エヴァンゲリオンに至るSFアニメ絶対正義の没落

以下のテキストは、2009年7月に書いたものです。青臭いことを書いていますが、黒歴史としてここに残しておこうと思います。

以下本文。

SFアニメの源流ともいえる作品は、ともに72年放送の「マジンガーZ」「科学忍者隊ガッチャマン」でしょう。おそらく同世代でしたら、その名を知らない人はいないと思います。どちらも興行的には大成功で、後の世代への文化的影響度も大きく、評価も高い作品です。
この2作品で描かれる世界は実に単純です。正義の味方であるところのマジンガーZ、あるいはガッチャマンが、悪の帝国と戦い、命をかけて正義を守る、そして苦闘の末、最後には大勝利を手にします。主人公は強く逞しく正義感にあふれ、まさしく男の中の男、英雄、ヒーローに相応しく描かれ、当時の子供たちのあこがれであり目標となる存在でした。一方の敵役は、地球制服を企む絶対悪で、人類とは別のもの、とにかく無条件で殲滅してもいい存在でした。その後のヒット作品、「グレートマジンガー」「UFOロボグレンダイザー」「人造人間キャシャーン」もまた、同じく、絶対正義と絶対悪の対決を描く、それが当たり前の時代でした。

77年に公開された映画は、アニメ界に革新をもたらします。その作品のもとになるTVアニメ「宇宙戦艦ヤマト」は、これまでとは違った路線で作られましたが、初放送での視聴率は低迷し、打ち切りとなりました。しかし、その後の再放送と映画化でヒットします。その後はTV版、映画版共に続編が作られ、現在でも歴史に残る名作として語り継がれる不動の地位をものにしています。
「宇宙戦艦ヤマト」がこれまでのアニメ作品と違うのは、まず、主役となるヤマトのデザインで、それまで宇宙船といえばロケット型流線形型だったのが、海に浮かぶ戦艦の形をそのまま宇宙戦艦にする斬新なものでした。そして登場人物の多彩さ、これまでのヒーローとその他、という単純な設定ではなく、複数の登場人物がそれぞれしっかりと描かれます。さらに、その性格も誰もが目標とするヒーロー的存在ではなく、普通の人間で悩み迷い葛藤もし、まさしく等身大の存在へと変化します。また、物語は侵略から地球を守る、というこれまでの黄金パターンではなく、すでに地球は崩壊し、それを救うために旅に出るスタイルでした。しかし、それでも、最も根幹になる部分、正義対悪の構図はこの作品でも同じで、地球を侵略する異星人は絶対悪、そして、その魔の手から地球を救い出す主人公たちは絶対正義でした。ところが、物語の終盤、この構図が崩れます。異星人の本拠地で激しい戦闘を繰り広げ、遂に勝利を獲得した後、これまでのアニメなら大円団を迎えるはずなのに、主人公にこう言わせるのです。「おれたちは勝った。だが、勝つものがいれば負けるものもいる。負けたものはどうなる? 負けたものは幸せになる権利はないというのか? それを今まで考えた事がなかった。」「おれたちは戦うべきではなかった。愛し合うべきだったんだ。」このシーンは非常に重要です。これまで、自分=正義 敵=悪という不動の形だった根幹が崩れ去ったのです。時代は高度経済成長の飽和期、日本を豊かにしよう、経済大国にしようと脇目も振らずに走ってきた結果、日本はどうなったのか? これでよかったのか? 人々がそう思い始めたように、アニメの世界でもこれまで君臨した絶対正義の存在が揺らぎ始めました。

79年、後にバブルと呼ばれる狂乱の黄金時代を直前にしていたこの時期に「機動戦士ガンダム」は放送を開始します。しかし、これまでのいわゆる子供向きアニメと一線を画す作品だった「ガンダム」は視聴率の低迷にこれまた打ち切りとなりました。放送終了後から人気に火がつき、繰り返された再放送でその人気は絶対のものとなります。映画化され、TV版も続編が作られ、現在も続く大ヒット作となりました。
「ガンダム」が子供向けアニメと一線を画すのは、これまでの根幹である大前提の、絶対正義と絶対悪の構図を初回から放棄している点です。「宇宙戦艦ヤマト」で終盤、その存在に疑問を投げかけられた絶対正義、それが本作では最初からその存在を否定されます。物語はスペースコロニーの独立戦争です。その戦争に巻き込まれた少年少女の物語です。ですから、主人公の敵は、事もあろうに、人間なのです。これまで、アニメの敵は人類ではありませんでした。異星人、あるいは古代人、怪物のたぐいで、それ故に絶対悪とみなされて無条件に殲滅の対象となり得たのです。しかし「ガンダム」はそれを否定し、人間対人間の生臭い殺し合いと言うじつにリアルなテーマを持ち込みました。そんな設定ですから主人公も、もちろんヒーローなどではありえません。問題児でヒステリックな癇癪持ちで、なるべくなら友達になりたくないような人物像になります。そして、そんな主人公ですから、行動も曖昧です。かつてのアニメヒーローに見られた自信に満ちあふれた姿はかけらもありません。絶対正義の崩壊した世界に、次に出現するのは「何が正義なのか」と言う問いかけだけです。登場人物たちの台詞「何のために戦っているのだろう」「悲しいけどこれが戦争なんだ」「私が殺したのではない、殺したのは戦争だ」これらの台詞の奥底に秘められた根源不安、あきらめ、自己欺瞞は、物語全体に蔓延し、それらの要素がやがて自分の存在意義の追求へと変遷していくのに時間はかかりませんでした。しかし、その答を出すのには、長い長い時間が必要でした。時代はバブル崩壊、失われた10年が始まろうとしていました。

