「まだ舞います」(大久保綺更 跳躍・106代副将)
長い期間私の頭を悩ませてきた引退ブログの締め切りがとうとうやってきました。
同期の皆さん素敵なブログばかりですね。
普段ふざけていて適当そうな部員が真面目に書いていると、
普段真面目な感じでやっている私たちはどうすれば良いのか。
ふざければ良いのか。困っちゃいます。
どうもこんにちは。環境情報学部4年大久保綺更です。
名前は2月(如月)生まれからきています。
勝負飯は牛タン、家では意外とぐーたら人間です。
いやーこれまで引退ブログで"つらつら"を使ってきた人たちがいましたね。
(本日同時に公開の彼女も因縁の"誰か"にのっかり使ってますが。)
私が諏訪研の話を沢山するばっかりに、すみません。
スルーしてもよかったんですが、折角なので勧誘を・・。
皆さん諏訪研競走部への入部、お待ちしております。
さて。
私も陸上人生を振り返っていこうと思います。
怖い、変人等言われ続け、
最後まで人間味のない副将だったと思われ引退するのは悲しいので、
最後の足掻きの場ということで、
このnoteで"ああこの人も同じ人間だったんだな"と思ってもらえることを期待します。
そんなこと最初から思ってないよと思ってくださる方々、大好きです。
先に謝っておきます。長いですごめんなさい。
「人生の分岐点」
私が陸上を始めたのは中学生からです。
小学生の頃に一番に選択肢として考えていたのはダンス部でした。意外ですか?
ただ私は当時アクロバットやダンスを習っていたため自分の中では必然でした。
そんな私が中学に入り最終的に陸上部を選んだ理由は、
「習い事を本格的に続けるために、休みやすそうな個人競技の陸上部に入る」
というものでした。陸上に対してなんとも不誠実ですね…。
しかしその後、顧問の先生の熱量と丁寧な指導、同期に恵まれ、
また、週5日練習しなければならない状況に半分流され、
5月の習い事の発表が終わった時点でしばらく習い事からは離れ部活動に専念する選択肢を取りました。
中1,2では100mH、
中3から始めた4種競技ではあと30点のところで全中を逃し大泣きし、
最後の最後で走高跳でジュニアオリンピックに出場。
そして気がついたら習い事からは完全に離れ、
そこから10年間陸上競技中心の生活を送ることになりました。
人生の分岐点ですね。
「こんにちは棒高跳」
そこからどうして棒高跳を始めたのか。
中学顧問の一声につきます。うらちゃんみたい。
先生からアクロバットの感覚は空中動作に活かせるだろうから高校からは棒高跳をやってみたらどうだ、とお話しいただき、
棒高跳の施設がある高校だけを受験し都立富士高校に入学しました。
高校も顧問の先生と部員、そして一生ものの同期に恵まれ、
七種競技と棒高跳でインターハイに出場することができました。
目まぐるしい日々でしたが、毎日が青春でした。
ただ、高校から始めた棒高跳は思っていたようにはいかず、
競技への怖さと練習の成果が試合で出しきれないもどかしさにずっと苛まされていました。
そしてそのまま理想と現実のギャップは埋らず引退。
そんな私の頭の中には大学部活で棒高跳を専門に陸上を続ける選択肢しかなく、
猛勉強の末この大学に入り慶應義塾体育会競走部の門を叩き、
コロナ期間を上手く活用しながら大学生活に向けて心身ともにまったりと整えていった記憶があります。
「コーチとの出会い」
無事入部面談を終え、
日吉で初めて先生なしで跳躍練習をしていたら、
自分の判断ミスで失敗跳躍をし入部早々肘を骨折しました。
骨折したショックとともに、
「棒高跳はコーチがいないと無理だ、いつか死ぬ。」
そう感じたことが、コーチに直談判をし跳躍を見ていただけるようお願いする大きなきっかけとなりました。
その後コーチからは棒高について1から教わると同時に
その奥深さと面白さも教えてもらい、本当に充実した時間でした。
特に大学1,2年の間は未だある怖さと練習中七割かけ流す状況に悩まされながらも、
下を向くことを知らず、フレッシュに、エネルギッシュに練習をしていました。
コソ練もめっちゃしてました。
ああ。少し話は変わりますが折角なので。
私は大学4年間で、
「コソ練って思っている以上にやっている人多いな。」
と感じることが多々ありました。
オフ日。集合前。公園。家。河川敷。日常生活内。
あの人もこんくらいしかやってなかったし今日はもういいか、と
妥協するとあっという間に抜かされます。
なぜなら大体の人がコソ練してると考えても過言ではないから。
よくある、
その日できることを全て後悔なくやっていますか?
