KeikiYokokawaMM20181214

KeikiYokokawaMM20181214

今、現実には2018年12月15日の早朝なのだが、12月14日という日を記録しておくためにその日付で書いておこうと思う。

このメルマガを読んでる人ならほとんどの方が知ってる通り、辺野古の海に土砂が投入された。まったくもっておかしな話なのだが、こんな時だからこそメディアが集まり、少なくない人々が日本全国で沖縄の海に関心を注いでる。この期に「沖縄の基地問題」という言い古された文言に関して考えてみるのは重要なんじゃないか?とも思ってる。

「沖縄の基地問題」なんていう言い方をすると、まるで沖縄に基地があることがデフォルトみたいに思えてくる。しかも「沖縄の」という括りも大きすぎる気がしてならない。2014年から通い始めた沖縄で、と言ってもそれ以前から撮影のロケ先としては有名だった場所なので、何度も来たことはあったのだが、基地がどういう存在なのか?を改めて自問しながら訪れ出したのはその時期からで、この「基地問題」と言われてる、日本の統治機構の問題が僕の残りの人生の大きな部分を占めていることは否めない。

最初は避けていた。2011年に被曝問題をキッカケに政治に深くコミットすることになった後も、沖縄の問題に首を突っ込むと出てこれないんじゃないか、と考えて尻込みしていた。2012年にオスプレイが配備される時にも、そう遠くない関係の人たちがそこに取材に行っていたのにも関わらず、僕はTwitterでさえ、そこまで発言してないはずだ。

だから、最初にゲート前に行った2014年の夏にも、アーサー・ビナードとおしどりの2人がいなかったら、そのキッカケすら掴めなかったに違いない。

まあ、その時のメンバーを考えてみたらすごいメンバーだ。アーサーに、おしどりの2人、丹下紘希にDELIくん、そして三宅洋平。あらあら、なんともまあ、今から考えるとすごいメンバーが集まったものだ。そのメンバーで「OKINAWA TALK WEEK」というイベントをやっったのだから、なんとも無謀な計画を考えつくものだ。

その時にはまだ少し距離があった。最初にゲート前に降りた時、いつもの三脚の上のカメラを持って車から降りた僕は、今では仲良しのあるプロテスターから怒鳴りつけられた。当時は、カメラを抱えてあのゲート前にやってくるのは、メディア以外ではほとんどがネトウヨだったので、ゲート前に座り込む人たちには明らかな警戒心があったのだ。だから、印象が悪いなんてもんじゃない。「こんな閉鎖的だから理解が進まないんだよ。」とさえ思ってた。

ところが、2015年1月14日の深夜、1月15日の未明に山本太郎のcasの通知がいきなりやって来て、深夜のゲート前に敷かれた「殺人鉄板」の前で奮闘する山本太郎が映し出された。思えば、その頃はまだまだこの国の行政府のやり方への能天気な信頼感があって、当時国会議員になって2年目とはいえ、66万の東京都民から付託を受けた国会議員が、いとも簡単に座り込みの現場から排除されるとは思ってなかった。

その山本太郎のcasのタイムラインには、驚きの声とともに、この問題にコミットしなければいけないという機運に満ちていた。

その次の日から、仁尾淳史がゲート前に立ち始め、いまだ立ち続けてるのだから感慨深い。タイムライン上で仁尾淳史の背中を押してしまった僕は、彼の1日遅れでゲート前に行くことになる。そこからは、24時間体制でゲート前を配信し続けたのだが、そういう配信の辛さと同時に、沖縄の冬も舐めていた僕は、ゲート前の歩道に寝袋一枚で寝るという、今では考えられない暴挙を敢行してた。

一週間、とにかく配信し続けた。ただ、テントの中には一度も入らなかった。それは、前述した閉鎖的な扱いを受けたと感じていたトラウマと同時に、ずっといるかどうかわからない僕が、あのテントの中に入ってはいけないという気後れからだった。ただ、僕は毎日そこにいるし、当時のテントは、まだ多くの人がテントの中で寝起きしていた。少しづつ話をしてくれる人も増え、同時に時間を持て余してる時に多くの沖縄の歴史をネットや本で吸収することになる。

「被曝の話と一緒だ」と感じた。
後に矢部さんの本を読んで、さらにその確信は深まることになるのだけど、その時に感じていたのは、「基本的人権の尊重」が蔑ろにされてる現場の異様さだ。「警察権」という凡そ行政が持っている権力の中でも最初に僕らが直面する暴力が、まるで歴史上の映像を見るかのような状態でそこにある事実。

いやいや、それはそれはダメでしょ?と考えてた一線を簡単に超えてくる警察。そこに至ってもまだ「それは現場が統治機構を理解してないからだ。」という勘違いをしてた。どこか遠くの国の力を恐れる現場がそうさせられてるんだ、と考えてた。

でも、長いこと何度もあの場に赴き、その間に高江での強制排除を経験すると、とてもそんな遠くからの力でこれが起きてるとは思えない。もちろん、沖縄からは随分遠い東京の、普通の市民生活からは緩く隔離された永田町と霞ヶ関界隈で決まってしまった意思が、この南の島の人々を蹂躙してるということを知ったのはいつからだろうか?そう遅くない段階だったとは思うが、あのオジイたちが、オバアたちが、屈強な機動隊員や、10tダンプの目の前に立つ時の姿から僕は学び取らざるを得なかった。

あそこに理不尽なあの力を注いでるのは、僕らが「選挙」という穏当と思われてる手段で選んだ連中が生み出し続けてる力なんだよな、って感じたし、それから何度も何度も沖縄のことを政治家と話す度に確信するようになっていった。

今では、自分もそこに加担し続けて来たことを知ってる。
でもね、ここからは新たな加害を止めたいの。
止めませんかね?
一緒に。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?