見出し画像

[小説]愛しき名前~ある特定失踪者少女の運命(最終回)

最終章(二)

 日本に戻ってから既に十年以上経つが都心には未だに慣れない。街並みは日々変化し、地下鉄など出口を間違えれば目的地にたどり着け無い時もある。
 だが、この街は違う。電車を降りて、アメ横やデパート側とは反対の出口を出て昭和通り方面に進む。大通りに出たら、そのまま秋葉原方面に歩いて行けば無事に目的地のビルに辿り着くことが出来る。
 一日中客の絶えない一階の食事処とは別の入口から中に入りエレベーターで最上階である六階で降りた。
 目の前には“ハヤシ食材(株)本部”のプレートが貼られたドアが現れる。ここが彼の本日の訪問先だった。

「哲男くん、いらっしゃい」
 ドアを開けると初老の女性が出迎えてくれた。ハヤシ食材(株)の会長で彼の“異母姉”の山田哲子である。
 広い部屋には机一つと応接セット一組が置かれ、壁際には段ボール箱が積み重ねてあった。オフィスというよりは物置のような部屋で彼女は一日中一人で過ごしている。
 彼はいつものように応接セットのソファに座る。すぐに会長が牛乳のたっぷり入ったコーヒーを持ってきてくれた。
“あなたは牛乳の入ったコーヒーじゃないと飲まないって父さんが言っていたから”だそうだ。
 これは彼が子供の頃の話なのだが、会長にとっての異母弟は、いつまで経っても小学生の少年のままのようだ。彼は内心苦笑しつつ、有り難くコーヒーを頂くのだった。
「哲子さん、これ」
 哲男はカバンの中からA4サイズの封筒を取り出して渡した。
「この間の週刊誌の記事を訳したものです」
 一か月前、哲子のもとに韓国の雑誌記者が取材に来た。その内容である。
 哲男が日本に戻った後、ハヤシ食材(株)は北朝鮮での事業から少しづつ手を引き始めた。
 北での事業は2人の父親である創業者で前会長である林長吉の意思というよりは彼の妻すなわち哲子の母親の意向によるものだった。
 “総盟”幹部だった哲子の母親は夫の稼ぎを湯水のように本国に注ぎ込んだ。かの国の関係部署と合弁というかたちで前会長は、百貨店、病院、ホテル、遊園地等々を建設した。利益の大半は合弁相手に持って行かれ、ほとんど慈善事業のようなものだった。
 そのため、いずれは引き上げるつもりだった。前会長の妻が亡くなり、哲男も日本に戻った今、かの国とはもう関わる必要はなかった。
「私も旦那も、そして哲男くんも“日本人”なんだから、あの国とは縁もゆかりないもの」
 北との事業を全て精算した時、さばさばした口調で哲子はこう言ったのだった。
 北と完全に手が切れた時、韓国の企業から提携の話が来たのである。たまたま日本に出張に来た韓国企業の社員がハヤシ食材(株)に関心を持ち、ぜひ韓国で共に事業をしようと持ち掛けられたそうだ。
 この事業は成功し韓国内で話題になった。ゆえに韓国のビジネス誌がハヤシ食材(株)の会長に興味を持ち取材を申し込んだのだった。
「取材は全て日本語だったのに肝心の記事は韓国語のみで日本語訳はネットにも出なかったのよね」
 哲子が送られた雑誌を手にしながら言うのを聞いた哲男が翻訳を買って出たのだった。
「山田哲子女史だって、何か大袈裟ね」
 訳文に目を通しながら哲子が笑いながら言うと
「韓国風の表現ですよ」
と哲男も笑いながら応えた。
 その後、暫く互いの近況を話した後、哲男が改まった口調で言った。
「実は、今日、会長にお願いがあって来たんです」
「まぁ、あなたからのお願いなんて珍しいわね」
 哲子は少し戯けた口調で応じた。
 哲男はテーブルの上にパンフレットを置いた。NPO法人の農園のものだった。
「この農園は脱北者が中心になって運営しています。今、日本にも脱北者が大勢いるのですが、彼らの働き口があまり無いのが実情です。そこで日本人や在日の有志たちが資金を出し合って立ち上げたのがこの農場です。この間、ここの野菜を取り寄せて見たところ、品質が良くてウチの店でも使ってみようかと店長と相談したんです。彼も採算も合うのでいいのではかと賛成してくれました。そこで哲子さんにお願いですが、この農場との取引を認めて欲しいのですが…」
 一通り説明した哲男はコーヒーを口にした。
「認めるも何も、哲男くんの店なのだから、あなたがしたいようにすればいいわ」
 会長は微笑みながら答えた。
「でも、北とは関わりたくないのでしょう」
「あの国と付き合うのは御免だけど、あの国の人たちは関係ないわ。父さんが生きていたら同じことをすると思うわ」
「そう言ってくれると嬉しいです。じゃ、もう一つの件もOKですよね」
「あら、まだ、あるの」
「はい、ご存知の通り、日本には今、拉致・特定失踪者救出を目的とした民間団体や脱北者、日本人妻等々を支援する様々な民間団体があります。そうしたところは、皆、経済的に大変なんだそうです。そこで、自分の収入の一部をカンパしようと思うのですが如何でしょう」
「あなたのお金なのだから自由にすればいいんじゃない、ただ家族はどうなの」
「妻も哲子さんと同じ意見です。今のところ自分たちには十分過ぎるほどの収入があるので」
「あなたたちは本当に欲が無いわね」
 会長は楽しげに言った。そして言葉を続ける。
「これも父さんも同じことをしたと思うわ。ずっと同胞のためになることならと、民族学校や奨学金の創設その他様々な事業に協力してきたから。でもね、こうしたことが必ずしも同胞のためになって来たわけではないことが、後で分かったの。父さんが一番怒ったのは学校の土地が売り払われそうになった時ね」
「学校の土地が、ですか」
「ええ、その学校に通っていた生徒の保護者が、学校の土地が売られるらしいって話を何処かで聞いて騒ぎになったの。で、保護者たちや父さんのように設立に関わった人たちが調べて見たところ、学校関係者が学校の土地を担保にお金を借りようとしたのよね」
「その人、借金か何かがあったのですか?」
「ううん、総盟に割り当てられた本国への献金が足りなくて借金をしようとしたらしいわ」
「凄い話ですね」
「本当に。本国へ送金したところで、それが国民のために使われていればまだしも、人々の大半は貧しく、あんな体制の中で苦しんでいるのだから……。だんだん皆、献金するのが嫌になってしまって…」
「そうですね…」
「だから、今はあの国を支援するのではなくて、あの国のために苦しんでいる人々を支援する時だと思うの。哲男くんのすることに私たちも協力するわ」
「ありがとうございます」
 哲男は異母姉に頭を下げた。
「それと、行く行くは脱北者たちの研修を兼ねた働き場所を作りたいともおもっています」
「経営者的な考え方をするようになったわね。もう私に変わってこの席に座って欲しいわ」
哲子が言うと
「とんでもない、自分はまだまだ未熟者です」
と哲男は恐縮しながら答えた。

