「いくしかないよ(長いです)」(大原伊織 中距離)
せっかく陸上人生を振り返る機会をいただいたのと、今が一番新鮮だろうということで、将来見返す用も兼ねて本当につらつら書こうと思います。興味のある方だけチラ見してくれたらうれしいです。
回想
幼稚園
幼稚園のマラソン大会の順位を覚えている人は一体どれくらいいるんでしょうか。僕ははっきりと覚えています。年少ビリ、年中一位、年長一位です。何があったかというと、デビュー戦はスタート直後に盛大に転び泣きながら先生に手を引かれてゴールしたためです。その悔しさから翌年以降は幼稚園児には珍しくマラソン大会に向けて練習をするという反則を犯して二連覇を果たしました。負けず嫌いの片鱗がうかがえます。
小学校
三つ上の兄が陸上をやっていた影響で小学一年生から陸上クラブに所属しました。始めの大会は50m走で同じクラブの同級生に0.1秒差で敗れました。(自分が10.2秒、彼が10.1秒でした。)そこから彼とのライバル関係が始まりましたが最後まで短距離では一度も勝つことはできませんでした。ところが長距離種目になると彼に勝つことができたんですね。これが自分が長距離にハマったきっかけな気がしています。
静岡県市町対抗駅伝との出会い
静岡県には市町対抗駅伝という42.195kmを小学生区間から40歳以上区間の合計12区間で繋ぐ大会があるのですが、小学二年生の時にその沼津市チームの練習会に参加したところから陸上への熱はみるみる高まっていくことになります。そこには自分より年上で足が速い小中学生、高校生、大人たちがたくさんいました。初めは自分が最年少であったこともあり、年上のお兄さんお姉さんたちやおじさんたちに大変かわいがってもらいました。誰かに負けるとすぐに泣いてしまうところが特にかわいがられていたようです。それはさておき、小学生の間は40代、50代のおじさんたちが自分にとって絶好のライバルになりました。4,5倍歳の離れたライバル達と日曜日朝7時から松林のランニングコースで、どこで仕掛けようか必死に頭をめぐらせて競り合う日々を通してどんどん長距離の楽しさにのめりこんでいきました。
そして迎えた小学6年生、憧れだった市町対抗駅伝に小学生区間の代表選手として出場することが叶いました。沼津市の小学生選考会の歴代記録を塗り替え満を持して臨んだのですが、当日は緊張のあまり全く自分の思うような走りができず、苦い思い出となりました。あとで動画を見返すともうあり得ないくらい前傾して別人のようでした。
中学校
もちろん陸上部に入部しました。当時の夢は箱根駅伝だったので3000mに挑戦する気満々でしたが、成長期に過度な走り込みをさせないという顧問の先生の方針でまずは800mと1500mから始めることにしました。スピードがあれば距離が伸びても武器になるという先生の言葉に自分も共感したためです。それから800m1500mの魅力にのめりこんでいくも全国の舞台は遠く中学3年生の年は県大会出場にとどまりました。
引退後何の気なしに貧血検査を受けるよう顧問の先生に促されて病院を受診したタイミングで心臓病が見つかることになります。日常生活を送る分には薬を服用すれば問題ないが、陸上を続けたいのなら手術する必要があるとのことでした。自分は迷わず手術することを決めました。なぜなら自分には陸上を続ける理由が多すぎて、続けない未来は想像できなかったからです。高校で活躍する兄の姿や、将来の夢である箱根駅伝、当時一緒に練習していた隣の中学のライバルが全中で優勝したこと、等々。それらの全てが自分の背中を押してくれたおかげで手術に踏み切りました。無事成功して今では完治しているので心配はご無用です☻
高校
もち陸。始めは手術直後であったことから過度な練習は控える必要がありましたが、夏からは何の制約もなくまた大好きな陸上に打ち込めるようになりました。しかし、ここでも顧問の先生にまずは800m1500mから始めようといわれ、2分を切ったら5000mに移行するというプランを掲げてミドラーとして練習をしていくのでした。
高2の春念願の2分カットを果たすのですが、偏平足で長距離走ると足底が痛くなってしまうことや、冬季顧問の先生から「こういう言い方するとあれだけど長距離のセンスはないのかもしれないなぁ」と自分自身薄々感じていたことを言われたこともあり、そのまま800mを本業として取り組んでいくことになりました。その頃には既に800mの魅力に取りつかれていましたし。
