方八方へと拡がっていくのを見た。天上へ伸びた光が重たい灰色の雲を裂き、その裂け目から青い空が覗いた。
 エルサスに纏い付いていた青い光は消え去り、その周りを蠢いていた黒い影も一つ一つ消えていった。しかし、エルサスは倒れたまま、ぴくりとも動かない。ラードルがエルサスの胸に耳を当て、鼓動を探った。ラードルは身体を起こしてナスターリアを見、首を振った。
「聖堂騎士、ドルキン・アレクサンドル殿とお見受けした。私は王国兵副司令官、ナスターリア・フルマードと申す」
 ナスターリアは、腰から抜いた刺突剣(レイピア)を構えたまま言った。眼は細められ、瞳は冷たく青い光を放っている。
「殿下に何をなされた? なにゆえ殿下を弑し奉った?」
 ドルキンは無言だった。説明をして理解してもらえる状況ではない。
「私は、殿下奪還の勅命を受けて貴公たちを追ってここまで来た。貴公の師匠であるシバリス殿からも話は伺い、だいたいの事情は理解しているつもりだった」
「シバリス師と?」
 ドルキンの眉間に皺が寄った。
「しかし、殿下のお命を奪ったとあれば話は変わる。このまま縛につき、我らと王都まで同道いただくか、さもなければ……」
 ナスターリアの眼が据わり、その光が増した。じりじりとドルキンに近付いてくる。いつの間にかラードルがドルキンの背後に回っていた。
 ドルキンは静かに間合いを計った。
 ラードルの間合いがドルキンまであと数歩に達した時、右手で水晶の剣を持ったまま地面の砂と小石を握りラードルの顔に向かって投げた。同時にラードルに向かって走る。左手に持った斧で背中を護った。
 小石を避けるために手を翳して一瞬、視界を失ったラードルはドルキンの体当たりをまともに食らった。大きく踏み込んで突かれたナスターリアの刺突剣の刃先が、ドルキンが背中に回した斧に当たって火花が散った。
 ドルキンは左手の斧の重さを活かし、斧頭の近くを握り直してナスターリアの剣を大きく弾き、そのまま振りかぶった斧をラードルに叩きつけた。
 ラードルは辛うじて右手の戦斧でこれを受けたが、戦斧の刃は砕けて大斧がラードルの鎧の右肩に食い込んだ。ラードルがぐっと怯んで動きが止まったところを、ドルキンは右手に持った水晶の剣でそのブーツごと右ふくらはぎを刺し貫いた。
 ナスターリアは刺突剣を弾かれて少し仰け反ったためにラードルをフォローするのが一瞬遅れた。改めて刺突剣を目にもとまらぬ速さで繰り出した時にはドルキンの体勢は完全に元に戻っており、ナスターリアの突きは全て捌かれた。ラードルは立ち上がろうとしたが、ドルキンの傷の付け方が巧みだったのか立ち上がることが出来ない。
 そこに、神殿の石扉からマリウスとミレーアが出てきた。マリウスはその場の状況を素早く見とると、斧槍を下段に構えた。ナスターリアは数歩後ろに下がって間合いを取り、ドルキンとマリウスの両方が見える場所で構えを取り直した。
「ドルキン様、これは?」
 ミレーアが尋ねた。その後ろから、人の姿をしたキースが気を失ったリンクス姿のカミラを両手で抱きかかえて現れた。
「今、説明している暇はない……」
 ドルキンはナスターリアから眼を離すことなく、ミレーアに言った。ミレーアも緊迫した空気に言葉を呑み込んだ。
「ナスターリア、といわれたな。これだけは申しておく。我々は殿下を拉致していないし弑してもいない。それに、シバリス師と話されたとのことだが、師の仰ったことに偽りはないし我々もその教えに反することは一切しておらぬ。それでもこのまま我々と戦うと言われるのであれば、応じよう。貴公次第だ」
 ドルキンはナスターリアに言い、エルサスを背負って後退りながらその場を離れ始めた。ミレーアたちは先に立つマリウスの後ろに従って、ドルキンとナスターリアを交互に見ながら神殿の門をくぐる。
 ナスターリアは唇を噛み、それを見送るしかなかった。ドルキンとマリウスの二人を相手に勝ちを得る可能性は低かった。ラードルの傷も気になる。
 ドルキンたちの姿が見えなくなると、ナスターリアはラードルに駆け寄った。
「すまん。不覚をとった」
「立てるか?」
 ナスターリアはラードルに肩を貸して立ち上がった。
「治療が必要だろう。お前を一度王都まで連れていく。それからまた彼らの後を追うよ。さすがにシバリス殿が育てた騎士だけはあるな……出来ることなら敵には回したくなかったが」
 ナスターリアはドルキンたちが消えた森の先を見ながら呟いた。暗雲が綺麗に去った空は青く、森は緑の木々に覆われ、姿を一変させていた。ナスターリアのグラウスコーピスの瞳から冷たい光が消え、本来の彼女らしい情熱的な趣が戻ってきた。

第三部

三十二

 ユースリア大陸の南部に広がるファラン海沿岸には、世界でも有数の貿易港の一つであるヴァレリアがある。ヴァレリアはファールデン王国に属しているが、もともとは貿易によって力をつけてきた商人たちが興した自治区であり、唯一、貴族や平民といった身分が廃止され、自由貿易都市として発展してきた特異な歴史を持つ街であった。
 街は貿易商人ギルドによって支配されており、街の規律はギルド協約が国法を含む全ての法に優先する。ヴァレリアでは、貴族領主も神殿司祭もギルドメンバーの一部で、前者は主としてギルドの治安維持を、後者はギルドの守護聖人として宗教的道徳的規律の維持を担っており、ファールデンの中でも良い意味で王国兵と神殿騎士が協力体制を敷いている地域であった。
 ギルド長、アラン・グラディオスは昨夜のギルド会議における神殿司祭からの報告に頭を痛めていた。
 彼はもともと、ファラン海で最大の商船隊の隊長であったが、貴族側からも神殿司祭側からも信望厚く、ギルドメンバーによる選挙において全員一致でギルド長に選ばれた。長年、海風にさらされた灰色の硬い長髪を頭の後ろで束ねたアランは、陽に焼け尽くした鞣革のような肌に刻まれた深い皺と、思慮深い濃い緑色の瞳が印象的だ。
 ひと月ほど前から神殿付近に現れる怪異は治まることがなく、むしろ状況は悪化していた。ヴァレリアの聖堂神殿は、ファラン海の港から西に舟で一時間ほどの海岸沿いの海中に沈む古代フォーラ神殿と、そこから陸に繋がる紀元後増築された聖堂からなる。ある日、枢機卿と司祭が留守をしていた間に、聖堂にいた修道女たちの行方が分からなくなった。そして翌日、海岸に皮膚片の付着した修道服が、行方不明になった人数分漂着した。
 それ以来、沿岸に住む娘が行方不明になり、修道女と同様、着ていた服と皮膚だけが発見されるということが頻発している。最初は人による犯罪という扱いで貴族領主直属の兵士が捜査していたが、そのうちの一人がたまたま、その現場を目撃した。
 彼によると、その化け物は強大で硬い皮膚を持ち、大きな斧のような武器で警邏中の同僚を真っ二つに薙ぎ払ったと言うのである。
 事態を重く見たアランは王国兵士と神殿騎士の協同対策部隊を編成し、その化け物の正体を見極めると共に排除しようとしたが、対策部隊による三度にわたる攻撃は失敗し、かなりの死傷者が出てしまったことが昨日報告されていた。
 これ以上、兵力を費やしてしまっては街全体の維持に関わる。とは言え、このまま手をこまねいていては犠牲者が増えてしまう。既に街の若い娘たちは沿岸から内陸に避難させてはいるものの、この数日では沿岸に限らず内陸部でも被害が発生していた。
 アランはギルドの執務室で深い溜息をついた。両手を胸の前で組み、椅子に深く身体を沈める。彼は以前、建前は商船隊の隊長であったが、実のところファラン海のみならず世界の海を股に掛ける海賊船の船長でもあった。彼の「バルバッソ・スポーン」という別名は、ファールデン以外の国では、神出鬼没の大海賊として知られていた。
 海ではいろいろな怪異が起こる。伝説も数多い。その中で己の目で見ることが出来るものは見尽くしてきた。その百戦錬磨の彼でさえ、今回の怪異については有効な手だてを打つことが出来ずにいた。
 海の上では自ら前線で指揮を執り、数百名の乗組員を自分の手足のように使いこなしていたとはいえ、やはり陸の上で必ずしも以心伝心とは言えない兵士たちを用いることはなかなか難しいのかも知れない。
 深い疲労が彼を包んだ。その時、執務室の扉を叩く者があった。
「入れ」
 アランは姿勢を元に戻して、腹に響く低い声で応えた。
「ギルド長閣下にお目通りしたいと申す者が参っております」
 副ギルド長のコスタスが、髭で覆われた陽に焼けた顔を扉から覗かせた。コスタスもアランの船に乗っていた元副長である。
「誰だ?」
「ドルキン・アレクサンドル」
 コスタスがにやりと笑った。
「何? ドルキンだと」
 執務机の椅子から勢い良く立ち上がったアランは、コスタスを従えて大股に執務室を出ていった。
 貿易商人ギルドの居間はそれほど広くはないものの、調度品はファールデンでは見かけない異国のもので整えられていた。素朴な装飾だがしっかりとしたほどほどの堅さの椅子と、一本の樹から削り出した重厚な円卓が部屋の中心に並べられている。壁には色鮮やかな筆致で描かれた南洋の植物の静物画がいくつか飾られていた。ドルキンはその異国の椅子に大斧を置いて、その傍らに立っていた。
「ドルキン! 久しいな。どうしていた?」
 居間の重い扉を勢い良く開いて、ドルキンに歩み寄ったアランは言った。
「アルム戦役以来だから、十二年……ぶりかな? お前こそヴァレリアのギルド長とは恐れ入ったよ、バルバッソ」
 ドルキンも笑顔でこれに応じ、両手で堅い握手を交わした。
「ここでその名前を呼ぶのは、やめてくれや……」
 アラン、いやバルバッソは、はにかみながら言った。ドルキンはコスタスとも握手を交わした。
 十二年前、ファールデン王国はファラン海を挟んで対岸にあるマニムス公国と一時的に戦争状態になったことがあった。きっかけは教皇庁旗を掲げてファラン海を航行していた巡礼船が、マニムス公国旗を掲げる軍用船に砲撃されたことであった。
 巡礼船は事実上、教皇庁専用の商船であり、各地の神殿からの上納品と貢ぎ物を国外に売り捌いていた。本来、教皇庁は貿易をしないのが建前であったが、実際はこの売り上げが教皇庁の重要な資金源の一つとなっていた。
 このマニムス公国籍の軍用船は、実は海賊が船籍を偽装していたものであったのだが、それが判明するまではファールデン王国とマニムス公国はお互いを非難し合い、一時、一触即発の状態にあった。ドルキンは、被害に遭った船が教皇庁のものであったこともあり、教皇庁の密命を受けてマニムス公国に入って両国間の調停と実態解明の任にあたっていた。その際、協力を仰いだのが当時大海賊として名を馳せていたバルバッソであり、彼と敵対していた海賊の首領が船籍を偽って海賊行為を働いたことを審らかにしたのであった。
「懐かしいな。今でも思い出すよ。お前がまさかファールデンの聖堂騎士だとは知らずに、俺の船に誘ったことをな」
「あの時は本当に世話になった。今でも感謝しているよ」
「まぁ、昔話はいい。円卓の騎士のお前がわざわざこんなところまで出てきたってことは、また何か起きたんじゃないのか? 俺に出来ることなら何でもするぜ」
 バルバッソは壁際の飾り棚から東方の細工が施された杯を取り出してとろりとした透明な酒を注ぎ、ドルキンに手渡しながら言った。
「うむ……」
 ドルキンは眼で乾杯の意思を表して杯を持ち上げ、一気に干した。バルバッソも同様に杯を空けた。
「街で聞いたんだが、ヴァレリアの聖堂神殿で異変が起きているそうだな」
 ドルキンは異国の椅子に座り、バルバッソに訊いた。
「もう耳に入ったか……うむ、ひと月前くらいからだろうか、沿岸に住む娘たちが失踪するという事件が頻発してな。最初はどこかの海賊が人身売買のための人狩りでもやっているのかと思ったんだが、どうも様子がおかしい」
 バルバッソの表情がにわかに曇った。
「魔物の仕業なんだろう?」
 ドルキンはずばりと言った。
「……うむ。奴らは夜しか出てこないから、その姿をつぶさに見た者はいないのだが、住み処は見つけた。どうやら海中の古代聖堂神殿がねぐらのようだ。この二週間で三回攻撃を仕掛けたんだが、三度とも返り討ちさ。正直どうしていいものやら困り果ててる」
「一度、私にやらせてもらえないか」
「お前が? 確かに魔物は、お前たち聖堂騎士の範疇なんだろうが……まさか、一人でやる気か?」
 ドルキンは軽く首を振って言った。
「覚えているか? 私の弟子でマリウスという男がいたろう。彼と一緒だ」
「しかし、二人でどうなるものでもないぞ。うちの傭兵から何人か出そうか」
 バルバッソは先ほど執務室ではこれ以上兵は出せないと考えていたが、今はドルキンのためなら何人でも出そうという気になっていた。
「無理はして欲しくない。細かい事情は今は話せないが、まずは私たちだけでやってみる。お前の目で見てこれは無理だと判断したら、お前の兵たちに手伝ってもらおう」
 ドルキンはバルバッソの眼を見ながら話した。その眼を見つめ返していたバルバッソは、深く頷いた。

三十三

 ヴァレリアの港町は、その中央を縦に走る石畳の錨の道(アーロン・ラード)で東西に分かれている。東側は数十隻の巨大な商船や軍船が繋留可能な深い桟橋から繋がる荷さばき場、倉庫、市場などが建ち並ぶ港湾施設地域であり、西側はもっぱら商店や宿屋、娯楽施設が軒を連ねる繁華街になっている。夕闇が迫ってきているが街の西側は明るい街灯に照らされ、ここ数週間、怪異が起きているとはいえ、やはり賑やかな港町そのもののヴァレリアであった。
「おじょうちゃん、かわいいじゃねえか。こっちでちょっと酒をついでくれよ」
 酔っぱらって顔を真っ赤にした酒臭い男がカミラに絡んだ。頬をカミラの銀髪に擦り付けてくる。カミラの足元に伏せていた狼姿のキースが身体を起こし、威嚇の唸り声を上げて牙を剥いた。
「なんだよ、いいじゃねえかよ。そんじゃ、こちらのおねえさん、一緒に飲まねえか」
 今度はミレーアに矛先を変えた酔っ払いは、銀の杯に果実酒を注ぎながらその手を握った。
「やめぬか!」
 強い口調で酔っ払いとミレーアの間に割って入ったのは、エルサスだった。
「なんだ、このガキ!」
 酔っ払いはエルサスを殴ろうとしたが、さすがに酔っ払いの素人ではエルサスの相手ではなかった。いつの間にか酔っ払いの背後に回り込んだエルサスは酒瓶を持った右手を逆手に捩じり上げて、男を板壁に押しやった。足がもつれた酔っ払いは派手に転んだ。
「この野郎!」
 酔っ払いがエルサスに向かって酒瓶を振り上げたところで、宿の主人が助け船を出した。宿屋の一階にあるこの食堂兼酒場の主でもある。
「オルゴン、もうやめておきな。この人たちはアラン様のお客人だぜ」
 アランの名前を聞いた酔っ払いは、一気に酔いが醒めたように青くなった。
「なんだよ、それを先に言えよ! へへ、すまなかったな、おじょうちゃんたち」
 酔っ払いはへらへら笑いながら売春婦たちがたむろする奥のテーブルへ去っていった。
 東ファールデンの呪われた森を後にしたドルキンたちは、次の魔物を斃すために聖堂神殿がある南方の、ここヴァレリアに向かったのであった。
 禁忌破戒によって魔物が復活している聖堂神殿は、最終目的地であるチェット・プラハールを除いて六つだ。教皇庁のあるアルバキーナ神殿、フォーラ神殿の最高位にあるアムラク神殿、湖の神殿サルバーラ、呪われたスヌィフト神殿、砂漠の神殿カルサス、そしてこの港町にあるヴァレリア神殿である。
 スヌィフト神殿で魔物の憑依を受けて一時、仮死状態にあったカミラとエルサスは、ミレーアによる神の祝福と、森の静者キースが施した「大地の恵みの力」による治療が功を奏した。一時は呪死も危ぶまれたのだが、スヌィフト神殿に奉じられていた宝具である赤梟の意匠が柄に刻まれた剣に呪詛を打ち消す力が秘められていたようで、ミレーアとキースの献身的な治療と相まって、二人はゆっくりと快復しつつあった。
 酔っ払いとの一件が落着してすぐ、ドルキンとマリウスが宿屋に帰ってきた。マリウスは、今は一時的に仮設された神殿に避難している枢機卿に頂礼し、神への祈りを捧げるとともにヴァレリア周辺の情報を聞き込んできていた。食事を終えた一行は、部屋に戻った。
 六人には少々狭く簡素だが、清潔な部屋だ。ドルキンが、皆に言った。
「この街でも異変は起きていた。間違いなく、聖堂神殿の魔物の仕業だ。奴は昼間明るいうちは海の下の古代フォーラ神殿に潜み、夜活動するらしい。海底に潜ることは難しいが、奴が夜、陸に上がってくる機会を狙うことは出来るだろう」
 ドルキンはマリウスに向かって言った。
「これから夜が更けるのを待って、神殿に向かう。バルバッソの兵士たちが案内してくれる。今回は、お前と私でやってみよう」
「何故? 私も連れていってください。祝福がお役に立てる場面もあるかも知れません」
 ミレーアがドルキンに言った。
「うむ。君の力は重々理解している。ただ、今回は今までと状況が違う。カミラもエルサスもまだ完全にフォーラの呪詛から解放されていないから連れていくわけにはいかない。魔物と対峙した時に、どういう副作用が起こるか分からないのだ。もしかすると、この地にいるだけで呪詛の力が増して容態が悪化するかも知れない」
 ミレーアはうつむき、エルサスが唇を噛んだ。
「カミラとエルサスに何かあった時は、君しか対応出来ない。もちろん、我々に万が一のことがあった場合はバルバッソの兵士がここへ知らせに来ることになっている。その時には君の力が本当に必要になる」
「……分かりました。お二人とも、無事に帰ってきてください。お二人に神の祝福がありますように」
 ミレーアはドルキンの後ろで装備の手入れを始めたマリウスに視線を移し、両手で、神へ祈りを捧げる印を切った。
 月が天空から少し傾き始めた時刻、バルバッソが手配してくれた兵士たちと共に、ドルキンはヴァレリアの港に繋留されている中型の舟に乗って海へ出た。バルバッソは兵士を二十人手配してくれた。
 十人は別の舟で聖堂神殿へ向かう。残りの十人とドルキン、マリウスは櫂で海面を静かに掻きながら沖に向かって漕ぎ出していった。
 月が波の穏やかな海面にきらきらと蒼い光を投げ掛け、真っ暗な海とむしろ明るい夜空のコントラストは幻想的で美しく、そこに魔物が潜むものであるとは到底思えなかった。
 しばらく舟を漕ぐと、岸の方に白い円柱がいくつも屹立しているのが見えてきた。紀元前はこの聖堂神殿も陸の上にあったのだが、ファールデン紀八十年の大地震の際に海中に没したものらしい。
 二艘の舟は直接神殿には向かわず、沖を迂回してヴァレリアの街とは反対側の海岸に着岸した。そこには小さな艀があり、舟を繋留することが出来る。
 舟を降りたドルキンたちは、聖堂神殿を右手に見ながら浜辺を小走りに走り、丘を一つ越えたところにある小さな漁村に到着した。ここは最初に被害が起きた村で、既に村民は内陸の街に避難していたが、警邏していた兵士によると、未だに魔物がこの村を彷徨うことがあるという。
 ドルキンは、バルバッソから借りた兵士たちを三隊に分け、村の街道からの入り口と中央広場、海岸側の漁師小屋にそれぞれ待機させた。自分が声を掛けるまで決して手を出してはならないと堅く言い聞かせた。
 ドルキンは、神殿に面する海岸に放置された古い小さな舟の中に潜んだ。マリウスはそこを見渡せる小高い砂丘の陰に身を隠した。しかし、その夜は、魔物は現れなかった。
 二日目も三日目も現れない。
 四日目にも魔物は現れず、夜を徹したドルキンが疲労を覚え始めた五日目の朝、別の問題が持ち上がった。
 夜に備えて雨戸を閉めて仮眠をとろうとしていたドルキンのところに、バルバッソから使いの者が送られてきた。すぐにギルドまで来て欲しいという。ドルキンは身支度を手早く終え、走ってギルドまで向かった。
 ドルキンがギルドの会議場に案内された時、既にバルバッソとその副長であるコスタス、そして王国湾岸守備隊隊長でもある貴族領主、聖堂神殿の枢機卿ら貿易商人ギルドの主立ったメンバーが席に着いていた。扉を開けて会議場に入ってきたドルキンに、皆の視線が集まる。
「ドルキン、良く来てくれた。昨日も夜を徹してもらったのに申し訳ない」
 彼らしくない暗い表情で、バルバッソがドルキンに言った。
「気にするな。それより、どうしたんだ。何かあったのか?」
 バルバッソの隣の、円卓に備え付けられている木製の椅子に腰掛けながらドルキンは尋ねた。
「……大変なことになった。『大崩流』が……」
「大崩流だと?」
 ドルキンは思わず席を立ち、両こぶしを卓の上で握り締めた。
「オールレン閣下、状況の報告をお願いいたします」
 バルバッソがヴァレリアの貴族領主オールレン・サワディーレを促した。オールレンは絶望的な表情を隠そうとせず、座ったまま喋り始めた。
「本早朝、辺境守備隊隊長のニア・サルマから急使が届いた。異民族、スラバキアが昨夜国境を越えてファールデン深く侵攻を始めたと」
 重い沈黙が会議場を支配した。ドルキンの脇の下に冷たい汗が流れた。
「長城は? 長城要塞が突破されたのか?」
 枢機卿フォール・アルガノスが訊いた。
「いや、長城は無事なんだが、どうやら、カザール国経由侵入した模様だ」
「ということは、カザールは……」
「……残念ながら、亡んだということだろう……」
 ドルキンが呟いて、唇を噛んだ。若き頃からカザール王国には何度も赴き、王族とも親交があったドルキンであった。カザール王は、領民と平和を愛する良い王であった。
 その様子を見ていたバルバッソが円卓の下でドルキンの脚を蹴った。ドルキンが顔を上げると、バルバッソは眼で、後で話があると告げた。
 会議は紛糾した。大崩流が始まったからといって国境と長城を放棄するわけにはいかない辺境守備隊は、スラバキアを追撃することが出来ない。ニア・サルマのヴァレリアに対する要求は、これを追撃するための兵か、あるいは長城を護る兵の徴兵だったが、今のヴァレリアにこれ以上、兵を出す余裕はない。議論は堂々巡りし、結局、全てはバルバッソに一任された。
 ギルド長の執務室で向かい合ったドルキンとバルバッソは、お互いに最初の一言を選んで沈黙していた。夕闇が迫ってきた。バルバッソが先に口を開いた。
「お前にも事情があるのだろう。だから、できるだけお前の仕事を優先しようと考えていた。だが、大崩流が起きたとなると話が変わる。これ以上、あの化け物に手間をかけるわけにはいかんぞ……」
「……うむ。バルバッソ、私はある事情があってここへやってきた。だが、それが何であるかはまだ言えない……どうか私を信じて欲しい。今晩だけ、もう一度だけやらせてくれ」
 バルバッソはドルキンの眼をじっと覗き込んだ。そして眼を閉じて、しばらく無言で沈思した。
 再び眼を開いた時、バルバッソの表情に迷いはなかった。いつもの、元大海賊のバルバッソであった。ドルキンの肩を手で強く揺すり、言った。
「お前の言うようにしよう。さあ、どうすればいい?」
 ドルキンとバルバッソはそれから夜が更けてもしばらく執務室にとどまり、部屋の灯がなかなか消えることはなかった。