という問いかけは、いわゆる練習時間内のことだけではないです。
明日のメイン練習を最大限有効なものにするために、
今日準備しておくことはないですか?
できるようにしておくことはないですか?
よく、考えてみてください。
出てきた時は、"だるいな" "今家なんだけど" と思っても
取り組むことを心の底からおすすめします。
格段に競技力が上がりますし、
その積み重ねが自分の自信につながると、私は思います。
話は戻り...。週7のコソ練の成果もあってか、
大学2年の関東新人では目標の記録・順位両方達成して3位入賞できました。
有言実行した充足感と、
さわちゃんとりりこさんの心の底からの笑顔(私にはそう見えた)は
今でも鮮明に覚えているほど嬉しかったです。
「何かが壊れる」
何なんでしょうか。
コンプレックスだった自分のド下手な跳躍がある程度まとまってきてそこそこ満足したのか、
ものすごい熱量で駆け抜けた結果早々に燃え尽きてしまったのか。
はたまた全く違う別の要因なのか。
当時は自分に何が起きていたのかわかりませんでしたが、
気がついたら大学2年の冬頃から、
それまでほど、純粋に楽しみながら棒高跳と向き合うことができなくなっていました。
1番顕著に変化として現れたのは、それまで1日の練習に関して平気で3000字程度書けていたのに対して、ほとんど書けなくなってしまったということでした。
それと同時に徐々にメンタルダウンしていることにも気が付きつつも私は、
"そんな自分の変化には関係なくシーズンはくる"
"その時には部に所属している以上結果を出さないといけないんだぞ"と
弱っているところに自分自身で喝という名のプレッシャーをかけ、
自分の心に蓋をして冬期を突っ走る選択を取りました。
結果、少しずつ苛まれていった私の精神はシーズンイン後限界を迎え、
大学3年の関東インカレ1週間前、
出場選手にも関わらず高まっていく皆の前向きなエネルギーに自分の心はどうしてもついていかず、そんな自分を嫌悪し更に追い込み、
大学3年関東インカレ2日前、人生で初めて病み落ちを経験しました。
驚きでしょうか。4年生が最近使いがちな、時効ってやつですね。
それでもなお、チームの士気のことを考えたらこんな状態口が裂けても言えない、
怪我や状況に恵まれず辛い思いをしている人がわんさかいるのに
こんな状態身体が裂けても態度に出せないと思って過ごしていました。
またそれ以上に、関カレ前に弱音を言ったり態度に出したりして、
「結果が出ないかもしれないことへの保険」
と思われるのも心底嫌でした。
聞く限り負のオーラが滲み出てしまっていた時もあったようですが、
意地でも外に出さない姿勢を貫こうとしたのは、
高校時代の同期を反面教師に、自分の大学での理想像が、
何があっても何を思ってもそれを外に出すことなく負の感情無い風に生きること
であったため、それもあったかもしれません。
これが感情がない疑惑が生まれる理由ではと思っています。
(本当は感情があるという前提ですもちろん。)
私のように、
"人に相談するのはハードルが高い"とか、
常に何事もないかのように振る舞うことを理想とする部員は意外と多いのではないかと勝手に推測しています。
もしかしたらそれ以前に、
自分が今不安であることや道を見失っていることから目を逸らして、知らないふりをしている部員もいたりして。私のように。
そんなことないですかね、そんなことないのが一番なんですけどね!
