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恋愛小説 - I love you

なるべく小さな幸せと なるべく小さな不幸せ                なるべくいっぱい集めよう  -  と 甲本ヒロトは唄った

生活の中に個人的な小確幸(小さいけれども 確かな幸福)を見出す -   と 村上春樹は述べた

好きだなぁ 

章 3

夏果
夏果と僕の事を書くために もう一度 時計を  2011年1月2日    つまり 僕が抗がん剤治療をスタートさせた日の前夜に戻そうと思う

前年の12月までは特に体調の不良も訴えずに 普通に仕事をしていたから 12月半ばあたりから会社を休んで 検査に明け暮れていた僕が がんの治療で会社を暫く休むという事を会社の総務から メールで知らされた僕の仲間たちは随分と 突然の事に驚いたと思う
 
その総務から社員全員に充てて出されたメールに Reply to All の形で 1月2日の夜に僕から全員へのメッセージを返信した  内容は「暫く病気療養で休むけれども 必ず職場復帰するので その際は今以上に迷惑をおかけしますが どうぞよろしくお願いします」といったものだった  暫くすると続々と会社の仲間達からメールが入ってきた 僕はその一つ一つにシンプルでも丁寧に返事を書いた それぞれの人達と僕の仕事の内容を絡めた個人的かつプロ的なものになるように頭を使って書いた  またこれが僕とその人達との最後のコミュニケーションになるかも知れないとも思っていた

大抵の人達は僕のメールに2度目の返信を送ってこなかった
ただ一人を除いては

夏果は会社で物流を担当していた女性で 僕より22歳年下だった
とても明るい かわいい人で 会社で同じ顧客を担当していたので 仕事上接する機会も多かった

夏果は簡単なメールを返信してきてくれた
僕は嬉しくてすぐに返信した
他愛のないメールのやりとりをしているうちに 明日から始まる抗がん剤治療への恐怖などはまったく感じずに その夜はぐっすりと眠る事が出来た

抗がん剤治療が始まったけれど 大した副作用もなかった 
夏果とは1日に何回かメールのやりとりをするようになった その事が間違いなく僕の元気の源になっていた  副作用がでなかったのも彼女のおかげかも知れない  1回目の治療が終わりになろうかと言う頃 夏果が同僚と2人で見舞いに来てくれるという  僕は飛び上がらんばかりに喜んだ!
この同僚は僕も個人的に仲の良かった奴で 見舞いに来ることは他の会社の人達には言わないという事にしてくれた   とりあえず・・・

夏果と同僚は退院の1日前に見舞いに来てくれた  談話室でいろんな事を話した  今 会社はつまらない・・ とか 正月番組の○○○は面白かったとか 夏果は帰り際に 彼女の地元の神社で買った「勝」というお守りを猿の人形の首にかけてプレゼントしてくれた  この猿の人形は腹を押すと「ギャッ ハッ ハー」と笑う  その声が僕に似てるのだという・・・ で その猿に「勝」のお守りをかけて「病気に勝って下さいね」と言って 微笑んでくれた
一瞬泣きそうになった

人のやさしさに 久々に触れた気がした

1クール目の抗がん剤治療が終わったある日 彼女のプライベートアドレスからメールを送ってくれたので 僕も自分のプライベートアドレスから返信した
これで会社の連中のことは一切気にせずに メールのやりとりが出来る
1月~2月は ほぼ毎日がんセンターに通って放射線治療を受けていた
痛みは全くないので 本当に銭湯に通うような感覚で通院していた その事を冗談まじりで「毎日放射能を浴びていると ゴジラになったような気がします」とメールしたら 「放射能? ゴジラ???」と 夏果にはまったく意味が通じなかった・・・ 世代の差はやっぱり大きい・・ 

またこの期間は 病院に入院している訳ではなかったので 夏果に会いたいと思ったけど 放射線治療を受けているし 抗がん剤もまだ身体のなかに残っているだろうと思い 連絡はメールと電話だけにした  それでも2人の仲はだんだん近づいて行った  もちろん喧嘩もした  彼女も僕のような病気の人間と仲を縮めて良いか どうか?  きっと心の中に葛藤があったはずだ 

恋愛と言うのは本当に不思議なものだ                 自分が欲しいと思っても手に入らない  やってくるときは まるで天から舞い降りてきて 気が付いたら その中に居る って感じだ
49歳で自分が がんと判明した時 もう僕には恋愛も結婚も無いと 諦めた

でも そうはならなかった

放射線治療も抗がん剤治療もすべて一通り終えたあと 東日本大地震が起きた
その頃 会社に一時復帰してた僕は 毎日夏果と途中まで電車で一緒に帰宅した
夏果は地震の余震を怖がった  夜中でも余震があるとすぐに電話をかけてきた たとえメールひとつでも送ると 彼女は安心するみたいだった

手術も直前に迫った3月の終わりに2人で初めてのデートに行った
葛西の水族館でペンギンを見た  2人で大盛り上がりして       その帰りに初めてキスをした   ちょっと甘い味がした

手術の前日はかなり夜遅くまで電話をして 当日は朝早くからメールが来た
予定時刻ギリギリまでメールのやりとりをしていた メールを送ると 1分もしないうちに返事が来る
その内容はすべて「頑張って」「大丈夫?」といったものだった
僕は自分の命を 新出 先生に預けることに何の躊躇も無かったけれど     夏果の気持ちを考えると胸がとても痛んだ               電話をしようかとも思ったけれど 泣いてしまわない自信が無かった・・

本当に辛い思いをさせてごめんね

「俺は必ず帰って来るから」と最後のメールを送って          携帯のスイッチを切った

手術 
ストレッチャーに乗せられて手術室に運ばれる途中で 看護師に精神安定剤をくれと言ったら断られた  手術前に背骨の骨髄に管を入れるためだ   これは術後の鎮痛剤投与に必要なもので  この管が正しく挿入されないと麻痺が起きたり 術後の鎮痛効果に支障をきたす場合があるという そしてこの管が正しく挿入されないと 患者自身が痛みを感じるらしい その痛みを見逃してはいけないので 出来るだけ正気でいるために精神安定剤は与えられないという