三十四

「マリウス。起きているか?」
 部屋の外からドルキンの囁くような声が聞こえた。マリウスは今晩も魔物を待つためにあの村へ行くつもりでいたから、既に出発の準備は出来ていた。
「ドルキン様、私はいつでも行けますよ」
「お前とミレーアに話しておきたいことがある。申し訳ないが、ミレーアを起こして、一緒に来てくれないか」
 マリウスはミレーアを起こそうと彼女に近付いたが、既に彼女は起きていた。マリウスが眼で合図すると、ミレーアは軽く頷いてエルサスやカミラを起こさないようにしてマリウスに従った。気配に気付いて目を覚ましたキースが、低く小さな声で鳴いた。
 ドルキンは周りに人影がないことを確認し、宿屋の裏にある納屋まで二人を連れていった。昼間の大崩流の話はギルドの円卓会議メンバー限りとなったし、万が一にでも街の者に漏れたら間違いなくパニックになる。
 ドルキンは声を潜めて、昼間聞いた話をマリウスとミレーアに伝えた。このタイミングで大崩流が起きてしまったことを聞いたミレーアは強い衝撃を受けていたが、それでも取り乱すことはなかった。マリウスは厳しい表情ではあったが、冷静にそれを受け止めた。
「そこで、我々は二手に分かれることになった。マリウス、お前はヴァレリアの傭兵たちを率いて王都に戻って欲しい。今晩中に発ってくれ。王都に戻ったらなんとかあのナスターリアという、スヌィフト神殿で会った女を探せ。ここに、王国湾岸守備隊隊長の紋章入りの書簡がある。これを見せれば、あの者ならおそらく状況を理解してくれるはずだ。禁忌が破られ魔物が復活した上に大崩流が起きている状況で、王国兵と神殿騎士とがいがみあっている場合ではない。あのナスターリアという女と協力して両者の仲立ちをし、一刻も早く王都の防衛戦を固めてくれ」
「エルサス殿下もお連れした方がよさそうですね。父君と母君がご心配でしょうから……それで、ドルキン様はどうされるのですか?」
 マリウスは尋ねた。
「カミラとキースも連れていった方がよいだろう。何かあった時には頼りになる連中だ。私はヴァレリアに残り、ここの聖堂神殿にいる魔物を斃す。そのあと、もう一つの聖堂神殿があるカルサスに向かう」
 ドルキンはマリウスに答え、ミレーアの方を向いて言った。
「君には本当に申し訳ないのだが、私と一緒に来て欲しい。もともとフィオナの宣託は我々二人で受けたものだし、やはり二人でフィオナの言う通り進めていかなければならないと思う」
「もちろんです、ドルキン様。もとより異論はありません」
 ミレーアはむしろ晴れ晴れとした表情で微笑みながら言った。
「ミレーア、もう一つ君に頼まなければならないことがあるんだ」
 ミレーアは首を少しかしげた。
「本来であればこういうことは決して頼まないのだが、時間が惜しい。我々もカルサスが終わったら王都を目指し、できるだけ早くチェット・プラハールに行かなければならん。ここの魔物を斃すために時間を無駄に過ごすことは出来ない。今晩、けりをつけたい。申し訳ないが、魔物を呼び出すために、君に囮になって欲しい」
 一瞬驚いた表情を見せ、ちらりとマリウスの方に視線を移したミレーアであったが、すぐに深く頷き言った。
「分かりました……私にお任せ下さい」
 実はこのアイディア自体はバルバッソのものであった。魔物は乙女を求めて彷徨う。村人一人いない村にはなかなか姿を現しにくかろう。そこで、街の娘を囮にすることをバルバッソは提案したが、ドルキンはそれを断った。一般領民を危険に晒すわけにはいかない。ドルキンはミレーアにそれを頼むことを決意したのだった。

 海岸沿いの村に到着したドルキンたちは、昨夜と同じ態勢で待機した。異なるのはミレーアが浜辺で佇んでいることだけだ。小さな帆舟の船縁に腰掛けている。ドルキンはその船底のキールに身を隠していた。
 数時間が過ぎ、今晩も空振りに終わるかと思われたその時、にわかに生暖かい風が海から吹いてきた。海面が騒ぎ、浜辺の木々がざわめいた。古代聖堂神殿が沈んでいるあたりが泡立ち、次いで大きく盛り上がった。しぶきを上げて巨大な影が海中から姿を現した。
 その様子はミレーアからも見ることが出来た。しかし、月明かりが逆光となって、かえって陰となり、その姿自体をはっきりと見ることまでは出来なかった。ミレーアは船縁に下ろしていた腰を上げた。ドルキンはその巨大な影の気配を感じることが出来た。間合いとタイミングを計る。
 ドルキンが舟を飛び出すと同時に、漁師小屋に待機していたバルバッソの傭兵たちが火矢を放って、あらかじめ薪を積み上げ油を撒いておいた場所に火を放ち始めた。辺りが闇を裂くように明るくなった。煌々と燃え盛る薪の明りに照らされて、その影の全貌がはっきりしてきた。
 見上げるように、巨大な蟹だ。横幅は中型の船ほどもある。
 右の第一脚に岩の塊のような鋏を、左のそれに鋭い尖った槍を持っており、甲羅は分厚く毒々しい紅色の棘で覆われている。甲羅の隙間からは鋏と槍を除いて普通の蟹のように八本の脚が生えているが、第二脚以降の脚の先端は人間の指のように枝分かれしている。甲羅上部に飛び出た二本の眼は真っ赤で、眼球がくるくると辺りを見回していた。
 魔物は、人間のように縦に歩いてミレーアに近付いてきた。巨大な身体の割に動きが速い。
 ドルキンは漁師小屋に待機していた傭兵に合図すると、大斧を両手で持って魔物の前に立ちはだかった。
 傭兵の一人がミレーアを街道側に待機している傭兵のところまで連れていこうとしたその時、蟹の槍の脚が触手のように伸び、ドルキンの右脇を擦ってその傭兵の頭を襲った。その槍は伸縮自在に動いた。
 槍に頭を貫かれ即死した傭兵は、そのまま銛のような返しの付いた槍に引きずられて魔物の手元まで引き寄せられた。
 蟹の頭胸甲が唇のようにめくれ上がり、鋭い尖った歯と触手のように何本にも分かれている舌が見えた。大人の身長ほどの大きさもある口を大きく開けて、蟹の魔物は傭兵を頭からがりがりと食べ始めた。咀嚼の邪魔になる鎧や身に付けているものは、身を剥くように皮膚ごとその舌と脚の先の指を使って器用に取り除いた。
 しかし、蟹の魔物は咀嚼を途中で止め、傭兵の身体を吐き出した。どうやら気に入らなかったらしい。槍を、その場に立ちすくんでいたミレーアに向けて放つ。ドルキンは再び自分の脇をすり抜けていこうとするその槍状の脚に向かって斧を振り下ろした。鈍い音がしたが、魔物の脚は切れていない。一瞬怯んだだけであった。
 ドルキンは舌打ちをして、そのままミレーアの方に走った。右手に斧を持ち、左手でミレーアを抱えると、繰り出される蟹の槍の攻撃を躱しながら街道側の傭兵たちのところまでミレーアを連れていった。
 ミレーアを託された傭兵たちは盾を低く構えてその内側に身を隠す隊形を取りながらその場から遠ざかっていく。
 生け贄を奪われた魔物は、どす黒い朱色の甲羅を真っ赤な溶岩のように変じさせて怒った。ドルキンに向かって巨大な鋏を振りかざしながら迫ってくる。
 ドルキンは街道側の村の辻から村の中心にある広場に向かって走った。魔物の脚は思いのほか速い。あっという間にドルキンに追いついてきて、ドルキンの背中に向かって鋏を叩きつけた。ドルキンは横に跳んでこれを避けた。鋏が石畳の道を砕いて大穴が開いた。
 ドルキンは広場に駆け込むと、振り返って斧を右手に、水晶の剣を左手に持ち、魔物を待ち受けた。
 もうもうと砂煙をあげて魔物が広場に入ってきた。広場で待機していた傭兵たちが準備していた篝火に松明から火を移し、辺りの様子ははっきりと見ることが出来た。
 魔物の甲羅はアムラク神殿の大斧でも砕くことが出来そうにない。魔物が再び鋏を振り上げ、左の槍でドルキンが避ける方向を窺いながらドルキンに迫った。
 重い鋏を受け切ることは恐らく出来まい。迂闊に横に跳ぶと槍の餌食だ。ドルキンは左から横薙ぎに振られてきた鋏を皮一枚ぎりぎりで見切って、そのまま鋏に飛びついてしがみついた。
 魔物の鋏は、先端の節は細くてやや曲がった棒状になっているが、次の節は大きく重装の鎧のように膨らんでおり、鋼のような筋肉が収まっていた。動くのは最初の節のみで、筋肉が収まった節は動かない。その節と節の間には隙間があり、最初の節の腱が次の節に入り込んでいるのが見えた。
 ドルキンは水晶の剣を第一節と第二節の隙間に捻じ込み、魔物の鋏の腱を切り裂いた。張りつめた強力なゴムが千切れるように鋏の最初の節が第二関節とは逆側に曲がり、ドルキンはその勢いで魔物の背後に大きく投げ出された。火の点いた篝火の中に頭から突っ込んでしまい、火の粉が大きく舞い散った。
 髭を焦がしたドルキンは素早く立ち上がると、使い物にならなくなった鋏をぶらぶらと振り、人間のように口を開けて叫び声を上げている魔物に急迫した。背後から甲羅に飛び乗り、突起状の右眼と甲羅の隙間に水晶の剣を突き立てる。ぎりぎりと眼窩を甲羅に沿って抉り、剣を梃子のように動かした。こぶし大の眼球がどろりと地面に落ちた。
 魔物は激しく口から泡を吐いて、指を持つ第二脚と第三脚を背面に回してドルキンを掴もうとした。ドルキンはその脚を避けてしがみついたまま魔物の腹側へ回り込み、脚の関節の間に剣を捩りこんで一本ずつ腱を切断していった。
 第五脚と第六脚の腱を切断した時、魔物は大きな音を立てて仰向けに倒れた。ドルキンはすかさず、露になった魔物の白っぽい腹に大斧を叩き付けた。
 本物の蟹のように、魔物の腹部は甲羅ほど硬くはなかった。斧は魔物の体内を貫通し、広場の砂利混ざりの地面に達した。ドルキンは、起き上がろうと踠く魔物の腹の上に立ち、二度、三度と腹部に大斧を打ち込む。
 人間のそれのような臓腑をまき散らして魔物は動かなくなった。黒い水蒸気が甲羅の隙間から吹き出し、みるみるうちに魔物は甲羅だけの残骸となった。

三十五

 マリウスとヴァレリアの傭兵たちはファールデンを北上し、王都を目指していた。バルバッソが手当てしてくれた兵、およそ一万。そのほとんどがこの短期間で元大海賊バルバッソの呼びかけに応じて馳せ参じたユースリア大陸近海の海賊や海軍崩れの荒くれ者たちであった。
 バルバッソ自らが舵を取る大型の海賊船が四つの大帆に風をはらませ、悠久の流れに逆らってシュハール川を遡っているのだ。その周りを中小取り混ぜた数十隻の海賊船が並航して進む光景は壮観であった。
 ヴァレリアの港を発して三日目、海賊たちの船団は王都の川下にあるバーラサクス村沿岸に差しかかろうとしていた。
 貴族領主オールレンにヴァレリア防衛を任せたバルバッソは、ドルキンに協力したいと自ら申し出た。船長室に入ることもなく、甲板で直接海賊たちに指示を与えている。
 マリウスはマストに張られた横帆の捩れを抑えるためのロープに取り付けられた長いバウスプリットの近くに立ち、王都方面を注視していた。今朝から前方に見え始めた空に向かって立ち上る無数の黒煙は、船が進むにつれてその数を増し、ここから見る王都は、各所から轟々たる炎と猛煙を吹き上げていた。
「既に手遅れだったのだろうか……?」
 マリウスは呟き、唇を噛んだ。
 彼は航海中にバルバッソと議論を重ね、兵を二つに分けることにしていた。一隊はいったんバーラサクス村に上陸し、陸路王都を目指す。もう一隊はシュハール川をさらに北上して船で王都に向かう。
 マリウスは陸上部隊を率い、バルバッソが船団を率いることになった。陸上部隊もそのほとんどが海賊たちであるため、海賊たちの扱いに慣れている副長のコスタスはマリウスとともに陸上部隊に加わった。
 複数の小舟に分かれてバーラサクス村に上陸したマリウスと傭兵千名あまりは、シバリスの修道院に向かった。ここを拠点として装備を整えて傭兵を待機させ、まず少人数で王都に向かい、ドルキンの指示通りスヌィフト神殿で出会ったナスターリアという女を探さなければならない。
 マリウスは傭兵を五つの小隊に分け、修道院近くの二ヶ所の街道辻にそれぞれ二隊ずつ配置し、残りの一隊とともに修道院へ向かった。
 修道院が見えてくると、マリウスはコスタスだけを連れて敷地に近付いていった。他の傭兵は修道院を遠巻きに潜ませ、何かあればすぐに援護させるようにしておいた。
 マリウスは腰の剣に手をかけ、修道院の門に近付いた。手を門扉に伸ばそうとした時、辺りを警戒しながら彼の後ろに続いていたコスタスがマリウスの腕を引っ張った。振り返ったマリウスに、コスタスは声を立てるなと人差指を唇に当て、身振りで姿勢を低くするように伝えた。修道院の裏門の方を指さす。
 修道女の格好をした背の低い痩せた女が、ちょうと修道院の裏口から出てくるところであった。裏門を開き、布を被せた籠を両手に抱えて修道院の裏庭に通じる小道から外に出てきた。マリウスたちが姿を隠した門壁は女からはちょうど死角になっていた。
 マリウスたちはその女の後を尾け始めた。コスタスが修道院の周りに潜んでいる傭兵たちに目と身振りでそのまま待機するように指示した。
 女は修道院の裏に広がるファーウッドの森に入り、鬱蒼として陽が届かない薄暗い小道をとぼとぼと歩いていく。少し前かがみの歩き方からして、老婆のようにも思えた。
 木々に囲まれた小さな丘を二つほど越えると、前方の森の中に神殿が見えてきた。王都の南西に位置する、ファルマール神殿だ。ファルマール神殿は聖堂神殿や他の地域の神殿と比べると規模が比較的小さかったが、その歴史は古く、「神の子(フィロ・ディオ)」アーメインがファールデン紀五〇五年に王都に下向した際に身を清めた場所として、フォーラ神聖誕祭が永く行われてきた由緒ある神殿である。
 女は、そのファルマール神殿へ、裏門から入っていった。
 マリウスは、ファルマール神殿の敷地の外にコスタスをとどめ、一人で神殿の裏口に向かった。聖誕祭では王都の領民でかなりの賑わいを見せるファルマール神殿であったが、今はひっそりと息づき、眠っているかのように見えた。
 裏口の扉の前で中の様子を窺うと、人の気配がした。ぼそぼそと話し声が聞こえてくる。
「あの方はね、昔からこれが大好物なの。そうそう、表面を乾かさないようにそうやってよく捏ねてね。上手だわ。これならいい奥様になれそうよ」
「あの……私は修道女なので、結婚はしないのですけれど……」
「あらあら、そうでしたっけね。あ、もうそのくらいでいいわ……」
マリウスは中から漏れてきた少女の声を聞いて愕然とした。
「エレノア様?」
 マリウスは意を決して、その裏口の扉を開いた。裏口は土間に通じており、そこは厨房に面していた。額を寄せるようにして向かい合って座っていた二人の女がマリウスに気付き、はっとこちらを見た。
「マリウス……様?」
 驚いて声を掛けてきたのは、やはりエレノアであった。
「エレノア様、これは……こんなところで一体?」
 エレノアはマリウスを見て、今まで我慢して溜まり切っていた不安と哀しみが一気に溢れ出てきたのであろう。マリウスに駆け寄ってその胸にしがみついて泣き始めた。
「エレノア様。いったいどうしたというのです?」
 マリウスは困惑してもう一人の女を見遣った。
「あなたがマリウス様ですか。ドルキン様のお弟子さんの」
 木の椅子に座った老女は穏やかな微笑を浮かべて、静かに呟いた。
「あなたは?」
「私の名は、アルマと申します。ファルマール神殿の修道女として神に仕える身でございます」
 アルマという名前に聞き覚えがあった。エレノアをシバリスに預けて修道院を去る際、シバリスがエレノアに万が一のことがあった時に頼りにするよう言い聞かせていた修道女の名前だった。
「シバリス様にはもう長く、お世話になっております」
 マリウスはエレノアを胸に抱いたまま跪いて一礼し、敬意を示す神の印を胸元で結び、アルマに尋ねた。
「シバリス師は、どうされたのですか? どちらにいらっしゃるのでしょう」
 アルマは椅子から立ち上がり、マリウスをいざなった。
「こちらにいらしてください」
 マリウスは、ようやく泣きやんで恥ずかしげに彼の胸から離れたエレノアの涙を拭いてやり、アルマの後に続いた。エレノアもついてくる。
 アルマは軋み声を上げる古びた狭い階段を上っていき、神殿の二階にある司祭の寝室にマリウスを案内した。
「シバリス様!」
 マリウスは、その寝台の上で静かに横たわっているシバリスに駆け寄り、その姿を見て絶句した。
 全身に白い布を巻かれており、そこかしこから血が滲んでいた。耳が切り取られ、身体中が傷だらけであることが一目で分かった。目も腫れ上がって恐らく見えていないのではないかと思われた。
 思わず寝台の前に膝を突き、シバリスの手を取ったマリウスは、その指が全て折られていることに気付いた。
「誰が……誰がこのようなことを……」
 マリウスの眼から涙が込み上げてきた。言葉が途切れて、出てこない。
「王城の兵士たちですわ……」
 アルマは哀しげに言い、事の顛末を話し始めた。
 十日ほど前、ファルマール神殿に荷車を曳いた馬に乗った一人の女が姿を現した。その女は、血まみれのシバリスとおびえるエレノアを荷車に乗せて王都から運んできたと言うのである。この神殿のことはシバリス本人から聞いたらしい。アルマの名前もシバリスから聞いていた。彼女は立ち去る際に、アルマに「王都へ入ってはいけない」と念を押した。アルマがその女の去り際に名前を聞くと、その女は「ナスターリア」と名乗ったという。
 マリウスは思わず立ち上がった。
「ナスターリア、ですと?」
 その時、シバリスが微かに身じろぎし、マリウスの方に顔を向けた。
「マリウス様、ようお戻りになられた……」
 擦れた声が、腫れ上がった紫色の唇から漏れた。
「シバリス様!」
 マリウスは再び膝を突き、シバリスの手をそっと握り締めた。
「ドルキン様は、いずこに……?」
 シバリスが尋ねた。
「ドルキン様は、まだ聖堂神殿をお巡りになっておられます。先日まで私と一緒にヴァレリアにおりましたが、首尾よく魔物を……斃すことが出来たとしたら、今ごろはカルサスに向かっておられるのではないかと思います」
 シバリスは微かに頷き、吐息と共にマリウスに言った。
「マリウス様、王都は、王都は……取り返しのつかぬことになってしまいましたぞ……」
 シバリスの口元に耳を寄せて話を聞いていたマリウスの表情が、驚愕とそして次第に絶望の色へと転じていった。

