「主語」(木部湧斗 短短)

短短ブロック4年の木部です。今まで本当にお世話になりました。
「一部員の存在意義」みたいなテーマについて自分の競走部生活を振り返りながら綴ってみました。
読む価値があるかは分かりませんが、興味がある方は結の部分だけでも読んで頂ければ幸いです(起承転の部分は長いし恥ずかしいので)。

競走部で自身の存在意義について悩む人はどれくらいいるんでしょうか。意外か見かけ通りかわかりませんが、私はこの手のことでかなり悩んだ人間です。
「競走部の一員でありその恩恵を受けている以上、部員は部にコミットしなければならない」というのは鹿又監督のお言葉です。
元々の競技力も高くないのにブランクを取り戻せなかった1年生のシーズン、
ようやく満足に積めた冬季練の成果を見ることなく突入したコロナ期間、
言い訳せずに練習を続けた人たちと大きく差がついたコロナ明け。
自分に失望して存在意義を見失っていました。

ちょうどこの頃、私は主務系に携わるようになりました。
誰かが必ず引き受けなければならない仕事・責任であって、その誰かが自分でない理由がないと思ったからです。
一方で今思えば、自分の存在意義の保証が欲しいという邪な気持ちがあったのではないかと意地悪く勘ぐることもできます。

その後、コロナ禍で完全に諦めていた留学に関してチャンスが転がってきてしまい、私は留学を優先しました。
一度引き受けた仕事を無責任に放り出してしまうことや、それによって周りに迷惑がかかることに対して、罪悪感が拭えず常に怯えていました。
それを解決できないまま留学に行き、そして帰ってきて、再び受け入れてもらってからも、自分がここにいて良いのかずっと自信を持てませんでした。
(留学はとても良い経験でしたが、競走部員としての自分の問題がそれによって解決するわけではありません。)

早慶戦の前、トラック最後の公式戦必ず勝ちに行こうという意志を4年生で再確認しました。
その中で、僕自身の競走部生活は胸を張れない点が多々ありましたが、みんなの4年間は否定されたくないという気持ちが強くあることに気づけました。
そこには、自分が部からどう思われているのか、などといった「自分」を中心にした考えはありませんでした。
最後にしてようやく、くだらない自意識や自己中心性から解放されて、チームの一員になれたような気がしました。

「自分の存在意義について悩む人」というのは視点が自分に集中しがちな人だと思います。
早慶戦の後に細井が言った「半径を1m広げよう」というのは、主語を広げようということだと僕は解釈しています。主語が「自分」だったところが、主語が「自分たち」「チーム」に自然に置き換わるということ。誰かの自己ベストを自分のことのように喜べること、誰かの悩みに自分のことのように向き合えること、誰かの仕事と割り切るのではなく自分が動いてみようかと思えること。

やや話を美化しすぎというか、当たり前の事を大袈裟に綺麗事っぽく書いてしまいましたが、私からは以上です。こんなくだらない悩みを抱えることなく、皆さん一人一人が競走部の一員であれることを、祈っています。

最後に、同期へ
この代の一員でいられてよかった。ありがとう。

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