見出し画像

2084年

 私は今朝も寝起きが悪かった。ベッドから這い出てよろよろとキッチンへと向かい、オート・コーヒーメーカーのスイッチを入れる。ブーンという低音が鳴る。そして次はデスクへと向かい、コンピュータ・ターミナルのスイッチをオンにする。五秒後、OSが起動する。「メールチェック」とコンピュータに向かって言う。そうするとメーラが起動し、ディスプレイ上に着信メールが続々と入ってくるのが映る。それらほとんどはジャンクメールでフィルタリングされてジャンクトレイへと移行する。約一二〇のメールが来ていたが、本当に意味のあるものは五つだけだった。それらメールの発信者は皆私の友人もしくは知り合いだった。私の恋人である有坂千佳からも来ていた。私はコンピュータに「有坂のを」と言う。そうすると、彼女からのメールコンテンツがディスプレイから二.五メートル離れた空間にグワーンと広がる。読み上げてもらおうかどうか少し考えている時にコーヒーメーカーが「コーヒーが出来上がりました」と言う。じゃあ、コーヒーを飲みながら千佳からのメールを聴こうと思い、「読み上げてくれ」と私は言う。室内に彼女のいつもの明るい声が響き始める。
「裕、ちょっとした緊急事態が発生したわ。あなたの個人情報が政府当局へと漏れたらしいの。この間もめたハッカー集団があなたへの嫌がらせでした結果みたい。まあ、個人情報っていってもここ数日間のあなたの行動だけだけれど、それでもあなたの反政府主義はもう当局には明らかになってしまっているから、気をつけた方がいいわ。たぶん、今日あたりにもすぐ、当局捜査官があなたのところへ行くんじゃないかしら。あなたはこういったことには慣れているのは知ってはいるけれど、でも一応忠告するためにメールしたの。気をつけて。以上、有坂より」
 私は少し目眩がした。こういったことが私に起こることは珍しいことではないが、それでも当局捜査官がやってくるというのはやはりごめんこうむりたいことに変わりがない。『まあ、仕方がないな』と私は思う。どうせ捜査官が来たってこっちにはやましいことは何もないんだから、困ることは何もない。彼らが私を気に入らないのは私が反政府運動の主要組織“リトル・ブラザー”のメンバーだからだ。ところで、この反政府運動というのは厳密には間違い。正確に言うならば、反マスメディア運動になる。今の時代、社会を牛耳っているのはマスメディアで、その権力は事実上政府よりも強い。毎日サイバースペース内に流れる情報のほとんどは彼らによって操作されている。そう、この二一世紀後半の社会は巨大マスメディアに翻弄されている世界なのだ。でも操作されているからといって誰もがロボットのように従順に心理操作されて生きているわけではない。なぜって? だって誰もがマスメディアがこの社会を操作しているっていうことを知っているからだ。だから誰もがそれに反抗するための手はずを整えている。例えばコンピュータのソフトウェア・アップデートを一日に何度もして、そういった操作から逃れられるようにフィルタリングを徹底している。だから事実上、サイバースペースにジャックインしてもその空間で出会う情報構造物はマスメディアの手あかがキレイさっぱり洗い流されたものばかりだ。それでも一〇〇パーセント安全なわけではもちろんない。マスメディアはマスメディアで一級のハッカー集団を雇ってフィルタリング機能を麻痺させようと毎日躍起になっている。でも、私たちの方には一枚上手のハッカー組織がいる。彼らが書くプログラムの方がよりサイバー攻撃に対して抗体を持っている。そんなわけで、今の時代は、サイバー戦争時代と呼ぶに相応しいものなのかもしれない。巨大マスメディアが社会、というか民衆の心理構造を操作しょうとし、そして我々民衆はそれに対して反抗を続けている。なぜこんな非民主主義的な社会になってしまったのか? その理由は単純。二一世紀半ば、一部のインテリをのぞいてほとんどの人々が自分の頭で考えることを放棄し、一日中マスメディアが流すエンターテインメントに耽るようになったからだ。その現象に目を付けたマスメディアの幹部らは政府と手を組んで、誰もが幸せになる社会をつくろうとした。そう、それこそ楽園の時代を幕開けしようとしたのだ。それには悪意の微塵もなかった。だが、それにまつわる決定的なミスは人々の自由意志を尊重しないというものだった。それは、誰もがエンターテインメントの世界に耽ることができれば、それが幸福の世界の到来で、人々が自ら動くことの必要性を全く認識していなかったということだ。
 私はコーヒーを飲み終えると、コンピュータに向かい、昨日のハッカー集団とのもめ事が無かったこととするためのプログラムを書き始めた。このプログラムが当局のホスト・コンピュータにハッキングすれば、捜査官が私のところへやってくることはない。
 私の指はキーボードをタイプし始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?