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愉快な日常

 その日の私は仕事場へ遅刻をした。
職場へ向かう途中の謎の道路渋滞、よくある事だ。それでも喰らうと少しだけ、テンションが下がる。来店予定の少ない日でよかった。

 その日の私は忘れ物をした。
いつも仕事用に使っているポーチ、その中にはメモ帳とボールペンが入っている。スマホの収納ポーチとしても機能していたので、これにはだいぶ焦った。
忘れたのが仕事着じゃなくてよかった。

 その日の私は手を切った。
ガラス瓶の水ボトルの底を握ると、棘が刺さったような痛みが走った。そして手のひらを確認すると、砂つぶのような傷口から血が滲んでいた。キャストさんの手じゃなくてよかった。

 その日の私は発注ミスをした。
入荷しているハズのドリンクや酒が入っていない。気づけばそれは一部屋だけではなく、全部屋で同じ状況だった。冷や汗をかきながらファックスの送信機を見ると、流れるハズだった発注書が、機械に飲み込まれないまま置き去りになっている。


偉大な先輩
 「イレギュラーは起こるモノだと思ってた方がいいよ。この仕事、思い通りになんていかない事の方が当たり前だからね。」
先輩は、そう言った。
「想定外の事が起こっても、あぁそのパターンね、はいはい・・・。くらいに構えられるようにしてた方がいいよ。予定調和になんて、ならないんだから。」
先輩は、そう付け加えた。

 『諦めの境地。』それを聞いた私は、そう思った。
思い通りに行く事を期待しない。人、出来事、全ての事象に対して。

 『諦め』の本当の意味は、明らかに見据える事だ。
 期待も失望もせず、目の前で起こった出来事を、素のままの視点で捉える。そこには感情が入りこむ隙なんてない。

 デジャブだった。以前にも『今のままの自分じゃ、この業界では生きていけない。』と思った時に、似たような感覚になった。
 今回もそう。予定通りに事が進むことを期待して、思い通りにいかないと、焦ったり、イライラしたりしている。
 そんな今のままの自分じゃ、この世界では生きづらい。

 諦めること、期待しない事は、冷たく感じるかもしれない。だけどそれは、目の前の出来事を冷静に判断していく為の、大切な地盤なんだと思う。

 合言葉は『まぁ思い通りにはいかないんでしょうけど』
考えられるだけのイレギュラー対策準備をした上で、それでも、『まぁ、思い通りにはいかないんでしょうけど』って姿勢で構えておけばいいんだと思う。
 偉大な先輩のおかげで、世渡りする上での大事な事を、思い出させて頂いた。


仕事終わりのラーメン
 仕事終わりの私、先輩、後輩の3人は、皆で支那そば屋のカウンターに、並んで座っていた。

「私、大事な事を忘れていたんです。こんなに不運続きだったのに、まだ未来の旦那さんに出会っていない。。。」
「さっき酔っ払って店先で寝てた人がそうだったんじゃないの?」
「いや、あれは違うと思います。多分、ラーメン食べ終わってから駐車場へ辿り着くまでの間に出会うんじゃないかと踏んでるんですけど・・・。」
「先輩、欲求不満なんですか?」
「そういうんじゃないよ。ただ、こんなに不運が続いたから、その分この後に良いことが起こるんじゃないかと思ってるだけ。」

「あ、旦那さんじゃなくても、仕事の芽パターンでも嬉しいかも。道端で酔っ払ってる人を私が介抱してあげて、で、その人が実は出版社の編集さんだった。後日、私の小説を読んで気に入ってくれて、小説家デビューしました!的な。」
「さらにその人が今の旦那ですって展開はどう?どうして小説家になったんですか?ってインタビューされた時、いいネタになるよ。」
「それは2度美味しい!私、道端の酔っ払い、介抱します。」
「んでカバンにゲロ吐かれるんでしょ?」
「それはいいんです。吐かれて困るような高価なもの持ってないですから。むしろ未来の為に先に恩を売ってるような感覚です。というか足りないかも・・・、財布スられるくらいしないと、帳尻合わない気がします。」

「帰り気をつけてね。突然車燃えたりするかもしれないから。エンジンから火吹いてボーっと燃え上がってきたりして。」
「そしたら私の命が終わっちゃうじゃないですか。」
「なんで自分ごと燃える展開なんだよ。そこはちゃんと車から降りろよ。」
「あ、確かに。路肩に停めて降ります。・・・トンネルで車燃えるのは嫌だなぁ・・・。」
「車燃えるなら、空見える所だといいね。」

 隣で黙々と食べていた後輩は、一人前のカレーライスと、2人前のラーメンに生卵を3つ入れたどんぶりを、涼しげな顔で平らげていた。
「よく食べたね。えっ、君の事見直したわ。尊敬する!」
「いや、そんな事で尊敬されても・・・。嬉しくないです。大丈夫です。」

 先輩は私と後輩のラーメン代を爽やかに奢り、嫁のメシ買って帰るからと、颯爽と『なか卯』に入って行った。
未来の旦那さんは、こういうタイプの人に出会いたいなと、そう思った。




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