心臓手術の時は精神安定剤を飲んで知らないうちに全身麻酔をかけられてた
今回はしらふで背骨に管を入れられながら全身麻酔を待つ・・・
なんてこった だ

麻酔科の先生が「これよりスズキ ヒロシさんの食道亜全摘出手術を行います」と手術室の人達に宣言して管が背骨に入っていく・・・「亜全摘出ってどういう意味ですか?」と訊くと「全部ではないという意味です」と ・・   質問でもしてないと平静が保てない 暫くして管の挿入が終わり全身麻酔が開始された
新出 先生が現れて「目が覚めたら 終わってるよー」という言葉を聞いてから意識が落ちた

奇妙な夢を見た
全裸の僕がいる
手術台に寝ている
誰かが僕を見て「まずい 完全覚醒しているぞ」と大きな声で叫んだ
まわりがざわついて人が動いている
苦しくなって足をバタつかせた
落ちた

目が覚めると全身に管が刺さってた
首を傾けて時計を見ると12:30だった 昼間ですか? と尋ねようとしたら声が出なかった 手術前から聞かされていたが食道の付近のリンパ節を郭清(取り除く事)する場合 反回神経という発声に関係した神経を傷つける事があるという                          

どうやらその事態になったみたいだった
声帯がなくなった訳ではないのでまるで無音ではないけど ひそひそ話のような声しか出ない・・ この時僕は声帯麻痺(反回神経麻痺)の状態だったので声も出なかったけれど呼吸も大変だった 話そうとすると苦しい・・
なので看護婦さん達との会話は殆どが筆談になった
何だかとっても長い間眠っていたような感覚だった
以前に心臓手術を受けた時には本当に5分くらい居眠りしている間に手術が終わった感じだったけれど今回は違う                 なんだかこれから大変な生活が始まるなー と直感した

ICU
よく誰かががんの闘病をするとその事を新聞やメディアが “壮絶” という言葉で表現するのを何度か目にしたが まさに手術後ICUでの最初の日の生活は 壮絶 なものだった  まず眠れない  痛い-全部痛くてどこが痛いのか分からない  呼吸が苦しい  とにかく辛い・・ 首を傾けて時計を見ると1:00だった
真夜中かー  と思い眠ろうとする                    暫くたってまた時計を見ると 1:05 だった ・・・
何か 自分は大きな時計の中心にロープでくくられて 秒針より遅く   ゆっくり歩く 怪我をした駱駝になったみたいな気分だった

それにしても麻酔から覚めた時に記憶に戻った奇妙な夢は何だったのだろう?
あれは本当の出来事だったように 鮮明に視覚と聴覚と苦しさが思い出せる
後で調べたらこのような現象を「術中覚醒」といって500人に1人くらいの確率で実際に起こるらしい  まず僕は「覚醒」という言葉をあまり使わない だけれど夢の中で誰かがはっきりと「完全覚醒」という言葉を使っていた その人の顔もはっきり思い出せる  かなり元気になってから病院関係者のなかに その “誰か” がいないかよく顔を見ていたけれど結局見つからなかった
新出 先生の手術チームに聞くのは何となく悪い気がして ずいぶん経ってから  高山 先生に夢の内容を話したら「それはないよ 手術の時は顔の下にしきりを置くから自分の裸が見えるという事はないよ」とあっさり言われた・・・
そうだろなー  ただの夢だろうな  でも凄く現実味のある夢だった

ICUは術後の状態で1日単位で移動をさせられる 
最初の日はもう寝たまま何もできない日で ICUのケアもかなり慎重にやっている感じがする 看護婦さんはかなり仕事ができそうな真面目な人  患者にむやみに話しかけない

2日目はICUを移動すると同時に廊下を歩けと言われた
よく手術の翌日に患者が歩いて医者がビックリした という事を耳にするがあれは多分に嘘だ  少なくとも僕の場合は違う  医者が歩けというから歩いたんだ ビックリしたのはこっちで 「こんな状態で歩くんですか?」と訊いたら 歩かないと手述部に癒着が起こり 回復が遅れるというので それこそ必死で10mくらい歩いたら もう心臓がバクバクで本当に死ぬかと思った 何しろ自力で立っているだけでも大変な状態なのだ それからこの病院の手術後の着衣は浴衣で 下着はTバックみたいなふんどしと決まっている これがもう無秩序に乱れ放題で  看護婦さんに両脇を抱えてもらって歩くと 浴衣の前ははだけるは ふんどしは外れるはで もうワイセツ物陳列罪状態になる・・  恥ずかしいけどこっちは脅されて無理やりやらされているのである 髪は伸ばしていたので脂ぎって前に垂れ 顔色悪く目は虚ろ ワイセツ状態 身体中に管が刺さり いくつかの器機に繋がれたまま廊下を歩き 部屋に帰って来た時に鏡に映った自分の姿を見て落武者のお化けかと思った 

ここまで書いて ICUでの生活が嫌な事ばっかりだったかと言うと   そうでもなくて・・・

2日目以降のICUの看護婦さんは かなり美人が多くよく話しかけてくれるんだ これは患者の回復をスピード・アップさせるには理にかなっていて やはり早く社会復帰がしたいと思うようになる 僕の辛い(壮絶な・・・)闘病生活にも少しだけ楽しみが出来た                 朝 笑顔で挨拶される ちょこちょこと病室に顔を出しては笑顔で少し話しかけてくれて「また来るね~」なんて言いながら手を振ってる      何か俺の事が好きなのか? と勘違いしそうだ
極めつけは夜だ 眠れない夜を悶々と過ごしているとその美人の看護婦さんが懐中電灯を片手に入ってくる 病室には彼女と僕の2人きり      僕は口がきけないので眠ったふりをしている・・・ 看護婦さんは全身の管の状態や機器の状態など一通りチェックしたあと そ~っと僕のふんどしをチェックする
懐中電灯をあてて ふんどしからはみ出た僕のワイセツ君をポールポジションに戻してくれる この作業を僕は薄目を開けて見ている・・・ 身体中がボロボロなので何の反応もないが これは何とも “官能的” ではないか!
身体は辛いのだけど 頭の中はいろんな事考えてる やはりこれは理にかなった悩殺療法なのだろうか? などと 馬鹿な壮絶闘病中男は深夜に悶々と考えるのであった   

ICUでの数日は呼吸の辛さが日によって結構違って 口がきけないので あらかじめメモ用紙に「苦しい」とか「呼吸がし辛い」とか書いておいて 看護婦さんに見せて 酸素マスク や 鼻カニュラを調節してもらってた 

