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「<祈ること>と<見ること> 
キリスト教の聖像をめぐる文化人類学と美術史の対話」

川田牧人、水野千依、喜多崎親 著 /  喜多崎親 編  三元社  2018年 シナノ印刷株式会社

ディスカッション より  p115〜

(喜多崎) 今回キリスト教美術の中でも特に聖像を対象にしたお話をしていただいたわけですが、本来キリスト教はユダヤ教から出たということもあって偶像崇拝を禁じています。それが異教徒に布教するためだとか、文字の読めない民衆に聖書の内容を伝えるためだとか、いろんなことが言われていますけれども、ともかく像を作るということを認めてきた。ただし像は偶像として拝んではいけないものとし、神学的には像の向こうにある神という存在へ信仰を向けるための一つの「窓」と解釈した。「窓」という言葉は水野先生がお使いになり、川田先生は「的」ともおっしゃいました。神へ至る通り道のようなものとしての画像や彫像という考えです。そうした通り道が信者から神へというベクトルを持つと同時に、神の力が何らかの形で我々の方へ向いてくることがある。それは個人のさまざまな体験であるかもしれませんし、国家規模の問題であるかもしれませんが、総じてそこをここでは像が起こす「奇跡」と呼んでおこうと思います。信仰の「通路」、奇跡の「通路」という双方向のベクトルを持ち、「的」や「窓」として物質化された聖像が、次には量的に増大する現象が起こる。そして、美的な増大の結果が美術になる。そういうことではないかと考えられます。

 これは記号論的な考えでいうと、ある種のシニフィエの増大といってもいいわけで、本来それ自体は意味を持つはずのないところが意味を持ってくる。神学的な話では「窓」という通過点であるべきものが、民衆的レベルではそれ自体が奇跡を起こす物体になっていく。川田先生のフィリピンの例はもちろんのこと、水野先生がお話しされた例でも各画像それぞれに機能が担わされ、この像がダメならこっちというように交換されることも起きてくる。そうした機能というものへの着目と、さっきシニフィエと言いましたけれども、本来は「窓」として通過点でしかないものの物質性が増大していくところに、今回の文化人類学と美術史の対話の、一番重要な接点があるのではないかと感じました。

 それでは、お二人の先生方に、他の方のお話を聞いた感想などからいただければと思います。


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