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「声と文学」

『企画展の課題 しみる〛

自分は、映像というよりadobe のソフトを使った画像を重ねる手法を採用している。画像と画像の間に重なる時間を設けるもの。作画の過程で時間をとめて、静止画にするときもある。

企画展では、1枚よりも映像の方が圧倒的に好まれている。自分もその方が良いと思っているが、その原因がわからないので探っている。一つのヒントになったのが「声と文学」の耳の聞こえない写真家の話だった。

割と著名な写真家(斎藤陽道)が、耳、音が聞こえない人の表現として展示にスライドショーという画像の重なりの映像化を用いている。彼の場合、画像と画像の重なる時間、つまり残像を長く設定している。作家自身が分析しているが、残像時間は記憶のあり方に対応したものと同時に、聞こえの問題が関係しているとのこと。

聞こえない問題として、聞こえないことから言葉を交わすときのしみてくる感覚がないこと。聞こえている人にはある言葉を交わすときの、しみてくる感情があるが、彼にはない。そこで、異なる画像を重ねあわせることによって、聞くことによっては得られない、しみこませる感情を得ようとしているのだと言う(ちなみに、この話は、写真家が、芭蕉の「岩にしみいる」のしみいるがわからないことから始まっている)。

画像は聞くものではないが、移り行く画像の重なりを目で感じることで、耳で聞くことのしみる(しみいる)に対応させようとしているとのことだ。

このしみさせようという感覚も自分に近い。しみるという感覚が自分にぴったりくる。近い感覚でも、わいてくるという感覚が近い。それでは、なんのために、その技法を用いているのだろうか。耳が聞こえないためにとる表現だとしたら、耳が聞こえている自分は、なんのために、しみてくる、わいてくるための表現を採用しようとしているのだろうか。自分は何が契機となって、そのような表現を採り始めたのだろう。考えて見ることでまた、何か生まれるような気がしている。

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