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常滑市の「たんぼ」(坦𫞙)の軌跡

この記事は、愛知県常滑市大谷字「坦𫞙」の漢字表記の軌跡を追いかけたものです。



はじめに

「たんぼ」というありふれた名詞につけられた、あまりにも大袈裟な表記、そして見たことのない文字。

稀少地名漢字リスト(http://pyrite.s54.xrea.com/timei/)でその存在を知り、実際に訪ねてみたのがおよそ10年前、2014年8月のことだった。
当時は稀少地名漢字の住所情報をもとに現地を訪れて、実際にその通りの文字に遭遇できることがうれしく、そこでとどまって、それ以上調べるということをしていなかった。

そうこうしているうちに、現地で見られる看板の数は減っているようだ。ヘッダーの写真は10年前にとったものだが、Googleマップのストリートビューを見ると、2013年にはあって2021年のものにはない。

https://www.google.co.jp/maps/@34.8404966,136.8691724,3a,15y,244.1h,83.2t/data=!3m7!1e1!3m5!1s-n0VqqDHBakCXiUARxE0tg!2e0!5s20120201T000000!7i13312!8i6656?entry=ttu


さて最近、別件でこのあたりの地名を調べることがあり、出会って10年の節目でもあるので、その軌跡を追ってみることにした。

すると、「𫞙」という字が、「氵」+「莽」から始まり、補空の点の追加、上部の異分析、Unicodeへといいったさまざまな変遷をたどっていそうだということがわかってきた。以下、基本的には時系列順に見ていくことにする。

※参考にした資料の原本の多くは、現在、徳川林政史研究所が所蔵しているものであり、画像等の転載には手続きを要するため、今回行っていません。気になる方は愛知県公文書館等をご利用ください。

近世には文字通り「たんぼ」があった

近世にはどうやらこの場所に「たんぼ」という地名は見えないようだ。

『常滑市誌 絵図・地図編』の付録1「小字名一覧」は単に小字を一覧しているだけでなく、『寛文村々覚書』や『尾張徇行記』といった近世の文書に見える場合は、その旨を小字ごとに付記してくれている点で有用な資料だ。

『常滑市誌 絵図・地図編』p.190
国立国会図書館デジタルコレクションより

一番上の小字は、1966年の『常滑市字名一覧表』によるという。その文字も気になるが、ここでは、()でくくられた出典表記がなく、他の近世の資料には見えないことをおさえておく。「注」はこの常滑市誌執筆者の注釈でいわゆる「たんぼ」であることを示してくれている。

そこで「たんぼ」が近世の絵図でどうあらわされるかを見てみた。
大谷村の絵図としては、『常滑市誌・近世村絵図集』の「知多郡大谷村絵図」がある。おそらく近世後期のものであろう。
これをみると、現在「たんぼ」地名があるところは、「字 坂森 田」とある。現在では隣接する小字「坂森」の中に含まれていることになり、土地利用としては「田」であったことがわかる。まさに「たんぼ」であったわけだ。

初期の「たんぼ」地名と「漭」

明治以降、「たんぼ」地名の記載がみられるようになる。
その表記の初めはおそらく「坦漭(氵莽)」であったと考えられる。

『明治十五年愛知県郡町村字名調』p.19
国立国会図書館デジタルコレクションより

画像を掲げた『明治十五年愛知県郡町村字名調』というのは、明治15年ころに、内務省が全国の字名を調べさせた資料群の一部で、正本は惜しくも関東大震災で焼失したが、愛知県が副本を残していたために、現在までその姿を伝えるものである(柳田国男『地名の研究』参照)。それが、愛知県教育会によって1932年に謄写版として刊行され、1969年に日本地名学研究所から『愛知県地名集覧』として復刻された。

この画像の文字を見てみると、「𫞙」とはちょっと違うように見える。どちらかというと「漭(氵莽)」に近い。
この『明治十五年愛知県郡町村字名調』は謄写版であるため、どうしても筆画が直線的となり、細かいところがわかりにくい。そのため、謄写版『明治十五年愛知県郡町村字名調』の原本(徳川林政史研究所所蔵)の複製が愛知県公文書館にあるため、これを閲覧したところ、その字体はよりはっきりと「氵」+「莽」であった。

