「述懐」(藤永祐利 サポート・マネージャー/主務補佐)
こんにちは。マネージャー/主務補佐だった藤永です。
昨日予選会が終わり、その結果を受け止めて、「やっと終わった」という想いです。
入部当社は引退なんか見えませんでしたが、振り返ってみると、この3年半はあっという間でした。私自身はこの1年間幹部として、おそらく3度ほど幹部Noteを執筆しており、集合でもその都度皆さんに発信する機会があったので、あらためて皆さんに伝えたいことは実際あまりありません。先日の最後の集合でも、その旨お伝えさせていただきました。
一方で、そのNoteや集合でも、語る上での前提は「幹部」としてですから、その時に部にとって必要だと思うことを考えて話しているので、自身の正直な想いを100%乗せることは不可能だと思います。よって、本稿では自身の正直な想いを書き綴ろうと思いますので、興味がある人はご一読いただけると幸いです。
<序章:予選会お疲れ様でした>
と言っても、いきなり自分語りを始めても気持ち悪いと思うので、まずは昨日の予選会に触れておきたいと思います。結果としては悔しい結果に終わりましたが、106代の時から同じく幹部だった田島をはじめ、合宿所という一つ屋根の下で暮らす長距離ブロックの仲間たちが力強い走りを見せてくれて、感動しました。退寮が迫っており、みんなと暮らす時間もあと僅かという現実を突きつけられて、悲しい想いです。合宿所で生活していなければ、長距離ブロックのみんなが朝早く(キム兄が朝練のために3時くらいに起きてきたこともありました)から夜遅く(当然早く寝る人もいますが、就活やケアなどで)まで血の滲むような努力を重ねているのを知ることはできませんでした。超個人的には、島田亘と渡辺諒は試験期間中、一緒に食堂で勉強する後輩たちだったので、これからは一人で勉強しないといけないのかと思うと、寂しいですし、昨日の走りには感動しました。君たちは次がある存在だと思うので、胸を張って、次に向けて頑張ってください。応援しています。
<本章①:入部〜2年生になるまで>
さて、そもそもなぜ私は競走部にマネージャーとして入部したのでしょうか。「なぜ競走部?」の部分は意外と簡単で、陸上を続けてきたからです。もっと言えば、私の同期の多くは、高校3年生の時に、コロナの影響を受けて、総体路線がなくなった人たちで、陸上に対する未練がありました。ただ、その一方で、大学で陸上を続けられる、あるいは戦えるような実力はなく、選手として続けるのは、高校3年生の時に大会で出せていたかもしれないと思われる記録と総体路線がなくなったことによって長くなってしまったブランクの長さを考慮すると、やはり難しい選択でした。それくらいに考えていたので、「競技者として陸上を続けるのであれば、同好会でいいや」と考えていました。
ただ、これでは「なぜマネージャー?」の部分には答えになりませんね。「なぜマネージャー?」の理由はいくつかありますが、一つは吉野の存在です。「おやおやタイプミスしたのかな?」と思ったそこの貴方、タイプミスではありません。もう一度言いましょう。吉野です。どういうことか。私はありがたいことに指定校推薦で慶應への入学が早期に決まっていましたが、彼もFIT入試で早期に入学が決まっていた一人でした。そんな二人がTwitterで繋がり、二人とも競走部に興味を持っていることを知り、私が2021年3月末に上京した際、自由が丘のパスタ屋さんで初対面を果たします。具体的に何を話したかは正直3年半前のことですので、あまり覚えておりませんが、①サポート(特にトレーナー)としての入部を勧められたこと笑②楽しみな同期がその時点ですでにいることは覚えています。ですので、吉野は意外にも僕の初めて会った競走部員ということになります。完全に余談ですが、昨日、そんな吉野のNoteを読んで、ただ衝撃を受けました笑。気になる人は昨日の吉野の特に述壊パートを読んでみてください。
そして、「なぜマネージャー?」の理由のもう一つは「何かを運営すること」に興味があったからです。事実、競走部のInstagramのDMに「組織を運営することに興味があります!」みたいな文章を送った覚えがあります。この部分を「なぜ?」と深掘ると長くなりそうなので割愛しますが、最初は、というか最初から主務系に興味がありました。「なぜ主務系?」の部分は入部当初からあったので、気持ちさえ変わらなければ、主務系にいることは私にとって必然の選択でした。しかしながら、前例がないということでマネージャーとしてのキャリアが始まりました。これも余談ですが、最初に見学に来た私をもてなしてくれたのは、恒さんと武田さんでした。(恒さんが引退してからはや1年。「こう」と打ったら、「恒」とパッと変換されていましたが、打つ機会も減り、変換に時間を要しました。)