辛い夜は当然眠れない 
眠れない夜に自分が寝てるのだか 寝てないのだか分からないような感覚でいると ふと目が覚める瞬間が何度かあった  暗闇の中に何かがいる
“何か” は何もしないが そこに存在しているという事を主張しているような気がした  そういう時はもう最悪で暗闇の中で悶々としているしかない 睡眠導入剤を点滴から流してもらうが “何か” が気になって眠れない    腹をくくって暗闇の壁を無心で見つめていると “何か” はいなくなるのだった

こういう時は怖がってはいけないんだ と悟ったような気持ちになったけど次の日から電気を点けたまま就寝する事にした

病院の廊下を歩いても浴衣も乱れず 比較的長い距離を歩けるようになってくると 身体の辛さ以外の事に気付くようになってくる 食道がんの手術は術後1週間は 縫合した喉の部分が完全にくっついてないので水を飲めない氷水で口の中をブクブクするのが許されるくらいだ 氷水を口に含むと飲みたい衝動に駆られるが絶対にダメだ 看護婦さんの監視付きだ      そんな時廊下を歩いているとジュースの販売機が目に入ってくる 
コーラだ
こんな時はビールが飲みたいとは何故か思わなくて とにかくコーラが飲みたくなる あのシュワシュワしたコーラが今飲めたら 2千円いや3千円払ってもいい とにかくコーラが飲みたい! でも所詮は叶わぬ願いだ・・・ 
このコーラ欲望が自動販売機を見るたびに湧き上がって来る 夢にまで見る
このコーラ欲望を無くすために歩く時は自動販売機の前を通らない事にした

一般病棟
一般病棟に移った次の日 手術後1週間の日がやって来た この時点で僕の声帯は完全に麻痺した状態 声はまだ出ない 声帯麻痺なのでどうやら嚥下が上手くできなさそうだった 新出 先生の経験だと この時点で水を飲むと水が肺の方に散って誤嚥を起こす可能性があるという事だった とは言え何も喉を通さないと今度は食道も機能しなくなるので何かを飲み込まなければならなかった 新出 先生が言った「よしバナナだな」・・   バナナ?
バナナは嚥下困難の人にはベストの食べ物だと先生は言う 俄かには信じがたい話だったが とにかく今日中に何かを喉の中に入れて通過させなくてはいけない・・  バナナを買ってきて目の前に置いて暫く眺めていた   よし食べてみよう 誤嚥をおこしたら危ないので看護婦さんにそばで見ててもらった
口の中にバナナをひと噛み  十分に咀嚼しているとバナナはペースト状になってくる  何せ1週間ぶりの食事だ 飲み込むのが恐い  看護婦さんもいきなりバナナを食べるケースは経験が無いらしく えらく緊張して見ている
舌の上にペーストをまとめて 一気に呑みこんだ  バナナが喉を通過していく  美味い!  あのバナナがこの世のものではないように美味い  思わず「美味い」とギリギリの擦れ声で呟くと 涙が出てきた       看護婦さんも「良かったですね」と言ってもらい泣きしてくれた     

僕は食道がんの手術を受けると決めた時 もう人生で 食べ物を「美味しい」と感じる事は無いだろうと 勝手に覚悟を決めていたのだけれど   そんな事は 決して無かった 人生は喜びに満ちているのだ・・         
あまり美味いので立て続けに2本のバナナを食べた  すると身体が震え始めた 1週間ぶりに食べた食事だったせいもあるだろうけど       これはダンピング症候群と言って食道がんや胃がんの手術を受けた人に起こる特有の症状らしい

僕の場合は食道を切り取って元々の胃を筒状にして喉まで吊り上げ・・・ そこで縫合しているから もう食べたものを溜めておく機能としての胃は無い 言ってみれば僕の喉から十二指腸までは1本の管の状態になっていて胃のように膨らました袋状の食べ物の休憩所がない  なので食べ物を一気にたくさん食べると元の胃に溜まらず十二指腸に一気に到達して吸収が始まる その吸収のスピードに僕の身体は追いついていけず両手が激しく震えだした 

ダンピングの事は本で読んで知っていたが 脳貧血っぽくなってきたので取敢えず横になった  暫くしたら震えは止まった  初めてのダンピング症候群の洗礼だった 看護婦さんは一部始終を見ていて どうやらこの患者は当面はバナナを少しづつ食べるしかない と理解したらしく 硬い紙を三角錐に折ったものを僕のベッドの前に置き「水は飲めません」と書いて出て行った

まるで動物園の檻に書かれている「エサは与えないで下さい」みたいで嫌だった

バナナを食べられるようになったのは良いのだけれど あんなに陶酔的に美味しかったバナナが毎日食べていると ただのバナナになって来る
他のものが食べたい  先生に相談したら今度はゼリーが良いという   なので初めはコーヒーゼリーの硬いやつ これにミルクとかをかけてはダメ あくまでも硬いゼリーのみ コーヒーゼリーに始まって いろんなゼリーを食べた
どれも美味しかったなー 何も食べられなかった1週間から比べたら天国だ
でも また数日が経つと今度は冷たいものが食べたい
アイスだ!
取り敢えず食べやすそうな形をした クーリッシュというチューブ状のアイスをを買って来た  久々に喉を冷たいものが通過する瞬間だ      喉にレッドカーペット敷いて 拍手でお迎えしたい心境だ
アイスを口に含む  甘くて冷たくて本当に美味しい! 舌の上で溶けだしたアイスを飲み込もうとした瞬間 溶けたアイスが喉の奥からどこかへ飛び散った
もの凄い咳が始まった  アイスは全部吐いた
呼吸もままならないくらいのムセ  脂汗が流れてベッドの上で七転八倒の苦しみだ  体力を使い果たしようやくムセが収まってきたと思ったら今度は頭が痛い  熱を測ったら38・5度あった
これが誤嚥というものか  恐ろしいなー 死ぬかと思った・・・
解熱剤をもらってしばらく横になっていた さすがに疲れて眠ってしまった

バナナもゼリーも液体ではない ゼリーは液体を固まらせたものだけど簡単に舌の上で溶けるものではない アイスは液体なんだ とその時つくづく思った ゼリーを舌の上で味わって食べる人はあまりいないと思う ただ咀嚼して呑み込むだけだ  でもアイスは食べるときに知らずに舌の上で溶かしてから飲んでいるんだ
水が飲めるまであと何日かかるのだろう・・・

