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迷羊

面白い本を読んだ。この数年間僕が、ルサンチマンにまみれながら過ごした受験期の、考えていたことをものすごくきれいに言語化したこの本を。二百ページの本に大量の付箋をつけて読み進めたこの本をもう一度読み直していきたい。

愛するということ エーリッヒ・フロム


 私たちの生きている社会は、購買欲と、たがいに好都合な交換という考え方のうえに立っている。現代人の楽しみとは、ワクワクしながらショーウィンドウをながめたり、現金払いであれカード払いであれ、買えるだけの物はなんでも買うことである。そして誰もがそれと同じような目で人間を見ている。男にとっての魅力的な女性、女にとって魅力的な男性は、自分にとっての「お目当ての商品」なのだ。ふつう「魅力的」という言葉は、人間の市場で人気があり、みんなが欲しがるような特質を「パッケージにした」ものを意味している。
(中略)
 いずれにせよ、ふつう恋愛対象は、自分と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる。だから私は「お買い得品」を探す。相手は、社会的価値という観点からみて魅力的でなければならないし、同時にその相手が、私の長所や可能性を、表に現れた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがってくれなければならない。このようにふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる。この取り引きではしばしば、不動産を購入するときと同じように、将来性が重要な役割を演じる。何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値をもつような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換パターンに従っていたとしても、驚くにはあたらない。

人間をモノとしか見ていない。自分も自分以外も。この感覚はずっと違和感があった。愛情関係でこれを感じることはなかったが、就活とかの広告を目にするとものすごく嫌悪感を覚える。骨の髄までしゃぶりつくすという表現があるが、自分が就活広告を見るときは毎回この言葉を思い出す。薄汚くがめつい人間たち。複数の人間たちが一本の短い骨を同時に取り合うようになめまわしている。薄気味悪い。とても自分はそこにとびこんで生きていくことができないと見るたび思う。


 現代資本主義はどんな人間を必要としているか。それは、大人数で円滑に協力し合う人間、飽くことなく消費したがる人間、好みが標準化されていて、他からの影響を受けやすく、その行動を予測しやすい人間である。また、自分は自由で独立していると信じ、いかなる権威・主義・両親にも服従せず、それでいて命令にはすすんでしたがい、期待に添うように行動し、摩擦を起こすことなく、社会という機械に自分を進んではめこむような人間である。
(中略)
 現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力を費やすことを、まるで投資のように感じている。投資である以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益をあげなくてはならない。人間関係は、本質的に、疎外されたロボット同士の関係になっており、個人は集団にしがみつくことで身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も、周囲と違わないようにしようと努める。誰もができるだけ他の人々と密着していようと努めるが、それにもかかわらず誰もが孤独で、孤独を克服できないときにかならずやってくる不安定感・不安感・罪悪感におびえている。

「社会という機械に自分を進んではめこむ」これが本当に嫌い。集団で生活するわけだから集団全体の一部分に組み込まれるのは拒否することのできないものであるから受け入れる。社会全体を機械と表現できるようなこの時代が憎い。機械という言葉からどんなイメージを連想するか。自分は無機質で休みなしで動き続けるものが浮かんだ。もちろん実際はメンテなどで稼働しないときもあるが、基本動き続ける。部品が壊れたら同じ規格のパーツが存在し交換すればまたもとのように動き続ける。社会における人間の立ち位置が似たようなものと考えるといよいよ恐ろしい。


 偽りの愛の一種で、よく見られるのが偶像崇拝的な愛である。これはよく映画や小説などで「大恋愛」として描かれる。ある人が、自分の能力の生産的な使用に根ざした、しっかりとした自意識をもつにいたらなかった場合、愛する人を「偶像化」しがちである。そういう人は自分の能力から疎外され、自分の能力を愛する人に投影する。そのため、愛された人は「至高善」として、つまりすべての愛と光と幸福をもった者として、崇拝される。愛される側はふつう、いつまでも自分を偶像のように崇拝する人の期待通りに生きることはできないから、愛する側はかならずや失望することになる。そしてそこから立ち直るために、新たな偶像を探す。時にはそれが何度も繰り返される。こうした偶像崇拝的な愛の特徴は、出会いの瞬間に突然、激しい恋に落ちることだ。先にも述べたように、この偶像崇拝的な愛はしばしば真の愛、大恋愛として描かれる。それだけ強烈で深いと考えられているからだが、そのように見えるのは、崇拝者の渇望と絶望が深刻だからである。もちろん、ふたりがたがいに相手を偶像として崇拝することもある。

これは所謂恋に恋している人を指すと個人的に感じた。例えばそのような人は相手のことを考えずに、ドラマや小説、SNS(特にインスタ)で知った演出を鵜呑みにしてそのシーンを自分達で再現しようとする。つまるところ全ては自分の為の道具であり道具が壊れたりうまく扱えないと駄々をこね、それを相手に転嫁する。相手と向き合わない限りこのようなことを繰り返す。
この話の辺りで親子の関係にも言及していて、それも面白いのでぜひ読んでみてほしい。


 信念を持つには勇気がいる。勇気とは、あえて危険を冒す能力であり、苦痛や失望をの受け入れる覚悟である。
 安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念を持てない。防御システムをつくりあげ、その中に閉じこもり、他人と距離をおき、自分の所有物にしがみつくことで安全を図ろうとする人は、自分で自分を囚人にしてしまうようなものだ。愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これが一番大事なものと判断し、思い切ってジャンプし、その価値にすべてを賭ける勇気である。
 この勇気は、虚勢を張ることで有名だったムッソリーニが『危険をおかして生きよ」というスローガンで訴えたような勇気とはまったくちがう。ムッソリーニが言っている勇気は、ニヒリズムの勇気であり、その根底にあるのは、どうしても人生を愛することができないから、いっそ投げ出してしまおうという、人生に対する破滅的な態度である。蛮勇とでも呼ぶべきこの勇気は、愛の勇気とは正反対だ。

ニヒリズム繋がりで頭に浮かんできたのは、永遠回帰とをそれを肯定的に受け入れる超人の話。引用部分も超人思想もどちらも自分は「能動的に動け。積極的に動け。そして後悔の無いように自分を信じて行動しろ。」というように解釈した。決して投げやりになってはならない。蛮勇を演じてはならない。さて自分は今まで生きてきてどうだったか。実に後悔の多い人生だったと思う。文理選択の時も最終的には自分で決めたという形にはなっているが九割がた親が決めているし、実際それに従って進んできた。高校の選び方も親の影響が色濃く出ている。つまり、自分の中に絶対に譲れない価値というものが今まで存在しなかったのだろうと思う。子供は親の操り人形じゃないんだらから、それを突っぱねるものをつくって自由に生きたい。

書き始めてから時間をかけすぎてしまい書いていることもバラバラになってしまってすまない。

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