「チョンウチって誰?」
 息子の修星が背中に抱き付きながら尋ねた。
「ヒーローだよ、朝鮮の」
「修ちゃん、父さんのお仕事の邪魔をしちゃダメよ」
 娘の輝世がやって来て異父弟を連れて行こうとする。
「宿題まだでしょ」
「うん、輝ちゃん手伝ってくれる?」
「はいはい」
 仲の良い姉弟だ。二人はこれからもずっと仲良く助け合って生きて行って欲しい、自分と哲子さんのように。そして出来れば、どのような形であれ人々の心の支えになって欲しい、あの金輝星のように。
 二人の子供の後ろ姿を見送りながら哲男はこう願うのだった。


 平日の夕方、退勤時間にはまだ早いはずだが、その居酒屋は結構混んでいた。
 だが予約を入れていたため席は確保出来ている。店に入った竹山議員は店員に聞いてその場所に向かった。カーテンで仕切られた予約席は二人用で、既に一人の男が席に座っていた。竹山の友人で自称“竹山議員の非常勤秘書”の元坂太樹だった。色黒で体格の良い彼は竹山とは対照的だ。
「久しぶり、元気だったか?」
 元坂が片手を上げて挨拶すると
「ああ、君は相変わらず元気だね」
と応じながら竹山は向かい側の椅子に座った。
 店員がお通しを持ってくると、男はビールとメニューにあったAコースを注文した。今日は料理を食べるのが目的ではないので注文の手間を省いたのである。
 ビールはすぐに運ばれてきた。互いのグラスに注ぎあうと「再会を祝して」乾杯をした。
「いろいろ大変だったな」
 いっきにビールを飲み干した元坂が言うと
「まったくだ」
と竹山は答えた。そして
「俺は嘘をついてしまった。二度と見捨てることはいたしません、と言っておきながら彼女を助けることは出来なかった」
と言いながら苦痛に満ちた表情を浮かべた。
「気になさんな、政治家は二枚舌、三枚舌を使ってこそ一人前さ」
 元坂はわざとおどけた口調で言った。竹山は何も言わなかった。
 元坂は言葉を続けた。
「俺も外川家の家政婦が北の工作員らしいという情報は掴んだが、まさか日本人拉致被害者とは思わなかったぜ」
「誰もそんなこと思いもよらないよ」
 竹山は溜息混じりに応えた。
 その当時、元坂のもとに北の工作員が日本の大臣に近付いているという情報が入った。調べたところ、外川大臣の家に新しい家政婦が来たことが分かった。さっそく、大臣の家を張り込んでみると見たことのある女が出入りしていた。これまで彼が調べた北絡みの事件の場に必ずいた女によく似ていた。
― 彼女に違いない!
 直感した彼は、彼女の行動や履歴を調査し分析した結果、自分のカンに間違いないと確信した。
 元坂はさっそく知人が発行している雑誌に、この件について書いた記事を持ち込んだ。
 本来ならば、それなりに注目されただろうが例の“スキャンダル”によって吹っ飛んでしまった‥。
「彼女、ええと輝田星香さんだっけ、自首したんだし、まずは保護すべきだろう。調べた結果、日本人でなくても彼女から情報を聴き出すことは出来たじゃないか」
「俺もそう思うよ。何も追い払う必要は無いだろうに」
 最初の料理が運ばれてきた。チーズピザのようなものだった。
 元坂が一片摘んだ。
「今回の件で思ったんだけど、政府も拉致問議連も拉致被害者を助ける気があるのか、というか彼らは拉致事件をどのように考えているのか分からなくなった」
「具体的に言うと?」
 元坂が先を促す。
「最初から輝田さんは受け入れる気が無いのがありありと分かったんだ。身元確認云々は置いても、被害者救出運動に支障が出るとか、外交に於いて我が国の国益を損なうとか、よくもいろいろと理由を考えたものだよ」
 ここまで言うと竹山もピザを口に入れた。
「いくら女優として良い暮らしをしていたとしても彼女が幸福だったとはいえないだろう。工作員になったのだって彼女の意思とは無関係だ。これらが運動にマイナスになると言うのなら、そうならないように努力するのが我々議員や関係者の義務ではないか!対中国、対ロシア外交が面倒になると言うのなら、それを解決するのが外務省の仕事じゃないか! どれもこれも一人の国民を犠牲にする理由にはならないだろう」