その後高校二年の県新人では東海大会進出のボーダーである6位と0.01秒差の7位に沈み、その悔しさから冬季間猛練習するもコロナでインターハイは消滅してしまったのでした。代替大会まで続けるという選択肢もあったのですが、休校期間に受験勉強に取り組み始めると将来のことを考えるようになり、こんな中途半端な気持ちでは自分のしたい陸上はできないと思い、悩みぬいた末に部活を引退することに決めました。顧問の先生と泣きながら気持ちをぶつけ合った末の苦渋の決断でした。
大学
入部まで
前述のように高校で部活を引退した時点では「やりきった」という想いから大学で陸上を続けるつもりは全くありませんでした。でも気が付くと受験勉強の合間に試合の動画を見返したり、毎日の補強を継続していたり、週に何日かは走りに行っている自分がいて、これは未練なのかもしれないと思うようになりました。
とはいえ大学入学後も競走部に入部する気はほとんどなくて趣味程度で続けられたらいいなくらいに思っていたのですが、それでもやっぱり気になって一度だけ見学に行ったんですね。ですが、そこで一目惚れすることになります。
自分は入部するかどうかもあやふやで競技力もさして高くないにもかかわらず、本当に温かく接していただき、また真剣に競技に取り組む姿を見て、体験入部の初日にこの人たちと一緒に4年間陸上やりたい、で、陸上を引退しても一生関わっていきたいと心を撃ち抜かれてしまいました。単純ですね。どう考えても判断が早すぎる気がしますが、今となってはそんな単純な自分に感謝しています。ナイス単純!その判断浅いけど正しいよ!
大1
もうおじさんなので大1のことはあまりよく覚えていませんが、とにかく先輩に食らいついたり平田さんや篠田と競ったりするのが楽しかったことは覚えています。
中学高校までとは違い中距離ブロックにこれだけの人が所属していて、自分より速い人だらけの環境は本当に刺激的でいろいろな発見がありましたし、目指す背中がたくさんある環境はとにかく恵まれていました。
シーズンアウト直前にPBを0.06秒更新したのも良い思い出です。同じレースを走った篠田に負けた悔しさと入り混じって100%喜ぶことはできませんでしたが。
陸上以外でも近藤さんや平田さんに作業チームとしてメディアやカフェに連れまわしていただき本当に毎日楽しかったです。
大2
自分にとって大きな転換点がありました。
一時は一切の希望を抱くことができなくなりましたが、その反面みんなの温かさに気づくことができ救われた一年でした。
シーズンインからひどいレースを連発しながらも、どうしていいかわからずただがむしゃらに無謀な設定の練習をしては垂れてばかりの負のループの中にいました。そんな時、先輩、同期、後輩が親身になって助言や激励をしてくださり、それを踏まえて一から練習を見直すと、少しずつ調子が上向きになっていき、9月に念願のPBを出すことができました。今まで出したどんなPBよりも特別で、結果で感謝を伝えられることがこんなに嬉しいものなんだな、と本当に本当に痛感しました。
大3
この年、初めて関カレを意識して冬季を過ごしました。ですが年明けから春先までのポイントの8割くらいは垂れ、試合でも垂れて標準締め切りを迎え、何もできずに残りのチャンスが一回となってしまいました。その後のシーズンは、夏に競技人生初の怪我をして合宿はバイク三昧、その後インフルエンザとコロナに一カ月おきに罹って秋シーズンも記録を残せず終わりました。
大4
正真正銘最後の年となり、今年こそは去年の反省を生かして冬季も常に関カレを意識して練習をしていて、ポイント練習もそれまでと比べるとほとんど外さず、怪我も病気も一回もせずにシーズンインを迎えることができました。周囲からも「調子が良いね」と言われることが増えてきて、自分史上一番狙える状態を作れていたと思います。しかし結果は散々で、一年前よりも酷いタイムをたたき出し、この冬の取り組みは何だったのだろうかと呆然しました。その後また今年の夏も怪我をしてしまいこのブログを書いている10月もまだ走ったり痛んだりを繰り返しています。それでもなんとか引退までに自己ベストをもう一度更新するべくもがいています。どうかこの先上手くいっていることを祈るばかりです。
生涯現役