声帯麻痺
手術の後声が出なくなったことは前に書いた  最初は明日出ると言われた 次の日には2~3日で出るようになると言われた  その次は1週間で出るようになると言われた  1週間が過ぎて 相変わらずの掠れ声  声帯が動いてくれないから声が出ない 1週間を過ぎたあたりから「声はそのうち出るよ」という予想と相成った この頃は声に関して不安だった もし一生出なかったらどうしよう・・・ もう歌は唄えないな  大声で笑うこともできない  皆で騒いでる時に バカなツッコミを入れて盛り上がることもできないな・・・
僕にできるのはヒソヒソ話のような会話だけだった それで呼吸も上手く出来ないからえらく疲れる
発声訓練というのを始めたけれど これが結構つらくて長続きしそうにないのでもう運命に任せることにした  そのかわり身体が空いている時は代謝を上げるために出来るだけ病院内を歩き回るようにした

夜中眠れない時に病院の廊下を歩いていてふと外を見てみると 真夜中なのに蛍の群のように小さな光が忙しそうに動いているのが見える 築地市場だ
あそこの人達はこんな深夜に働いてるんだ と思うと不思議と力が湧いてくるような気がする  自分も早く社会復帰がしたいと思うようになる
後に豊洲への移転で揉める築地だけれど この真夜中の作業を見て元気づけられたのはあの病院に入院した人たちの中で 決して僕一人ではないと思う
その後何回も 夜中に眠れない時はあの光景を眺めに行った 築地市場にはとても感謝している

同病の人達との出会い 
ある日夜中に眠れないので喫茶室にいると 年配の患者さんに話しかけられた
肺がんだという その人は初対面の僕に向かって自分の身の上話を始めた
九州の生まれで子供の頃は身体が丈夫だった事 社会人になって一流の企業に勤め 若い頃は海外に出張に出かけ世界中を飛び回っていた事 定年を迎えこれからは老後の人生を楽しもうと思っていた矢先にがんが見つかった事
がんはかなり進んでいるものだった事  その人は泣きながら話していた
無念だと言っていた その時だけの出会い 名前も知らない間柄という経験はこの病院に入院している間にたくさんあった

子供の患者さんもたくさん見かけた 彼らは皆 僕には気丈に見えた   ただ傍から見ていて辛かったのは 一階受付のところで子供と そのご両親らしい人達がとても深刻な表情で 入院の手続きをしているのを見かけた時だった
子供はあっけらかんとしているのだけれど ご両親が顔面蒼白で記入作業をしていて何かもう倒れてしまいそうだった  お子さんががんなのだろう   お子さんはその事を知らないのかもしれない 小さな子だったから言ってもまだ分からないのかもしれない こういう時ってご両親は辛いのだろうな 自分が代わりたいとすら思うんだろうな

ムセとの闘い
この物語を書いている今現在でも僕のムセとの闘いは続いている 声帯麻痺を経験した人にとってこの ムセとの闘いはある意味エンドレスだと思う 程度はだんだんマシになってくるけど一生受け入れていかなければならない不具合だ

病院でバナナとゼリーばかり食べていて何日か経った頃おかゆのような食事が出始めた 水分の少ないおかゆは舌の上で小さくまとめて一気に呑み込めば何とか嚥下出来るコツのようなものを掴んだ こうやって徐々にではあるが食事は出来るようになっていった ただ未だ水は無理で 口に含んで意を決して一気にゴクンとやるが 上手く飲み込めるのは50%くらいの確率だった
失敗すれば強烈なムセが襲う なので水を飲むのが恐くなってくる    一回ためしにうがいをやってみたら(声が出ないのだから 出来るわけがない)もう水が飛び散ってムセが止まらなくてひどい目に遭った
ただこんな状態でも冷たくて美味しいアイスの魅力は僕に辛かった経験を忘れさせる そしてまたアイスを食べてムセて 吐いて 高熱が出て 薬を点滴してもらうという事を3度ほど繰り返して もう当分アイスはいいやと諦めがついた

中村勘三郎                                  2012年12月5日 中村勘三郎さんが亡くなったというニュースを聞いて  凄いショックを受けた 勘三郎さんは食道がんで  同年7月に手術を受けて まだ入院しているという話は知っていたけど   まさか亡くなるとは思ってなかった 

後に奥さんの 波野好江さんが書いた「最期の131日」という本を読んだ  

勘三郎さんの術前の状態は ほぼ僕と同じだった  原発巣のがんに加えて 少し離れたリンパ節に転移があった  本の中の写真を見ると 術後5日目で元気そうに自分で歩いてる 僕なんかより術後経過が良かったのだと思う     勘三郎さんに異変が起きたのは 術後6日目に起こした誤嚥からだった    誤嚥した何かが 肺に入り 肺炎を起こしたという            そしてこの日から 勘三郎さんは 二度とICUから出られない身体になった ほんの小さな運命のいたずらで 重要な日本の文化人を失ってしまった

食道がんは食道の原発がんを取るだけでなく 転移があれば周辺のリンパ節も取り除く   その事で失われる身体の機能はたくさんある        声が出なくなったり 嚥下が困難になったり 人によって様々だと思うけど僕の場合は 命取りになるような誤嚥は起こさなかった         あのアイスクリーム誤嚥は 今から考えると 命がけだった・・・

章 4

ICU から 一般病棟に移った頃                     僕には   大きな希望があった                      そして それは「小さな恋の物語」の始まりだった               僕はまだ50歳か そこらだった

再会 
ICUで目が覚めた時 一番最初に夏果の事が頭に浮かんだ 取り敢えず無事に手術が終わった事を伝えたい でも考えていたより身体の自由は利かなかった それで姉に頼んで 夏果に電話してもらった「取り敢えず手術は無事に終わったと言ったら 彼女泣きながら何度も何度もお礼を言ってたよ」と姉は教えてくれた ひとまず安心してそれから数日は 夏果の事は考えずに身体を元気にすることだけを考えることにした

何日目かで独りで何とか歩けるようになって 携帯電話から夏果にメールをしようと試みたのだけれど 目がかすんでキーが見えない・・・     まだかなり時間がかかりそうだった
それに何より声が出ない  最初2~3日くらいで出るようになると言われていたのだけれど3日過ぎても4日過ぎても声は出てくれない 再会して声の出ない僕を夏果はどう思うのだろうか? がっかりするだろうか? 悲しむだろうか? 想像するのが恐かった 鏡を見ると汚い髪の伸びきった落武者みたいな風貌・・・ これもどうにかしなくては

