大学時代の思い出

本日は、大学時代を振り返る。
代々木第二体育館のあの独特なブザー。足を踏み入れたことのある方は、懐かしいと感じることだろう。あの体育館では色々なストーリーがあった。
早慶戦、入替戦。記憶に強く残っているのは、どれも思い入れの強い試合ばかりだ。(大前提として、思いの入っていない試合など決してありません。)

その中でも、一番記憶に強いのが、大学4年生の入替戦最終戦だ。
2部リーグを勝ち抜いて進んだ入替戦、1勝1敗で臨んだ最終戦。勝ったら1部昇格、負ければ2部残留。非常に痺れる3試合だったが、最終戦、試合終了のカウントダウン、終了を告げるブザー。あの瞬間に、全ての努力が報われた。そんな気がした。

思い起こせば、早稲田大学に入学してからのバスケットボール生活は、正直あまり良いもの(結果)ではなかった。それまでの、中学・高校に比べると、勝ち試合よりも負け試合が多かった。練習についても、田渡先生のいた環境と比較をしてしまうと、なんだか刺激が少ないような気がして、思い悩んだ記憶がある。(大学が甘いというわけではなく、考え方の違い。高校はバスケを指導してもらえるウエイトが高い→大学は自分で考える、作り上げるというウエイトが高いという環境変化)1年生入替戦出場1部残留、2年生入替戦出場2部降格、3年生2部リーグ第4位。それでも、バスケットボールに費やした時間は一番多かったのも事実。バスケットボールの練習だけなく、ウエイトトレーニングも。休日も大学体育館は開放されているため、ずっと体育館にいた記憶がある。(もちろん大学の授業もきちんと行っていた)

大学3年生までは、上記の通りあまり良い結果ではなかったため、4年生になったタイミングでスタッフの総入れ替えが実施された。
それまでの監督を信頼していたし、正直不安でいっぱいだった。

主将になると、同期・下級生に申し出をし、責任を一挙に引き受けた。
理由は伏せるが、その年はなんとしてでも、1部リーグに昇格する必要があった。

前期にあった試合についても正直ボロボロだった。
春の関東トーナメント、早慶戦。チームがまとまりきっていないということを感じ、焦りを感じた。マネジメントの本も読んで実践したし、メンタルコントロールの本も読んだ。

ある日の部室での出来事。
4年生から、スタッフ陣に対してコミュニケーションを取ろうと、集まっていただいた時のこと。どの組織にも存在するであろう、見て見ぬ振り。これが露呈し、もう一度、この年の目標である1部昇格に対しての想いを統一した。
その日のことは、今でも覚えているし、思い出すと恥ずかしい。しかし、あれだけ感情を剥き出しにして、相手に想いを伝えた経験は、後にも先にもこれが一番じゃないかな~と思う。その姿は、同期からも驚かれるぐらいの有様。プライドの高い自分だけれども、チームの勝利(目標達成)より優先すべきものなどないといった具合だ。

早慶戦が終わってから少し経ってからの出来事。
ある男から急に連絡があり、飯に行かないか?ということで、急遽渋谷に。
この男こそ、大元孝文である。ってきり、就職活動の相談を僕がされる側だと思っていて、着席したら、、、
彼は、早稲田大学バスケ部の主将である僕の悩みの捌け口になってくれるということで呼んでくれたらしい。このときから出来た男でした彼は。

実は、僕は大学受験の際に、慶應大学に進学をしたくて受験準備をしていた。その時に、大元とは一緒に受験対策をしていたので、みんなと面識はあった。それに毎年早慶戦で凌ぎを削っているので、他大学の選手よりも親近感はあった。ただ、慶應大学とは縁がなく、早稲田大学に進学をした。

確かな話ではないが、4年生の時の慶應大学バスケ部の監督さんが、僕が悩んでそうだということを言ってくれていたようです。
昔から、色々な方にご心配をおかけしているのが僕です。笑

