モテたいモテない三十路

僕はモテない。
あんまりにもモテないので、モテに関する本を読んだりしていた。
やれ清潔感、やれ会話術。はては金の稼ぎ方や、性の指南書まで。
そして、気付いたのが惚れられるという意味での「モテ」をしたところで、僕の欲しい物にはならないなということだった。

結論から書くと、僕が欲しいのは家族であった。
家族というのは帰る場所であり、生活共同体であり、自らの強い意思でもって、お互いの事を諦めない存在だ。相手のために血を流す覚悟をもつ必要があり、自分のために殴ってくれる人である確信が必要だ。
良いところがあるから好き、害が無いから安心できる、自分にとって得があるから側にいる、そういった打算が無い関係である。
もちろん、背中を預けられる関係性になる前段階として相手に好意を持ってもらうこと自体には意味がある。
しかし、最初からゴールをそこに置いて行動するのも虚無だなと思ってしまうのは、自分が家族が居て、ペットが居て、友人が居て、人と仕事をしているからかもしれない。

「モテること」はあえて極端に書くと人に嫌われないことに終始する。
嫌われないように話し、嫌われないように行動し、嫌われないように距離をとる。
それは、なんという覚悟の無さか。
自分に対しても、相手に対しても一切の責任を負う気のない、聞こえがよく、気持ちのいいぬるま湯だ。
生きた人間を前にして、あまりにも覚悟がなさすぎると感じてしまうのは、マチズモだろうか。

現代日本では、孤立しているのに孤独になれない事がある。
生活をともにする人が居なくてもネット上に気の合う人はいるからだ。
死ぬのを物理的に止めてくれはしないが、言葉で止めたり、インターネット上で悼んだり、VRで葬儀をあげてくれるかもしれない。
今餓死しそうだという瞬間におにぎりをくれたりはしないが、アマゾンで欲しい物は送ってくれる。
自分が間違っているときに教えてくれたりはしないが、同調だけはしてくれる何千、何万人がいる。
これは良いことでもあり、怖いことでも有る。
一時的に救われることで、助かる命ももちろんあるだろうが自分が本質的に一人であることを忘れてしまうのは、やるべき対策が遅れることに繋がる。
みんなもこう言ってるじゃないか、のみんなは隣人のことは指さない。

僕は怖がりなので、自分が致命的に間違うことがとても恐ろしい。
自分が聖人でもなければ、間違わない人間でも無く、決して有能ではないことを知っているからこそ、出来る限り間違わないようにしようと思って生きている。それでもやはり毎日のように何かを間違う。
間違った選択をしてはいけない、正しいこと以外してはいけない、とは決して思わないが、その時は外れているに自覚的である必要はある。
正解でないと理解した上で、自分でどうするかを選べることに意味があるのだ。
間違っていることに気づけ無いままでは、責任の所在が不明瞭になる。
その時に最も怖いのは同調から来る驕りであり、誰にも指摘されなくなることだ。モテはそこにつながるという気持ちがある。

今も僕はモテたいと思っている。
思っているが、本質的には「モテ本」に書いてあるようなことではないという自覚もある。他の言葉が浮かばないので、このまま行くしかないが…。
モテは一朝一夕では到達できないらしい。
僕の定義のモテはなおのことだろう。
表面上ではなく、時間をかけて、心を配って初めて到達するモテなのだから。
とはいえ人生は長い、無理せず頑張っていこうと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?