1週間が過ぎてバナナが食べられるようになった頃 洗髪を看護婦さんにしてもらってひげも剃ったら 落武者から痩せた病人に風貌が昇格した
それで思い切って「手術の影響で声がうまく出せなくて ヒソヒソ話しかできないけど会う?」とメールしたら「絶対に行く! ヒソヒソ話なんて素敵!」って返事が来た  良かったぁ

夏果は病棟にやって来て 僕を見つけるとベッドまで走ってきた
眼に涙をいっぱい溜めて 「良かった 良かった」と言ってくれた
僕は彼女を抱きしめて 黙って髪を撫でていた
こんな時に 言葉は必要ないのかも知れない・・

その日から夏果は 毎日のように見舞いに来てくれた

ふと考えた
僕らは 恋人なのだろうか?
そうだとして もし 彼女の両親に会う事になったら
22歳も年上の がん患者の僕の事を どう思うだろう?

考えても仕方がない 自然の流れに任せる事にした
今は この幸せを受け入れさせてもらって 回復する事に専念しよう

そんなある日 血液検査結果の紙の裏に 今の自分の気持ちを表現した 
詞を 書きはじめた

「I love you」
いつの日か もし 声が出せるようになれたら
この詞を 曲にして 夏果の前で唄いたいと思った
頭の中で コード進行を考えて
ここは ディランの「***」風に とか
ここは ポールの「***」のように とか
ここのギターは ストーンズ っぽく
ここの唄は 拓郎のように叫んで と
頭の中で 曲のイメージを 組み立てて 検査の紙の裏にメモしていった
そして 僕は生まれて初めて ラブソングを作った
タイトルは「I love you」だ!

君を好きだという事を 知っていたなら それは愛なのか?
何億分の一の確率が こんなにも近くに居たなんて
まだ好きだとも言ってない君を 心の底から必要としている
やせっぽっちが 叫んでる 君をずっと守っていたいと

何でもない事の繰り返し とんでもない事に出くわして
あーでもない こーでもないと考えて 悲喜交々の体たらく

路頭に迷って 行き先を見失い 力を無くしちまった俺に
そっと降り注ぐ雨 キラキラ輝く太陽 決して枯れない 小さな花に咲く
I love you  I love you  I love you

巻き戻せない人生を 悲観してはため息ついた
そんな気持ちのうつろいの無意味さを 僕に教えてくれたのは君だった
どうして今まで気づかなかったんだろう こんな当たり前の幸せに
胸の奥が熱くなるようだ 君をずっと抱きしめていたい

希望を失い 絶望にひしがれ 足止めをくらっちまった俺に
そっと降り注ぐ雨 キラキラ輝く太陽 決して枯れない 小さな花に咲く
I love you  I love you  I love you

果たして メモだらけの歌詞が出来上がって
退院後にギターを手にして 弾こうとしたけれど            あばらが痛くてギターを持てない
そんな月日を経て 長い時間をかけて 曲は完成した
実際に「I love you」を夏果の前で 唄う事が出来るまでに        4年間かかった・・                         泣いてくれた  嬉しかった

退院                                かくして僕の入院生活は2週間ほどで終了と相成った
なんとか食事は取れるし この頃には水も飲めるようになっていた

家で特にやる事もなく ヒマなので久々に会社に顔をだそうと出かけてみた
駅までの道のりがやたらと遠く とにかく息が切れる しんどい・・・
駅の階段はもう試練だ 心臓がバクバクになる 病院の中を歩き回っていたのとは全然勝手が違う やはり外の空気とか 地形とかは自然の厳しさのようなものがあって 病院の中っていろんな意味で守られてる

会社に行くのは数ヶ月ぶりだったけど やはり手術前に比べるとかなり痩せたみたいで同僚にビックリされた でも容姿よりも僕の声が出ない事の方が驚きだったようで 皆笑顔で優しく接してくれるけれど目が笑ってない
時に哀れみというのは残酷なんだ・・

丁度このタイミングで 当時 僕が働いていた会社に 全く別の業界の外資系の会社から「新社長」が就任して来た

僕としては 病院から復帰したばかりだったし             出来る限り新社長と上手くやろうとしたつもりだった  
だけれど この新社長は バカのヘビー級チャンピオンみたいな人物だった

なんで 会社は こんな奴を雇ったのだろう?

いろいろな軋轢があったけれど 極め付けだったのは          新社長が 今まで頑張って結果を出してきた仕事から 僕を外した事だった
自分なりにこの仕事は 一番上手くやれるという自負があった
声も少しづつ出るようになって来ていたし 周りの同僚も応援してくれていた

人間には他人の才能を認める“才能”というものがある と思う
新社長は この“才能”が著しく欠如した人間だった
要は コンプレックスの塊だ

夏果も同じ会社にいた  彼女は新社長に対して たいそう腹を立てた
そして 夏果は会社を辞める事にした

彼女だけではない 短期間に多くの同僚が会社を去って行った

俺も我慢の限界だなぁ・・・
次の仕事を決めてから 会社を辞めよう
しかし 僕の人生は 「会社買収」やら「バカ新社長の乱入」やら 
いろんな波乱が多すぎる・・・
やれやれ また転職かぁ

ちなみに この バカ新社長は 数年後にクビになった・・ 
ざまぁみろ だ!