「漭」の字は、音読みがバウ・マウ(『大漢和辞典』)であり、そのままではないものの「たんぼ」の「ぼ」部分の音を表すために用いられたものだろうということがわかる。

しかし、それでも「坦漭」という表記はいかつい。


常滑市は知多半島にあり、知多郡の範囲内である。本美信聿『知多地名考』によれば、知多郡で田圃を示す地名はタオモ、トウモ、タモン、トオモン、などの語形があり、表記としては「田面」が圧倒的に多く、ほかに「外面」「多門」が少数ある。『愛知県地名集覧』索引で「タンボ」「タンモ」を引くと、「丹保」「畈畝」「反茂」「丹茂」がある。語形のバリエーションの一つとして当地では知多郡としては珍しいタンボと呼んでおり、その表記に悩んだのであろうか。

「漭」の字は珍しい字だが、それよりはまだなじみのある「莽」に、水田であるために「氵」を付加したというのが考えやすい。(もちろん辞書類から探してきた可能性もあるが)
しかしそうすることで、他のタンボ地名表記よりも、「平ら(平坦)で水が張ってある田」という雰囲気が字面から感じ取れるようになっている、と思うのは贔屓目だろうか。

「漭」と「𫞙」

現在、この「たんぼ」地名をもとに文字コードとして登録されているのは、「𫞙」であって、「漭」ではない。「漭」ならJIS補助漢字にはあり、それで済んだのに、どうしてこうなったのだろうか。

史的文字データベース連携検索システムで「莽」で検索すると、それらしいものがヒットする。これと同じような変化を起こしているのだろう。

国文研蔵『南総里見八犬伝』巻一より

このような変化が「漭」に起こると、王莽ならまだしも、「坦𫞙」から「坦漭」に復元するのは難しい。文脈が少なすぎるうえに「漭」自体が難字であるからだ。
復元できないとなると、意味不明な文字として見たままを写し、伝承するしかなくなってしまう。

この二つの字(実際は同じなのだが)の文字をよく見ると、旁の部分の違いは以下の3つに集約できる。すべて〇だと「漭」、すべて✕だと「𫞙」になるようにした。

①艹(くさかんむり)が下の画とはなれている
②真ん中の部分が「大」のように突き出ている
③右下に補空の点がない

①が✕になると、上部が「艹」ではなく「共」であるという分析がはたらくので、②も✕になる。③はこれとは別個の要因であろう。

この3点をもとに、各資料の文字を並べてみる。
すると、早くも明治のうちには、現状のような「𫞙」が生じ、「漭」への復元が困難になっていた可能性がうかびあがる。
もちろんもっと資料を増やせばより詳細なバリエーションがわかるだろうが、明治17年の地籍帳時点で「𫞙」が出現していたことが重要だと考える。

$$
\begin{array}{|c|c|c|c|c|} \hline
年代 & 資料名 & ① & ② & ③ \\ \hline
明治15年 & 愛知県郡町村字名調 & 〇 & 〇 & 〇 \\ \hline
明治17年 & 地籍図 & ✕ & ? & 〇 \\ \hline
明治17年 & 地籍帳 & ✕ & ✕ & ✕ \\ \hline
明治25年以降 & 旧土地台帳 & 〇~✕ & 〇~✕ & 〇~✕ \\ \hline
? & 現地の看板 & ✕ & ✕ & 〇 \\ \hline
?& 住所外字など & ✕ & ✕ & ✕ \\ \hline
\end{array}
$$

明治17年の地籍図・地籍帳は、愛知県公文書館で閲覧できる。
地籍図は、一村ごとに作られた1200分の1の地図で、地番とその所在を確認できる。それによれば、この当時には「田」だけでなく一部に「宅地」もできていることが分かる。②真ん中が「大」であるかを「?」にしたのは、「ス」のように書かれていたからであるが、これもほぼ「✕」でもいいかもしれない。