三十六

 ちょうどその頃、王都に達してアルバキーナ城を眼前に捉え始めたバルバッソ率いる海賊船たちは、大きく渦を巻く川の流れを巧みに利用して城の上流側に集結しつつあった。
 大きな声で部下に指示を出し、甲板上で舵を操るバルバッソの横で、エルサスが呆然と王城を見つめていた。カミラとキースも人の姿となってエルサスの傍らに立っている。
 もはやそれは、エルサスの知る王城ではなくなっていた。炎を上げて燃え盛る城壁は半壊しており、かつて朝陽を浴びて美しく輝いていた城壁塔や門塔、外殻塔はことごとく折れて崩れていた。何よりも異様なのが、かつては王の居館があった場所から城の主塔にわたって、赤茶色の巨大な肉塊がこびりついており、城全体を覆っていることであった。
 所々から湯気のようなガスを吐き出しているその肉塊を、エルサスは見たことがあった。王都を発つ前、教皇庁の聖堂内の祭壇で、エルサスたちを襲った、あの魔物である。
 ドルキンたちが教皇庁の聖堂から脱出した際、出口を塞いでいた肉塊を取り除きはしたが、あの魔物自体を斃すことが出来ていたわけではなかった。敵味方を問わず新鮮な生肉を餌にして、腐肉の魔物はさらに巨大化して聖堂を破壊し、成長を続けて王城にまで達したのであった。
 王城の兵士たちにそれを阻止出来るわけがない。兵士や王都の領民たちはなすすべもなく腐肉の生け贄として摂り込まれ、その一部と化していった。今やこの腐肉の魔物は、王城を中心として王都の主街道であるメイヌ・タレラートに沿って拡がり始め、このままでは王都全体を腐肉で満たすのも時間の問題であった。

 マリウスは、シバリスとエレノアの話から、ナスターリア・フルマードは既に王都にはいないと判断していた。ナスターリアなしに王国兵と連携することは難しいだろう。しかも、王都の王国兵はほぼ壊滅していると思われる。
 ヴァレリアでの報告によると、ファールデンに侵入したスラバキアの兵数は軽く数十万に達する。大事なことは、彼らが王都に達するまで出来るだけの兵数を集めること。そしてそれを王都防衛を主眼として要所要所に配置し、効率的に運用することだ。
 マリウスは、王都及び近郊における王国兵と神殿騎士の残存勢力を集めること、その戦力をもって王都の外城壁でスラバキアの侵攻を食い止めることを最優先とした。残念ながら他の州都を護る時間的、人的余裕はない。
 マリウスは、まずファルマール神殿の神殿騎士団長フォーレンと話をし、その部下を数名王都近郊に点在する神殿に送って、そこの神殿騎士たちに招集を掛けさせた。一方、王国兵の残存勢力については情報がない。
 シバリスによると、ナスターリアと行動を共にしていたドワーフ兵が外城壁の砦に篭もっているという。まず、彼に会う必要があるだろう。マリウスは傭兵とファルマール神殿の騎士から数名を選んで、王都の南西側から外城壁に向かうことにした。戦いをするのではない。話をするのだから少人数の方が良い。

 聖堂騎士ドルキンから受けたふくらはぎの傷は思いのほか深かったが、そのわりには早く回復してきていた。ドワーフであるラードルがもともと頑強であったこともあるのだろうが、やはりドルキンが意図的に短い間だけ動けなくする程度に巧みに剣を入れた、というのが事実なのだろう。何度も戦場で修羅場をくぐったラードルにはそれが分かった。
 ナスターリアと別れて数日が経過していた。東ファールデンから王都に帰還したナスターリアとラードルを待っていたのは、辺境守備隊隊長ニア・サルマからの伝言であった。
 スラバキアによる長城攻略と必死の攻防、ヘルガー・ウォルカーによる卑劣な裏切り、そして辛うじてスラバキアを撃退はしたもののオグラン・ケンガが壮絶な死を遂げてしまったこと。ニアの命を受けて王都に辿り着いた兵士は淡々と報告したが、それを聞くナスターリアが感情を抑えることは難しかった。
 ナスターリアとラードルはカルバス将軍の裁可を得て、王都に常駐している兵のうち二個大隊を率いて再び辺境の長城を目指すことにした。しかし、着々と準備を進めていざ出発という時にその異変は起きた。
 突如王城に現れた肉塊の化け物は、抵抗を示した兵士や神殿騎士たちだけではなく、王都領民を手当たり次第に襲い、貪り食った。教皇庁、王城を中心として王都に阿鼻叫喚の地獄絵図が展開した。ナスターリアとラードルは王都の外城壁門を開放して生き残った領民を避難させるのが精一杯であった。
 混乱の中、辛うじてシバリスとエレノアを城から救い出したナスターリアは二人を安全な場所に移し、自身は単身で辺境の長城要塞を目指して出立したのであった。
 ラードルは怪我のこともあったのだが、ゲリラ戦専門部隊、鷹嘴隊の隊長として、混乱に陥った王都に残る道を選んだ。たとえ相手が人外のものであったとしても、最後まで王都を守って死するは兵士の本懐というものだ。
 いま、ラードルは王都をぐるりと囲む城壁のうち王城から一番遠い外城壁の堡塁に、生き残った鷹嘴隊の兵士と共に潜んでいた。
 王都アルバキーナを囲む城壁は大きく三つからなる。一つは王城を囲む内城壁、もう一つは今ラードルがいる王都全体を囲むように築かれた外城壁である。この二つの城壁は外部からの侵入に備えて構築されたもので、城壁も高く分厚く堅牢な構造になっており、同時に要塞としての機能も果たしている。特にこの外城壁は王都にとっては実質上の最終防衛線と言え、戦時において敵にここを突破されると、王都は陥落を免れない。
 尚、外城壁と内城壁の間に、行政・宗教施設区域とそれ以外の区域とを仕切る城街壁と呼ばれる、どちらかというと都市基盤施設として設けられた城壁があるが、戦時における戦略的重要性は低い。
 そこへ、ラードルの部下の一人が息せききって駆け込んできた。
「ラードル隊長、申し訳ありませんが、すぐ上がってきていただけますでしょうか」
「どうした?」
 ラードルは外城壁の中に設けられた石の階段を、その部下の後に続いて駆け上がった。
「あれです」
 部下は王城と反対側の、西の方角を指差した。
 王都の外城壁の外側には農地が拡がり、ぽつりぽつりと農家が点在していた。その農地の更に向こうは乾いた荒れ地となっており、人の住む家屋は見当たらない。
 ラードルは右手を翳して部下が指し示した方向を見た。数名の人影がこちらに向かってくるのが見えた。
「あの装備は、神殿騎士かと思われますが……」
 ラードルは険しい表情でしばらくその人影を注視していたが、ふいに表情を和らげて言った。
「門を開けてやれ。ただし、警戒は怠るなよ」

三十七

 ヴァレリアの街を発ったドルキンとミレーアは夜を徹して馬を駆り、一路シドゥーラクの州都カルサスに向かっていた。
 二人が砂漠のオアシス「蒼の泉」に到着したのはヴァレリアを出て三日目の早朝であった。カルサスは、もともとゴブリン族が棲んでいたファールデン中央の砂漠地帯に、紀元後になってから西ファールデン人が入植を果たして作った街で、深い構造谷の壁部には追いやられた先住民であるゴブリン族の粗末な居住区がある。
 ドルキンとミレーアはそこを過ぎ、谷底の神殿に接して作られた裕福な領民居住区に足を踏み入れた。人の気配は全くない。ただ、砂交じりの乾いた風が街の中を舞っているだけであった。
 聖堂神殿がある蒼の泉は街の中央にある。ドルキンとミレーアは、風化し遠い過去の遺跡のようになってしまった街の中を進んでいった。蒼の泉に面した広場に出たところで、ミレーアが短く声を上げた。
 蒼の泉が、真っ赤に染まっている。
 ドルキンはあたりを見渡した。相変わらず人の気配はない。だが嫌な予感がする。背負っていた大斧を両手で握り、ミレーアに後ろに下がっているように身振りで示した。ゆっくりと泉に近づいていく。
 泉は凝固しかけた血のようにどす黒い赤い液体で満たされていた。しかし、よく見てみると、大理石を削って作られた女神像の持つ壺から湧き出る水は透明で、源泉自体が赤くなっているわけではないことが分かった。別の場所からこの赤い液体が流れ込み、泉を血の色に染めているのだ。
 赤い液体は、祭殿に続く神殿の白亜の階段から流れ落ちてきていた。
 ドルキンはゆっくりと階段を上がり始めた。階段全体が赤く染まっているため、その液体でドルキンのブーツが汚れた。血の匂いと言うよりは、腐った堆肥のような匂いが鼻についた。
 祭殿の扉は閉じられていたが、赤い液体はその扉の隙間から流れ出ているようだ。ドルキンは、扉の把手に手をかけ、引いた。
 突然、重いはずの石でできた扉が内側から開き、祭殿の中から真っ赤な液体が溢れ出し、ドルキンは頭からそれをかぶってしまった。腐って半ば凝固しかけた大量の血液だ。奔流のように、腐った肉塊と共に押し出されてきた血液がドルキンの足元を掠った。ドルキンは大斧を握り締めたまま階段を滑り落ち、蒼の泉まで押し戻された。
 開いた祭壇の扉から、腐敗した液体と共に緑色の卵の形をした巨大な虫が大量に流れ出てきた。ドルキンの周りにも流されてくる。その虫は、無数の触手を伸ばしながらドルキンに近づいてきた。
 ドルキンは泉の中で立ち上がり、一番近くにいる虫に向かって大斧を振り下ろした。虫の体表が嫌な音を立てて潰れたが、あまり効いた様子がない。触手が斧を捉えて、ドルキンの腕にするすると巻き付いてきた。背後にも別の虫が近づいてくる。
 ドルキンは左手で抜いた水晶の剣で右手に絡みついた触手を切り落とした。しかし、いつの間にか複数の虫たちに周りを囲まれ、泉の外に出ることが出来ない。
 虫たちの触手が、次々とドルキンに巻き付いていった。ミレーアの悲鳴が聞こえた。
 その時、火の点いた松明がいくつか泉に投げ込まれ、虫たちにその火が燃え移った。まるで油に火を付けたように、虫たちは勢いよく炎に包まれた。ドルキンは弱まった触手を振り解き、動きが止まった虫たちの間をすり抜けて蒼の泉から外へ飛び出した。
「ドルキン殿!」
 女の声がした。
 ドルキンは大斧を握り直しながら、声のした方を見た。白鉄の鎧に黒いマント。兜を付けていないその顔に、見覚えがあった。
「やはり、こちらにおいででしたか!」
「貴公は……ナスターリア……殿。何故、ここに?」
 スヌィフト神殿で剣を交えた、ナスターリア・フルマードが左右の手にそれぞれ松明を持ち、ドルキンの傍に駆け寄ってきた。
「この化け物は、恐らくこの聖堂神殿に復活した魔物。こやつらは、火に弱いのです。背負っている餌を燃やし尽くせば抜け殻も同然となります」
「何故、それを?」
「話は後で。まずはこやつらを斃しましょう。魔物の本体は祭殿の中にいるはずです」
 ナスターリアは両手に持っていた松明をドルキンに渡し、新たに松明に火を付けて両手に持った。ドルキンとナスターリアは、虫の魔物の背中に積み上がった肉塊に火を点けて回った。
 全ての魔物が燃え尽き、抜け殻のようになったのを確認した二人は、どちらからともなくお互いに顔を見合わせ頷き、祭殿に向かって階段を駆け上がっていった。
 祭殿の前に立ったドルキンは、既に開かれている扉の陰から中を覗いた。
 祭壇の上に、巨大な排卵管を持ち細長い身体に透明な羽を生やした魔物がいる。ドルキンとナスターリアに気付くと、こちらに向かって威嚇の声を上げた。祭壇の下にいた虫の魔物が三匹、血溜まりの中を泳ぐようにしてこちらに近づいてくる。
 ドルキンはナスターリアを振り返り、三匹の魔物を指さした。身振りでその三匹をナスターリアが、魔物の本体を自分が斃すことを伝える。ナスターリアは頷いた。
 ドルキンは祭殿の入り口に迫ってくる魔物とその触手を避け、祭壇に向かって走った。ドルキンに反応して触手を伸ばしかけた魔物の背後から、ナスターリアが松明の炎を投げつける。虫の魔物は耳障りな甲高い叫び声を上げて燃え上がった。
 ドルキンは羽を生やした魔物に肉薄すると、排卵管と魔物本体の胴体の繋ぎ目を大斧で切断した。大量の羊水が溢れ出し、透明な排卵管の中にあった数百個、あるいは数千個とも思われる卵が外へ流れ出した。
 ドルキンは卵を踏みつけ、一つ一つ潰していった。魔物の本体が羽を大きく羽ばたかせ、祭壇からドルキンに向かって跳躍した。鋭い牙で喉元を抉ろうとする。
 ドルキンはその攻撃を躱して大斧を振り上げた。魔物の首のあたりをめがけて、渾身の力を込めて振り下ろす。魔物の首が飛び、その切り口から黒い水蒸気が吹き出した。同時に、あたりに散らばっていた大量の魔物の卵もみるみるうちに縮んで溶けてしまった。
 ドルキンは斧を背中に戻しながら、祭壇の上でひときわ美しい光を放っているレイピアに目を留めた。華麗な宝飾が施されているこの刺突剣は、カルサス聖堂神殿に奉じられている神剣である。通常のレイピアよりも長めで、それこそ蒼の泉を彷彿とさせる、清い水の滴のような光が刃から零れている。ドルキンはこれを手に取り、軽く振ってみた。素晴らしいバランスであった。
 ナスターリアはドルキンの傍まで歩いてきて、その場で敬礼をした。ドルキンはレイピアを鞘に収め、敬意を示す祈りの印をもってこれを返した。
「エルサス殿下の仇を討ちに来られたか」
 ドルキンはレイピアを腰に差し、苦笑しながら言った。
「まさかに。あれから王都に戻り、あらためてシバリス様とお話させていただく機会がありました。シバリス様には一言の偽りの言葉もありませんでした。その話を伺うにつれ、ますます貴公がそのようなことをなさる方ではないと意を深くいたしました」
 ナスターリアは、祭殿の入り口から恐る恐る中に入ってきたミレーアに会釈をしながら言った。
「殿下は生きておられる。あの時、スヌィフト神殿の魔物の呪詛を受けて一時的に仮死状態にありましたが、今はお元気になられております」
「やはり、そうでしたか……」
 ナスターリアは、ほっと息を吐き、続けてドルキンに尋ねた。
「それで、殿下はどちらへ?」
「既にご存じかも知れぬが、『大崩流』が発生しております。ヴァレリアのギルド長の協力を得て傭兵を集め、王都防衛を図るために我が弟子、マリウスとともに王都に向かっておられます」
「な、なんですって!」
 突然、ナスターリアの顔色が変わった。
「いけませぬ! いま王都に戻ってはいけませぬ!」
 それまでのナスターリアらしくなく、動揺を隠さないその言いざまにドルキンは驚き、訊いた。
「どういうことですか? 王都に一体、何が……」
 ナスターリアは、はっと我に返って言った。
「失礼いたしました。大崩流が起きていることについては、私も承知いたしております。王都で『異変』が起きた後、私は辺境の長城要塞に向かいました。そこで、そこの指揮官から話は聞きました」
「王都で異変、ですと?」
 ナスターリアはスヌィフト神殿から王都に帰還した後に王都を襲った異変と、異民族の攻撃を待たずして既に王都が崩壊してしまったことを語った。
「なんと……まさかそのようなことに……」
 暗い表情になったドルキンは、王都の教皇庁聖堂で遭遇した腐肉の魔物のことを思い起こしていた。あの時、なぜ最後まで斃し切ることなく、王都を後にしてしまったのか……。ドルキンは悔やんだ。
「私がここに参ったのは、ドルキン殿、貴公にお会いするためです。どうしてもお話しなければならないことがあるのです」
 ナスターリアは姿勢を正して続けた。
「王都の現状はともかく、大崩流に備えてこの国土を護る必要があります。そのために、どうか神殿騎士の協力をいただきたい。その仲立ちをお願いしたいのです」
 ドルキンは力強く頷いた。
「もとより、そのつもりであった。既に弟子のマリウスには、貴公に会って王国兵士と共同防衛線を張るように指示をいたした。まさかここにおられるとは思いませんでしたが……。しかし、マリウスは仮に貴公に会えなくても次善の策を打って、王国兵士と連携をとることでしょう」
 ナスターリアはほっとした表情を見せて、さらに言葉を継いだ。
「貴公は聖堂神殿を巡って、現出した魔物を斃し、祭壇に奉られた神具を集めていらっしゃるとシバリス様から伺いました。それで、もしかするとこの地にいらっしゃるのではないかと思い、こうして参ったのです」
「シバリス師は、貴公にそこまで話されたか……」
「はい。私は以前、王都に向かう途中、ここカルサスに立ち寄った際に、この魔物と遭遇いたしました。奴らが炎に弱いことは、その時に見極めました」
 ドルキンはあらためてナスターリアを見直した。若く美しい女だが、剣の腕がただものではないことは、そのしぐさ、立ち居振る舞いからも窺うことが出来た。
 ドルキンとナスターリアはお互いの眼を見て、同時に言った。
「王都へ、参りましょう」