大学生最後のリーグ戦が始まってから、早稲田大学は順調に勝ち星をあげていた。1週目は8勝1敗(1位)で折り返す。例年、1週目は調子がいいのが早稲田。ただ、2週目、他大学がチーム力を向上してくるのに対して、早稲田は毎年うまくいっていなかった。なので、リーグ戦に入る前に、チームメイトにはこのように言った。「自分たちがやってきたことを決して疑わないこと」「他のチームの勝ち星を計算しないこと」この2つを伝え、結果、みんながこれを忠実に守ってくれた。

2周目の試合の中で印象に残っている試合が2試合ある。
勝利した試合と敗北した試合。どちらかというと、敗北した試合の方が印象に残っている。僕は、小学生の頃から責任感を大事にしてきていて、それがしばしば裏目に出ることもあった。まるで一人で戦っているかのような心境になることがある。それが顕著に出てしまった試合が、大東文化大学戦。おそらく、大学生の試合で無得点だったのはこの試合だけではないかと思う。前日の夜から当日の試合会場(日本体育大学)に入るまでを今でも思い返すことができる。当時、22歳の僕は、6歳の頃から始めたバスケットボールが16年目を終えようとしていたわけだが、1部昇格へのカギ(入れ替え戦)はこの大東文化大学に勝利することでほぼ確実に手に入る位置にいたため、この試合にかける想いは非常に強かった。「この試合のために、俺は16年間バスケットボールを続けてきた」何回このセリフを心の中で唱えただろうか。

試合の戦況としては、最初から最後まで拮抗した試合で、後半リードをされるも追いつき追い越せの展開で、十分勝利の可能性はあった。しかし、、、

この試合に負けたのは、紛れもなく僕のせいだ。試合終了後、ベンチにずっと座り込み、シャワーにも行けない心境。すぐさま会場から立ち去りたい気持ちなのに、体を動かすことができない。悔しいという気持ちを通りこして、情けない気持ちだった。そんな時に、切り替えようと声をかけてくれたのが、國枝くん。國枝くんとは、バスケ部唯一の学部が同じで、4年間ほぼずっとの授業を受講し、一緒にいる時間が長かった。國枝くんにも相当気を使わせてしまっただろうし、本当に本当に情けなかった。

まるでこの世の終わりかと思うような面持ちで家に帰ると、このままでは後悔するという気持ちもふつふつと湧いてくると同時に、なにも勝負が終わったわけではないということに気がつく。→悔しい気持ちが先行しすぎて、、、それだけこの試合にかけていた。

次の日の神奈川大学戦、次の週の立教大学戦、そして最終戦である日体大戦。これらの試合を勝ち切れば、なんと入れ替え戦もインカレの出場も叶うという状況。そして、最終戦の日体大戦が印象に残っている勝ち試合。敗北を喫した大東文化大学の試合と同様に、最終戦を勝てば入れ替え戦、インカレの出場権が獲得できる状況。日体大にとっても同様の状況で、どちらの学校にとっても負けられない試合だった。

2015年11月1日、会場は日体大の体育館。僕の過去の試合を振り返るとアウェイの試合が多いな〜(山形全中、新潟全中)。当然のごとく、日体大学の選手応援団の勢いも人数もすごかった。DVDを見るけど、画面越しにも迫力が伝わってきます。

この試合は、早稲田大学が圧倒し、僕は無事に入れ替え戦とインカレの権利を獲得することができた。みんなが絶好調の試合を経験することはこれまで少ないように思えるが、この試合は、まさにみんなが絶好調と言い切れる試合だった。これは、みんなが「自分たちがやってきたことを決して疑わないこと」「他のチームの勝ち星を計算しないこと」の約束事を守り、チームの勝利を優先して17試合やりきり、最終戦にたどり着いたときに、チームとして最高の形になったのではないかなと思える。

社会人になった今、過去を振り返ると、本当に人との出会い・経験に恵まれているなと思う。これまでの人生がそうだったように、これからの人生もそうであるように、僕はもう少し頑張ろうと思う。

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