ここまでの話を踏まえるとさぞ後悔していそうと思われる人もいるかもしれませんね。ですが自分はまだ後悔はしていません。心残りを残したまま諦めてしまえば後悔を残すことになりますが、向き合っているうちはまだ戦いの途中であり後悔とは言わないはずだからです。もしそうでなければ、大好きな陸上に後悔を残してしまったと認めることになるからです。それだけは絶対に嫌です。なので屁理屈だろうと何だろうと自分は心残りのある限り走り続けようと思います。そして走れなくなったときにまだ心残りがあるようなら、走ることとは違う形で陸上への心残りを晴らしてやろうと思っています。そのときようやく引退することにしようと思います。この節の見出しは、高校の部活引退時に後輩から贈ってもらった自分を表すお気に入りの言葉です。この言葉の通り少しでも悔いがあるうちは現役を貫こうと思います。
調子を良くする・自分に自信を持つコツ
ここまで何の参考にもならない自分の話ばかりしてしまったので、ここからは誰かの参考になることを願って調子を良くする・自分に自信を持つコツの話をしようと思います。
「調子が良い」って何なんでしょうか。
僕は大学に入るまで調子の良し悪しについて感じたことがありませんでした。感覚が鈍いと言ってしまえばそれまでなんですが、自分の場合は自分に自信がなくて「調子が良い」と思うことができませんでした。その日の練習が上手くいったとしてもたまたま上手くいっただけで調子が良いわけじゃないと思い込むようにしていました。自信がなくて自分を信じられなかったんです。自分は基本ポジティブな人間と思っているのですが、こと陸上に関してはネガティブな人間のようです。だからポジティブネガティブ関係なく自信を持てない人っているんだと思います。ですがそんな自分でも大3⇒大4の冬季に初めて調子が良いと思うことができました。
今からこんな自分でも自信を持ち、調子が良いと思えた二つのコツをお伝えします。
それは「リスペクト」と「泥臭さ」です。
自分に自信が持てない人は人から自信をもらうに限ります。でもそれは誰からでもいいわけではありません。自分がリスペクトしている人から言われるからこそ意味があるのだと思います。だから、周囲の人をひたすらリスペクトしましょう。周囲の人をリスペクトすれば一定の割合でリスペクトし返してくれます。そしたら自分が調子のいい時に「調子いいね」と声をかけてもらえる可能性もきっと高まります。その一言を手に入れることができれば自信を持てるはずです。ただし、調子には波があります。常に調子が良いわけではありません、そこで必要なのが「泥臭さ」です。泥臭くやり、折れさえしなければ、必ず調子が上向きになる時が来ます。その時を作るのは自分にしかできない仕事です。
「リスペクト+泥臭さ=自信」は万能ではないですが、こと陸上、特に慶應競走部では成り立つ理論だと考えています。ここでは互いを尊重してリスペクトし合える仲間に必ず出会えるからです。
最後に
長々と書いてしまいました。本来感謝を伝えるパートが一番重要なはずなのに、そこまでに文章を割きすぎてしまいました。なので、ここでは控えめにして、もっとちゃんとした感謝は後日自分の口で直接伝えることにします。
両親へ
共働きで二人とも大変だったに決まっているのに、試合には必ず応援に来てくれたし、練習も何度送迎してもらったかはもう数えることもできません。サポートがあったからこそ陸上に全力で取り組むことができたし、陸上を大好きになれました。ありがとうございました。
大学で出会った先輩方へ
たくさんお世話になりました。そのかっこいい背中があったからこそこの部活に入ることを決心できましたし、入部してからも少しでも近づくことを目標に頑張ることができました。また自分が思い悩んだ時もたくさん頼りにさせていただきました。ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
大学で出会った後輩達へ
みんなの前でかっこつけようとすることで強くなれた自分がいました。感謝してもしきれません。みんなが頼りにしてくれた分だけ自分も自信を持つことができたし、むしろこっちが支えられていました。ずっと応援してます。がんばれ。
同期へ
変な人が多かったですね。個性豊かでバラバラなように見えて陸上に対する熱はみんな一致していて、そんな仲間たちに囲まれていたからこそ自分も自分らしく競技をできました。周りの成長に刺激をたくさんもらってそれがモチベになっていました。ありがとう。もし自分が受け取った刺激のほんの何分の一でもみんなに送り返せていたら嬉しいです。もちろんこれからもよろしく。
陸上へ
素敵な人たちに出会わせてくれてありがとう。これからもよろしく。