三十八

 枢機卿カルドール・サルバトーレは夢を見ていた。漆黒の闇を何者からか逃れるように全裸で走り続けている。
 喉が渇き、足はもつれ、ふくらはぎが痙攣しているのが分かる。しかし、足は止まらない。カルドールの意図とは別に、勝手に動き続けているのだ。
 苦しい呼吸の中、肥え太った身体を辛うじて捻って振り返ると、後ろから血塗れの女たちが追いかけてきている。女たちも一糸纏わぬ姿だ。顔が認識出来たのは先頭にいる数人だけだった。後に続く無数の女たちに顔は無く、それぞれ腹が裂かれ内蔵が零れているにもかかわらず、それを引きずりながら追いかけてくる。
 顔の分かる女の中には、フィオナがいた。先代の教皇であったサマリナ・アルバテスもいた。そして、その横に唯一、白い修道服を纏った女の姿があった。濡烏色をした長い髪の美しい少女だ。その顔を認めた時、カルドールは足を躓かせ、その場に倒れ込んだ。
 血塗れの女たちは少し距離を置いてカルドールを取り囲んだ。修道服を着た黒髪の少女が前に進み出、カルドールの傍にしゃがみ込んだ。少女がにっこりと微笑んだかと思うと、見る見るうちに顔が溶け始め、カルドールの頬や額に腐った肉がぼたぼたと落ち始めた。カルドールは悲鳴を上げた。
 現実の世界でも悲鳴を上げながら、カルドールは目覚めた。
 水を被ったようにびっしょりと汗をかいているカルドールは、辺りを見渡した。自分の寝室ではない。
 見覚えの無いその暗い部屋は、石造りの牢に見えた。
 カルドールは自分が巨大なすり鉢のような石の器の上に仰向けに寝かされていることに気付いた。手足は動かせない。細いが丈夫な紐で手首と足首が縛められており、動かせば動かすほど紐が食い込んでくるのだ。
「動かない方がよいよ、カルドール」
 しわがれた氷のように冷たい声が、闇の中から聞こえた。カルドールは声のした方に顔を向けようとした。首に括り付けられている紐が締まって喉仏に食い込む。
 フードで顔を隠し、ローブを纏った細身の影が、そこに立っていた。
「少々特殊な呪詛を施した紐でね。動けば動くほど食い込んで、仕舞いには骨を砕いてしまうよ」
「呪詛? 誰だお前は……どういうことだ、何故こんなことをする?」
 カルドールは掠れた声を絞り出した。声を出すだけで紐が食い込んでくる。
「夢で会っただろう? 女たちのことはもう忘れてしまったのかい? 女たちの方ではお前のことを忘れることは決してなかったろうがね」
 その茶色い薄汚れたローブを着ているのは、老婆のようだった。枯れ木のような右手に蝋燭を持っているが、フードを被っているために陰で顔は見えない。
「……」
 カルドールはもう一度その老婆を誰何したかったのであろうが、もはや声を出すことは出来なかった。
 老婆は、左手でゆっくりとフードを脱いだ。チリチリと瞬く蝋燭の頼りなげな明かりが、その顔を照らした。
 カルドールの顔が驚愕に歪んだ。口がその老婆の名前の形に動いたが、声は出なかった。再び毛穴から汗が噴き出し始めた。
「私も随分と気が長い方だけれどね。毎夜毎夜、女たちが私に言うんだよ。早く、早く、ってね。そのたびに、もう少し、もう少し、と言い続けて四十年も経ってしまった。もう女たちも待てないって言ってるよ。……そろそろ時も満ちてきたことだしね」
 老婆は右手、左手、それぞれで別に印を結び、両手を頭の上に翳して口の中で呟くような呪詛を唱えた。老婆が呪詛を唱えるたびに、憔悴しきっていたカルドールの身体に、生命力が満ちてくるのが分かった。
「この呪詛はね、不死の呪詛だよ。カルドール、お前はもう死ぬことは出来ない。神の呪詛の力によって永遠に生き続けることが出来るのさ」
 老婆は、カルドールが横たわっているすり鉢状の、大きな椀の脇にある把手を手前に倒した。
「まぁ、生き続けることが本当に良いことかどうかは、また別の話だけれどねぇ」
 上から、円柱状の石で出来たすりこぎが降りてきた。ちょうど大人が二人でその周囲を抱きかかえることが出来る程度の太さだ。ゆっくりとカルドールのちょうど腹の辺りまで降りてくる。すりこぎは上部が歯車の付いた枠木にしっかりと括り付けられており、満遍なくすり鉢の上を移動できるように仕掛けが施してあった。
 老婆が把手を横にずらすと、すりこぎはカルドールの脚の上に移動した。老婆はそこですりこぎを止め、把手を右に捻った。すりこぎが回転しながら更に降りてきて、カルドールの脚に触れ、そのまま腿の肉をこそげ落としながら脚の骨を磨り潰し始めた。
 カルドールは激痛のあまり身を捩ろうとしたが、全く動くことが出来ない。声を上げようとするのだが、もはや声は掠れた空気の音にしかならなかった。脚の骨があらぬ方向に向かって折れた。
 老婆はすりこぎを一度上げ、今度はすりこぎをカルドールの右腕の上に移動させた。同様に磨り潰し、腕の骨を折る。老婆はそれを更に二回繰り返して、カルドールの四肢を骨混じりの肉塊に変えた。カルドールは脂汗に塗れた真っ赤な顔で血走った目を剥きだしていたが、まだ生きていた。
 老婆は、すりこぎをカルドールの肥満した腹をの上に移動させ、把手を右に捻った。すりこぎはカルドールの腹の上でゆっくりと回転し始めた。回転しながら更に下に降りてくる。
 カルドールは腹の皮が破れ、すっかり衰えてしまった腹筋を易々と引き裂いてすりこぎは回転を続けた。破れた腹から内臓が飛び出し、血飛沫が辺りに散った。
 鈍い音がしてカルドールの背骨が折れたようだ。すりこぎを中心に磨り潰された下半身と無傷な上半身が不自然な形で起き上がった。カルドールの口からは鮮血が食道を逆流した胃と共に溢れだし、眼窩から目の玉が飛び出してきた。しかし、それでもカルドールはまだ生きていた。
 生きながら身体をすりこぎで磨り潰され、カルドールは自分がすり身になっていくのを生きながら感じとるのだ。死はカルドールを見放した。この激烈な痛みや苦しみは、肉塊になっても永遠に続くのだ。老婆のかけた神の呪詛によって発狂することすら許されない。
 老婆は把手を元に戻していったんすりこぎを上げた。すりこぎからカルドールの血と肉と脂がしたたり落ちた。身体は腹を磨り潰されてほぼ二つに別れていた。老婆が把手をスライドさせると、すりこぎはカルドールの上半身の方へ移動した。そして再びゆっくりとカルドールの顔の上に降りてきた。
 嫌な音がしてカルドールの頭蓋骨が拉げた。眼球と脳味噌がすり鉢の上に散る。脳が磨り潰されているのに、カルドールは自分に何が起きているのかを理解し、感じることが出来た。ただその意識が苦痛で占有されているだけだった。脳が破壊された段階で思考もなくなったが、痛みと苦しみは感じることが出来た。
 常人がそこにいれば、とても正視していられない光景が数時間にわたって続いた。老婆はそれを愉しそうに眺めていた。すり鉢の上で出来上がったのは、生きた肉塊だった。
 老婆はようやく把手を元に戻した。
 脂と血で染まったすりこぎは、静かに元あったところへ上がっていく。
「カルドール、お前は永遠にその肉塊のまま生き続けることになる。その姿が果たして生きている、と言えるのかどうかはかなり哲学的な問題だね。え? なんだって? 痛い? ふふ、その痛みと苦しみは永遠に続くよ。たとえこの世に終わりが訪れても」
 老婆は嗤いながら言った。
「それでもお前が私たちにしたことを思えば、まだまだ、全然足りないんだよ」

 王城のほぼ中央に位置する庭園に面した王の政務室で、ダルシア・ハーメルは王が座すべき豪奢な装飾に彩られた椅子に深く座って、膝の上に載せた女の胸に顔を埋めていた。その乳房は鮮血に染まっており、ダルシアの顔にもその血糊がべっとりと貼り付いている。
 ダルシアの右手には、女の胸から取り出された心臓が握られていた。その持ち主は息絶えているにもかかわらず、心臓だけが独立して生きているかのように脈動を止めていない。
 ダルシアは屍体の頬に貼り付いたブロンドの髪を左手でかき上げると、唇にくちづけをした。屍体の顔が顕になった。
 王妃、エルーシア・アルファングラムの一糸纏わぬ屍体を抱きしめたまま椅子から立ち上がったダルシアは、エルーシアの身体を抱えてゆっくりと長い脚を運び、中央庭園へ続くパティオに出た。
 大理石の長椅子には別の屍体が横たわっていた。ダルシアは木乃伊のようなその屍体の傍に蹲り、優しい声で語りかけた。
「陛下、ご安心を。もうお一人ではありませんよ。今、お妃様をお連れしました……」
 呪死してどす黒く干からびたアマード・アルファングラム三世の表情は、苦悶に歪んだまま凍り付いていた。ダルシアは背筋の凍るような凄まじい笑顔を見せて、エルーシアの屍体をアマードの屍体の横に寄り添うように寝かせた。
 空中庭園になっているこの庭園は、パティオから腐肉に包まれ炎上している王都の様子を眺めることが出来る。ダルシアはエルーシアの心臓を握りしめたまま、しばしそこに佇んだ。放心したようなその横顔には、心なしか孤独の色が滲んでいる。
 そのダルシアの後ろに人影が差した。
「これでファールデン王国は終わりですね。全て、あなたが望む通りに」
 ダルシアは振り返らずに、その人影に向かって言った。立ち上がってエルーシアの心臓を足元に捨てて踏み潰す。
 政務室からパティオに出てきた人影は、茶色のフードを被った老婆のものであった。老婆は脚を引き摺りながらダルシアに近付き、その横に並んで言った。
「まだ、全て終わったわけじゃないよ、ダルシア」
 老婆はフードを取り、半ば地獄と化した王都を眺めた。かつては美しい漆黒であった長い髪は灰色にくすみ、透き通るようであった白い肌も今は皺だらけとなってその半分が焼けただれ、右目は失われている。筋の通っていた鼻は折れ、額から続く裂傷で醜く歪んでいる。
 ダルシアは言った。
「ええ……分かっていますよ、アナスタシア」

三十九

 数日を経過して、シバリスの修道院に集結した神殿騎士及び僧兵はその数およそ一万に達した。加えてドワーフ兵ラードルが率いる王国兵残存勢力はおよそ二万。海上に待機しているバルバッソの傭兵を含めると総勢で四万強の兵力となった。
 マリウスとラードルは協力体制を敷き、王都防衛の準備を進めていた。既に、シュハール川から王都の北東に上陸したバルバッソの部隊も、外城壁の北門から王都に到着し、マリウスたちと合流していた。
 マリウスは神殿騎士・王国兵連合軍を、ラードル、バルバッソ、フォーレン、コスタスを指揮官とする四部隊と自らが指揮する部隊を加えた合計五部隊に再編成した。
 王都の外城壁には大門が南北と西に備えられている。バルバッソ、フォーレン、コスタス三部隊は、それぞれこの大門を護ることになった。ラードルの率いる鷹嘴隊を中心とした部隊は、外城壁の外側でゲリラ戦を担うことになった。
 マリウスの部隊は、王城を中心として広がる腐肉の魔物を斃すことを目的に神殿騎士を中心に編成した。エルサスは自ら志願してマリウスの部隊に加わった。マリウスはこれを許可し、カミラとキースをエルサスの護衛として同行させた。
 エルサスはヴァレリアで入手した軽い白金の鎧を身に着け、ファールデン王家の紋章が刻まれた盾を背負い、スヌィフト神殿に奉じられていた赤梟の神剣を腰に納め、隊列に加わった。人の姿をしたカミラと白狼の姿をしたキースもエルサスに付き従っている。
 マリウスの部隊は、外城壁からメイヌ・タレラートに沿って王都の中心を目指した。腐肉の魔物の姿はまだ見えない。
 しばらくすると、庶民が住む区画と貴族や教皇庁関係者が住む区画を隔てる城街壁が見えてきた。マリウスは商業地区に接するメイヌ・タレラートで一度隊列を組み直し、神殿騎士と傭兵たちをそこに待機させた。
 城街壁の上には累々と腐肉が積み重なっており、その門の前と防塁を兼ねた小塔からはところどころガスを噴き出す肉がはみ出ている。マリウスは、この腐肉が、以前教皇庁聖堂内で遭遇した魔物であることを即座に見て取った。
 腐肉から吹き出すガスは火を帯びており、王都の至る所で上がっていた火の手はこの魔物によるものだったのだ。このままでは迂闊に城街壁に近付くことが出来ない。
 城街壁の腐肉がマリウスたちに気付いた。腐肉はそれぞれ触手のような襞を伸ばし、待機している騎士や兵士たちを襲った。
 マリウスは号令をかけて防御の態勢を取るように指示した。しかし、魔物を間近に観て動揺した騎士や兵士たちは迅速に隊列を変えることが出来ない。そうしているうちに腐肉の魔物が地面を這うようにして次々と迫ってくる。
 マリウスは腰の剣を抜き手近の肉塊を斬り払ったが、何人かの神殿騎士たちが別の腐肉に飛びつかれ、そのまま地に倒れた。絶叫が上がる。一気に神殿騎士と傭兵たちが浮き足だった。
 腐肉に襲われた騎士を助け出そうとしていたマリウスの背後からまた別の腐肉が忍びより、鎧の胸から下半身にかけて纏わり付いた。マリウスは足を取られてその場に倒れた。肉の襞が眼前に迫る。
 その時、樫の木の杖を左手に持ったカミラが、呪文を唱えた。白い雪の結晶のような霧が辺りに拡がり、腐った肉塊に降り注いだ。肉塊は凍てつき、動きを止めた。
 そうだ、こいつは冷気に弱いのだった。マリウスは右手に握った剣の柄頭で鎧に纏わり付いている凍った腐肉を砕いて身体の自由を取り戻した。立ち上がると、傍にいた騎士から斧槍を受け取り、凍りついた肉塊に斧頭を振り下ろし、砕き始めた。
 カミラは再び呪文を唱えて、いつの間にか左肩に止まっていた白い梟に接吻した。その小さな梟が羽ばたいてカミラの頭上に飛び上がった瞬間、真っ白な光が辺りを照らしたかと思うと、小さな白い梟が何百、何千羽、いや何万羽とカミラの頭上を舞った。それはあたかも雪を孕んだ巨大な竜巻のように見えた。
 白い梟の群れはそのまま天高く飛翔し、王都上空を舞い、羽から白い結晶を振り撒き始めた。王都に満ちていた腐肉がみるみるうちに凍り始め、火を纏っていたガスも消え始めた。王都各所で上がっていた火の手が小さくなっていった。
 カミラがみたび呪文を唱えると、静かであった空がにわかに騒ぎ、突風が王都上空を舞った。腹に響く、どろどろという音が聞こえた次の瞬間、耳をつんざく雷鳴と共に天から幾つもの雷が矢のように降ってきた。雷の矢は王都全域に降り注ぎ、凍り付いていた腐肉の魔物が次々と砕け散っていった。マリウスたちは、あまりに激しい雷に立っていることが出来ず、その場に座り込まざるを得なかった。頭を抱えて伏せている者もいる。
 しばらくすると、雷は去った。王都の空が腐肉の魔物から立ち昇った大量の黒い水蒸気で覆われていき、やがて薄くなって霧散していくのを、皆が空を見上げて見入っている。地上を覆っていた腐肉の魔物は跡形もなく消え失せていた。
 マリウスは引き連れていた部隊全員に王城への突入を下知した。マリウスを先頭に神殿騎士と兵士たちは、城街壁の門をくぐり、貴族たちの居館が連なる街路を駆け抜け、一気に王城の跳ね橋を渡った。
 エルサスもマリウスについてくる。
 崩壊した城門をくぐり抜けて広い中央庭園に出た。人の気配がない。
 中央庭園の広い石段を駆け上がりパティオに出た時、マリウスは「それ」を見た。
 あっ、と思わず後ろに続くエルサスを振り返った。隠しようがなかった。マリウスに続いて石段を駆け上がってきたエルサスは、そこに横たわっている二つの屍体を見てしまった。どす黒い木乃伊と化した父王と、それに寄り添うように倒れている心臓を抉られ血塗れとなった母親を。
 エルサスの手から赤梟の剣が落ちた。彼は急激に込み上げてくる感情に耐えられなかった。身体の中で何かが弾けた。エルサスは膝を折り、両手を天に突き上げ、声にならない声で慟哭した。彼の小さな身体が激情で張り裂けるのではないかと、マリウスは思った。
 やがてエルサスはよろよろと立ち上がり、落とした剣を拾った。鞘に収める。マリウスが身体を支えようとすると、一旦はその手を払ったが、そのまま倒れ込むようにマリウスに身を預けてきた。そしてマリウスを両手で抱き締める。マリウスは自分の骨が砕けるのではないかと思った。しかし、敢えてそのままにして、エルサスの激情を受け止めた。
 中央庭園に面した玉座の間から、ダルシア・ハーメルが静かに姿を現した。玉座の間を出て、その脇から中央庭園に続く大理石の大階段をゆっくりと降り始めた。
 マリウスは右手を挙げて、神殿騎士たちに隊形を整えるよう指示した。騎士や兵士たちが少し距離を置いて、階段を半円で囲むようにして武器を構えた。
 ダルシアは大階段の途中で立ち止まり、階段の下の庭園にいるマリウスたちを余裕たっぷりに眺め、
「随分、遅かったではないですか」
 子供のように、無邪気な表情で言った。黒い瞳が悪戯っぽく光った。
「お待ちしていたのですよ」
 ダルシアは、一転してマリウスでさえ背筋が寒くなるような、地獄の底から聞こえるような甲高い声で笑い、右手で印を結んだ。
 マリウスとエルサスの頭蓋骨が軋み、激痛が走った。巨大な指で頭を握り潰されるような感覚だ。エルサスの鼻から血が流れ出した。他の神殿騎士や兵士たちも膝をついて苦悶している。カミラはその場に蹲り、キースは泡を吹いて腹を見せ、白狼の姿で痙攣を始めた。
 マリウスの横で頭を抱えて苦しんでいた神殿騎士の頭が割れた。頭蓋骨がぐしゅっと内部に向かって拉げ、脳を潰して眼球が眼窩からどろりと流れ落ちた。耳からは鮮血が迸った。
 数人の兵士が同じように頭を潰され、その場に次々と倒れ伏していった。
 マリウスは、エルサスを抱きかかえるようにしてその場から遠離ろうとしたが、足が地面にへばり付いたように動かない。エルサスが、ついに悲鳴を上げた。
 その時、鋭く空気を切る音がし、矢がダルシアの右肩に刺さった。ダルシアはぐっと呻き、詠唱していた呪詛が途中で止んだ。
 ミレーアが、マリウスに駆け寄ってきた。そしてダルシアをひと睨みしてから、「守護の祝福」を詠唱した。中央庭園を、まばゆいオレンジ色の光球が包んだ。
 ダルシアは矢を肩から引き抜こうとしたが、握った箇所で矢は折れ、矢尻は肩に残ったままだ。折れた矢を足元に叩き付けると、再び呪詛の印を結んだ。
 ダルシアを中心として拡がる黒い光球と、ミレーアが呼び出した光球とがぶつかり合い、光の飛沫が散った。両者の力は拮抗しているようで、ダルシアの黒い光球はミレーアの祝福が守るマリウスたちまで届かない。
「マリウス、大丈夫か」
 マリウスの肩に手を置いて声をかけたのは、ドルキンであった。弓を左手に持っている。
 ナスターリアと共にカルサスから王都に到着したドルキンは、外城壁門のバルバッソと合流して、そのうちの百名あまりを引き連れて王城に駆けつけたのであった。
「ダルシア! これはどういうことなの?」
 ダルシアに向かってほとんど絶叫に近い声で尋ねたのは、ナスターリアであった。
「ああ、ナスターリア……君か。こんなところで君に会うとはね……」
 ダルシアは心なしか寂しげに呟き、ナスターリアの眼を見た。
 その妖しい瞳に引き寄せられるように、ナスターリアはダルシアに駆け寄った。ドルキンが思わず手を伸ばして止めようとしたが、彼女はその手を振り切った。
 ダルシアは指を組んで形作っていた印を解き、ナスターリアに近付いた。黒い光球は消えた。
「君だけには、本当のことを話したかったのだがね……ナスターリア。人生とは、ままならぬものだ。もはや私が、君を本気で愛していると言っても、信じてはくれまい」
「あなたの嘘は、もう十分よ。あなたに愛する者などいないわ。そうやって私を偽るのは、もうやめて」
 そう言いながらもダルシアの底が知れない瞳の磁力に、ナスターリアは抗うことが出来ない。ダルシアはナスターリアの瞳を更に覗き込みながら、彼女の腰に手を回した。ダルシアが悪魔のように笑った。
「君は……やはり、もっと早くフォーラ神の贄にしておくべきだったね」
 ダルシアの右手には、いつの間にかフォーラ神の意匠が刻み込まれた短刀が握られていた。
「……君を愛していたのは……本当なんだよ……」
 ナスターリアの耳元で熱く囁きながら、ダルシアは短刀をその喉元に添えた。研ぎ澄まされた刃が白い喉に食い込み、紅いものがそこに滲んだ。しかし、ナスターリアの身体は痺れてしまい意に反して動くことが出来ない。
 ダルシアの左胸から、突如、何かの冗談のように、剣の切っ先が覗いた。自分の心臓を貫いた剣の先を、ぽかんと見つめたダルシアの口から泡の混じった鮮血が溢れ出た。
 ダルシアの呪詛が解け、ナスターリアは慌てて彼から身を離した。
 エルサスが、いつの間にかダルシアの背後に回り込んでおり、握りしめていた赤梟の剣でその背中を突いたのであった。
 エルサスは剣を捩じり、自分の体重を使って更に深くダルシアの身体に剣を沈めた。そして剣から手を離し、呆然とその場に座り込んだ。呪詛に打ち克つ力を持つ赤梟の神剣は、ダルシアの呪詛を永遠に封印した。
 ダルシアは剣からエルサスに目を移し、その場で大きく哄笑した。何もかもが可笑しくてしょうがないとでも言うように。そして、身体に剣を刺したまま、大理石の大階段をゆっくりと降りていく。
 笑いを止めたダルシアは、階段の下に立っているドルキンを見て頷いた。
「あの方が……待っていますよ……チェット・プラハールで」
 ダルシアはそう言うと力尽きたように膝をつき、ナスターリアを振り返ってもう一度微笑み、そして、ゆっくりとその場に倒れ伏した。