入部の経緯を語っていたら、約1000字も使っており、焦っていますが、このまま進みます。このマネージャーとしての入部は全く間違いのない選択だったと思います。普通に考えて、サークルの雰囲気に馴染めるとも思いませんでしたし、「入るなら体育会」と思っていたので。そうして始まった競走部生活1年目はとても楽しかったですが、正直に言うと、1年生の頃のことをあまりもう覚えていません。それくらい莉々子さんの背中に追い付きたくて、仕事をがむしゃらに前向きに、時に選手と走ってみたり、部室にずっといたりしていました。今でこそ主務系を含め107代サポートは多くの人がいますが、実を言うと、最古参は内藤、吉野、そして私の3名のみ。これまでのサポート体制を振り返れば、さすがにこの3人だけではみんなを乗せる船さえ作ることはできなかったと思います。この1年目を振り返って特に後悔はありません。
<本章②:2年生から〜3年生になるまで>
2年生になりました。後輩もできました。
この頃から、合宿所にいたイベル、岩井、三輪、そして、豊田、加賀見さんとの関わりが増えます。とにかく彼らとの関わりは密度が高く、多くのことを学ばせてもらったし、刺激的な時間でした。下級生ながら、競技力でチームを牽引する活躍する彼らに負けじと、「自分も成長しなきゃ」「彼らと物理的に肩を並べられないけれど、仕事の力量では肩を並べたい」という想いが芽生えました。1年生の頃は、あまりそういう気持ちはなく、先ほど述べたようにただ先輩の背中をがむしゃらに追っていただけで、かつただ漠然と誰かの役に立っている、立っていたい感情だけで動いていたような気もするので、自我を持ったのがこの時期とでも言いましょうか。また、これまでの自分の人生を振り返ってみても、意外に思う人も思わない人もいるかと思いますが、全く自己主張がなく、基本的にどっちでもいいし、なんでもいいし、他人のお気持ち優先の人生だったので、「自分がこうなりたい」という気持ちを持てたことは、よかったと思います。誰の人生でもなく、自分の人生なので。このあたりの自分に敢えてコメントするのであれば、「これまでの自分らしくいてもいいよ」ということでしょうか。上級生になった今、後輩たちを見ていて、1年目の自分のままでも十分によかったし、出せる価値があったと思いますからね。あくまで自己分析の域を出ませんが、この頃から自分が「変わり始めた」と思います。
さて、7月から主務系に入りました。同時に数回ほど105代の幹部運営を見るようになりました。今では私を含めて3人の主務系も最初は、竹内、吉川に加え、横田がいたことを忘れてはいけません。105代の幹部運営を見たことで、組織運営の最前線がそう甘くないことを知りました。150名ほどのチームをまとめるための施策や部が抱える問題を解決することは容易では当然に容易ではないことが想像できますが、実際に中の人になってみると、本当に難しく感じます。
この年、前年の経験をもとに、日本選手権や東京都国体予選、実学対抗、トワイライトゲームス、跳躍合宿などを任せていただき、いろんな舞台を経験させてもらいました。これらのほとんどは豊田に見せてもらった景色であり、サポートの先輩方に任せていただいた舞台でもあります。この年に限らず、また、豊田だけではなく、先輩後輩関わらず、いつも私にいろんな景色を見せてくれた選手の皆さん・サポートの先輩方にとても感謝しています。
また、2年生の夏頃から部分的にではありますが、チーム山縣に関わり始めます。ここではトップアスリートの考え方やそのマネジメントを学ばせていただきました。また、マネジメント領域を担当する一人のプロフェッショナルとしての立場を学び、競走部の活動でも、一人のプロフェッショナルであるということを意識するようになりました。本筋とはあまり関係ないのですが、自身のマネージャーとしての価値観を形成する活動の一つとして、触れさせていただきました。山縣選手やセイコーの皆さんをはじめ、様々な方々との関わりを通して、成長することができたと思います。この場をお借りして、感謝申し上げます。
10月には、代交代を迎え、主務補佐として、幹部に正式に入ります。
早慶戦の翌々日から2日間かけて、先輩方とチーム構想についてミーティングをしたのは今となっては懐かしいですし、107代はこういうことをじっくり時間かけてやるべきだったのかもしれないとも思いますが、今となっては後の祭りですね。
<本章③:3年生から〜107代発足まで>
時間は一気に2023年4月。時間が結構とんだのは、単純に本稿の公開までに時間がないからです。気が向いたら、足りない部分を補足しておきます。ここは自分にとって、かなりのターニングポイントでした。今の1年生は知らないと思いますが、2023年4月に、慶應が幹事校で、国立競技場で六大学を開催いたしました。かなりのハードワークを強いられましたが、OBOGはじめ慶應の一体感、慶應主務チーム(当時は恒さん、竹内、吉川、私の4人)の一体感を感じました。開催の2ヶ月前の2月初旬、やっとのことで国立開催の合意を取り付け、様々な方々のご協力をいただき、2ヶ月という準備期間の中でなんとか大会を成功させることができました。自分が果たした役割は全体で見れば、あまりに小さなものですが、この時味わった達成感を忘れることはないでしょう。加えて、開催前日、というか当日の深夜、小雨が降り、寒さもある中4人で食べた「どん」の味もね。
あまり言いたくないのですが、
ここが自分の競走部での最高到達点だったのかもしれません。次。
<本章④:107代発足から〜引退まで>
本音で語ると言ったので、嘘は書きません。
後輩の皆さん、ネガティブなことを書いているので、以降は読まなくていいです。