New Jersey – Rolling Stones
2012年12月 ニューヨークに 夏果と一緒に旅する事になった
会社の事で うんざりしていた事もあるけれど
この年の この月は Rolling Stones が50周年のコンサートを
ニュージャージーで演奏するというので                         渡米に対して 夏果が強く背中を押してくれた
闘病で頑張ったから 「自分にご褒美をあげたら?」 と言う

今は亡き 親友の秋雪が よく「ストーンズ」を一緒に聴いてくれる女性は
良い人だよ って言ってた・・     本当だなぁ

この物語の冒頭で書いた「12・12・12」の日 空港からタクシーで 
ニューヨークに着くと 僕は完全に舞い上がってしまって MSGを探し当てると その場で 夏果を一人でホテルへ帰してしまった
彼女もニューヨークは初めてだった
彼女が道に迷うかも知れない などという心配は全く出来ない      ひどい男だった・・・

「12・12・12」が終わって 夜中の2時くらいにホテルへ帰ると     夏果は 生中継の TVで放送されていた「12・12・12」を観ていたらしく
「キース 口で息してるみたいで 苦しそうな顔してたよ」と心配したので
「いや あれは 苦しいんじゃなくて あの人は ああいうタコみたいな口をしないと演奏できないんだよ」と教えてあげた

翌日 夏果と列車に乗った
NYC から NJ へと ハドソン河 を越えてガタゴト走る
列車は あちらこちらで運転を止める・・ このボロ電車がまた 趣があって良かったなぁ

NJ「Prudential Center」でストーンズを観た
この時のストーンズは 僕が今まで観てきたストーンズのLIVEの中で       
恐らく一番良い出来だったと思う 素晴らしいショーだった
2006年に来日した時から しばらくツアーを演っていなかったので 
果たして大丈夫なのだろうか? と心配していたけど それは杞憂に終わった

キースが何というか 今までに無く 慎重に演奏していた
チャーリー・ワッツの真ん前に陣取り あまりステージ上を動き回る事無く
バンドの音を全身で感じ コントロールしながら 観客に睨みを利かせて
「お前ら これがストーンズだ ちゃんと聴いとけよ !」
とでも言わんばかりの威厳を示していた

インターネットでチケットを確保した時間の差があって 僕らは別々の席で観ていた 夏果の席は 僕の席より安いものだったけれど ステージの後方で 
その分ステージにかなり近かった 彼女の席からは 肉眼でもメンバーが良く見えた
「キースが てっぺんハゲだ!」というショートメールを送って来た

知らなかった・・・ 

ストーンズというバンドは キース と チャーリー という
2人の 心臓と肺の関係みたいな エンジンで走る車のようなバンドだ
この時のキースは 背中にチャーリーのバスドラムの音を感じながら
それは ひとつひとつの曲を大切に演奏していた感があった
そして チャーリーのドラムは本当に 果てしなく力強いのだった

この物語の冒頭で「奴らが死ぬか? 俺が死ぬか?」と書いたけど
この時から9年経った 2021年8月にチャーリーが 空へ旅立ってしまった
その朝 報せを聞いて 呆然とした

ついにこの時が来てしまった

今まで ストーンズ や ポール や ディランが死んでしまうという事は
考えないようにして来た

でもこれからは そんな都合の良い世界は続かないのだ
悲しみは 悲しみとして 受け入れて行かなければいけないのだと
チャーリーを失った後の ストーンズが教えてくれた                   彼らはスティーブ・ジョーダンをチャーリーの替わりに 従えて      それは立派なツアーを演じてみせた                    翌年は60周年だ!  それでも夢は続くんだ 流石 怪物 ストーンズだ!

花火
ニュージャージーから帰って来て 僕達は隅田川の近くのアパートで 
一緒に暮らすようになった
引っ越した次の日に 隅田川の花火大会があった
初めて近くで見る 隅田川の花火は それは綺麗だった

花火は ドンっ という大きな音で 暗い夜空のキャンバスに
大輪の花を描いたかと思うと パラパラっ という音と一緒に消えていく

その繰り返しを観ていたら 何だか 寂しい気持ちになって来た

思わず「来年も 花火観られると良いな」と口をついてでた

その言葉を聞いて 夏果が涙を流した
そんな事は言わないでほしいと泣いていた
僕は黙って彼女を抱きしめる事しか出来なかった

愛おしくて 切なかった

このままで本当に良いのだろうか? 
夏果にはもっと幸せな人生があるのではないか? 
という考えがいつも頭をよぎっていた

そして月日は流れる
手術を受けた人間と一緒に暮らすという事は さぞかし大変なのだと思う

僕の場合は 食道を摘出して 胃を伸ばして喉で縫合しているので 
普通の人のような胃が無い
身体を横にして 眠る                        始めは角度のある枕で 上半身が少し起きた感じで寝ている
そして 熟睡状態になると 身体がフラットな状態に滑り落ちて来る       すると 普通は胃の中で抑えられる胃酸や胆汁が 喉に向かって逆流してくる そしてそれら(吞酸という)が喉を刺激すると 強烈な痛みが走り    夜中に飛び起きる事になる
キッチンのシンクで吞酸を吐くのだけれど 刺激された喉は麻痺を起こして
今度は呼吸困難になる 吸う息と 吐く息が 喧嘩して息が出来ない

このまま死んでしまうのでは? と 思うと だいたい夏果が起きてきて 背中をさすってくれるのだった

冷静になれと 自分に言い聞かせて 呼吸を整える それから2時間くらいして やっと落ち着いて また眠れるようになる
こんなことが 1日おきくらい に起きていた

夏果に対して「俺なんかと一緒にいたら・・・」と思う気持ちと裏腹に
この生活を手放したくないという気持ちは どんどん強くなっていった

そして 花火は次の年も そしてその次の年も観る事が出来た

結婚
2014年 2人で話し合って 結婚する事にした
結婚式は 家族だけでハワイで挙げる事になった

小さな教会で ささやかな式だった
夏果のお父さんに「末永くよろしくお願いします」と言われて
予期しなかった言葉に 思わず涙がこぼれた

もう「俺なんかと一緒にいたら・・・」とは考えない事に決めた

ハワイでは キラウエア火山を見に行くツアーに参加した
ここでは 夜に星が凄く綺麗に見える場所があって 暗く無くては見えないので 1グループに  1つの懐中電灯しか携行してはいけない決まりがあった

そのツアーで キラウエア火山の火口をバックに カメラの露光時間を長くして  火口の薄明かりをバックに 写真を撮るという企画があった
カメラの前に立った瞬間に 突然 便意が襲って来た
「ちょっとすみません」とカメラマンの人に断りを入れて その場を離れた
懐中電灯は1つしか無いので使えない・・・

僕は暗闇の中を 駐車場の入口にあったと思ったトイレへ急いだ
もし 野グソをしたら ハワイでは罰金を取られるのだろうか?
などと考えながら 駐車場の一角の建物に着いたら そこは思った通り      トイレだった
良かった!