四十

 前教皇、すなわち第二十五代教皇サマリナ・アルバテスはその艶やかな美しさで知られ、信者からは「紅い教皇」と呼ばれていた。当時、齢五十を越えてそろそろ次の教皇選定が取りざたされるようになってからもその美しさは衰えることがなく、聖職者らしからぬ妖艶な魅力に溢れていた。
 サマリナは一晩として男の肌なしには過ごせない女であった。若い頃は王都近郊の修道院や神殿に忍んで現れ、司祭が用意した男と密会を重ねていたが、最近では好みの修道僧を教皇庁の自らの居室に招き入れ、旺盛な性欲を満たすようになっていた。野心に満ちた若きカルドール・ハルバトーレとサマリナがそういう関係になるのに時間はかからなかった。
 この時、カルドールは二十五歳。フォーラ神殿枢機卿を父に持つカルドールは若くして昇進を重ね、この年、最年少で大司教への昇進を果たしていた。もちろん、サマリナの強い後押しもあったからだが、それを割り引いても彼は優秀な聖職者であった。
「アムラク神殿で、『身世代』に啓示があったらしいね」
 白い脚を浅黒いカルドールの身体に絡ませながら、サマリナは呟いた。
「ええ、二人の修道女に啓示があったと聞いています」
 カルドールはサマリナの臀部に唇を這わせながら応えた。
「私はまだ、退きたくはない……」
 サマリナは喘ぎながら言った。
「聖下はまだまだ、お美しゅうございます。このままでいていただきとう存じまする」
「相変わらず口がうまいのう。口だけではなく、お前は私に何をしてくれるのじゃ」
「私に全てお任せください。聖下は何もご心配なさらずともよいのです」
 そう言いながら後ろからサマリナを貫いたカルドールは、ゆっくりと律動を始めた。サマリナの喘ぎ声が次第に大きくなってきた。カルドールは獣のように俯せになったサマリナの痴態を上から存分に眺めてから、暗い瞳を天蓋幕に向け、唇を歪めた。
 カルドールは深い眠りに落ちたサマリナをそのままにして寝台から滑るように降り、服を着た。彼女を起こさないように足を忍ばせて教皇の居室から出る。教皇の侍女である若い修道女が顔を赤らめてそこに控えていた。侍女は常に教皇の傍に控えておかなければならない。たとえ閨房で何が行われていてもだ。
 カルドールはその修道女を抱き寄せて、しばし唇を吸ってからその場を後にした。修道女は陶然とした表情でその後ろ姿を見送っている。
 教皇庁内の自室に戻ったカルドールは部下の司祭を呼び、行方不明になっているもう一人の身世代についての報告を聞いた。
「申し訳ございません。誠に遺憾ながら、今のところまだ見つかっておりませぬ」
 カルドールの足元に跪いた司祭はおそるおそる言った。
「不手際ではないか。あの娘をアルバキーナに連れてくるどころか、逃げられてしまうとは。『宵闇の刃』が聞いてあきれるわ」
「はっ、面目次第もございませぬ」
「今日、明日中に必ず探し出せ。くれぐれも、殺してはならんぞ。どんな手荒なことをしても構わんが、生きて私の前に連れてこい」
 サマリナを手懐けて今の地位と権力を得たカルドールであったが、世代交代の時期が迫り、教皇内の政治的な力関係にも変化が現れてきていた。サマリナ派と自他共に認めているカルドールが、次の教皇の御代にもその権力を振るうためには、誰が次期教皇になるのかを慎重に見極め、タイミングを見計らってサマリナから乗り換えなければならない。カルドールはサマリナと心中する気はさらさらなかった。
 彼が打とうとしていた次の手は、神の啓示を受けた身世代を、教皇に叙任される前に自分のものにしてしまうことであった。教皇候補といえども所詮は小娘に過ぎない。手籠めにして思い通りにすることは赤児の手を捻るようなものだ。しかし、今回、フォーラ神の啓示を受けた身世代は二人である。どちらか一人を選ぶと同時にもう一人を生きたまま排除しなければならない。身世代の生命に万が一のことがあった場合、教皇庁の審問官による徹底的な内部調査が行われるからだ。そうなるとカルドールといえども、事を穏便に収めることは難しい。
 授印の儀(公式に教皇庁から神の啓示を受けた身世代として認められる儀式)の際にその二人を品定めし、宵闇の刃にその周辺を洗わせていたカルドールは、フィオナとアナスタシアという名のその少女たちのうち、当初アナスタシアを標的にしていた。しかし、アナスタシアが以前から聖堂騎士と密会しているという報告を受け、急遽方針を変えたのであった。そして、フィオナを自分のものとして教皇に祭り上げる一方、邪魔になったアナスタシアを捕らえようとしていたのである。しかし、アナスタシアは啓示を受けた数日後、アムラク神殿から忽然と姿を消してしまっていた。
 司祭を下がらせ一人になってしばらく沈思していたカルドールは、白いローブに着替えてフードを被った。教皇庁の裏口から単身で王城へ向かった。
 当時アマード・アルファングラム三世は四十歳の男盛りであったが、寵愛していた二人目の王妃を病気で失い、失意の中にあった。一人目の妃も病気で失っており、獅子賢帝と呼ばれ公務については強い影響力を内外に示していた彼も、心のよりどころを求めていた。
 カルドールはこの王の心を巧みに籠絡した。教皇庁から王家への積極的な働きかけもあって、アマードは国王でありながらフォーラ神に帰依し、敬虔なフォーラ信徒となった。
 カルドールが訪れた先は、そのアマード・アルファングラム三世であった。当時の常識では、一介の大司祭が国王に直接拝謁することは儀礼上あり得なかった。国王が教皇以外の聖職者と直接会うことはなかったのである。しかし、カルドールはアマード王の洗礼の儀において教皇補弼に任じられた唯一の聖職者であり、事実上、教皇サマリナとアマード王の仲立ちをする立場にあった。そのため、アマードも時間さえ空いていれば優先的にカルドールに謁見することを許していた。
「その、アナスタシアという不埒な娘を捕らえればいいのだな?」
 玉座に深く腰を下ろしたアマードは、カルドールに言った。
「はい、その娘は神の啓示を受けたもうたにもかかわらず、あろうことか男と関係を結んでアムラク神殿を出奔いたしました。神のご意思に逆らうおうとする背信者であることは間違いございませぬ。サマリナ聖下もいたく心をお痛めのご様子で、ここは是非陛下のお力添えをいただきたく参上いたしました」
 カルドールはアマードの足元に控えて言上した。
「分かった。すぐサンルイーズ山麓に兵を遣わそう。カルバス大将の耳にも入れておく」
 アマードは即座に裁断を下した。
「ありがたき幸せ。聖下もお喜びになることでしょう」
 カルドールは、平伏して厳かに言った。

四十一

 アナスタシアは、王城の地下にある獄舎に囚われていた。白金の鎧は脱がされ、粗末な荒い麻の衣服を着せられている。両手と両脚は鉄輪で縛められ、堅い木の寝台に固定されており、身動きは出来ない。サンルイーズ山脈で追跡者たちから受けた額の傷から流れ出ていた血も今は固まっているが、手当てを受けていないので激しい痛みは治まっていなかった。
 フォーラ神の啓示を受けたのは何日前だったろう。時間の感覚が完全になくなっていた。覚えているのは、ファルマール神殿で行われたフォーラ神聖誕祭が終わった夜のことだ。
 アナスタシアは、いつものように聖誕祭の全ての典礼儀式を終えたあと、密かにドルキンと会うためにファルマール神殿から少し離れた場所にある修道院に向かった。
 本来、典礼儀式を終えた修道女は、身を清めて丸一日、祈りを唱えながら聖札を作るため神殿の祈祷室に篭らなければならない。フィオナはいつも、アナスタシアが不在であることを隠し、聖札も二人分作って奉納してくれていた。
 その晩、ドルキンは急用で地方の神殿に向かう司祭たちの護衛を急遽命じられ、その修道院に行くことが出来なかった。啓示を受けたことを直接伝えたいこともあって、待ち合わせの場所である修道院の厩でしばらくドルキンを待っていたアナスタシアであったが、やむなくファルマール神殿へ戻った。
 フィオナが待つ祈祷室に入ろうとした時、中から話し声が聞こえてきた。部屋に入りそびれたアナスタシアは心ならずもその会話を盗み聞いてしまった。
「……なぜ君があの女の代わりに我慢をしなければならないんだい? 君はもう十分、彼女のためにやってきたじゃないか。次の教皇になるべきは君だよ」
「……私は、そんなつもりは……」
「私は愛する君に、教皇になってほしいんだ。私に全て任せてくれればいい。あの女は私が始末するからね」
「アナスタシアは私の……大事な友達……」
「あの女が? 君の大好きだったドルキンを奪った女が? 君は自分を犠牲にしてあの女にドルキンを譲った。辛かったろう? 君は告解礼儀の時に私に言ったじゃないか。あの女が憎いと……もう我慢しなくていいんだよ。君は自分自身のために生きなければ」
「……ああ……」
 フィオナの声が喘ぎ声に変わったのを聞いて、アナスタシアは扉から離れた。そして何よりもその会話の内容に衝撃を受けた。フィオナとは幼い頃から、ずっと一緒に育った。生まれた孤児院も、初めて上がった修道院も全て同じだった。いつまでも二人で一緒にいれるものだとばかり思っていた。そのフィオナが私を憎んでいた……。
 確かに、ドルキンの件についてはフィオナに無理も言った。しかし、まさかフィオナもドルキンのことを想っていたとは……。それに、フィオナと一緒にいる男は何者だろう。彼は私を始末すると言っていた……。
 頭の中でいろいろな考えが駆け巡り、眩暈がしてきた。祈祷室の入り口の反対側に面した石回廊の隅で座り込んで呆然としていたアナスタシアは、フィオナのいる祈祷室から男が出てくるのを見て、慌てて角の向こうに身を隠した。
 男の姿には見覚えがあった。教皇庁を訪れた際、何度か見かけたことがある。若くて美しい司祭だったので、フィオナと誰だろうと噂をしたことがあった。大司教、カルドール・ハルバトーレであった。
 動揺する心を抑え切れないアナスタシアは、ファルマール神殿を出て再びドルキンとの待ち合わせ場所であった修道院に戻り、ドルキンを待った。相談出来るのはドルキンしかいなかった。
 しかし、ドルキンは現れない。独りで悩み尽くしたアナスタシアは、ついにアムラク神殿を出ることを決意した。ドルキンに会うのはそのあとでも出来ると、その時は考えていた。
 何事もなかったかのようにファルマール神殿に戻って、翌朝フィオナたちと共にアムラク神殿への帰還の途についたアナスタシアは、アムラク神殿に到着したその日の夜のうちに、神殿騎士の鎧と武具を携えてアムラク神殿を出奔したのであった。

 錆びた鉄が軋む音がし、獄舎に人が入ってきた。獄吏と一言ふたこと言葉を交わしたその男は、二人の獄吏と一人の尋問官、護衛の兵士を後ろに従えてアナスタシアが囚われている牢へ近付いてきた。
 獄吏が鉄の鍵を廻し、陰気な音を立てて牢の扉が開いた。アナスタシアは頭だけを動かして牢の入り口を見た。手に持った燭台の蝋燭が風もないのに揺れ、その男の相貌を照らした。カルドール・ハルバトーレだった。
 カルドールはアナスタシアを眺めると口を歪めて言った。
「手間をかけさせたね。まさか啓示を受けてこんなにすぐに逃げ出すとは思わなかったよ」
 アナスタシアは、顔を背けた。あの日のカルドールとフィオナの会話を思い出したのだ。
「君に罪はないのだが、君がいたのではフィオナが教皇になれないのでね。だが、次期教皇になるのは君でも良かったんだよ? 私は君の方が好みだったからね。だが、君は神殿騎士なんぞと出来てしまった。愚かしいにも程がある。自ら己の未来を閉ざしてしまうとはね。まぁ、だが、おかげでフィオナを私のものにすることは、それほど難しいことではなかったがね。きっと彼女も寂しかったんだろうな」
 カルドールはアナスタシアの耳元で、身体に触れながら囁いた。アナスタシアはその手を避けるように身を捩りながらも、カルドールを睨みつけた。
「もったいないね。実に。だが、神は既に選択したもうた。次期教皇になるのはフィオナだ。君には辞退してもらう。大丈夫。殺しはしないよ。啓示を受けた身世代が死んだとあっては、いろいろと面倒なことになるのでね」
 カルドールはアナスタシアから離れ、獄吏と尋問官に合図をした。
「不具廃疾の者はたとえ神の啓示を受けても教皇にはなれないんだ。それが古来から伝わるしきたりでね。なに、痛いのは最初だけだ。すぐに痛みにも慣れるだろう」
 二人の獄吏と尋問官が大きな箱を抱えて牢の中に入ってきた。その箱の中に覗く禍々しい造形をした拷問道具を見た時、アナスタシアは意識を失った。

 その兵士は上司の隊長から直々に、教皇庁の大司祭の護衛をするよう指示された。何故、王国兵士たる自分が大司祭の護衛をしなければならないのか理解し難かったが、安くても特別手当が出ると言われれば断ることも出来なかった。
 彼の生まれは貴族であったが、准男爵程度の爵位で就ける職は、せいぜい王国兵下士官どまりで、報酬など微々たるものだ。家には養わなければならない妻と子がいる。
 最初はそう思っていた兵士であったが、目の前で繰り広げられている、その娘に対する残酷な仕打ちを、彼は正視することが出来なかった。
 この坊さんは異常だ。彼はそう思った。夜な夜なこの王城の牢獄にやってきて、娘に対する尋問官と獄吏による拷問を楽しそうに眺めている姿は、とてもまともな精神を持っているとは思えなかった。
 一晩中執拗に繰り返されるその行為は、既に数週間にも及び、流石に彼も吐き気を覚えていた。しかし、任務を放棄するわけにはいかない。この「大司教様」がここにいる限り、自分もここにい続けなければならない。彼の精神は徐々にすり減り、限界に近付いてきていた。
 一ヶ月目の夜、げっそりと憔悴し切った彼は、ついに決断した。この娘を連れて逃げよう。一度受けた任務を放棄すれば、命令違反でどうせ斬首刑だ。愛する妻と子の顔も目に浮かんだが、このままでは自分の精神も崩壊してしまいそうであった。
 その兵士は、名をアドル・ハーメルといった。アドルはその夜、娘に対する苛烈な拷問が終わり、大司教が教皇庁に帰った後、再び獄舎を訪れて大司教の命であると嘘をついて獄吏に鍵を開けさせた。身分は低かったが、腕はかなりのものであったアドルが二人の獄吏を斃すことはさほど難しいことではなかった。
 王都を出奔したアドルは、アナスタシアを介抱しながら追っ手から逃れ、西を目指した。教皇庁も王国兵側もかなりの兵員を出して二人の後を追っていた。もはやファールデンに二人の居場所はないと言って良かった。
 アドルとアナスタシアはスラバキアとの国境に近いグレイウッドの森に隠れ棲んでいたところを辺境守備隊に発見され、戦闘となった。アドルはアナスタシアを護ってそこで命を落とした。
 辺境守備隊との戦闘中にフォーラフル川に落下したアナスタシアは、下流の古代フォーラ神殿近くに流れ着いたところを、そこに棲むスラバキアの呪術師に助けられた。アナスタシアが巫女として天賦の才を持つことに気付いたその老婆は、彼女の知る限りの荒ぶるフォーラ神の秘術をアナスタシアに伝授した。アナスタシアはそこで真のフォーラ神の姿を知った。
 アドルの息子、ダルシア・ハーメルの前にアナスタシアが現れたのは、彼が孤児院を転々としていた十四の時であった。人と馴染まず、笑うこともない暗い瞳の少年に手を焼いていた孤児院の修道僧たちは、金を出してその身柄を受けるという彼女の申し出に飛びついた。
 ダルシアを修道院から買ったアナスタシアは、全てをダルシアに語った。何故、父親がダルシアたちを捨てなければならなかったのか、必ずしもそれは父アドルの本意ではなかったこと。そして憎むべきは、大司教カルドール・ハルバトーレと、それに与したアマード・アルファングラム三世である、と。
 彼女も、もはや、かつてのアナスタシアではなくなっていた。自分の過去と現在と未来を完膚なきまで蹂躙し尽くしたカルドールへの怨讐は、スラバキアの呪術師の薫陶を経て、偽りの神とそれを信奉する教皇庁とファールデン王国に対する激しい憤怒と敵意に昇華した。
 自分たちを捨てた父親が連れて王都を出奔した女であるにも関わらず、ダルシアはアナスタシアに対して、怒りや恨みよりもむしろ愛を感じた。暗黒の空虚に支配されていた彼の心に唯一例外といえる感情の一滴を落としたのがアナスタシアであった。そして、アナスタシアの癒し難い心の傷は、ダルシアの心にも深く刻まれたのである。

四十二

「間に合わないかも知れない」
 ドルキンは呟いた。
 外城壁の西大門にある堡塁は外城壁の中でも最も規模が大きく、王都の中で王城そのものを除いて最も堅牢な要塞であると言えた。その堡塁の中にある一室で、神殿騎士・王国兵士連合軍の主立った指揮官たちが円卓を囲んでいる。
「禁忌が破られてから三十日を越えると、聖堂神殿の領域から魔物が解放されてしまうのだ」
 ドルキンの言葉に、円卓を囲む面々は息を呑んだ。
 七つの聖堂神殿のうち、六つまでは復活した魔物を斃すことに成功したが、最後の一つである古代聖堂神殿は北方のサンルイーズ山脈より更に北に奥深く、大陸最高峰のチェット・プラハールにあり、王都からはどんなに急いでも数日かかる。
 ドルキンが教皇の宣託を受けてから、二十五日が経とうとしていた。禁忌が破られた正確な日付は分からないから、最後の魔物がいつチェット・プラハールの聖堂神殿の領域から解放されてもおかしくない。そして、もしそうなれば、宣託の内容を隠していても意味がない。ドルキンは、少なくともこの円卓に列している指揮官たちには、状況を明かしておいた方が良いと判断したのだ。
「王都にやってくるでしょうか?」
 ファルマール神殿の神殿騎士団長フォーレンが訊いた。
「解き放たれた魔物がどのような姿をしているのか、どのような行動を取るのか、全く予想がつかぬ」
 ドルキンは答えた。
「そうであれば、打つ手はありませぬ。打つ手がないのであれば、頭を悩ませてもしょうがありません。もちろん警戒は必要ですが、ここはやはり王都を動かず、まずスラバキアの侵攻に備える他ないのではありませんか」
 黙って聞いていたナスターリアが発言した。
「うむ、俺もそう思う。ただでさえ割くべき兵数は少ない。いたずらに不測の事態に備えるよりも、目の前の確度の高い脅威に備えるべきだろう」
 バルバッソがナスターリアに同意した。他の指揮官たちも頷く。
「よろしい。結論が出たようですな」
 ドルキンは全員の顔を見回し、言った。
「ラードル殿とマリウスで当初立てた計画通りに布陣を進めることにしましょう。バルバッソ、フォーレン、コスタスの部隊には、それぞれ西、南北の大門をお任せする。ラードル殿は外城壁の外側で遊撃をお願いしたい」
 ドルキンは、ナスターリアの方を向いて、言った。
「そして、ここの総指揮は貴公にお願いしたい。皆も異論ありませんな?」
 全員が大きく頷いた。
「ドルキン殿はどうなされるのですか?」
 ナスターリアが訊いた。
「私とミレーアはエレノア様を連れて、チェット・プラハールに向かわなければならぬ」
 ドルキンは答え、一同を見回してから言葉を継いだ。
「完全に禁忌を封印するためには、魔物を斃すだけではなく、一度毀損された『身世篭もり』の儀式を改めて執り行う必要があるのだ」
「三人だけでは、さすがに危険だろう。俺のところから何人か出すよ」
 バルバッソが言った。
「ありがとう。だが、お前も言ったとおり兵は貴重だ。我々のために数を割く必要はないよ。その代わりというわけではないが、カミラとキースを連れて行く」
「私も連れて行ってください!」
 立ち上がってドルキンとバルバッソの会話に割って入ったのは、エルサスだった。
「殿下、お気持ちは分かります。だが、今度こそは聞き分けていただかないと困ります。殿下は既に、名実ともにこのファールデン王国の次期国王です。十三歳の成人堅信を終えられたら、あなたは国王としてこの国を担っていかなければなりません。国王とはこの国の総大将だ。あなたがここに残って異民族たちと戦わずしてどうするのですか。エレノア様のことであれば、私が必ずお守り申し上げます。私を信じていただきたい」
 ドルキンは厳しい口調でエルサスに言った。
 エルサスは俯いた。ドルキンの言は正しい。自分は王にならなければならない。王が国の危機を前にしてその場を去るなどあり得ない。エレノアのことが心配ではあったが、ここはその想いを呑み込む他なかった。
 隣に座っていたナスターリアが、エルサスの背に優しく手を添えた。エルサスは頷き、腰を下ろした。
「明日の早朝、私たちは出立いたす。皆様のご武運をお祈りいたしております」
 ドルキンは立ち上がり、神の印を両手で結んで一礼した。

