見出し画像

風邪をひいて、談志を聴いて、スタンダードに思いを馳せる

毎年年末や年始に風邪をひいてしまう。家庭の事情で風邪は御法度なのだ。でも今年もひいてしまった。もういい加減にしたいものだ。

で、私は風邪をひいたとき、だから年に一度ぐらいだけ、寝ながら落語を聞く。特に好みは談志だ。昔は談志が嫌いだった。特にマスコミに出てくるときのイメージが嫌いだったが、落語の技の凄さに驚き、だんだん好きになった。

その程度のにわか落語ファンなので、今からの話は、素人のボヤキ適度に聞いてほしいが、談志の十八番は「芝浜」だろうな、と思う。最初に聴いた時は泣きそうになった。(「紺屋高尾」でも泣いたが)

今年も「芝浜」を聞いたが、結構晩年のもので、話がはじまるまでのイントロの時点でもう枯れきっていて、マクラにいたっては、なんのマクラやろうかな。どうしようかな、といったとたん、マクラをすっ飛ばしてすぐに落語に入った。その洒脱。

そして内容も枯れていて、お客もよく知っているだろうというとろで、省くところは大胆に省く、流すところは流す。話に出てくる夫婦(この話は夫婦二人しか出てこない)もすっかり枯淡の域にあり、若い頃の芝浜の奥さんのような、艶やかさや可愛らしさはない。

でも、そこのは深い情感があって、ああ、これは新しい域なんだなぁと思わされた。サゲも、あわてず、さわかず、さっと。
終わって、大拍手の中お辞儀をした談志が、拍手を制して「今日はいつもとちがった芝浜ができました。良かったと思います」と思わず言っていた。

で、この「古典」を生涯をかけてやるのは、ジャズの「スタンダード」に似てるな、と思ったのだった。(クラシックはもっと似てると思う、生涯かけてバッハを弾いたグールドとか。)

たとえばマイフェイバリットシングスとか、枯葉とは、人によって演奏は違うし、その人の中でも時期によって全く演奏が変わる。

僕もジャズを演奏するが、どれだけテーマを理解し、味わい、人生の中で咀嚼して、歌う。これが大事だと痛感した、

だからまずはテーマを丁寧にメロディに敬意を込めて吹く。そしてアドリブもその音楽の世界に入って、自分が登場人物になって吹く。そんなことが大事なのだろうし、そこに生き様、人間が出て来て、それを見る人、聞く人が味わうのだろうな、と思ったのだった。

あまり上手く言えなかった、おそまつでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?