京北中での3年間 vol.1

小学6年生ながら、自分の意志を主張し、京北中学校への進学を勝ち取ったわけだが、いきなり躓く。ミニバス時代では、規制ルールにより全国大会の出場は叶わなかったが、埼玉県では1位のミニバスクラブに所属し、6年生時にはキャプテンも務めた。その他にも月間バスケットボールというスポーツ雑誌に取材を受けるなど、それなりの注目を浴びていた。
※ミニバスクラブの全国大会は4校ルールというものが存在し、クラブを構成するメンバーは、異なる小学校が4校以内でなければならないというルールです。(4校ルールか5校ルールか正式名称はどちらが正しいかはわかりません。笑)

「井の中の蛙大海を知らず」とはこのことか、と当時を振り返って思う。その理由は、「田渡凌」選手との出会いだ。この選手と同じポジションではこの選手以上の活躍はできない、そう思ったことを覚えている。その感情は決して自分への諦めではなく、彼の凄さを素直に受け入れた、受け入れられただけのことだ。
彼の凄さは語るまでもなく、世間に浸透していると思いますので、僕からお伝えすることは本記事では行いません。(いつか書こうかなとは思っております。)

自分が思い描いていたバスケットボール生活とはかけ離れた生活をしばらく送ることになった。試合への出場時間はミニバスの頃と比較すると圧倒的に短く、相手が強豪校であればあるほど、それは顕著に短かった。そんな自分に嫌気がさし、いつからか「京北中学への進学は失敗だったのでは?」という疑問が生じていた。次第に、自信がなくなっていき、何を評価されているのかが分からなく、また何を求められているのか分からない、迷走状態へと陥った。

あっという間に中学1年生のシーズンは終了し、中学1年生時の最終戦績は、関東大会ベスト8で終了した。
※関東大会準々決勝の対戦相手は兄が所属をしていた太平中だった。

3年生が引退し、2年生と1年生のチームになり、ほどなくすると新人戦という大会(東京都の大会)が始まる。この大会は自分にとって、非常に重要な大会であることを自覚し、ひたすらチームのために自分が何をできるのか(=誰と交代できるのか)を考えた。
結果的に新人戦では、プレイタイムを勝ち取り、決勝戦でも20分ほど出場を果たし、それなりに活躍することができた。

僕が何故プレイタイムを獲得することができたのか。
それはどのポジションで出場しても順応できるように練習に取り組んだことだと思う。具体的に言うと、「フォーメーションを全てのポジションこなす」だとか、「シュート・ドライブ・パスレベルの平均値を上げる」等を徹底的に行った。
自分なりに導き出した答えが、「どのポジションで出場しても、チーム力が落ちないこと」だった。
もちろんセンタープレイ(ポストアップ)はできないし、大量得点を重ねることもできないが、「主力メンバーを休めませる」という大役を得ることができたと思う。(それを大役だと感じられるように心も成長した)

中学生ぐらいの年代であると、やはりスタートへの憧れは捨てきれない中で、チームのベストパフォーマンスのために頑張れたというのは自分でも評価したいところ。この考え方が後々のバスケットボール人生において非常に重要なことであることを、当時の僕は自覚していなかった。

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