孤独なグルメ 第一話 東京都台東区の冷やしたぬき

 仕事が思いのほか早く片付き、あらかじめ下調べしておいた銭湯のサウナで全身整っていた私は、ふわふわとしたいい気分で下町情緒を残した通りをふらついていた。…本格的な露天風呂もあり、本当にいい銭湯だった。水浴びしていた私のしぶきが自分にかかったと文句を言ってきた全身刺青のヤクザ坊主が、そのあと水風呂にざぶんと潜りざぶざぶと顔を洗い、あろうことかそこで泳ぎ始めるという、自分のより圧倒的なマナー違反を犯していたことに対して、何も言ってやれなかった自分の不甲斐なさに対して多少のモヤついた気持ちはあるにはあるが…。

 しかし、このあたりは全然飲食店がないなぁ…。開いているのはあのそば屋だけか。しかし見知らぬ土地のそば屋は敷居が高い。近所のそば屋ですら入るのに、引っ越してきてから五年かかったというのに。…まぁ仕方ない、他には店がないし入るとするか。

 恐る恐る店に入ると、店主と思しき白髪の男性が恐る恐る声をかけてきた。

「いらっしゃいませ」

 お互いの恐る恐るが交差する。

 店には、いつからいるのかわからない老人の男性客が一人だけ。その男性客から一番遠い席に腰を下ろした。

「冷やしたぬきください」

「ありがとうございます」

 店主は厨房に去っていった。そちらに目をやると、料理人らしきこちらもかなり年配の男性がいる。彼が今から私の冷やしたぬきを作るのだろう。寒くなってきたのになんだか申し訳ない。

 その時、どこからかカッスカスに掠れた声が聞こえてきた。

「なんぼや」

 声の主は先客の老人だった。食事を終え会計をしたいようだが、店主は出てこない。

 厨房に目をやると、店主と料理人が二人がかりで私の冷やしたぬきを作っていた。そんなに手が込んでいるのか、ここの冷やしたぬきは。

「おーい」

 再び老人が呻きのような声を発する。だが、厨房には全く届かない。

 私は生きた心地がしなかった。厨房では未だ店主と料理人がフレンチのメインディッシュかのような丁寧さとうやうやしさで冷やしたぬきを盛り付けている。

「なんぼや」

 老人の声に苛立ちが混じり始める。しかしその声が聞こえているのは私だけ。もう雑でいい!早く持ってきてくれ!一刻も早く彼を解放してやってくれ!

 もう我慢できない。私がお店の人に声をかけて老人にお会計をさせなければ…!

 その時、料理人が私の冷やしたぬきを宮廷料理かのように優雅に運んできた。

「お待たせしました」

「なんぼや」

 間髪入れずに老人客が料理人に声をかけた。吐息の大部分が音声化されないその声も、今回はさすがに料理人の耳に届いた。

「3,500円になります」

 老人のお会計はそば屋にしては思いの外いい金額だった。老人は支払いを終えると牛の歩みで店を出ていった。この世界で私だけが三倍速で生きているような気がした。

 手元に届いた冷やしたぬきは、茹でキャベツが載っているほかはごく普通だった。私はそれを五分で食べ終え、店をあとにした。 

(2021年7月『かげきはたちのいるところ』裏パンフ用文章)

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