年齢を重ねるにつれ、指導医や親戚の訃報が飛び込むようになってきた


頭の中には、あの頃の顔だけが残っていて、その顔をもう2度と見れないのかと思うと、やるせない気持ちになる


そして、ふとした瞬間に自分の死を意識し、得体の知れない恐怖に呑み込まれそうになると、先に逝ってしまった彼らに「逢える」というささやかな希望が心の支えになったりする



物理的にも距離的にも遠くなっていた彼らが亡くなった時、その訃報だけを耳にして、お通夜や葬儀に行くことはなかった

遠方に駆けつけるほど親しい間柄ではなかったせいもあるのだが、数年前に父が亡くなった時にも「葬儀」というものの必要性を感じていなかった


その値段の根拠が全くわからない僧侶への「お布施」にも全く納得がいってなかった


ただ、長男として出席しないわけにもいかず、母一人に全てを任せるわけにもいかず、数日間は葬儀のために里帰りした


小さい頃に遊んでもらった親戚のみんなに久しぶりに会えて、こういう機会でもないと、もう集まることもないんだな、と。父のために集まってくれたことに少し胸が熱くなったりもした。


ただ、ぽつぽつと訪れてくれる弔問客には、どこか「他人」のような目でしか見れず、身内の初めての葬式で自分がどのように立ち振る舞えばいいのかもわからず、儀式的にお辞儀を繰り返すだけだった。



でも、今になって思えば、彼らの心の中には、息子である僕が知らない「父親」がたくさんいて、それに触れるまたとない機会だったんだなって


そこで、些細なエピソードでもいいから何か一つだけでも教えてもらっていれば、自分の心の中にもっとたくさんの父を残せたのに


葬儀っていうのは、故人をそれぞれの心の中にしっかりと残しておく大切な機会なんだって




身近な人を亡くした時に、弔問客としっかり話をするのはなかなか難しいかもしれないけど、どんな些細なことでもいいから、ちょっとしたエピソードを書いてもらうノートを置いておくのは、結構いい案じゃないかな

父の命日にそんなことを考えている





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