 その夜、マリウスはなかなか寝付くことが出来なかった。このように心が乱されるのは初めてだ。マリウスは、要塞の中にある割り当てられた自分の個室から抜け出し、城壁の外に出た。堡塁の横にある石に腰を下ろして空を見上げる。
 細い弦のような月が頭の上にあった。満天の星空の真ん中を、悠久の大河のような銀河が横切っているのが見えた。すぐそこに迫っている危機が嘘のように美しく、そして静かだった。
「マリウス様」
 背後から声を掛けられて、マリウスは思わず立ち上がった。振り返る。
 そこに佇んでいたのは、ミレーアだった。白い麻のワンピースに、修道女のガウンを羽織っている。肩まであるプラチナブロンドの髪と透き通るような白い顔が星明かりに照らされ、今まで見たどの女よりも美しかった。
 マリウスはミレーアを見つめたまま言葉を失って、暫しその場に立ち尽くした。
 ミレーアが近付いてきて、マリウスの手を取った。
「お別れをどうしても、言いたくて」
 ミレーアの言葉に、はっと我に返ったマリウスは一瞬躊躇したが、ミレーアの手を握り返した。
「お別れなど言わないでください。必ず無事に帰ってこられます。今までもそうであったように」
 ミレーアは、突然マリウスにしがみついた。腕をマリウスの身体に回して顔を胸に埋める。
 マリウスは予期せぬミレーアの行動に狼狽したが、そっとそのままミレーアを抱き寄せた。
「チェット・プラハール。たとえフィオナ様の宣託があったとしても、出来れば私は行きたくない……。不吉な予感がするのです。今までとは違う、暗雲が私には見えるのです。ああ……神の巫女などでなければ良かった。巫女でなければ未来を観ることもなく、そして……そして……マリウス様、あなたのおそばにずっといることが出来るのに……」
 ミレーアは、マリウスの胸に顔を埋めたまま泣き始めた。マリウスはミレーアを強く抱き締めた。心の奥から湧き出てくる、今まで経験したことのない感情を抑えることが出来なくなっていた。
 マリウスはミレーアを身体から離し、左手でミレーアの顎を支えその涙を唇で吸った。そして、そのまま、二人の唇は重なり、二つの影が一つになった。

 翌朝、陽がまだ地平に現れぬ早朝、ドルキンたちの姿は外城壁の北大門前にあった。
「王都を頼む」
 ドルキンは見送りに現れたマリウスの手を両手でしっかりと握った。
「はい」
 マリウスは手を握り返しながら、ドルキンの後ろに立っているミレーアを目で追う。ミレーアは、昨日マリウスの胸で泣いていたのが嘘のように、毅然としたいつもの佇まいを崩していなかった。
「強い人だ」
 マリウスは心の中で呟いた。ミレーアの健気さが胸に染み、むしろマリウスの方が心を激しく乱された。
「生きて帰れよ」
 バルバッソがドルキンの肩を両手で摑むようにして言った。ドルキンは深く頷き、言った。
「任せておけ。お前こそ、死ぬなよ」
「おう。戻ったら神殿騎士を引退しろよ。今度こそ、一緒に船に乗ろう」
 ドルキンとバルバッソは笑顔で応酬した。
「行くぞ」
 ドルキンは漆黒のアダブル種に跨がると、既に別の馬に騎乗しマリウスの手を借りてエレノアを自分の前に座らせたミレーアと、白狼と化したキースの上に跨がったカミラに言った。ミレーアとカミラが頷いた。
 ドルキンは馬に掛け声をかけると手綱を引いて馬体を北に向けた。鞭をくれ、一気に駆け出す。ミレーア、キースがそのあとを追った。
 マリウスは、一瞬、ミレーアが視線を自分に移したことに気付いた。思わず、一歩前に足を踏み出した。しかし、次の瞬間、ミレーアは馬が巻き上げる砂塵の中に姿を隠し、その表情を窺うことはできなかった。
 マリウスは、馬たちが巻き上げる砂塵が、完全に見えなくなるまで、その場に立ち尽くしていた。

四十三

 スラバキアの大軍団が王都に迫ってきたのは、それから四日後の朝であった。西大門を守っていた兵士たちがバルバッソに急報をもたらした。
「ついに来たか」
 バルバッソは、外城壁の中に設けられた石の階段を兵士と共に駆け上がった。物見の兵士が櫓塔から北西の方向を指さした。徐々に陽が昇って来、バルバッソの横顔を背後から照らし出した。
 ここから見ると北の方向にはサンルイーズ山脈の陰が微かに見え、西の方向は砂漠がまだ暗い地平線まで続いている。そのちょうど中間あたりにもうもうと立ち昇る砂煙と黒い影の塊が、地平線に沿って、少しずつ横に拡がっていくのがうっすらと見えた。
「城壁堡塁にいる兵士全員に伝令。第三次守備態勢で緊急招集!」
 兵士たちの慌ただしい足音が交錯し、外城壁の砦は騒然とした空気で満たされた。
 スラバキア軍の先鋒が王都に到着したのは、昼前のことであった。
 整然と進軍してきた騎兵が、弓矢の届かない距離を十分にとって隊列を変えていくのが見えた。蛇の鱗のような陣形だ。鱗が次第に横に広がっていき、外城壁の北門から西門にかけて王都を囲むように布陣が出来上がっていく。
 バルバッソは、思わず生唾を飲み込んだ。少なく見ても十万は軽く越えている。もしかすると、二十万近いかも知れない。獲物を呑み込もうとする蛇が蜷局を巻くように、王都は完全にスラバキア兵に包囲された。
 スラバキアの本隊が到着したようだ。整然と並んだ騎馬兵の間に巨大な破城槌や投石機がいくつも姿を現した。投石機には石で作られた車輪が備え付けられており、隊列の最前線まで騎馬に引かれ運ばれてきた。曲剣を腰に差し、大盾を構えた先鋒の騎兵がいったん後ろに下がる。
 時を置かずして、投石機から巨大な岩のような石が投擲され始めた。強靱な動物の腱をバネとして利用するこの投石機から発射された石は、大きな曲射弾道を描いて宙に舞い、外街壁の内側に落ちてきた。地面に着弾した石は砕けて跳弾し、広範囲にわたって構造物を破壊した。
 バルバッソは歯がみをした。この距離だと弓矢は届かない。時間と資材、人手が足りなく、王城側は投石機などの大規模破壊兵器を準備することが出来ていない。石の幾つかは外城壁を直撃し、堡塁全体が大きく揺れた。
 投石が飛び交う中、破城槌が前に出てきた。スラバキア兵は馬を下りて破城槌の後ろと横に取り付いて人力で前に押している。破城槌の前には木製の盾が備え付けられており、兵士たちはその後ろに身を隠しながら進んできた。
 バルバッソは西門を守る弓兵に合図した。既に城壁の上に三列に並んでいた弓兵が弓を引き絞り、一斉に矢を放った。矢は放物線を描いて、上から破城槌に降り注いだ。幾つかは槌の前方に備え付けられた盾の裏にいる兵士に命中し何人かが倒れるのが見えたが、ほとんどがその盾で防がれ、破城槌の勢いは止まらない。
 破城槌は西大門の前に達した。破城槌の上には屋根が付いており、城壁の上からの矢は全て防がれてしまう。
 巨大な丸太で作られた槌がその屋根から吊り下げられていた。巨躯のスラバキア兵たちが数十人、槌の横に付けられた取っ手を握り、一斉に後ろに引いた。振り子のように勢いが付いた槌が、門に激突する。耳を聾する音と共に外城壁全体が大きく揺れた。
 同じような音が他からも聞こえた。恐らく、西門だけでなく、北門、南門も同様の攻撃を受けているのだろう。
「このままでは、門どころか壁自体がもたん」
 バルバッソは心の中で呟いた。
 度重なるスラバキア兵の槌による攻撃で、門にはひびが入り始め、太い大木で作ったかんぬきも折れそうになっていた。
 その時であった。両手に戦斧を持ち、堡塁の縁から城壁の外側に飛び降りた兵士たちがいた。ドワーフ兵ラードル率いる鷹嘴隊を中心とする部隊であった。
 破城槌の屋根に飛び降りたラードルたちは、そのまま下にいるスラバキアの兵士に飛びかかった。屋根からスラバキア兵の上に落ちると同時に、兵士たちの脳天に戦斧を叩きつける。脳漿を振りまいて次々とスラバキア兵が倒れていく。
 後ろにいたスラバキア兵がラードルを引き倒そうと右腕でその肩を掴んだ。ラードルは振り向きざまにその右腕を斧で切り落とし、その兵士が怯んだところを左手の斧で喉笛を掻き切る。
 別のスラバキア兵がラードルに近付き、三日月型の曲刀で背中を切りつけてきた。ラードルは素早く態勢を入れ替えると左手の戦斧で曲刀の一撃を受け止め、その兵士の腹部を蹴り上げた。前屈みになったところを間髪を入れずに右手の斧でを水平に薙ぎ払った。スラバキア兵の首が飛んだ。革の兜が勢いで吹き飛び、長い髪が血飛沫と共に舞った。
 ラードルらゲリラ部隊の働きもあって、各大門を攻撃していた破城槌は沈黙した。ラードルたちは、破城槌の槌を吊っている縄を切り落とした。槌は大きな音を立てて地面に転がった。
 破城槌の脅威は去ったが、その代わり投石機による攻撃が一段と激しくなった。普通の石だけではなく、油を染みこませ炎を纏った藁や火薬が詰まった箱なども飛んでくるようになった。城壁内にある家屋のうち幾つかに火が点き、燃え盛り始めた。
 投石機から放たれた石の一つが、外城壁を直撃した。既に何度か直撃を受けていた場所なのであろう、石組みの壁が大きく崩れ、城壁の中から王都を包囲しているスラバキア兵が見えるようになった。
 バルバッソは兵に指示を出し、五百名ほどをその崩れた城壁へ向かわせた。
 城壁が崩れたのをスラバキア女王ヒルディアも見逃していなかった。自ら指揮して大軍を率い、一気にその場所へ馬で突撃していった。
 ヒルディアの後に続く騎兵たちはとりわけ巨躯の馬に跨がり、他の兵士よりも一回り大きな女とは思えない体躯をしている。巨大な斬馬刀を両手に持ち、馬を脚だけで捌いていた。スラバキア兵の中でも選りすぐりのヒルディア直属の近衛兵である。
 ヒルディアたちは崩れた城壁に達すると、そのまま馬を駆ってその瓦礫と化した壁を飛び越えた。次々と近衛兵たちが後に続く。あまりにもヒルディアの行動が速かったため、バルバッソの指揮する部隊の布陣が間に合わなかった。怒濤の勢いで傾れ込んでくるスラバキア兵たちに神殿騎士・王国兵連合軍は浮き足立ち、乱戦状態になった。
 崩れた城壁前に展開しようとしていた連合軍はヒルディアの近衛兵たちに囲まれ、斬馬刀による旋風のような激しい斬撃に切り刻まれ、その四肢が空中に血飛沫と共に舞い上がった。ヒルディアはそのまま外城壁を突破して王城に馬首を向けた。
 ラードルは鷹嘴隊を率い、崩れた城壁に到達したが、既に味方の兵士たちはヒルディアの近衛兵に蹂躙され尽くし、ほとんどが肉片と化し王都の土に還っていた。
 このままでは戦線が崩壊してしまう。なんとか敵の勢いを止めなければならない。
 ラードルはもはや生き残ろうと考えるのを止めた。彼の視線の先にあるのは、スラバキア騎兵の先頭で巨躯の悍馬を操って王城にひた走る、獅子の鎧の女戦士。体格の良い近衛兵たちに混じっても目を引くその体躯は躍動に満ち、美しくさえあった。スラバキア女王、ヒルディアである。
 ラードルは馬に飛び乗って鞭をくれ、ヒルディアに迫った。右手の戦斧を逆手に握り直す。周りから寄せてくるスラバキア騎兵たちを巧みに避けながら、ラードルはヒルディアの右後ろに迫った。
 馬に乗り移れるよう左側に上体を傾け低い姿勢を取った。手綱を手放し、左手をヒルディアの馬に伸ばした。
 その時、巨大なハンマーで殴られたかのように、ラードルの身体は激しい衝撃を受け、ヒルディアの後ろの宙に大きく放り出された。右方向から迫ってきていた巨躯の近衛兵がラードルに馬ごと体当たりを食らわせたのである。
 斬馬刀を手にした近衛兵たちが、地面に落ちて転がったラードルに殺到した。
 女王ヒルディアは自分の背後で起きていたことなど、全く意に介していなかった。王城は目前である。数の力をもって一気に王城を陥すつもりであった。ヒルディアは商業地区を越え、王都の中枢を囲む城街壁まで到達した。
 ヒルディアが城街壁の大門に迫ったとき、城街壁の上からファールデン王家の紋章を鮮やかに染め抜いた旗幟がいくつも立ち上がり、折からの強風に大きくはためいた。同時に、弓兵が矢を放ち始めた。
 ヒルディアの近衛兵は彼女の周りに集まり、斬馬刀で盾を作った。城壁から放たれた矢は斬馬刀の刃に当たって地に落ちた。
 ヒルディアの後に続いていたスラバキアの騎兵たちは馬体を止めず、そのまま滑らかに隊列を変えて整えていった。あっという間に幾つかの小隊に分かれ、蛇の鱗のような陣形ができあがる。
 大門上の櫓に陣取っていたナスターリアが合図すると、城壁の上から火矢が降り注ぎ始めた。突然飛来した火矢にスラバキア兵の乗った馬が動揺して嘶き、前脚を大きく振り上げた。それと同時にスラバキアの隊列の中で爆発が起こった
 火矢が刺さった樽や木箱が、次々と爆発し始めたのだ。
 ナスターリアは、外城壁が突破される事態に備えて、城街壁の外側に大量の爆発物を仕掛けていた。見た目はただの樽や木箱だが、中には相当量の爆薬が仕込まれており、誘爆しやすいように表面に引火性の松脂をまぶしてある。
 かなりの数のスラバキア兵たちが四肢を爆薬に吹き飛ばされ、戦闘能力を失った。ヒルディアは火矢の届かない位置まで隊列を下げた。改めて陣形が組み直され、スラバキア兵とファールデン兵が一定の距離を置いて対峙した。
 辺りが静まりかえった。聞こえるのは馬の嘶きのみである。両軍は城街壁前の広場を挟んで睨み合いになった。
 にわかに空がかき曇り、大粒の雨が降り出したのはその時であった。
 ナスターリアは、空を見上げた。いつの間にか空を覆っていた厚い雲が、深紅に染まっている。雨粒が目に入り、視界が赤く滲んだ。ナスターリアは、思わず自分の両手を見た。雨に当たった部分が血に濡れたように真っ赤だ。
 それは雨ではなかった。血が、深紅の雲から雨のように降り注いでいるのだ。城壁の兵士たちに動揺が走った。
 思わぬ事態に動揺したのはスラバキア兵も同様であった。全身に血を浴びて修羅のようになったヒルディアは空を仰いだ。
 血の色に染まった雲の中から、天空を全て覆い尽くすのではないかと思われるほど巨大な紅い梟が舞い降りてきた。表面は羽毛ではなく赤く爛れた皮膚で覆われている。全身から血が溢れており、それが地上に降り注いでいる。
 紅い梟の羽ばたきで生じた烈風はあたかも竜巻のように地上に巻き上がり、幾人ものスラバキア兵たちが馬ごと宙に舞った。城街壁の石組みの屋根が次々と吹き飛んだ。ナスターリアたちは城壁にしがみついた。
 紅い梟が地上に降り立ち、天を仰いで耳を聾する鳴き声を上げた。地上にあるものが強烈な衝撃波で震動する。ナスターリアは耳を塞いでその衝撃に耐えた。城壁にしがみついていた何人かが、鼻と耳から血を流して倒れた。
 梟は巨大な嘴を地上に振り下ろし、馬ごと数十人のスラバキア兵を咥えた。そのまま呑み込む。兵士たちの悲鳴が上がった。
「まさか……」
 ナスターリアの背筋が凍った。
 これが、ドルキンが言っていた、聖堂神殿の領域から解き放たれた最後の魔物であり、ついに王都に降臨したのであった。

四十四

 ユースリア大陸の最高峰、チェット・プラハールは、サンルイーズ山脈を越え、さらに北に深く踏み入った大陸の最奥にあった。一年を通して吹雪に覆われているその雪山に、フォーラ神の啓示を最初に受けた乙女である神の子(フィロ・ディオ)アーメインの出生地たる古い寺院はあった。
 ドルキンは、銀革の鎧の上に羽毛を詰めた短い胴着と黒羆の毛皮を鞣したローブを着込み、横殴りの風と、叩きつけるように降り続ける雪で前がほとんど見えない山道を、一歩一歩踏みしめながら歩いていた。背中に各地の聖堂神殿で入手した武具を収めた革の袋を担いでいる。
 そのドルキンの広い背中で雪や風を除けるように、後ろをぴったりとくっついて白貂のローブとフードで身を固めたエレノアとミレーアが続いていた。カミラとキースは銀色のリンクスと白狼の姿でドルキンたちの後についてきている筈だ。吹雪の山道では、むしろその姿の方が彼らにとって都合が良い。今は、辺り一面の真っ白な吹雪のため、彼らの姿を目視することは出来なかった。
 不意に、リンクスの姿をしたカミラがドルキンの目の前に姿を現した。つぶらな緑の瞳がついてこいと言っているようだ。尖った耳がせわしなく動いている。ドルキンはカミラの銀色の背中を見失わないように足を速めた。ミレーアたちもそれに続いた。
 全く前が見えないほど強まってきた吹雪の中で、カミラの姿を追うあまり、足元ばかりを見ていたドルキンだったが、ミレーアからローブを引っ張られて顔を上げた。
 眼前に、遺跡のような古い石造りの寺院が、吹雪の中でむしろ静かに佇立していた。フィオナの宣託にあったユースリア大陸に点在する七つの聖堂神殿のうち、最後の目的地であるチェット・プラハールの古代聖堂神殿であった。
 カミラの案内で寺院の入り口に辿り着いたドルキンは、その分厚い石の扉を調べてみた。石の扉は横に長い直方体で、垂直ではなく斜めに取り付けられていた。扉が開くと、恐らく地下に入っていくことになるのだろう。大きな引き戸にも見えたが、把手はなく、押してみてもびくともしない。
 しばらくその石の扉を検めていたドルキンだったが、おもむろに雪と氷に覆われた扉の表面を掌で触った。そして、背中の大斧を抜いて両手で持ち、その扉の表面を叩いた。
 扉を覆っていた雪と氷が地面に落ち、本来の扉の表面が現れた。丸い七つの石が組み合わさって何か文字のようなものを形作っている。古代フォーラ神の言葉のようだが、ドルキンにそれを読み解くことは出来なかった。
 ドルキンはミレーアを呼び、この石の組み合わせを見せた。ミレーアは慎重に石の組み合わせを組み替え、一つの言葉として成立するように動かした。
「二神は一神の虚、一神は二神の実なり」
 ミレーアが七つの石の組み合わせを変えた瞬間かちりと音がし、その扉は内側から手前へ自らゆっくりと開いていった。これは、古代からフォーラ神殿に伝わる言葉らしい。フォーラ神の二神性を表現したものなのであろうか。
 ドルキンは扉の内側に足を踏み入れた。予想通り、中は洞窟状の通路になっており、古い石の階段が地下深くに向かって伸びている。
 階段の壁にはところどころに松明が差してあったが火は消えている。ドルキンはフードを取った。フードやローブに付着していた雪が足元に落ちる。
 ドルキンは持参した松明に火を点け、壁に差してある一番手前の松明に火を移した。持参した方をミレーアに渡し、壁の松明を抜いて右手に持った。
 閉まりかかった扉を擦り抜けるようにして、白狼と銀色のリンクスが中に駆け込んできた。ドルキンの足元で大きく身震いして身体に付いた雪を飛ばす。そして、淡い水泡のような細かい光が銀のリンクスを包み、カミラはその場で人の姿に変じた。
 ドルキンは松明を左手に持ち替え、背負っていた斧を右手に持ってその石段を降りていった。かなり深い。エレノアはミレーアにぴったりとくっつき、ドルキンの後についてくる。カミラとキースがこれに続いた。
 どのくらい降りただろうか。ようやく石段が途切れると、ドルキンの背丈ほどもある一枚の石扉に行き当たった。
 ドルキンは慎重にその扉を調べた。把手やその代わりになるような窪みはない。ただ、その扉一面が彫刻で覆われていた。様々な武器の形に彫り込まれて、石がくり抜かれたようになっている。
 ドルキンは、はっと思いついて、手に持っていた斧を一番右の彫り込みに嵌めてみた。その彫刻は斧の形をしていたのである。果たして、それはぴったりとその窪みに嵌まった。
 ドルキンは、腰に付けていたサルバーラの水晶の剣、それから背負っている革袋に収めていたカルサスのレイピア、教皇庁の神剣、スヌィフトの赤梟の剣、そしてヴァレリアで海中から引き上げた短槍をそれぞれその窪みに嵌め込んでいった。
 全てを嵌め終えた時、その扉が、だれも触れていないのに向こう側へ開いた。
 その部屋は、もともと洞窟であったものを奥に掘り拡げて造られているようで、天井が高かった。かつては祭殿であったのだろうか。古びた巨大な石の構造物が部屋の中央に組み上げられており、手前の祭壇の上に、直剣が納められていると思われる錆びた鉄製の鞘が置かれていた。祭壇の周りには部屋を支える石柱の役割を果たしている巨大な石造りの彫像が並んでいる。
 ドルキンは祭壇に近付き、その上に置かれている剣を手に取り、鞘を払ってみる。
 見た目の印象に反して、すらりと抵抗なく剣の刃が現れた。通常の直剣よりも長いが大剣と言うほど大きくはない。刃は十分に鍛え抜かれ、錆び一つ付いていない。燻されたような渋さと、水滴を纏ったような美しい光を同時に纏っている。
 ドルキンは剣を慎重に検めた。剣の刃は諸刃になっており、刃身から先端にかけてなだらかなカーヴを描き、剣の重さもバランスも素晴らしいものであった。チェット・プラハールに奉ぜられた最後の神剣であろうか。
 ドルキンは剣を鞘に納めると、大斧に巻き付けてあった革鞘に結び付けた。右肩に背負い、辺りを見渡した。神剣を護っているはずの魔物の気配はない。既に、この神殿の領域を離れ、ファールデン国土に解き放たれてしまったのだろうか。
「ドルキン様」
 ミレーアの声に、ドルキンは振り返った。
「身世篭もりの儀式を始めてもよろしいでしょうか?」
 エレノアはミレーアに寄り添うように立っている。フードを取ったエレノアを見ていると、どうしてもアナスタシアを想い出してしまう。あまりにも瓜二つなので、胸が甘く締め付けられ、ドルキンは二人から目をそらした。
「ああ。ここがこの神殿の祭殿だろう。進めてくれ」
 ドルキンはキースに目配せをし、一緒に祭殿の外に向かった。「身世篭もり」は男子禁制の儀式だ。その場に立ち会えるのは修道女か巫女のみである。
 ドルキンは祭殿の中に転がっている手頃な石を抱えた。入り口の石扉は、今は大きく開け放たれているが、万が一に備えて石扉の前にその石を置き、すぐには閉まらないようにしておいた。
 祭殿にはエレノアとミレーア、そしてカミラが残った。ドルキンとキースは降りてきた階段を途中まで戻る。ドルキンは階段に腰掛け、深い溜息をついた。
 先ほどエレノアの中に見たアナスタシアの面影が頭から消えない。
 四十年前のあの日、アナスタシアの行方が分からなくなって以来、彼女のことを想わなかった日はなかった。忘れようとすればするほど、得体の知れない焦燥感に身を焼かれ、寂寥感に身が引き裂かれる思いであった。フォーラ神の戒律に没頭し、自分を厳しく律した修行僧のような生活を送ったのも、今考えてみると、彼女への思いを断ち切るためのものだったのかも知れぬ。
 老境を迎えた今でさえ、若い頃のような激しい衝動に襲われることはなくなってきたし、仮に襲われても自分を律することが出来るようになってはいるものの、それでも時に人混みの中でアナスタシアの気配を感じ、目でそれらしき影を追ってしまうことがあるのだ。
 ドルキンは頭を振り、想いを振り払おうとしたが、フィオナから神の宣託を受けた際の「アナスタシアを救え」という言葉が頭を離れない。今更、アナスタシアを救えとは、どういうことなのか。
 その時、ドルキンの足下に蹲っていたキースが警戒の唸り声を上げた。ミレーアの叫び声が階下から聞こえた。ドルキンは我に返り、慌てて立ち上がった。階段を駆け下りる。
 重い石で留めてあったはずの石扉が、まさに今、閉じようとしていた。ドルキンは階段を降りきらないうちに跳んだ。
 辛うじて、扉の隙間を転がりながら擦り抜ける。その拍子に石の床に頭を強く打ち付け、一瞬意識が遠のいた。キースは間に合わなかった。
 ドルキンは歯を食いしばり、薄れそうになる意識を意思の力で取り戻した。身体の方は自然に、背負っていた革鞘から神剣を抜き、両手で持って身構えていた。
 祭壇の上に、二つの人影があった。
 一つは茶色の汚いローブとフードを身に着けた老婆。そしてもう一つは、エレノアであった。ミレーアとカミラは祭壇の横に倒れている。
 老婆はエレノアの後ろに立ち、その両肩に手を添えている。エレノアは今まで見せたことのない表情で、嬉しそうに微笑んでいた。
「何者だ?」
 剣を構えたままゆっくりと祭壇に近付いたドルキンは、慎重に老婆とエレノアから距離を置きながら尋ねた。
 老婆はフードを被ったまま頷き、そして言った。
「お久しゅうございます、ドルキン様」
 老婆は口や喉を使って声を出していなかった。ドルキンの頭の中に直接響く声で語りかけてくる。懐かしく、忘れようにも忘れられない声。ドルキンは愕然とした。フィオナの宣託を受けてから、何度も否定しては頭をもたげ、それでも押さえつけてきた感情が、もうどうにも押さえ切れないものになってドルキンの胸の内を満たしていった。剣を握っていた手が下がる。
「まさか……お前は……」
 老婆はフードを脱いだ。
「アナスタシア……なのか?」
 見た目は全く違うその姿に、しかしドルキンは確かにアナスタシアの面影を見出した。
 ドルキンは剣を構えるのを忘れ、その場に立ち尽くした。