そういう訳で この火口写真は 夏果が一人で写っている
そして彼女は 駐車場へ戻る道を懐中電灯で照らしながら どこかに野グソが落ちてないか 注意深く探して歩いたという    流石 僕の妻だ

ロコ と チビタ
一緒に暮らし始めた頃から 僕達は犬も仲間にいれた
チワワ犬で ロコと名づけた 

僕は身長が1mくらいの子供の頃 体長が1mくらいの野良犬に
追いかけられた末に 尻を噛みつかれて 気絶した事がある
それくらいの背丈の子供にとって それくらいの大きさの犬と言うのは
猛獣である ライオンみたいなものだ
それから僕は 犬が怖くなった 嫌いなのでは無くて 恐いのだ
何十年もの間 犬 PTSD 状態だった

小さなロコに 最初は怖くて  どう接して良いのか分からなかった・・・
ロコはまだ眼があまり見えないのか テーブルの脚によくぶつかった
怪我をしないように 段ボールをテーブルの脚に巻き付けた
これが 僕がロコにあげた 最初の愛情だった

それからは 会社から帰ってくると 小さなロコと遊びながら晩酌をするのが  本当に楽しみになった

それから何年かが経って 僕達は結婚式を挙げにハワイへ行き 
ロコを羽田空港のペットホテルに預けた
1週間ほどの旅から帰り ペットホテルへロコを迎えに行った時の事は 
今でも忘れられない
ロコは泣いていた 目に一杯涙をためて
僕達に捨てられたと思ったのかも知れない
僕達を見つけると 弱々しく近づいて来て 泣きながら 下血していた
タオルでくるんで 抱きしめた 涙が溢れた
「ごめんね ごめんね」と夏果も泣きながらロコの頭を撫でた
仕事を休んで ロコが復調するのを待った1週間ほどで元気になってくれた

それから 僕達はロコを残して 旅行に行けなくなってしまった

ロコが寂しくならないようにと願って
チビタという名のチワワを仲間に入れた

これが 上手くいかなかった・・・
ロコ と チビタ は全然仲良くなってくれなかった
チワワという犬種は 特に嫉妬心が強いらしく 
ロコ は チビタを受け入れて無いみたいだ
犬達を見ていると彼らが家の中での序列を次のように決めているのが分かる
夏果 ⇒ チビタ ⇒ ロコ ⇒ 僕

7年経った今でも 2匹は仲が悪い
犬の世の中も 簡単では無いんだなぁ・・・

日本代表 
インドと中国に拠点のある 新鋭の会社の日本支社代表にならないか という話が来た 日本支社といっても法人組織では無いので 責任の無い社長みたいな 日本代表だった
迷う理由は無かった すぐに引き受けて くだらない会社とおさらばした

自宅を仕事場にして 独りで働く新しい生活が始まった
こういう仕事のスタイルは初めてで 新鮮だったけれど 同時に重圧も感じていた   これからは 仕事上の全ての責任が自分一人にかかってくる

1ヵ月後には インドに渡り 新設の研究所に 日本の大手石油会社の社長を招いて テープカットを行い その式場で 僕が挨拶をするという事になった

凄いプレッシャーだったと思う・・
挨拶のスピーチで 僕は言葉が上手く話せなくなってしまった
その場にいた人は 僕に何か異変が起きているのを察したと思う

インドに滞在中 僕は夜になると激しい咳が止まらず オレンジ色の痰を吐いていた  こりゃ 何かおかしな事が身体に起きてるぞ・・・     直感で分かってた

日本に帰った あくる日 夏果と2人で食事をしていたら
経験のない 吐き気を感じた
何かが 身体の奥から喉へ向かって這い上がって来る
トイレに駆け込んだら 大量の血を吐いていた
救急車を呼んで 救急隊の人と話した
僕は インドでの咳の事があるので 出血は肺からだと思っていた
もしかしたら 肺にガンが再発したのでは と案じた
救急隊の人の説明だと 肺からの出血は「喀血」といって
血を吹き出すように噴出するという
今回の出血の感じだと「喀血」ではなく「吐血」で原因は消化器にあると いう・・

夏果は本当に頑張ってくれた
さぞかし怖かったろう と思う
それでも彼女は 冷静に 保険証やら 病院の診察券やらをまとめて
一緒に がんセンターへと 人生初めての救急車で向かった
この日 止血剤を点滴して いろいろな手当てをしていたら午前零時を回った
そしてこの日は 僕達の1年目の結婚記念日だった
なんという事だ・・・

気丈に振る舞っていた 夏果だけれど 後から聞いたら 
家に帰ってから 独りで泣いたという   
そりゃそうだよな  本当にごめんなさい

再入院
あくる日 新出 先生が病室にやって来た 手術から4年半が経過していた
どうも 当時の手術に由来する出血では無さそうだけれど 午後に内視鏡の予約を入れておいたので 取り敢えず僕のお腹の中を診てみようという事になった

出血は止まっているけれど 昨日の出血で 内視鏡でも患部を見つけられない・・
2週間様子を見て 再度内視鏡検査をやることになった
担当医師の判断で 数日間は入院が必要と言われた

それは まずい・・・

2日後にはインドからCEOが来日して 一緒に石油会社を訪問する予定になっていた
僕は 新出 先生にお願いして 事情を全部話して 何とか明日退院させてもらえないか頼んだ
先生は「分かった」と言って 荒業を使って 翌日に僕を退院させてくれた
こんなに 患者に寄り添って 患者の人生を真剣に考え 病院のポリシーを曲げてでも “荒業” を使ってくれる医師を 僕は 新出 先生の他に知らない

そして CEOとの仕事を何とか無事にこなし 2週間が過ぎて 再度 内視鏡検査を受けた  結果 消化管のどこにも出血した場所の痕跡は見つからなかったのだった

新出 先生は「これは ストレスだなっ」と笑いながら言った
先生は 僕より1歳年上だったけれど 「その年で仕事変えたら 吐血しても不思議じゃないよ」と結論付けた・・

まっ そういう事で納得した

不運
僕が吐血までして務めた 新鋭の会社は出航から2年ほどで暗礁に乗り上げた インドに研究所を構え 中国に工場を持った 新鋭の会社の経理部は中国に在った そして賃金は中国から支払われる 本社も中国に在った

2015年からこの会社で働き始めた訳だけれども 
この頃 中国では 習近平 総書記が「虎もハエも叩く」という所謂「汚職撲滅のスローガン」を打ち出して 汚職は 共産党幹部であろうが何だろうが 汚職を行なう団体や人間の社会的地位 身分を問わず  すべて容赦なく叩き潰す といった何とも胡散臭い 茶番劇が繰り広げられていた

