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空が青すぎた日のこと。

無料の法律相談の帰り、電車は結局、1時間以上遅れてやって来た。
駅と駅との間で火事があったらしい。
繰り返されるアナウンスに耳を傾けながら、ひさしぶりに文庫本を読んだ。
ほかにすることもないし、スマホを出せば、つい、SNSを開いてしまうから。


あの日はよく晴れていて、娘の勧めもあって何年ぶりかでひとりランチをした。辛さを抑えたキーマカレーはとても美味しかった。
私の後から入ってきた年配の男性は常連さんらしく、さっき水を運んできた女性に向かって世界情勢について話し出した。店主らしきその女性はあまり興味がないのか、ニュースを見ないのか、相槌を打つでもなく聞き流していた。

バーかなにかを改装したらしい店内にはカラオケの有線がかかっていて、たまたま流れた「春の歌」を声に出さず口ずさんでいたら、思いがけず涙が溢れてきて困った。

スピッツはあまり聴いた記憶がない。あの頃に限らず流行りの音楽には疎い。
20代の手前から強迫性障害に悩まされるようになり、それ以前には、ないなんてことは考えられないというくらい生活の一部になっていた音楽を徐々に聴かなくなった。

カーラジオから流れる曲やドラマの主題歌をいいなと思っても、そこで止まってしまう。
もう長いこと、ほとんど音楽に触れない生活をしている。

『春の歌』は、何年か前に狂ったように足を運んだ映画のエンディング曲だった。歌っていたのはスピッツではなく女性ボーカリストで、私はその人のことも全く知らなかった。

同じ映画をあんなに何度も映画館で観たのは初めてだった。
前後編あって、10回以上ひとりで映画館に通った。週末や仕事帰り、県内最後の上映は有給休暇を使って、片道2時間かけて寂れた映画館まで行った。
何度観ても、慣れることがなかった。変な言い方だけれど、ほかに言いようがない。
慣れない。
毎回毎回、初めて観たような気持ちになった。

歌詞のない『春の歌』の続きを聴きながら、映画の中のシーン、登場人物の俯いた横顔を思い出していた。
ぐうっと握りしめたこぶしを徐々に開いていくようなそのシーンには、食い込んでいた爪が残した傷の痛みと、こぶしの中に隠した大切なものの気配があった。

あの映画を観るたび、私もこんな人たちの中で生きたいと思ったし、こんなふうに生きたかったな、と思った。
適わなかった。これから、適うだろうか。


心配性なうえに時間の微調整が苦手で、少し早く店を出てしまった。
もて余した時間を駅の近くのベンチで潰した。向かいの低いビルの窓から誰かが見ている気がしたけれど、気にしないふりで煙草を点けた。

空が青くて、いやになるほど青くて。
泣きたくなった。
悲しいほどお天気はユーミンだっけか、なんて思ったら、じわっとなみだが出た。
そして、ああ、どうしてこんなことになっちゃったんだろう、と思った。


相談会場は図書館の二階で、ここに越してきて10年以上が経つけれど、その建物に入ったのは初めてだった。
思っていたよりずっときれいで明るく、図書館の入り口には感染症対策の張り紙がされていた。
中を少し覗いてみようと思い、すぐに思い直して、トイレに向かった。

思ったより緊張していることにいまさら気づいて、さらに緊張した。
うまく話せるだろうか、なにを言われるだろう。
待合室で到着時間を記入し、座っていられず靴を履き直し立ったまま待った。
相談室から笑い声が聞こえた。
私は少しも笑えなかった。

結果は散々だった。
世の中は、お金と権利を持っている方が有利になるようにできている。
大切なものを守るために私はあれもこれもしてきたんです、といくら言ったところで、数字に表せないし、証明するものもない。

どうすることもできない。いまのままでは。
悪いことをしてきたわけじゃないから、罰が当たったわけではない。
なにもしてこなかったから、空っぽなだけだった。

駅のホームで遅れている電車を待ちながら、何度も、溢れそうになるなみだを堪えた。
入学したばかりの一年生だろうか。中学生の男の子たちが大きなカバンを背負ったままはしゃいで走り回ったり、大きな声を上げたりしていた。
私が座るベンチの横では同じカバンを手に下げた女子たちが話し込んでいた。一年生がどうとかと言っていたから、上級生なのかもしれない。

読みかけの、というより、開いたままになっていた文庫本のページになみだが落ちた。
中学生には戻りたくないな、と思った。いやな思い出しかない。
どこにも戻りたくなんかない。どうせ同じことを繰り返すだけだ。また外に出ることも人に会うこともできなくなるなんていやだ。

「いまもあまり変わらないじゃない」
話し込んでいる女子たちのだれかに、冷めた声でそう言われた気がした。

なにも知らないくせに。
そう思った。
だからスマホを開かなかった。きっと同じことを思うから。
みんな私を笑っている。なにも知らないくせに。
なにもできないし、なにもしない奴だと、私を笑っている。
悔しくて、悲しくて、どこに行ったらいいかわからなかった。

さっき会った弁護士さんは、私を笑わなかった。
表情に感情を現さないその人は、淡々と法律に沿った事実だけを告げていたけれど、なぜだか冷たいひとには見えなかった。きっと、たくさんの似たような話を聞いてきたのだろう。
このひとは家ではどんな顔をしているのだろう。笑ったり泣いたりするのだろうか。
そんなことを考えて気を紛らわしていた。泣いてしまわないように。

泣いてしまえばいいのに。
そう思った。
あの無駄に奥行きのある相談室でも、文庫本を読んでいるふりの駅のベンチでも。
わあっと声を上げて泣いてしまえばいいのに。どうせ、みっともない大人なんだから。
そう思った。


開いたままの文庫本を閉じ、滑り込んできた電車に乗って帰った。
駅の近くの個人商店みたいな小さなスーパーで買い物をして、重い荷物を何度も持ち直しながら、泣きながら帰った。
家に着くと玄関に座り込んで声を上げて泣いた。
悔しくて、悲しくて、どこにも帰れないと思った。

心配して飛び出してきた娘が背中をさすってくれていた。
扉の向こうで、いぬの声がした。
泣くだけ泣いたら、泣いていてもどうにもならないのだと思った。
爪が食い込むほど握りしめたこぶしの中には、まだ、大切なものの気配があった。

あの日は、空が青すぎたのだと思う。



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