「ガンダム」放送から15年、ようやく「エヴァンゲリオン」が登場します。

95年、世紀末の不安と新しい世紀の期待が混在する時代に「新世紀エヴァンゲリオン」は生まれました。これまでのアニメと違い、おもちゃメーカー(主にプラモデル)とのタイアップだけでなく、マンガやゲームなど、他のメディアを広く巻き込んだ形で展開した本作は、TV版わずか26話で、決して良いと言えない視聴率にも関わらず、社会現象を巻き起こし、特に、物語後半から終盤に掛けて描かれる主人公の精神世界と、示唆的で抽象的な最終回は論争にまでなりました。制作したのは「ヤマト」「ガンダム」でアニメブームの洗礼を受けた世代、彼らが求めるのは当然「ヤマト」の絶対正義への疑問、それを経て変遷した「ガンダム」の「正義とは何か」「自分は正義なのか」「自分は何者なのか」という自己存在意義の再確認作業への回答です。
物語は使徒と呼ばれる侵略者と人造人間エヴァンゲリオンを操縦(という表現が正しいのかどうかは疑問ですが)する主人公たちの戦いを描いています。主人公の少年は「ガンダム」よりももっと人間的に問題のある性格、消極的で意志が弱く優柔不断で八方美人で無責任に描かれます。彼を取り巻くのは彼とは正反対の積極的で活発な美少女ばかり。そんな女の子に引っ張られて生きている、何とも情けない姿です。また、正義の象徴であるはずの地球防衛軍に相当するエヴァンゲリオンを有する組織も、官僚的でお役所的な大人の事情を綿密に描かれ、縦割り行政の問題やら、予算割りの問題やら実に下世話な話になってます。そのリアルさは、かつても子供向きアニメとは雲泥の差です。そして、主人公は、この時点ではおそらく正義と判断される戦闘に参加する事さえ拒否します。彼はもはやヒーローどころかヒーロー予備軍でさえないのです。正義が何か、自分が何者か、答えがわからない彼は結局そんな自分を「不要な存在」と決めつけ、破滅への暴走をはじめます。物語はそんな彼の心理状況を描くことに変わっていき、それにリンクしてまったく違う物語の姿が現れます。終盤で明らかになるのですが、使徒は実は侵略者ではなく、人類を一度リセットするためのプロセス(人類補完計画)に過ぎず、その背景にあるのが自分の存在意義を証明するのに必要な自分以外の存在の否定でした。完結編の映画版のコピー「みんな死んでしまえばいいのに」です。自分が何者かを決定するのは自分の中の自分と他人の中の自分であり、そのどちらが欠けても成立しませんが、他人との接触が巧くいかない主人公にはそれが理解できません。正義とか悪とかそんな事はどうでもいい、自分がどっちなのかわからない、だからもうどうでもいい、みんな消えてしまえ。物語は完全に破綻します。「エヴァンゲリオン」の特徴的なのは、このように精神世界を抽象的に描いた点です。そして、最後の最後に用意された回答はやはり、首を絞める行為と「気持ち悪い」という拒絶の台詞でした。

こうして、絶対正義の存在は没落していきます。いま、こんなアニメを見て育っている子供たちはとても不幸ですね。何が正義なのか知った上で正義を実行できないのと、正義がわからないまま正義を実行できないのとでは、まったく次元が違います。たとえ青臭くても、アホらしくても、ありえなくても、純粋な正義を教えるるアニメ、そんな夢と希望に満ちたアニメがない現代、自我が形成される時期に見たアニメが、人間同士殺し合ったり、いたずらに抽象的な精神世界を描いたアニメではこの先ろくな社会にならないですよ。エヴァンゲリオン誕生から10年あまり、SFヒーローアニメはいまだ暗中模索の時代です。

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