見出し画像

【Story of Life 私の人生】 第92話:プレジャーボート

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第91話:母との別れ をお送りしました。
前回は、母が他界するまでについてお話をしましたが、今日はバブル真っ只中の頃のお話をしようと思います。

1988年5月に派遣としてスタートした「事務員さん」生活でしたが、年号が昭和から平成に変わった1989年3月から正社員として登用してもらうことになりました。
この会社は2月が決算月だったのですが、富良野の社員旅行から戻ってすぐに、社長さんからお話をいただき、年度が変わる3月から「正式な事務員」さんになりました。
お給料の提示額は、派遣時代よりもかなり上がっていたから、当然2つ返事でOKしたのですが、今考えてみると、社長さんは「派遣会社にマージンを払いたくなかった」ことが一番大きな要因だったのではないかと思います(笑)

1989年といえば日本でバブル景気が活発になってきた頃で、会社でも大きな受注案件が相次いで取れるようになっていました。
売上も順調に伸びており、この年の夏には「人手が足りない」ということで、職人さんを4人増員(と言っても、社長の親戚や誰かの友人)して、社員総数が10人になり、会社は「大きなファミリー」となりました。

この年の夏のとある日のこと。
社長さんが突然「プレジャーボートを買う」と言い出しました。
言っていることが即座に理解できず「え?」と聞き返す全社員。
社長さんは「会社の福利厚生として26フィートのプレジャーボートを買うことにして、もう契約した」と言うではありませんか!
社員全員「驚愕」の状態でしたが、「支払いをするから小切手を切れ」と言われたので、どうやら嘘じゃなさそう…
代金を支払った直後に、顧問税理士の先生から「福利厚生目的というなら、全社員が自由に使えるということを税務署に証明出来ないと、社長の現物給与扱いになる」という指摘を受けてしまい、ここから会社中、上から下への大騒ぎとなりました。

「社員全員が、好きな時に自由に使える」ということは、「社長が居なくても、社員がいつでも自由に船を使える」ということになる訳です。
となると、当然「社長以外の社員も、船舶操縦免許が必要」で、しかも特定の社員だけじゃダメということになってしまいます。
そこで、まずお兄さん3人が選抜され、JEIS(日本船舶職員養成協会)に「小型船舶操縦士4級(現在は2級)」の免許を取りに行き、これで社長を含めて操縦免許の保有者が4人となりました。
が、10人のうち4人だから、まだ全社員の半分以下。
そこで第2陣として、1人のお兄さんが3ヶ月掛けて1級免許の取得をすることになり、更に1人がレーダー、1人が無線の免許を取得することになりました。
これで船に関する免許保有者が7人となり、また1級免許保有者が誕生したことも相まって、翌年からは「社長さん抜き」でボートに乗る機会がどんどん増えていきました。

「社長さん抜きで」というのには理由があって…
彼はすぐに「船酔い」してしまう体質で、全く楽しめなかった模様です。
ボートを購入した翌年の1990年になると、社長さんはすっかりボート熱が冷めており、誘っても「行かない」と断られるようになっていました(汗)
一方、社員といえば「ボートに乗る時には、それなりのロープワークが出来ないと困る」ということで、始業前やお昼休みになると全員でロープを持って、結び方の練習をしていましたっけ(笑)
これで、会社名義で買ったプレジャーボートは「社長のおもちゃ」ではなく、正真正銘に「福利厚生目的」の役割を果たすことになったのでした。

それでも税理士の先生からは、「理想は全社員だけど、せめて8割(社員総数が10人だから8人)は、船舶に関する何某かの免許を持っていないと、税務署に対抗出来ない」と言われてしまい…
何と8人目として、私に白羽の矢が立ってしまいました。
どの免許を取得するか、かなり悩んだのですが、どうせなら小型船舶操縦士1級を取得しようと思い立ち、1990年10月から12月までの毎週末、JEISの講習に通うことになりました。
学科の講習は、平成天皇の即位の礼が行われる前に行われたのですが、講習会場である半蔵門周辺の警備がとても厳しい中、教材と一緒に練習用のロープを入れたバッグを持って講習に行く羽目になり、警備している警官達から、何度も職務質問を受けたことを、今でもよく覚えています(汗)

11月後半の土日には、実際に船に乗る実技実習が4回行われ、毎回朝早くから浦安マリーナまで通いました。
51フィートの船を使っての実習は、会社のプレージャーボートの倍の大きさ!
浦安マリーナを出航し、離着岸の練習、船の中ではロープワーク、海図実習、人命救助などを行うもので、毎回朝から夕方まで行われましたが、いきなり大きな船の運転をすることになり、かなり大変でしたが、10人のクラスメイト達と一緒で、とても楽しかったです。

最後の実技試験は12月1日だったのですが、何故か前日に季節外れの台風がやってきて、海は大荒れ。
てっきり実技試験は延期になるかと思いきや「気候は選べないのだから、船長としてどんな状況にも対応出来ないといけないから」と、そのまま実施することに!
東京湾は大荒れで、台風の置き土産の冷たい風と飛沫が飛び交う中、木材が沢山散乱している(航行中の船から落ちた模様)中を航行することになりました(泣)
風は冷たいし、全身ずぶ濡れで寒いし、木材にぶつけないかとドキドキするしで、運転も人命救助も、冗談抜きでかなりキツかった!
出航してから4時間掛けて、10人全員の実技試験が全て終了し、終わった後は教官を交えて、マリーナで打ち上げをしました。
年末に合格通知が届き、免許の交付手続きをして、翌年1991年1月8日に免許証が交付され、晴れて「1級小型船舶操縦士」となりました。

これで免許保有者は社員の8割をクリアし、やっと顧問税理士の先生から文句を言われなくなりました。
また、1級免許保有者が2人となったことで、4級免許では行くことが出来ない大島や、初島などにも行けるようになりました。
休みの日には社員揃って「福利厚生のボート遊び」に講じるようになりました。

海岸から5海里以上に行く場合は、1級の免許保有者が同乗していれば良い(当時、今は法規が変わっているかも知れません)だけだったので、もっぱらボートの運転は「お兄さん達」がやり、私はただ「同乗」しているだけの状態でしたから、船に関して言えば、完全にペーパードライバー状態です(爆)
(まあ、万が一事故が起きた時は、責任を被ることになったのでしょうけど…)

こんな楽しい日々は、1993年のバブル崩壊を機に終わりを告げました。
仕事の受注は大幅に減り、売上もピーク時の半分以下となり、最終的には、残念ながら船を手放すことになってしまいました。
それでも5年もの間、今では考えられないような「贅沢な遊び」をさせてもらうことが出来て、本当に幸せだったなぁと思う、今日この頃です。
今でも海を見ると、あの頃の「楽しい思い出」が、沢山蘇ってきます。

そうそう、私の免許ですが、船を持っている訳でも無いから全く使い道がある訳ではないのですが、台風の荒波にもめげず頑張って取ったのだからと、しっかりと5年毎に更新しており、今でも「現役」です(笑)

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第93話:社員旅行 〜 1990年ハワイ編 Part 1 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?