地籍帳は、一筆ごとの地目、面積などがかかれたもので、一筆あたり一行が割り当てられている。「坦𫞙」は、1~77の地番が8ページにわたって記され、小計のページが1ページある。見開きに対して地名表記はひとつのみであるので、「坦𫞙」は計6か所に記載されていた。うち4つは「𫞙」に完全に一致する字形であり、残る二つは、右上が「券」の上部のように作るもの、右下を「開」の内部のように作るものがそれぞれ一つずつあった。
この筆記者にとっては、すでに「漭」であるということが復元できなくなっていたと思われる。

旧土地台帳で「坦𫞙」をすべて請求すると大量になるので、一部(枝番含めて24通)を請求した。そこから得られた字形は以下の通り。

旧土地台帳の写しから文字のみをとりだしたもの

24通を見た範囲で述べると、「沿革」欄の最初のものを見ると、明治時代のものが多い。このうち明治25年の(a)の筆跡が最も多く、次いで同じく明治25年の(b)が1件のみあった。ほか明治31年の(c)も散見される。
このうち(a)は、「漭(氵莽)」といってよい。(b)、(c)も、補空の点がない点が共通する。

(d)、(e)は、いずれも「沿革」欄のはじめが昭和16年の分筆となっているものである。そのためそのころ以降に筆記されたものとみていいだろう。(d)、(e)はいずれも補空の点がある「𫞙」となっている。分筆するもとの地番の字には必ずしも点はないため、(d)、(e)の筆記者は、台帳以外のものをみて書いた可能性もある。(e)はさらに「坦」に影響されて土偏になっている。

最後に、現行の自治体の資料をみると、文字コードに入った「𫞙」が用いられている。旧土地台帳の文字は上記のようにゆれがあるので、なぜこの字が代表として使われるようになったのか、その経緯はわからない。

「町丁字別人口と世帯数」
常滑市ホームぺージ内「人口と世帯数(令和5年度)」より

ここまでを見てきて、冒頭のストリートビューにあったように補空の点があるかないかの違いはあれど、①②が✕である字体が用いられ続けているようだ。現地の人と思われる手書き表記を収めた写真をTwitterで見ることができるが、その字はストリートビューの看板の字体と一致するので、現地では、看板の字(つまり補空の点がない字)で認識されている可能性がある。

文字コード化される「𫞙」

現状のような「𫞙」が生じ、「漭」への復元が困難になっていたのを確認したが、文字コードとして登録される段階でも、その様子が見て取れる。

2007年にIRGにおいて日本がUnicodeへの登録を提案した文書には、EvidenceのSourceとして「自治体地名外字」があげられている。

Urgent-Need ideographs Japan Submission 2007-11-8

その後、CJK統合漢字拡張Dに登録されるわけだが、他にこの字がみられる資料として、2008年3月付の汎用電子情報交換環境整備プログラムの「「地名外字」資料」(p.130-131に「たんぼ」)がある。これをみると、住基統一文字、戸籍統一文字、登記統一文字、「自治体地名外字」資料、「登記所外字」資料、「日本行政区画便覧」の字体があがっており、どれも「𫞙」であり、読みは「ボ」になっている。旧土地台帳の字体がさまざまであったことを考えると、これらが同じ字体で共通しているということは、個々のソースも共通しているということなのだろう。

上のIRGの資料を見てもわかるように、「共」が構成要素であるように受け取られており、類似字形の項目にも右側が「恭」に類似するととらえられている。
さらには、この「共」に基づくgongのような字音がつけられてしまった例も出現する。

全字庫より
https://www.cns11643.gov.tw/wordView.jsp?ID=750687&SN=&lang=en

ここまでくると「ボ」ですらない。「たんぼ」を表す字であったこともわからなくなっている。

こうやって、字がどんどん独り歩きするのだろう。

おわりに

  • 文字通り「たんぼ」があるところに、はじめは「坦漭(氵莽)」という字が宛てられたと考えられる。

  • 「漭」が「たんぼ」の「ぼ」を表音的に表すということが分かりにくく、筆画も複雑であることから、筆写の過程で字体が変化し、「𫞙」が生じた。

  • 字体が変化してしまうと、「漭」の変形であるということが復元できなくなり、字体の固定(文字コード化)、「共」に由来する字音の付与が行われ、もとの「漭」との差が開く一方になってしまった。

  • (感想)現地の人はどのように字体をとらえているのだろうか




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