四十五

 教皇庁。身世代に対する授印の儀、前々夜。
 その老婆は、脚を引きずりながら天鵞絨の幕を捲って教皇の居室に入ってきた。
 楡の老木を切り出して作った広い年代物の机で、神の啓示を受けた身世代に対する印綬を彫り込んでいた教皇フィオナは、手を止め、その修道女に声を掛けた。
「サドナ、このような時間までご苦労さま。どうしたのです、何かあったのですか?」
 サドナはフィオナの問いに答えず、その場に立ち尽くしている。
「明後日は当代身世代に対する授印の儀が執り行われます。明日もその準備で忙殺されるはず。早めに休んでおかないともちませんよ、まる二日寝ずの儀式ですからね」
 フィオナはサドナの身体を慮って優しく諭した。
「……授印の儀は、行えないわ」
「えっ?」
 フィオナは耳を疑った。いつもの擦れた甲高い声とは違う柔らかな声が響いたからだ。
「『身世篭もり』は毀損された」
「一体、何を言っているの……サドナ……あなたは……」
 サドナは静かにフードを取った。フィオナはサドナが人前でフードを取るのを初めて見た。若いときに病気で相貌が醜く崩れているという話だったので、フィオナは他の司祭が礼を失するとしてそれを見咎めたときも特に問題とせず、フードを被ったままでいることを許していた。
 顔が醜く崩れているのは確かだったが、それは病気のせいではなかった。
 醜く焼けただれ、崩れたその相貌の右目は失われ、左目だけが潰れかかった瞼の奥から辛うじてフィオナを見つめていた。
「もう、私のことは忘れてしまったかしら、フィオナ」
 明らかにいつものサドナの声ではない。フィオナはその声に聞き覚えがあった。随分昔から知っているけれど、もう長く何年も聞いていないその声……。
「……まさか……そんな……アナスタシア?」
 フィオナは椅子から立ち上がった。椅子が勢いで横倒しになった。
 蹌踉めくようにしてサドナに近付いていったフィオナの額には玉の汗が浮かび、顔色は蒼白に転じていた。サドナに伸ばした手が、微かに震えている。
「長かったわ。もう四十年になるのね。私たちがフォーラ神の啓示を受けてから」
 サドナ、いや、アナスタシアは、フィオナが差し出した手を静かに払った。
「何故? 何故、いままで黙って……」
 フィオナはアナスタシアに言った。信じられなかった。四十年前、フィオナと共に神の啓示を受けたアナスタシアはその数日後から失踪したままなのだ。もう誰もがその死を疑っていなかった。しかし、その彼女が、突然、今、姿を現した。
「……心配していたのよ……ずっと……てっきり、もう……」
 フィオナは震える声で言った。
「そうかしら? 私がいなくなって本当は嬉しかったのでしょう。カルドールと示し合わせて望み通り教皇になれたのですものね」
 アナスタシアは唇を歪めた。
「違う、違うわ! 私は決して、そのような!」
 フィオナは激しく首を振った。かつては淡いブロンドであった銀色の髪が大きく揺れた。ショックのあまり呼吸が困難になる。その場に膝を折って座り込んだ。
 アナスタシアは腰紐を解いてローブの前を開き、その姿をフィオナに晒した。その姿を見上げたフィオナは思わず顔を背けた。
 乳房は二つとも抉られ、腹部には下腹部までに至る引き攣れた醜い火傷の跡があった。腰は砕かれ曲がり、脚は右足が膝の先から無くなって木製の義足で継ぎ足されている。明らかに、苛烈な拷問の跡であった。
「ひどい……」
 アナスタシアのむごい傷跡を見て、フィオナは彼女に何があったのかを全て理解した。カルドールとは、そういう男だった。異常者なのだ。そんな男に夢中になった若かりし頃の自分を、彼女は恥じ、悔いていた。
 フィオナは床に手を突いて、顔を伏せた。床に大粒の涙が零れた。
「私は、荒ぶるフォーラの女神を復活させるわ」
 アナスタシアはローブを元に戻しながら、燃え盛る暖炉の炎を見つめて言った。
「いけない! そんなことをしたら……この国が、いえ、この大陸が滅び去ってしまうわ! 今のファールデン国王に魔物を封じる力はもう、ないの!」
 フィオナは顔を上げ、アナスタシアのローブの裾を掴んだ。
「偽りの神を崇める教皇庁や王国も、滅んでしまうべきなのよ」
 アナスタシアは不気味なほど静かな声で言った。
「既に『身世篭もり』は毀損された。アムラク神殿の禁忌は破られたわ。身世代には荒ぶるフォーラの刻印を打ち込んだ」
「なんて……なんてことを……」
「私が、私の娘に何をしようと、あなたにとやかく言われる筋合いはないわ」
「あなたの娘ですって……?」
「当代身世代、エレノア。この子は私とカルドールの娘よ。アルバキーナ城の牢獄で私はカルドールに犯され、エレノアを身籠もった。でもスロバキアの呪術師は私に出産を許さなかった。私を荒ぶるフォーラ神の巫女にするためにね。彼女は神の呪詛で胎児を辺境の貴族の娘の胎内に転生させた」
 アナスタシアの後ろから、アムラク神殿にいるはずのエレノアが姿を現した。少女の頃のアナスタシアに生き写しだ。違うのは、瞳の奥にカルドールと同じ狂気が潜んでいることだった。
 エレノアが、にっと笑った。その笑顔は、カルドールがサディスティックな愉しみに酔い痴れているときに見せる、あの邪悪な笑顔そのものだった。
 フィオナの顔が恐怖に凍り付いた。
 その時、フィオナの後ろに人影が差した。振り返ろうとしたフィオナの鳩尾に、いつの間にか姿を現していたダルシア・ハーメルの拳がめり込んだ。
 ダルシアはフィオナの身体を軽々と抱え、彼女の寝室に運んだ。寝台の上に仰向けに寝かせる。
 アナスタシアは、フィオナの手足と首に呪詛を施した細い紐を結び、寝台の天蓋を支える柱に括り付けた。
「明日、円卓の騎士団長である『あの人』を召喚するよう、あなたの名前で手配しておいたわ。エレノアがいなければ荒ぶるフォーラ神は復活出来ない。彼にエレノアを守り、チェット・プラハールまで連れて行ってもらう」
 意識を失っているフィオナに語りかけたアナスタシアは、エレノアをフィオナの傍らに残し、ダルシアと共に寝室を出た。錠をかける。
「あの娘と教皇を一緒にしておいてよろしいのですか?」
 ダルシアが少し眉間に皺を寄せて訊いた。
「あの部屋には私しか出入り出来ない。いいのよ、あの子にも愉しみを残しておいてあげないとね」
 ダルシアでさえ、ぞくりとする凄まじい笑顔でアナスタシアは答えた。

 アナスタシアは全てをドルキンに語った。そして、あの日、ドルキンを召喚したのがフィオナではなく、自分であることを告白したのだった。
「あれは、あれはフィオナではなく、君だったのか?」
 ドルキンは絞り出すような声で言った。いま、はじめてあの時感じた違和感の理由が分かった。分厚い外出用の正装を身に着けていたのも、敢えて自分を遠ざけて宣託を下したのも、それがフィオナではなくアナスタシアであることを悟られないためのものだったのだ。
 アナスタシアは頷いた。
「それでは、フィオナは?」
「エレノアが、始末してくれたわ」
 アナスタシアの前に立っているエレノアが、にやりと笑った。それは、少女の頃のアナスタシアのものとはほど遠い、美しく整ってはいるが明らかに狂気に支配された笑顔だった。
 ドルキンは惑乱し、打ちのめされていた。
 今までフォーラ神とその教義を護ることに命を懸け、全てを神に捧げてきた。もちろんそれは見返りを求めてのものではなかった。しかし、その心の奥底には、アナスタシアの失踪による喪失感を埋めたい、そして会えぬならばせめて彼女が幸せであって欲しいという渇望にも似た想いが潜んでいたことは否定出来ない。しかし、その神が、アナスタシアにこれほど過酷な運命を課するとは。 そしてアナスタシアは、もう自分がかつて愛したアナスタシアではなくなってしまったのか……。
 ドルキンは、自分が信じて求めてきたものに裏切られ、最悪の結果をもって目の前に提示されたことに絶望した。自分の人生とは、いったいなんだったのか。全てが虚しく思われた。自分が今まで築き上げたものが崩壊する音を、ドルキンは聞いた。
「私は、この国に真のフォーラ神を復活させるために帰ってきた。もうすぐ、フォーラ神のもう一つの神格が復活する。ようやく、真のフォーラ神による統治が再びこの大陸に施されるのよ」
 アナスタシアはフォーラの呪詛の印を両手で結んだ。アナスタシアの両手が陽炎のように揺らいだ。印を解き、掌を上に向けて腕をエレノアの肩から前に突き出すと、アナスタシアの掌から黒い影のような炎が立ち上った。
 アナスタシアは炎に包まれた両手をエレノアの肩に置いた。炎が生き物のように拡がって、エレノアの全身に燃え移った。あっという間にエレノアが真っ黒な炎に包まれる。エレノアが化鳥のような叫び声を上げた。
 みるみるうちにエレノアの着ている白い修道服が燃え上がる。白い肌を黒い炎が覆い、肉が焦がされ始めた。
 ドルキンは祭壇に駆け寄りかけたが、炎が激し過ぎて近寄ることが出来ない。右手に神剣を握ったまま、顔を腕で覆って焼け付くような炎を避けるので精一杯だ。
 既にエレノアの全身は真っ赤に焼け爛れている。炭のように硬直した両手を横に伸ばし、祭壇の上で薪のように燃え盛って業火に包まれている様は、あたかも生きながら火刑にされた罪人のようでもあった。
 エレノアが真っ赤に焼けた肉塊と化すると、アナスタシアは再び呪詛の印を結んだ。エレノアを焼き尽くす炎が再び大きくなり、その炎の中から巨大な紅い梟が現れた。羽毛を持たず、真っ赤に焼け爛れた皮膚に覆われ、全身から流れ続ける自らの血で、赤く染まった梟だ。
 紅い梟は大きく羽ばたいた。
 祭殿が大きく揺れ、天井を支える巨大な石造りの巨像が次々と倒れ始めた。天井が崩れ始める。ドルキンは梟が発した烈風に吹き飛ばされて祭殿の壁に激しく叩きつけられた。
 轟音と共に祭殿の天井が崩壊し、岩や土砂が次々と落下してくる。
 ドルキンは全身の痛みに耐えながら立ち上がった。祭壇の近くに倒れているミレーアを左腕に、カミラを右腕で抱え上げると、押し潰され砕けた石扉に向かって走った。扉の向こうに人の姿に変じたキースの顔が見えた。
 ドルキンが階段を駆け上がると同時に祭殿が完全に崩壊し、瓦礫に埋まった。階段も祭殿崩壊の余波を受けて次々と崩れていった。

四十六

 祭壇の崩壊は、階段の三分の一ほどまで及んだようだ。瓦礫が階段を埋め、もはや祭壇に戻ることは出来ない。
 ドルキンは念のために、階段の埋まった部分から更に上へと駆け上がり、崩壊の影響がなさそうなところで足を止めた。壁に火の消えた松明が指してある場所にミレーアとカミラを下ろし、腰のベルトに結わえてある革袋から取り出した火打ち石で松明に火を点ける。しゃがみ込んで二人の心音を探った。どうやら気を失っているだけのようだ。
 キースが、呪文を唱え始めた。森の静者であるキースによる「大地の恵みの力」は、生きているものの本来の力を呼び起こして自己再生を促すらしい。キースの手から、きらきらとした光の塵のようなものが降り注ぎ、ミレーアとカミラを包んだ。
「ああ! ドルキン様!」
 息を吹き返したミレーアが、顔色を蒼白にして声を上げた。
「エレノア様が! エレノア様が!」
「うむ。分かっている……私たちはアナスタシアに踊らされていたのだ。いや、あれはもう、私の知っているアナスタシアではないが……」
 ドルキンの顔色は、この短時間のうちに絶望と憔悴で灰色になっていた。
「私たちがフィオナから受けたと思っていた神の宣託は、アナスタシアの罠だった。あれはフィオナではなく、アナスタシアだ。荒ぶるフォーラ神を復活させるための生け贄として、エレノアをこの地まで無事に連れてくるために、彼女は私たちを利用したのだ。禁忌の破戒によって魔物が現出し、それを斃してチェット・プラハールで身世篭もりをしなければこの世が滅ぶと言えば、私が万難を排してここに来ることを見通していたのだろう」
 ドルキンは独り言のように呟いた。眉間の皺が、その苦悶の深さを示していた。
「そして私はアナスタシアの筋書き通りに動き、最後の魔物が解き放たれ、荒ぶるフォーラ神が復活してしまった……」
「ドルキン様……」
 ドルキンとミレーアは肩を落として、その場に立ち尽くした。
「まだじゃ。まだ分からぬ」
 カミラが言った。ドルキンとミレーアはカミラを見た。
「あの邪神はまだ真の復活を遂げておらぬ。だが、残された時間は少ない」
「でも、どうすれば……」
 ミレーアが言った。
「邪神復活のためには柱が二つ必要なのじゃ。一つは魔物の贄のために、もう一つは己が実体を持つための柱じゃ」
「ということは……」
「うむ、エレノアは魔物の贄だ。おそらく、アナスタシア自身が邪神の柱となるつもりなのだろう」
「でも、アナスタシア様……はどこに?」
 ミレーアがアナスタシアをどう呼ぶか、一瞬迷ってから言った。
「分からない。まさか瓦礫の下に埋もれたとも思えない。いずれにしても、ここにいてもしょうがない。とにかく、地上に戻ろう」
 ドルキンたちは、長い石の階段を再び登り始めた。
 階段を登り詰めて地上に出ると、入り口の扉は破壊されており、叩き付けるような吹雪がドルキンたちを包んだ。
 フードを被り、雪と風を避けようとしたドルキンは、目の前に広がる光景に瞠目した。
 巨大な梟によって、古い寺院の地上部分を覆っていた外郭が破壊され、その下に隠されていた白亜の神殿が現出していた。
 ドルキンたちは吹雪を避け、その神殿に足を踏み入れた。建築の様式はかなり古いが、大規模で壮麗な造りをしており、先ほど目にした古代神殿とは比べものにならない。
 背の高い巨大な円柱が何本も屹立し、神殿の天井を支えている。長方形をした中央の広大な広間を、いくつものフォーラ神の彫像が囲んでいるのが見えた。
 ドルキンたちは、天を仰ぎながら広間に降りてきた。
「これは、いったい?」
「これが本来のこの神殿の姿よ。アーメインはこの祭壇で神の啓示を受けた」
 神殿の奥から響く声に、ドルキンたちは振り返った。
 神殿の一番奥まった場所、正面に設けられた祭壇の前に、一人の女の姿が現れた。
 純白の修道服を着たアナスタシアだった。老婆の姿ではなく、腰まである漆黒の髪、雪のように白い肌とドルキンを見つめる深い闇夜のような瞳は、ドルキンの記憶の中にあった若き頃のアナスタシアそのままであった。
「……アナスタシアなのか?」
 ドルキンは訊いた。
「ドルキン様。今日この日まで、ずいぶん長くお待ちいたしました」
 アナスタシアはドルキンに近づき、微笑んだ。ドルキンは金縛りに遭ったように動くことが出来ない。強打した頭が急に痛み始めた。激しい目眩を覚えたドルキンは惑乱し、思わず膝をついた。
「ドルキン様!」
 二、三歩、後退りしていたミレーアが、鋭く叫んだ。
「それは、アナスタシア様ではありません!」
 ドルキン以外の人間の眼には、その女はアナスタシアに見えていなかった。身に着けている修道服は血糊に染まって深紅と化し、フードを被ったその顔は能面のように無表情で、眼から血の涙が流れている。
 荒ぶるフォーラ神の呪詛に取り込まれたドルキンは、もはや動くことが出来なかった。
 女は、両手で呪詛の印を結んだ。その姿が黒い靄に包まれた。周りの光を吸い込むのか、女の周囲が歪んで見える。
 次の瞬間、女を包む靄から生まれ出るように、相似形の、女騎士の姿が二つ現れた。
 いずれも梟の装飾が施された白金の聖戦鎧を身に着けている。聖戦鎧にはどす黒い古い血糊が何重にもこびりついていた。鎧の隙間から赤黒い影のようなものが滲み出し、全身を覆うように漂っている。
 双子のように同じに見えるその姿だが、よく見ると兜と一体になっている面の表情が異なっていた。片方の女騎士の面は憤怒に歪んでいる。凄まじい形相で睨め付けるその眼は大きく見開かれ、口も耳まで裂けている。
 もう一方の女騎士は、憎悪の表情をした面を被っている。細く閉じられた眼のまなじりは大きく跳ね上がり、食い縛った口元は歯をむき出している。
 ミレーアは、この二つの面に見覚えがあった。教皇庁の書庫に収められていた古代フォーラ信仰の古文書に描かれていた荒ぶるフォーラ神の像である。荒ぶるフォーラ神は、必ず一つの身体に憤怒と憎悪の二つの頭部を持ち、血に塗れた二刀流の剣を遣う戦いの女神として描かれるのだ。
 二体の女騎士がそれぞれ二刀流の構えで剣を持ち、ミレーアを襲った。この女騎士たちはフォーラ神の化身なのだろうか。その剣は、ドルキンが地下祭殿で見つけた神剣と同じものに見えた。
 白狼に姿を変じていたキースが、ミレーアに向かって剣を振るったその「憤怒」の女騎士に飛びかかった。
 女騎士はこともなげにその攻撃を避けると、剣でキースを薙ぎ払った。キースは横腹に剣を受け、神殿の壁際まで吹き飛んだ。胸から腹にかけて焼き鏝を押して引き裂いたかのような焦げた裂傷ができ、そこからはらわたが覗いた。
 動かなくなったキースに、カミラが駆け寄った。カミラは背負っていた樫の杖を両手で握り、呪文を詠唱しようとしたが、既にその背後には「憎悪」の女騎士が迫っていた。カミラの背中は神剣で貫かれ、剣の切っ先が腹部まで突き通った。カミラの手から杖が落ち、濃い碧のローブが紅く色を変えていった。カミラはキースの上に重なるように倒れた。
 女騎士たちの持つ神剣が再びミレーアに向かって振り下ろされた。ミレーアは憤怒の女騎士の攻撃を、身体を捩じって避けたが、足がもつれてその場に倒れた。倒れながらも神の祝福を唱えようと右手で印を結ぼうとした。しかし、その前に憎悪の女騎士の剣がミレーアの左肩を貫いた。フードが外れ、白いローブとプラチナブロンドの髪に血飛沫が舞った。
 ミレーアは右手で肩を押さえ、痛みを堪えて座ったまま後ろに後退った。そこに最初に剣を振った憤怒の女騎士が迫った。再び剣を振り上げる。避けられない。ミレーアは目を瞑った。

