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「こんなもんでいいや」の裏側で巻き起こっていたこと

 私は夜のラウンジで白服として働いている。いつもお世話になっている先輩黒服のSさんは、私より1~2ヶ月程前に入店していた。今日はそんなSさんのお話。

 彼は昼職と夜職を掛け持ちしている超パワフルな方だ。かねてから夜の街で働いていた方で、私のような戸惑いや、必要以上に気を張るような事もなく、堂々と仕事をこなしている印象だった。
 たまにお酒の作り方を教えてくれたり、肩の力を抜かせようと気さくに話し掛けてくれたり、優しい一面もある方だ。だから、こんな事態になるなんて、私は想像もつかなかった。


慣れの恐怖

 忙しさの緩急が時間によってガラッと変わるこの仕事は、『抜きどころ』を自分で上手く見つけられないと、途中で集中力が切れて力尽きてしまう。
 どんなに忙しい時でも、基本のオペレーション、いわば『サービスとしてやらなきゃいけないこと』は変わらない。だから、最初の1ヶ月くらいは上司に、「悩むくらいなら聞け」とか「身体で覚えろ」とか、そんな事を散々言われてきた。

 ヒトは習慣の生き物だ。確かに働いていれば慣れる。そして慣れると頭に余裕ができて、以前より楽になる。
 S先輩もまた慣れて楽になってきたようで、仕事全般に対して、手を抜き始めてしまっていた。

 その日はどちらかというと暇だった。その為か、普段なら2人で配置される部屋を、S先輩が一人で任されていた。

 送迎でS先輩が出払っている頃、S先輩の部屋の卓に付いていたキャストさんが、不満を漏らし始めた。
 「Sさん、トレンチ(おぼん)にソーダ瓶1本だけ載っけてそれごと差し出してくるの、あれ何なの?こっちはお客さんのお酒作りながら話途切れないように気を使ってる最中なのに、更に労力使うじゃん。手で持ってきて渡してくれたらいいのに。こっちが受け取れない状況ならテーブルの上に置いてってくれたらいいじゃん。あなたの2本目の手は何の為にあるの!?って感じだよね。」
すると続けて他のキャストさんも、貯めていた不満を漏らし始める。
「そもそもこっちはお酒を割ってる真っ最中で足りなくなってるからソーダを注文してるのに、待たせすぎじゃない?持ってくるの遅いよ。」
 今はまだ、表層で起こっている事実だけが話題に上っているから優しい。言語化できないくらいの小さな不満が溜まっていくと、これが今度、「あいつ仕事舐めてるよね」みたいな亀裂に発展して、ひどいと「出来ないなら辞めればいいのに」とか影で言われ始めてしまう。そうなるともうきっと、すこぶる居心地が悪くなるだろう。人の信用を取り戻すのは、並大抵の労力じゃないはずだ。これは、S先輩の「慣れ」による「こんなもんでいいか」が招いた悲劇なんじゃないだろうか。

 表層の立ち振る舞いの裏には、深層の想いが絡んでいる。所作だけを取り繕ったって、いつかは絶対にボロが出るんだ。


信頼の源は日々の気遣い

 店長やベテランの先輩の所作を見ていると、素早く丁寧で、それでいてお客様やキャストへの気遣いと優しさに溢れている。全ての卓に気をまわし、キャストの次の行動や卓の会話に目を光らせつつも、会話の邪魔にならないように気を使いながら世話をする。付け回し一つとってもそうだ。どうしてこのタイミングでそのキャストを抜くのか、抜かれたキャスト自身がその意図を把握できるように、状況を伝えてちゃんとフォローしている。信頼って、日々のそういう細かい所から生まれるものなんだと思う。

 S先輩は私の行動に対し、「キャストだから(お客さんじゃないから)そこまで気を使わなくていいよ」と声を掛ける事がよくあった。ある時は、とある卓で持ち込みのピザを食べていた場面で、台拭きの端で手を拭くキャストさんを見て、もし私があの卓に付いていたら、おしぼり欲しいかも、と思って、後からキャスト分のおしぼりを持って行ったタイミングで。またある時は、キャストさんのドリンク用で出したソーダがぬるくて「冷えてるのない?」と声を掛けられ、「ソーダみんな冷蔵庫に入れたばっかりで、冷え切ってなかったんです。すいません」と事情を説明しに行った後で。

 おそらくS先輩は、仕事仲間にそこまで気をまわす必要はないって、思っているのかもしれない。だけど、「仲間内のちょっとした気遣いって、すごく沁みるんだよなぁ」ってこと、私はよく知っているから、どうしてもS先輩とは少し感覚がズレる。
 集中力が切れた時、メニュー表の冊子を引き抜こうとして冊子の前に置いていた備品をひっくり返した事がある。店長はその日、備品の置き場を一時的に変えてくれた。私が同じ過ちを繰り返さないようにする為の気遣いだったと思う。たったそれだけの事と思われるかもしれないけれど、余裕のない私にとっては、めちゃくちゃ有り難かったのを覚えている。

 痛い思いをしてから、反省して学ぶ方法もきっとある。だけど一旦はS先輩に、あくまで私目線で「仲間内の気遣いは大事だと思うよ」ってことを、言葉で丁寧に伝えようと思っている。
 私も結構自分に甘い人間だから、今の先輩の過ち、踏んできた。気づいてさえくれればきっと、先輩の立ち振る舞いは、変わるんじゃないかなと、コストコのカップケーキより甘いかもしれないけど、そう信じている。


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