そして僕が働いていた会社は この茶番の犠牲になった

新鋭会社は株式上場の際に 虚偽の申告工作を行ったとして 
中国共産党=習近平 政策 に目をつけられる事になる 
この虚偽が本当なのか どうなのかは いまでも分からない

2017年くらいから 給料の支払いが停滞し始めた
僕の旧友に 某大学で中国経済を教えている教授がいた
彼に 新鋭会社の情報を共有したら 友人は1日でいろいろな事を調べ上げてくれた  友人によると 新鋭会社は 中国の**州にあり その**州の顔役とでも言うべき  政治家が 現在刑務所におり 無期懲役だという・・
そして 習近平が失脚でもしない限り その顔役は刑務所から一生出て来られない 顔役 が居ないと あのストレンジな国家では 会社は続けられないらしい・・・
言ってみれば 新鋭会社は 操縦士 を失って 
ダッチロールを起こしている飛行機のようなものだった

友人は言った「お前 その会社マズいぞ 早く別の仕事探せ」

結局 僕は2017年から2018年まで約1年以上 収入が無い状態になり
また 別の仕事を探さざるを得なくなった・・
今度は 国際的な理由での 離職だ 
また転職か それにしても 当時 僕はもう57歳だった 全く トホホ だぜ

幸せの目盛り
2022年を迎えて 何とか新しい仕事を続けられている ありがたい事だ
2021年は 手術から10年という嬉しい節目の年だった
2011年に手術を受けたその日に 新出 先生にメールを送った
「手術から10年経って 健康に生きていられるのは 色々な幸運 と 先生のおかげです また 久しぶりにお会いしたいです」           といった内容のものだった

返事は翌日 すぐに来た
「最近は YoutubeでDeep Purpleをよく観ている」と書いてあった
僕達は入院の期間中 医師と患者の関係でありながら 音楽友達でもあった
僕が 気に入っている Deep Purple の DVD を渡すと 子供のように喜んで
翌日には その感想を あーだ こーだ と語り合ったものだった
そんな時は たとえ一刻でも病気の事を忘れられる 楽しい時間だった

新出 先生は 2016年に「がんセンター」を辞めていた
僕は入院している間 何人もの看護婦さん達から いかに新出 先生が        “凄腕” かを聞かされていた ある看護婦さんは ギネスレベルの “神の手”   だと称していた
そんな 新出 先生が長年勤めていた「がんセンター」を辞める事になった
詳しい事情は知らない 
先生は「いろんな院内の政治的な パワーバランスがあるんだよ」と    当時 言っていた

そして “神の手” は 新たなる活躍の場を 北の大地の 食道がん手術に特化した 病院に求めて 転職して行った

僕が 新出 先生の消息を知っていたのは ここまでだった
そして 2021年にネットで 新出 先生を調べたら            何と 伊豆で「内科医」になっていた
新出 先生のメールには「今までと 全然違った仕事で それなりに頑張ってます」と書いてあったけれど あの  “凄腕”  外科医 が 内科医 に転職するという事には  相当の葛藤があったと思う・・                新出 先生も 吐血したのだろうか ? 


最近 中古の オンボロ車を買った
チビタ はこの車で出かけるのが好きらしい
彼は この車に乗る時にしか見せない 独特の笑顔をする
薄く眼を開けて 笑顔に見える口から 舌をヒラヒラさせている
チビタは 言葉を話さない 「君は幸せなのかい?」と訊いても     舌を出して笑ったような顔をしているだけだ  

暖かくなったら 夏果 と ロコ と チビタ と一緒に オンボロ車で 伊豆に
新出 先生を訪ねようと思う  僕の命の恩人と 久々に話がしたい

食道がんが発覚する前の僕は 相当 滅茶苦茶な生活を送っていた
がんが見つかった事で   僕はこの滅茶苦茶を止めなければ      生けなくなった
言ってみれば 僕のようなバカな人間は がんに救われたのだとも思える

犬達は僕が家に帰ってくると 凄く喜ぶ
毎日同じことを繰り返しているのに 凄く喜ぶ
まるで「この喜びが分からないの?」                 と教えてくれているようにも見える・・・

幸せとは何だろう?

幸せの目盛りといったものが もしあるとしたら
それは相対的なものだろう
平坦な人生の中で 見落としてしまうかも知れない 喜びは
不運な人生を余儀なくされている人には かけがえのない 喜びかも知れない

多くを求めずに 小さな幸せを拾い集めて  生きていけたら良いなぁ

正月に近所の 亀戸天神に詣でた
夏果が引いたおみくじは “小吉” だった 「なんだ 小吉か」と 呟いたので
「小吉が一番 良いんじゃない?」と言ってみたら
僕の思いを知ってか知らずか
「そうだね」と夏果が 言った
僕は何だか可笑しくて 笑った
つられて 夏果も笑った 

2人の笑い声は 寒くて青い空に 小さく響いた

2022年 梅見月

「Happy」     by  Rolling Stones

Well I never kept a dollar past sunset
It always burned a hole in my pants
Never made a school mama happy
Never blew a second chance, oh no

I need a love to keep me happy
I need a love to keep me happy
Baby, baby keep me happy
Baby, baby keep me happy

Always took candy from strangers
Didn't wanna get me no trade
Never want to be like papa
Working for the boss every night and day

I need a love to keep me happy
I need a love, baby won't you keep me happy?
Baby, won't you keep me happy
Baby, please keep me

I need a love to keep me happy
I need a love to keep me happy
Baby, baby keep me happy
Baby

Never got a flash out of cocktails
When I got some flesh off the bone
Never got a lift out of lear jets
When I can fly way back home

I need a love to keep me happy
I need a love to keep me happy
Baby, baby keep me happy
Baby, baby keep me happy, baby

Happy, baby, won't you keep me happy?
Baby, won't you keep me happy?
Baby, won't you keep me happy?
Baby, won't you keep me happy?
Baby, won't you keep me happy?

Oh baby keep me happy
Baby just keep me happy
Oh baby don't you feel happy?
Keep me happy
C'mon now keep me happy

Keep on dancing, keep me happy
Keep on dancing, keep me happy
C'mon now keep me happy




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