苦しかったです。辞めたかったです。いつしか競走部が嫌いになりました。冒頭に「やっと終わった」と書いたのは、ここで伏線回収です。
タイトルの「述懐」も伏線回収。
2023年4月の六大学運営を最高到達点としているのも、短めの伏線回収です。
「いい代になるんだろうな」という想いで代交代。
競技場改修で練習場所はバラバラになってしまったけど、走り出しも悪くない。ただ、12月末から年明け、そして今でもその尾を引いていますが、自分の中にあった他者への信頼を揺るがす出来事がありました。詳しくはもう触れませんし、詮索もしないでほしいですが、自分にとってはとても大事で看過し難いものでした。以降、信頼していた仲間たちを信じられなくなり、言葉を交わすこともやめました。普通にこの組織にいる理由はないと思ったので、退部することも視野に入れていました。その当時の自身の能力や環境が自身によってのみ構成されていた訳ではなく、周囲の手を差し伸べてくれる方々によって形成されていたことは自分が一番わかっているということを申し添えておきますが、競走部でなくても、自身がやりたいことをできる環境が揃っていました。これは競走部を辞めたいと思った積極的な理由ではありませんでしたが、信頼なき組織にいるよりは、競走部という枠を飛び出しても自分のやりたいことができる環境が揃っているのであれば、敢えて信頼なき組織にいる理由は見当たらないと思っていました。また、当初より、この競走部には、人が新しいことに挑戦することに不寛容な空気が漂っているとも感じていました。当然、組織の枠に収まりつつ、という条件の下に挑戦があると思うのですが、それを加味しても、どこか挑戦に不寛容な空気があることは否めません。そんな空気が嫌いでした。
でも、辞めませんでした。
理由の大きな部分は、おそらく合宿所に住んでいたから、だと思います。
なんとなくですが、もし一人暮らしをしていたら、普通に退部していたかもしれません。ある意味で、合宿所という住居が競走部と私を繋ぎ止めたことになります。合宿所に住んでいて、部の仕事を放棄するわけにはいきませんし、それは同部屋の三輪(以下、颯太)と松下(以下、烈)はじめ、競走部のみんなを裏切ることになると思ったからです。正直、気が向かない日が多かったのは事実ですが、颯太や烈を見て、自分も頑張らなくてはと自分を奮い立たせて、集合に向かっていました。よく「颯太と烈と藤永の3人部屋の想像がつかない」と言われますが、至って普通の生活を送ってきました。烈が入寮してきた頃は、烈が寝るのが早すぎて、というか健全な時間に就寝していた、颯太と顔を見合わせていたというか、普通に驚いていました笑。各々、自分のことを何かやっている感じの部屋で、今となっては、この生活じゃなくなるのも想像がつきませんが、頑張って生きていきます。何をする訳ではありませんでしたが、この3人での生活が自分はとっても好きだったし、楽しかったです。2人ともありがとう。特に颯太は6号時代から考えると、かなりの時間を過ごしました。
そんなこんなのモチベーションだったので、2月のオーストラリア合宿、3月の沖縄合宿以降、合宿や準公式戦相当以上の試合帯同はすべて裕佳子か後輩に行ってもらいました。おそらくこの気持ちで選手を最前線でサポートすることはできないと思ったのと、もう一つは自分が下級生の時にいろいろ任せてもらえたことで成長することができたという経験から、後輩たちにいろんな世界を知ってほしいと思っていたからです。そのために、自身は日吉帯同やその他の競技会の帯同に徹していました。2年目や3年目は「自身の成長」が軸として先走っていましたが、この1年は「サポートチームとしての最大のアウトプットを出すこと」を自然と意識しており、後輩たちがそれぞれの機会で何かを学び、感じていること願ってやみません。結局どんな試合もサポートの誰が行ったって結果は大きく変わらないですし、そんなことわかっているのだから、もっと早くそれを意識できる上級生になりたかったです。
<最後に>
これまで関わってくださった皆さん、本当にありがとうございました。
特にサポートで関わった皆さんには御礼を申し上げたく思います。
<サポートの先輩方へ>
先輩方には「出る杭」でしかない私に寛容に、そして時に厳しく、それでもやっぱり優しく、いろんな機会を任せていただきました。あらためて感謝申し上げます。
<サポートの同期へ>
協調性の欠片もない筆頭ですが、君たちも中々に協調性はないと思います。最初は3人だったけど、最終的には人数も増えて、楽しかったです。
<サポートの後輩へ>
特に全体マネージャーの後輩、全く「先輩」ムーブをしてないし、絶対こいつなんだよって思っていたと思いますが、これまでありがとう。みんななら、我々よりもさらにいいサポートチームになれると思うので、これからも頑張ってください。
<選手の皆さん>
先輩方、同期、後輩、いろんな景色を見せてくれてありがとうございます。少しでも皆さんの競技力向上のお役に立てていれば、それより幸せなことはありません。
あらためて、関わってくださった皆さんに最大級の「ありがとう」と「これからもよろしくお願いします」を表して、脱稿としたいと思います。
最後までお読みいただいた方、本当にありがとうございました。