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幻覚と記憶

降りだした雨は、最初、かしゃ、かしゃ、かしゃ、と間を置きながら落ち葉を鳴らし、あ、降りだした、と小さく声に出した途端、ぱらぱらぼつぼつと連続して鳴った。
地面には小さな染みが点々と落ち、ぎゅっと詰まって濃く硬くなっていた空気に冷たく尖った風が穴を空けた。雨のにおいはしなかった。

短い雨宿りを兼ねてトンネルをくぐる一時、一定になった雨音を聞き、いぬと顔を見合わせ、遠くの山を透かして雨脚を見た。また雨の下に出る。
俯いて歩く。髪と上着の間のわずかに出た後ろ首に雨があたると、氷粒をぶつけられたように冷たく、痛かった。



朝の出来事が心を深くえぐっていた。
トイレに腰掛けた途端溢れ出したなみだに、堪えきれず声をあげて泣いた。
どうせこんなのは自家中毒のようなものだ。だれにもなににもやられてなどいない。いつものこと。そう何度もじぶんに言い聞かせ、いつまでも、いつまでも、声をあげて泣いた。

一日中考えていた。問いかけていたとも言えるし、問いかけられていたようにも思う。
生きていてなんになるのか。死んで、どうなるのか。
考えれば考えるほど、なんだかどちらも同じことに思えた。そしてそれはきっと、いまのところ、どちらもが後悔の中にあるからだという気がした。それならまだ、生きる方が微かに明るいのか。本当の暗闇ならどうせいつか訪れる。なにも急くことはないのか。

本当にそうだろうか。
こんなに暗いなら、わたしはまた誰かを深く傷つけるかもしれない。
明るい場所へはどうしたら出られるのだろう。もうずっと変わらず同じことを言っている。



少しして、雨は本降りになった。
いぬは帰りたがらず、山道を少しのぼりかけたところでぴたっと足を止め、ちらっとこちらを見た。ここなら雨があたらないよ、とでも言うように。

両側から張り出した枝にまだ茂る葉が、屋根のように上へと続いている。若い頃うろうろしていた吉祥寺のアーケード街に屋根はあっただろうか。屋根があるからアーケードなのか、じゃあ、あれはどこを歩いていたのだろう。見上げながらふとそんなおかしなことを思った。

ざーざーと本降りになったのに、確かに、天然のアーケードは驚くほど雨粒があたらず、満足げにその場に座り込んだいぬと向かい合い、わたしはただ立ち尽くした。


駅を出てすぐのマクドナルドで昼食用のマフィンとコーヒーを買い、颯爽とバイト先に向かった18の頃のじぶんを思い出す。昼に取り出したマフィンは冷えていたけれど、まずいと思ったことは一度もなかった。
誰にもなににも脅かされず好き勝手生きているようで、本当は絶えずなにかに怯えていた。慣れたものにすがっていた。いまと同じだ。それでも前を向いていた。もう、戻れない。


パソコンを開き、あの頃、毎日のように通っていた喫茶店の名を探した。
なんの情報もなかった。今どき、そんなことってあるだろうか。

もしかして、あの日々はただの幻想だったのか。それとも、過去に向かう妄想か。
店内にはたぶんクラシック音楽が流れていたはずだ。思い出せない。マスターがよくクラシック音楽の話をしていた気がして。だからそう思うのだろうか。わたしはクラシック音楽に心酔したことがない。

髭のよく似合う、ハンサムで抜群に頭のいいマスターが真顔で繰り出す下世話な話とそれについての考察に、わたしはほかのお客の邪魔にならないよう上半身を丸めてくつくつと笑っていた。うれしいことがあった日も。どんなに悲しい気持ちでいる日にも。
すっぽりと身をあずけたゆりかごのようなカウンター席で、普段はコーヒーを注文し、少し余裕があるときやつらいことがあった日は、口の広いカップになみなみと注がれたロイヤルミルクティーを啜った。

そんな気がしていただけなのか。
雨はいつの間にかあがっていた。疲れて眠るいぬの寝息だけが聞こえる。
ずずっと啜るたび鼻に抜けたあの豊潤な香りの記憶が、もし偽物だとするのなら、わたしの想像力も大したものだ。でもそれはわたしが望むことじゃない。だとすれば、それは確かにあっただろう。




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