アトポス
何事にしても第一印象は大切なもので、例えば小説など最初に読んだ作品で評価が決まってしまう事も多いのです。最初に読んだ作品がそれなりですとそれなりの作家になってしまいますが、逆に目が覚めるような作品ですと、その後のその作家の評価がかなり偏ってしまいます。客観的な評価が出来なくなってきますね。
『アトポス』は御手洗潔が活躍する人気シリーズの長編推理小説です。ホラー小説の最新作を完成させたベストセラー作家が殺されます。それは切断した首を銀の皿の乗せる残酷な手口でした。時を同じくして、赤子の誘拐事件が連続して発生、捜査に当たったロス警察の刑事は、信じられない目撃談を耳にします。誘拐していった犯人の姿は、顔面から血を噴き出す怪物だったというのです。その怪物の姿こそ、殺されたホラー作家が最新作で画いた、若い娘の生き血を浴び美を保ったと言われるエリザベート・バートリの悪魔の姿だった‥‥。
私が島田荘司と出会うことになった記念すべき第一冊目です。妻が友人から借りてきたのを、どんなもんかと読み始めたらそのままのめり込んでほとんど一気読みでした。膨大な長編ですが、お構いなして読み切りました。それくらいの作品です。まず冒頭から作品の3/1くらいを占める長い長い序章では、実在の人物エリザベート・バートリを題材にしたホラー小説が延々続きます。その恐怖とスリルに引き込まれて、本章に読み進めば、これまでとがらっと変わった現代で起きる殺人事件誘拐事件、これがほとんど畳み掛けるように次から次へと起きまして、さらに舞台は中国上海、はてはイスラエル中東の死海までひろがります。そこで繰り広げられる不可解な事件はまさしく矢継ぎ早に起こりまして、読者が考えているヒマを与えません。ここまで読み進むと、もはやこの難解な事件をいったいどうやって収拾つけるんだろう、夢オチとかカンベンしてくれよ、エジプト十字架の謎みたいなオチだったら許さんぞ、などと思いつついよいよクライマックスへ進むのです。そして、ほとんど終盤になって登場するのが御手洗潔、そしてこの男こそが島田荘司の生んだいわゆる名探偵なのですが、彼があっという間に、まさしく快刀乱麻な活躍で事件をきれいに解決してしまうのです。このあたりのなんと言っていいのか、脳天をがつんとぶん殴られるような感覚、目から鱗が落ちるような、霧が晴れてスッキリするとか、そんな感覚で、読後、まず思ったのは、なんだこりゃ、こんなすごい作品を書く島田荘司って誰だよ、知らねえよこんなヤツ、何しろ当時の私のミステリー作家観は、松本清張横溝正史の時代で止まってちゃったんで、最近の作家はこんな途方もない推理小説を書くのかと心底感服した事を憶えています。その後、島田荘司を読みあさり、そのどの作品も他のミステリー小説群とは格の違いを見せつけられてきました。そして、それが「新本格推理小説」なる分野と知りました。ミステリ好きならよくわかっていると思いますが、ポーによって始まったミステリは、ファイロ・ヴァンスを生んだヴァン・ダインで基礎が組まれ、そしてご存知、コナン・ドイルの不滅の名探偵シャーロック・ホームズが完成させます。日本ではその路線を進んだ乱歩と横溝が「本格推理小説」の分野で全盛期を迎えます。しかし、やがて、社会の進化にともなう警察機構の充実と科学捜査の登場で、「本格推理」の要である名探偵の存在にリアリティが無くなってきます。そしてその代わりに現れたのが松本清張に代表される「社会推理小説」なのですが、私は個人的に社会派推理が受け入れられなかったんで、そのまま推理小説からフェイドアウトしてしまったんですが、それからウン十年、なんとこんな事になっていたのですね。島田荘司は本格推理の復権を目指して「占星術師殺人事件」を発表、当時は受け入れられなかったものの、徐々に評価をあげ、やがて「新本格推理」として花開くのでした。さてこの「新本格」の「本格」との違いはなにか、それはやはりぶっとんだ世界観でしょう。ここが受け入れられるかどうかで「新本格」に対する評価はかなり左右されるんじゃないでしょうか。そこでポイントになるのが、このぶっとんだ世界観をいかに本物っぽく見せるかその筆力ですね。たとえば本書『アトポス』では、そのぶっとんだ世界観を納得させるために、舞台となる例えば上海、あるいは死海の歴史を細かく描写しています。その歴史、まさしく事実は小説より奇なりですから、異様な驚くような歴史を書く連ねる事で、この後起こる異様でぶっとんで事件もあり得るんではないかと読者は納得してしまうわけです。そのあたりのテクニックが飛び抜けて巧いのが島田荘司たるところでしょう。ただ、この路線で上手だと思うのは綾辻行人くらいで、ほかの法月倫太郎、有栖川有栖などはもうちょっとがんばれと言いたいですが。まあ、そんな感じで、私の「新本格推理」との出会いを作ってくれた思い入れの強い作品がこの『アトポス』なのです。先日久しぶりに再読したんで、感想を書きました。
しかし、この作品、いろいろありますが一番大事なのは、島田作品の最強ヒロイン、レオナ松崎が中心となる話だということですよ。この超絶美女完璧プロポーション才色兼備のハリウッド女優、プライドが高くてジコチューで、勝ち気で神がかり的な演技力の持ち主で、刑事から「あの女は女豹だ」「危険な女だ」などと言われる、このヒロインが、今回は大ピンチになるのです。そのピンチにカッコ良く駆けつけるのが御手洗潔、命からがら逃げ出してきた彼女のところへ、白馬に乗って登場する姿は、世の結婚に憧れる未婚女性の妄想みたいな展開ですが、その再会に彼女が「これは夢なんだわ」と泣いてしまうところかこの膨大な長編の最も重要なシーンです。ああ、私も白馬に乗って美女のピンチに駆けつけて泣かれたい。美女に「あなたが来たからにはもう大丈夫ね」と言われて「その通りさ」なんてクールに決めてみたい。
本原稿は2013年4月に書かれたものです。あらためて読むと、ところどころ事実誤認してますね。そこも踏まえてあえて記録として残します。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?