KeikiYokokawaMM20170720

これは7月20日にメルマガに書いたものの転載です。


「森友学園、経営再建困難に 破産手続きへ移行か」
朝日新聞大阪版の一面。

結局全部剥ぎ取って行く力が働いてるんだね、としか思えない。

あの小学校を作りたいと無理をした結果がこれ。

多くの人は何を思い、何を感じるんだろうか?
「やっぱお上には逆らえない」
「人間、分相応以上の無理をしてはいけない」
「競争社会で負けたのだから当たり前」

ま、色々だろうが、本当にこんな幕引きで良いのだろうかね?

安倍政権は終わりを迎えようとしている。
いつ終わるのかはまだまだ解らないが、少なくとも第二次安倍政権の3期目は実現せず、次の総選挙の時に安倍総理総裁で戦うことは無いだろう。それだけはなんとなく解る。

それでも、彼らが権力の座を降りたとしても、せいぜい国会議員を続けながら、ある部分では自分たちのやった事の後悔もするだろうが、大部分では自分たちが権力の座にあった時にやった事を自画自賛しながら、余生をゆったりと過ごすに違いない。

それに比べると籠池家の未来図は、今のところまったく見えない。
お父ちゃんとお母ちゃんはある意味人生の終盤に差し掛かった時に己の人生を賭けた勝負の事を考えながら、新たな出会いとかを考えながらの余生となるのかもしれない。でも、30代の長女、20代の次女は、自分の親達の築いてきた幼稚園を愚直に守ろうとしてるだけなのに、必要以上の不条理に晒されてるように見える。

そして、この幼稚園が続いて行くことが社会的にどんな意味があるのか?以上に、幼稚園が潰れてしまった時点で、「森友問題」と括られた事件の数々は人々の興味を失い、それぞれの局面で起こった問題は掘り起こされないままに消えて行くのだろう。世の中全体はそれでも何かが揺るがされるような変化は起きないのだが、これからも「補助金」という国から地方に打出の小槌によってばら撒かれるお金に群がる政治家も官僚も市民も後を絶たず、その事は誰の目にもはっきりとは触れず、あってもなくても良いようなものにその資金は投入されて行くのだろう。

この補助金のスキームになぜ僕は拘るのか?
それは、DELIくんが松戸市で始めた市議会議員生活において、被曝防護、被曝の後始末にも大きく関わってるからだ。

基本的に被曝の問題に関わらず、行政の仕組み上補償はエビデンスが無いものには適用されない。ところが、被曝なんてものは、これから100年単位でもエビデンスが証明されるのかどうか解らないものだ。被曝という一般化された概念では到底考えられない現実が、実際に被曝した人たちの身の上には降りかかる。でも、その降りかかった現実すら、その人の人生で証明してもらえるかどうか解らないものなのだ。

つまり、彼らが「普通の生活」を送る事を担保する考え方は、「基本的人権の尊重」以外にないのだ。
「基本的人権の尊重」は近代のほとんどすべての国家が、それを国を構成する基本要件の中に掲げ、実現出来てるかどうかはともかく、最大限の留意をし、最低限それ以下の事はやらないという約束事であるはず。つまり、近代民主主義国家の根幹をなすとも言える考え方。

「優しさ」とか「気遣い」とか「正義」とかおよそ「人権」という言葉からイメージされて、それ自体が批判にさらされるものとは違い、僕ら一人一人が社会に存在する以上、絶対に喪失させられない、第一義に主張するべき権利であり、個人と社会との約束事なのだ。

だからこそ、理想論ではなく、現実に掲げる理想として、すべての人間がその権利が保護されることに留意しなければいけない事なのだと思う。

ただ、あまりにも軽い。
なぜなら、20世紀の世界大戦以降如実になった、世界を支配する「経済」という宗教に一番邪魔なのが、この「基本的人権の尊重」という考え方だから。「経済」と一言で言ってしまったのが、現在多くの人々が考える「経済」とは、膨らみ続ける事、転がり続ける事だけで担保される「経済」の中の優生思想みたいなもので、実は「経済」なんていう概念が生まれる遥か前から人々は「経済」と同じような仕組みの中で営みを繰り返していた。

ただ、自然に抗えなかったり、時間を超えられなかったりする中、統計的な人類の生存に対して効果的だったのが「経済」という概念であって、僕らは今闇雲にそれを信じてる。

それをすべて捨て去ってしまえとは言わない。
でも、そういう「経済的な事情」によって人権が侵害されてはならないのだ。
もっともっと簡単に言えば、どんなに孤立しても、その孤立した人に手を差し伸べる義務が「社会」にはあるのだと思う。
笑わば笑え。

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