 じっと耳を傾けていた元坂が口を開いた。
「君も気付いていると思うが、これらは表向きの理由さ」
「やはり金絡みか? 或いは何か弱みでも握られているのか?」
 かつて与野党を問わず、国会議員の大半が総盟から献金を受け取っていたといわれ、今も一部の議員が間接的に受け取り続けているらしい。
「まぁ、そんなところかも知れない。建前はともかく、皆、現状維持を願っているのさ」
 元坂は呆れたというような口調で話し続ける。
「なまじ事態が改善してしまったら仕事にならない人間が結構いるからな、今の日本には」
「拉致問題を前面に出して当選した議員とか、公安関係者や北を相手に小金を稼いでいる連中、いわゆる市民運動家や…」
竹山が思いつくまま上げる。
「そんなのは物の数ではないよ。もっと大物がいる。北の政権が変わって拉致問題が解決したり、北朝鮮自体が崩壊し、その結果、東アジアが安定したら兵器が売れなくなるじゃないか」
 元坂がニヤリとした。そして話を続ける。
「米国の国力からすれば北朝鮮なんて簡単に潰せるさ。それをしないのは、あの国が必要だからだよ」
 竹山はまた溜息をついた。
「日本国内にも韓国にももしかすると中国やロシアにも彼らと利益を共にする者がいるかも知れない」
「そうだな」
「だとしたら、日本の、いや韓国や東南アジア、その他世界中の拉致被害者やその家族は堪らないではないか! 一介の庶民の存在なんて、やはりその程度のものなのか」
 竹山は絶望的な気分になった。自分や外川サトミの力ではどうにも出来ないだろう。
「所詮、俺は何も出来ないのか」
 彼は自身の無力さを実感した。脳裏には、拉致被害者や特定失踪者たちの家族の面影が次々と浮かんだ。こうした人々に“諦めろ”などとはとても言えない。
 苦悩の表情を浮かべる竹山に元坂は静かに言った。
「目に見えないウイルスは巨象だって死に至らしめることが出来る。小が大に勝つ方法もあるんじゃないか?」
「そうだね。とにかく諦めてはいけないんだ。我々が諦めて手を引いた時、拉致被害者たちの存在が消えてしまうんだ」
「うん、まだまだ方法や手段はあるはずだ。考えよう、知恵を絞ろう」
 この時、何皿目かの料理が運ばれてきた。山盛りのポテトフライだった。
「腹が減っては戦は出来ず、食べようぜ」
「そうだね。ビールも頼もう。まずは体力をつけて」
 ビールがきた。それぞれのグラスに注いだ。
「拉致被害者全員奪還」
「特定失踪社全員奪還」
二人はグラスを高く上げた。


Epilogue

  初秋のある夜、日本海某海岸―
 中年女性が一人で砂浜を歩いていた。秋とはいえ、まだ蒸し暑いため夜風にあたろうと散歩に出たのだろうか。
 適当な場所を見つけて彼女は腰を下ろした。ショルダーバッグからラジオを取り出すとイヤホンを耳に付けた。
“こちらは「さざなみ」です。日本東京より北朝鮮にいらっしゃる日本人及び日本にゆかりのある方々に向けて日本語で放送しています…次は、被害者御家族のメッセージです。今回は太刀川希枝さんの弟である太刀川正希さんからです……希枝ちゃん、お元気ですか?こちらは皆、元気です……”
 女性は涙を流した。だが、前方よりぼんやりとした灯りが見えると涙を拭い、ラジオをその場に捨てて立ち上がった。
 彼女は灯りの方に向かって歩いて行った。
「船が着いた」
 男が彼女に言った。朝鮮語だった。
「分かった」
 彼女も朝鮮語で応じた。そして、二人はその場を去って行った。

“…希枝ちゃん、絶対に助けに行くから、どうか身体に気を付けて待っていて下さい”
 イヤホンから太刀川正希の切々とした声が漏れ出ていた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?