四十七

 蒼い天秤に光の矢が交わった正義と公正を意匠する紋章が描かれた聖堂騎士の盾が、剣を受け止めた。神剣と盾が激しくぶつかり合い、白い火花が散った。
 神殿に駆け込んできたマリウスがミレーアと女騎士の間に入り、膝を立てて盾で剣戟を防いだのだ。
「マリウス様!」
 ミレーアはマリウスの背にしがみついた。
 マリウスは、王都での夜、ミレーアが発した「不吉な予感がする」という言葉がどうしても頭から離れず、ナスターリアとバルバッソに話をつけた上で単身王都を発ち、ドルキンたちの後を追っていたのだ。
 マリウスは左手の盾で女騎士たちを牽制しながら、ミレーアを庇い、アナスタシアの姿をしたフォーラ神の呪詛によって、膝を屈したまま動けなくなっているドルキンに向かって叫んだ。
「ドルキン様、しっかりしてください。お気を確かに! それはもはや、我々の知るアナスタシア様ではありません。どうか、どうか、立ち上がってください!」
 再び、二体の女騎士が、マリウスとミレーアに向かって剣を振りかざして襲いかかった。
 マリウスは、立ち上がることが出来ないドルキンを取りあえずそのままにし、右手の剣を大きく伸ばして憤怒の女騎士がミレーアに放った一撃をかろうじて弾いた。そのままミレーアを自分の背に回して盾を左手に、剣を右手に構える。
 憎悪の女騎士の鋭い、容赦のない剣戟がマリウスを襲った。左右の手に握られた二本の神剣が交互に、正確にマリウスに向かって振り下ろされる。一撃一撃が重く、速い。
 舞うように繰り出される剣圧に耐え切れずに、マリウスの構えた盾が真っ二つに割れた。
 マリウスは盾を捨て、剣を両手で握り、上段に構えた。次々と振り下ろされる女騎士たちの剣を巧みに受けたが、背後にいるミレーアを守りながら剣を振るうのには限界がある。
 二体の女騎士の剣戟を剣で受けるのが精一杯で、攻撃に移ることが出来ないマリウスは、次第に壁際に追いつめられていった。
 憎悪の女騎士の上段からの攻撃を剣で撥ね上げ、辛うじて躱す。しかし、同時に放たれた憤怒の女騎士の中段への突きを捌くことが出来なかった。
 憤怒の女騎士が放った神剣は、身を捩るようにしてこれを避けようとするマリウスの右腕の付け根に吸い込まれた。剣先はあばら骨の間を縫って、肺まで達した。マリウスの口から泡が交じった鮮やかな血が溢れる。
「マリウス様!」
 ミレーアの悲痛な叫び声が上がった。
 マリウスはそれでもミレーアを庇い、左手に剣を持ち替えて立ち上がった。そのマリウスを四本の神剣が襲った。
 同時に突かれてきた二本の剣は、かろうじて剣で受けて弾いた。しかし、もう一本がマリウスの頚元を、別の一本は左の脇腹を貫いた。
 マリウスの表情が痛みに歪んだ。二体の女騎士が剣をマリウスから抜いた。血が白い床に迸り、マリウスは剣を持ったままゆっくりと膝を突き、俯せに倒れた。
 ミレーアがマリウスに縋り付き、激しくその身体を揺らした。
「マリウス様! マリウス様!」
 そして涙と、マリウスの血で汚れた顔をドルキンの方に向け、絶叫した。
「ドルキン様ぁ!」
 ドルキンは歯を食いしばって呪詛から逃れようとした。呪詛は魔法ではない。人の心の弱きところに潜み、それを食い荒らす。意思の力を持って呪詛から逃れることは出来るはずだ。
 ドルキンの表情が変わった。灰色の顔色に朱が差し、こめかみの血管がはち切れんばかりに膨らんだ。眼球の血管が切れ、瞳の周りに血の花がいくつも広がった。
 声にならない裂帛の気合いと共に、ドルキンは呪詛から脱した。
 足元に落ちていた祭壇の上にあった神剣を拾い、倒れ伏したマリウスに駆け寄った。
「マリウス!」
 マリウスはドルキンの声に反応して微かに頭を上げた。ドルキンの顔を見ようと頭を動かすが、身体がいうことをきかない。辛うじて動く左手を挙げてマリウスは、ドルキンの手をなんとか握ったが、その力は弱々しい。ドルキンはマリウスの手を強く握り返した。
 マリウスはなんとか頭を動かし、ミレーアを見て微笑んだ。しかし、その瞳からは、次第に光が消えていった。マリウスの右の眼から、涙が一筋頬を伝って落ちた。
 ミレーアは狂ったように泣き叫びながら神の祝福を唱えようとした。しかし、詠唱が出来ない。フォーラ神によって詠唱が無効にされているのだ。しかしそれでも、ミレーアは必死に祝福を唱え続けた。マリウスの身体を強く抱き寄せ、ミレーアの白いローブと修道服がマリウスの血で真っ赤に染まった。
 ドルキンは歯を食いしばって立ち上がり、女騎士とフォーラ神に向かって神剣を構えた。さして動いていないのに、肩で呼吸をしている。剣が重い。今まで持ったどのような武器よりも重かった。
 ドルキンの目は霞み、吹き出してくる汗は止めようもない。
 ドルキンは、左右それぞれに持った剣を真上から同時に斬り落としてくる憤怒の女騎士の斬撃を後ろにステップして避け、剣を振り下ろして下段に揃った女騎士の両腕に向かって剣を叩きつけた。しかし、ドルキンの剣は女騎士の腕を素通りし、床にあたって火花が散った。女騎士に実体がないかのように剣が当たらない。
 背後に憎悪の女騎士の気配を感じていたドルキンは更に右後ろに跳び、左眼の隅でその姿を捉えた。中段に鋭く放たれた女騎士の右の突きを両手で握った剣で弾き、その勢いで女騎士の左脇腹に向かって剣を返し、斬り込んだ。だが、またもや剣が当たらない。この神剣は双子の女騎士やフォーラ神に有効ではないのか?
 ドルキンは自らの呼吸をコントロールすることが出来ず、喉元から上がってくる動悸を押さえることが出来なくなっていた。
 その時、ドルキンはミレーアがこの寺院に入る時に呟いていた古いフォーラ神殿に伝わる言葉を、唐突に思い出した。
「二神は一神の虚、一神は二神の実なり」
 神殿に現出したアナスタシアと女騎士はフォーラ神の化身であろう。「二神は一神の虚」とは、すなわち、双子の女騎士はフォーラ神の実体ではないことを意味するのではないか。そして、「一神は二神の実なり」、すなわち、双子の女騎士の実体はアナスタシアに他ならないのではないか。
 ドルキンは理解した。憎悪と憤怒の面を持つ女騎士は、実体を持たないフォーラ神の影に過ぎなく、アナスタシアの姿をしたフォーラ神こそが実体を持つのだ。
 ドルキンは両手で神剣を握り、中段に構えた。憎悪と憤怒の双子の女騎士を牽制しながら、じりじりとアナスタシアの姿をしたフォーラ神に近づいていく。
 しかし、ドルキンは、どうしてもアナスタシアに対して斬り込むことが出来ない。アナスタシアはつぶらな瞳でドルキンを見つめているだけだ。あの白樺の林で初めて出会ったあの時のままの、無垢な姿でいるアナスタシアに剣を振るうことが出来ない。
 背後で、ミレーアが必死にマリウスの名を呼び、祝福を唱える声が聞こえた。
 ドルキンは歯を食い縛り、目を瞑った。手が震え、そのまま座り込みそうになるのを必死に堪えて、ドルキンは憎悪と憤怒の女騎士たちが放った四つの剣が交錯する合間を縫い、ついにアナスタシアに向かって身体ごと剣をぶつけていった。
 ドルキンの神剣が、アナスタシアの胸を深々と刺し貫いた。ドルキンの目とアナスタシアの目が合った。痛みでも苦痛でもない、アナスタシアのその目に浮かぶ表情を、ドルキンはかつて見たことがあった。
 あれはアナスタシアが行方をくらます前の年の、ファルマール神殿におけるフォーラ神聖誕祭の夜のことであったろうか。
 ドルキンとアナスタシアは毎年、ファルマール神殿近くの修道院で密会していた。お互いのことを報告し合い、剣の腕を確かめ合った。ドルキンは自分が神殿騎士であり、またアナスタシアは自分が修道女であることを頑なに守り、お互いに触れ合うことはなかった。
 しかし、この夜、修道院に現れたアナスタシアは、いつもと様子が違った。口数も少なく、剣を取って手合わせをしようともしなかった。アナスタシアはただドルキンの横に座り、満天の星空を見上げていた。ドルキンもいつもと勝手が違い戸惑い、同じようにただ星を見るばかりであった。
 朝を告げる鶏の声がし、淡い陽の光が夜の闇を薄墨のように刷いていく空気の中で、アナスタシアはドルキンの手を取り、それを自分の胸に押し当てたのだった。温かく柔らかいその感触に驚いたドルキンは、思わずアナスタシアの手を払ってしまった。ドルキンはどうしてよいのか分からなかった。
 再びドルキンの手を握ったアナスタシアは、今度はドルキンの手を自分の腹部にいざなった。ドルキンは今度はアナスタシアの手を払わなかった。アナスタシアが眼を瞑ってじっとドルキンの手を自分の身体に、大事なものを慈しむかのように触れさせているのを邪魔することが出来なかった。
 清浄な朝の空気の中で、ドルキンはしばらくそのまま、アナスタシアがなすがままに任せた。
 アナスタシアがドルキンの手を離し、瞑っていた眼を開いたとき、その瞳には昨年までのアナスタシアにはなかった光が、歓びとも哀しみともつかぬ複雑な色が、宿っていた。
 それと同じ光が、色が、今、ドルキンの剣に貫かれたアナスタシアの瞳の中に浮かんでいた。

四十八

 巨大な紅い梟が、突然消えた。降り続いていた血の雨が、止んだ。
 梟の血を浴びて真っ赤に染まり、巨大な曲刀を両手で握ってスラバキア兵士たちの指揮を執っていたヒルディアは、その場に立ち尽くし、空を見上げた。みるみるうちに天を覆っていた厚い雲が晴れ、青空が覗いた。
 近衛兵に守られて、辛うじて紅い梟の嘴を避けていたヒルディアであったが、王都に侵攻していたスラバキア兵士のほとんどがその餌食となっていた。生き残っている兵士も重傷を負っており、無傷の兵士は少ない。ここまで来て諦めるのは無念だが、今は撤退せざるを得ない。
 ヒルディアは、王城の兵士たちが混乱しているうちに、撤退の下知を出そうとした。
 とその時、凄まじい剣圧をまともに受けて、思わずヒルディアは後ろに蹌踉めいた。辛うじて、持っていた曲刀でその一撃を防いだ。
 薄白鉄の鎧にファールデン王家の紋章を染め抜いたサーコートを着た赤毛の女が、ヒルディアに向かって斬撃を加えたのだ。
 バスタードソードと呼ばれる大剣を両手で握ったナスターリアは、ヒルディアが蹌踉めいた隙を逃さなかった。振り切った勢いで剣を引き、そのままヒルディアの腹部に向かって突きを見舞う。辺境の砦で、同僚だったオグラン・ケンガから伝授された大剣の大技だ。
 斬撃、刺突攻撃のどちらにも向いているこの剣を、ナスターリアは自在に操った。目にもとまらぬ連撃がヒルディアを襲った。
 姿勢を崩していたヒルディアは押された。曲剣を盾にして、激しい剣戟を防ぐので精一杯である。
 ナスターリアが裂帛の気合いと共に振り下ろした剣を、ヒルディアは曲刀の鍔で受けた。不十分だった。受けきれない。そのまま、ヒルディアは尻を地面についた。
 ナスターリアは再び剣を振り上げ、更に一歩踏み込んでヒルディアの頭に振り下ろした。赤い髪が、炎が燃え盛るように見えた。曲刀が弾かれて、ヒルディアの手元から離れ、飛んだ。
「オグラン!」
 ナスターリアは思わず、心の中でオグラン・ケンガの名を叫んだ。
 しかし、ナスターリアの次の渾身の一撃は、ヒルディアに届かなかった。女王の危機を察知して駆け付けた近衛兵が放った斬馬刀の一撃が、ナスターリアの剣戟を阻んだ。平静を取り戻したスラバキア兵たちが、ヒルディアの傍に駆け寄ってきた。
 ナスターリアは唇を噛んだ。あと、あと一太刀!
「ナスターリア、そこまでだ。退け!」
 ナスターリアは辺りに響き渡るその声に、後ろを振り返った。
 体格の良いアブダル種の黒馬に跨がったエルサスが王家の鎧を纏い、ファールデン王国兵数千騎を従えて街城壁の広場に進軍してきていた。
 それを見たスラバキアの近衛兵たちは、ヒルディアを盾で庇う隊形を取って守り、そのまま外城壁の方へ退却していった。生き残ったスラバキア兵たちが、その前に更に集結して人の盾となり、みるみるうちにヒルディアを覆い隠す密集隊形となって引き上げていく。
 エルサスは剣を大きく回して下知し、鳥の翼のように隊列を横に広げた。ファールデン王国兵は、スラバキア兵たちを包み込みながら、しかし、深追いをしないよう適度な距離を維持しつつ、馬速を意識してその後を追った。
 崩れた外城壁からスラバキア兵たちを押し出すように、エルサスは隊列を進めていった。
 外城壁でバルバッソとフォーレンの部隊がエルサスの隊列に合流した。バルバッソとフォーレンの部隊は魔物の降臨の際に外城壁内に避難していたため、その被害は最小限に抑えられていた。一方、外城壁の内と外側には、魔物に蹂躙されたスラバキア兵の屍体が散乱しており、死骸の山河の様相を呈していた。スラバキアが受けた損害は計り知れない。
 スラバキア兵たちは外城壁で隊列を整え始めたエルサスたちに対して、反撃をしなかった。外城壁から安全と思われる距離まで離れると、そのまま密集隊形を崩さず、生き残った残兵を回収しつつ、粛々と引き潮のように王都から撤退していった。
「我々も多くの犠牲者を出した。国を建て直すにはかなりの時間を要するだろう。だが、スラバキアもまたすぐに侵攻してくることは出来まい」
 エルサスが地平線に消えていくスラバキア兵を見遣りながら呟いた。ナスターリアは凜々しく騎乗したエルサスのその横顔を眩しげに仰いだ。

四十九

「どうしても、行かれるのですか?」
「ああ。もう私がここにいる理由はない」
 ファールデン王国皇太子エルサス・アルファングラムとドルキン・アレクサンドルは、王都にほど近い丘陵の上に立ち、向かいあっていた。季節は巡り、またあの冬がやってくる。
 王都の再建が進み、外城壁は既に復旧していたが、王城は未だあの傷跡が癒えず、王都市街も完全に元に戻るまであと何年かかるか分からない。
「お前には申し訳ないことをしたな」
 エルサスは、地平線近くまで降りて濃い血の色に変じてきた太陽を眩しげに眺めながら、静かに首を振った。
 ドルキンは、あの日、チェット・プラハールで起きたことを、全てエルサスに話した。エルサスはエレノアの正体を知って強い衝撃を受けていた。父王と母親を亡くし、生まれて初めて愛したであろう女が、あのような死に方をしたのだ。彼の喪失感は深く、受けた心の傷はおそらく、一生つきまとうであろう。しかし、彼は王として、この国を再建し、一度は侵攻を諦めたとはいえ、またいつ「大崩流」を起こすか分からないスラバキアからこの国を守るという使命を負っている。その孤独と苦しみに耐え、生き抜いていかなければならない。
「お前なら、このファールデンを復興させることが、きっと出来るだろう」
 ドルキンは、この一年で著しい成長を見せたエルサスを顧みて、言った。エルサスはこの一年、ドルキンを師として仰ぎ、彼の持つ剣技、知識、哲学、全てを学び取ってきていた。ドルキンは、エルサスの瞳の中にマリウスと同じ光を、資質を見出していた。
「これを、お前に渡しておこう。この国を統べ、この国を守るお前にこそ、ふさわしい剣だ」
 ドルキンは、チェット・プラハールで手に入れた神剣をエルサスに渡した。新しい鞘に納まった神剣は、円卓の騎士たちの武器を鍛える聖堂鍛冶師によって一から磨かれ、鍛え直されていた。
 その時、近くの修道院の鐘が、透き通った音を低く、長く響かせた。
 ドルキンは、その場で黙祷してマリウスを想った。
 ドルキンは、もう二度と神のために祈ることはないだろう。フォーラの神はアナスタシアと共に滅びた。エルサスはこの国を、国教を持たない純粋な王国として再建すると言っていた。第十三代国王グラフゥス以来営々と続いていた国王と教皇による双頭体制は、ここに崩壊したことになる。
 ドルキンは、これからは神のためにではなく、最愛の弟子でもあり、我が息子であると言っても過言ではない、マリウスのために、マリウスの魂のために祈ろうと思った。それが残りの人生で自分に課された唯一の使命であると考えていた。ミレーアも、マリウスを弔い、その墓を守るために生きると言い残し、マリウスの骨を抱いて辺境の修道院に篭もった。
 王都を出たところで、今のドルキンに行くあてはなかった。しかし、彼にはまだアナスタシアが、このユースリア大陸のどこかで、自分を待っているような気がしてならなかった。彼は未だに、フィオナの姿をしたアナスタシアが、宣託の最後で告げた言葉が頭から離れなかった。
「アナスタシアを……アナスタシアを救え」
 あれは、彼女自身の、心の底からの叫びだったのではないだろうか。過酷な運命に翻弄され、変わり果てた自分を止めて欲しいと。アナスタシアはドルキンに助けを求めていたのではないのか。
 丘陵にナスターリアが上ってきた。王国大将の鎧を身に着けている。
 ドルキンは彼女に目礼し、エルサスに向かって言った。
「さらばだ」
 太陽は既に地平線に達し、黄昏が空気を支配し始めた。
 いつの間にかシュハール川から忍び寄って立ちこめてきた白い霧が徐々に濃くなり、遠ざかっていくドルキンの後ろ姿をその中に溶かした。
 やがてその霧も、次第に濃い夕闇に包まれ、そして、全てがその中に溶けていった。

                         了

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