もし心当たりがある人がいたら、
とにかく思ったこと感じたこと些細なことでもなんでもつらつら書き出してみると、人に頼らなくても意外と楽になったりします。
思考がクリアになって解決の糸口が出てきたりします。
まずはそうやって自分自身と向きあってみてください。
それでもだめだったら、誰でもいいです。
誰かに泣きついてください。
理想を追うのも大切ですが、まず今の自分を大切に。
私の場合は関カレ2日前にどん底に落ち切ったのが良かったのか、最終的に人に助けられたこともあり、当日には心身ともにMAX良好な状態まで持っていけたため、7位という結果と当初の精神状態は全く関係なかったということは改めてお伝えしておきます。
「106代の始まり 副将としての自分」
ここからは106代幹部としての自分を振り返ろうと思います。
そもそも私が副将に立候補した(正確に言うと主将立候補ですね)のは、
複数の部員から副将を勧められ、
1人でも私になってほしいと思う部員がいるのであればまずは立候補し判断は同期のみんなに委ねるべきだ、と考えていたからでした。
そして、選ばれた時には最後まで責務を全うする覚悟を持って立候補にのぞみました。
副将(≒主幹部/幹部)となって一番変わったことは、
自分の競技力向上に加え、
チーム全体の競技力向上にも同じくらい目を向けなければならない。
ということでした。
もう少し噛み砕くと、
自分以外の部員を見ることも重要な責務となったというわけです。
さてここで突然ですが3年生以下の皆さん。
幹部や上級生が部活中積極的にコミュニケーションを取ろうとすることに対して
"なんでだろう" "どうしてこんなに気にかけてくれるんだろう"
と疑問に感じたことないですか?
ちなみに私は大学2年の時思っていました。
自分の練習時間を削ってでも後輩の様子を聞きに来てくださる当時4年主将酒井さんの真意がわからず、
"主将だからなるべく部員とコミュニケーション取ってるのかすごいな"
と漠然と思っていました。
もちろん、コミュニケーションを取る理由なんてその時その場所その人によって変わるものなので一概には言えませんが、
私が部活内で取ってきたコミュニケーションの多くは、
本当に烏滸がましい限りですが根本に、
少しでも一人一人が力を最大限引き出せる状態にしたい、
そしてチーム全体の強さに少しでも繋げたいという思いがありました。
選手サポート関係なく、です。
特に106代幹部は同じような気持ちでいた部員が多いのではないかと思います。
そして酒井さんもまた、同じような気持ちだったのかなと、このごろはよく思い返しています。
私自身は、この思いははじめ副将としての義務感から始まったものでしたが、
約1年間106代幹部として活動してきた今は一個人の純粋な思いとしても、
競走部員全員のより一層の活躍を心の底から願っています。
しかし残念ながら、
私は、全部員と色濃く話すことも、一人一人に画期的な改善プランを提示をすることもできず、引退を迎えようとしています。
私が皆さんに与えられた影響は微々たるものだったかもしれませんが、
抱えているもやもやや漠然とした不安を少しでも軽くできていたら、
あと一つの背中を押して自信を持ち競技に向き合う手助けができていたら嬉しいなと思います。
「もう2人の存在」
ここからラストシーズンの競技の話をして、振り返りを締めたいと思います。
この頃からの一番の原動力は、
「副将として結果を出すこと、そして本気で仲間と喜びを共有すること」
でした。
リクルートスーツで足を捻挫するシーズンから始まり、最後の関カレでは3位。
出場選手の活躍、強力なサポート陣、大雨極寒の中でも冷めない応援の全てが私の力になりました。
最後の全カレでは5日前にちょっとしたアクシデントもありました。14位。
悔いなくインカレを終わらせてくれたサポート陣には感謝してもしきれません。
そんな今シーズン学んだことは、
いくら注意していても怪我する時はする
ということです。
パンチ弱い格言ですみません。でも言わせてください。
雨の日リクルートスーツ、ヒールで片手に傘、階段は雨で濡れている。
あーなんか転びそうな階段だなー気をつけなきゃ、と思いながら
まんまと転んで足捻ったんですよね。驚きました。恥ずかしかった。
怪我や体調不良で練習離脱すること込みで予定を立てろ、までは言わないですが、生きている以上いつなにが起きてもわからない危機感と、
小さな選択でさえも大きなマイナスにつながるかもしれないリスクはあるということを常に忘れないでいてほしいと思います。
ああ。タイトル回収し忘れるところでした。
ラストシーズン乗り越えるに当たって私の中で勝手に密かに心の支えにしていた人が2人いました。
ここでは名前は伏せますが、
