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コロナ禍で失ったものの本質

大学や社会で、特にリアルな対面が増えたように感じる。大学では、対面授業がはじまりつつあり、オフィスでも出社率が増加傾向にある。お客さんと実際に、会って話す機会も多くなり、現場でのリアルな声を聴きやすくなったといえるだろう。もちろん、リモートに助けられた部分も多く、遠くの取引先などオンラインでの商談はとても画期的だった。

コロナ禍で得られた部分は多い。例えば、在宅勤務だったり大学であれば、オンライン講義など自宅から一歩も出ずに、外的世界に接することができるようになった。反面、失ったものも多い。例えば、人によっては仕事を、人によっては財産を、家族を。こうして多くの犠牲を生み出しだのが、間違いなく今回のパンデミックと言える。

しかし、最近特に、コロナ禍で失われたものを考えてみた時、仕事や財産といった「なくてはならないもの」がなくなるだけではなく、何か大きなものがこの社会から消えかかっているように思える。

というわけで、今回の雑記では、コロナ禍で失ったもののの本質を深掘りしてみたい。

リアルとオンラインの間

出社してもオンラインで人と繋がる機会が特に増えたこのご時世で、この時代ほどリアルとオンラインの世界をいったり来たりしたことはなかったであろう。2者を行き来していると、自分がたまに現実世界のどこにいるのかということを忘れてしまうことがある。

コロナ禍でリアルとオンラインを行き来して思うのが、自分が現実世界の「今・ここ」に立っているという感覚がとにかく失われていることに気づく。ずっと対面で現実世界にいるだけではなく、オンラインという頭の中でのイメージで繋がっていることを強要される社会に生きているからこその感覚である。

コロナが始まったのは、一年前のことだがこうした感覚を覚えたのはつい最近である。リアルとオンラインを往復し始めた時、こうして現実世界に自分が立っているという感覚に麻痺が走る。

肝心の問題はこの「今・ここ」に立っているという感覚が失われることで、人間社会がどのように変わっていくのだろうか、ということだ。

「なくてはならないもの」と「あったらいいもの」

「なくてはならないもの」と「あったらいいもの」。この二つは、似て非なるものだ。イメージがつきやすいのは、明らかに前者の「なくてはならないもの」であろう。「なくてならないもの」というのは仕事・お金・人間関係といった人間が生きていく上で、欠かせないものと定義する。とすると、「あったらいいもの」とは何か。

それは、例えば、大学では「サークル活動」であったり、会社で言うと「忘年会」だろう。この二つは、決してなくても死にはしないが、実際あった方が人生や楽しみと言う点でより豊かになる。

しかし、今この二つは消滅の危機にあるとされている。特に大学のサークル文化の消滅というお話は、すでに議論されている。

実際、大学生の声では「今後大学はどうなるだろう」「サークルは無くなってしまうのか」などが上がっている。こういう、サークル文化という「あったらいいもの」の消失が、実際なくてはならないものを消失させることにつながっていく。例えば、サークル文化がなくなると、人間関係の築きが難しくなる。

「あったらいいもの」の喪失

社会では、失業など「なくてはならないもの」が表に出ている。しかし、コロナ禍で1番失われたものが、「あったらいいもの」であり、それが失われたことで社会が生きづらくなっているのであれば、その裏で大きな問題が隠されているように思えてならない。

人間社会が今取り組むべきは、人生が豊かになるために必要なものの本質を探すことにあるのである。

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