タイミングを見つけて直接、ありがとうを伝えに行こうと思います。
「棒高跳、好き?」
最後に。
私は約10年間続けてきた陸上競技、約7年間続けてきた棒高跳に対してこれまで「好き(=らぶ)!!」と声を大にして言うことはありませんでした。
私が"らぶ"なのは、小学生時の習い事ルーツから来ているエンタメです。
それは10年の時を空けてもなおやっぱりエンタメに関わりたいと思い直し、
エンタメ業界に絞って就活をしたところからも滲み出てると思います。
一方周りの部員から、
「綺更ってぼうたか好きだよね」
と言われる回数は多かったと記憶しています。
恐らくそれは、
私が練習中棒高について話す熱量や練習にかける時間等々から
何かしらが無意識のうちに滲み出ていたからなんだと思います。
ええ。
らぶでないにせよ、
棒高跳に深い愛を抱いていることは間違いないです。
私は多分棒高跳から、
命をかける怖さも、跳べた時の嬉しさも、
うまくいかないもどかしさも、怪我をさせられる悔しさも、虚無になる感覚も、
でもやっぱり楽しい純粋な気持ちも、
色んな感情をもらってきたことで、
単純に"好き"という言葉だけでは表現できなくなってしまったんじゃないかと思っています。
さて。
そんな私の棒高跳への愛は、
"引退後も競技を続ける(期間限定で)"選択肢を取ったところからも察しがつきますね。
全カレ前後から約2ヶ月、
「引退後どうするの?競技続けるの?」
という質問には全て
「未定」
の一言で返していましたが、結果はこれです。
来年の東日本実業団(出場できれば日本選手権)まで競技を続けます。
引退を境にそのままやめようとも思ってましたが、
全カレから約1ヶ月、そこそこに自由な時間の中で、
もう見なくても良いはずの棒高の動画を気づいたら見ていて、
あーしたら良くなりそうと考え純粋に楽しんでいる自分に気づき、
また、
全カレ5日前に怪我をするという区切りの無さもあり、
パキッと終わりを決めて棒高跳とお別れしたいと思い決断しました。
決して府中にけしかけられたからではありません。とりあえずまた半年よろしく。
長くなりすぎましたね。
ここまで読んでくださった方、最後までお付き合いいただきありがとうございました。
ということで私は、
「まだ舞います」
また会えるかもしれないですね。
その時は暖かく迎え入れてくれたら嬉しいです。
これにて!私の一旦の陸上振り返りを終えたいと思います。
P.S.最後の最後に。めっせーじでも。
1年生!!
入学当初からキラキラしていてフレッシュで、男女ブロック関係なく仲良しで、
見ているだけで元気をもらえました。
またそれだけではなく、競技、サポートに対して全力で、かつ楽しみながら貪欲に取り組んでいる姿は、間違いなく競走部全体に良い風を吹かせてくれていました。
本当にありがとう。
皆さんならこれから襲ってくる年齢という敵にも負けることなく4年間突っ走ってくれるでしょう!応援しています!!
2年生!!
練習の成果がなかなか実を結ばない、怪我の連続で思うように練習ができない、そんな部員が多い代のように感じています。
そんな中でも、絶対に、着実に、私が見ていてわかるほどには皆さん強くなっています。断言できます。
そしてさらっとスマートに競走部のためにと動いてくれる部員が多く本当に助かりました。ありがとう。
大学陸上生活残り半分。悔いのないよう、毎日を踏みしめていってほしいと思います。応援してます!!!!!
3年生!!
107代がいよいよ始まりますね。私は楽しみで仕方がないです。
一人一人競技に対する思いが強く、個性も強く、この代が(いい塩梅に)結束したら本当に最強の競走部になるだろうと、そんな風に勝手に思っています。
競走部の中では大学最高学年となりますが、心強いOBOGはわんさかいます。
よくわからなくなったらとりあえず伊藤主将を頼りましょう!
皆さん個々の大活躍も心の底から願っています!!!
同期のみんな!!
4年間沢山ありがとうございました。
普段おちゃらけてても、どんなに適当でも、癖が強くても、
競技やサポートに向かう姿勢はうちの代が一番カッコよかったし輝いていたと胸を張って言えます。本当にみんなカッコよかった。
そして、本当にお疲れ様でした。
でも実はまだ人生80年ほど残っているようです。大丈夫そうですか。
みんな定期的に近況報告してくれないかな〜と結構マジで思ってます。
どんな大人になっているのか今から楽しみで仕方ありません。
ということで中野、節目節目でのご飯のセッティングどうぞよろしく頼みました。
河野さーん!!
これからもリクルート頑張ってください!!!
応援しています!!!
ますちゃーん!!
競走部つらつら終わっても薬学部つらつらと日常つらつらはできるからね!!!
それでは!!!!