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自己肯定感が低すぎる男のジレンマ

表題の通りだが、僕はとても自己肯定感が低い。

それが育まれなかった原因は数え切れないほどある。病気を患ってしまい物理的に出来ないことが多いのもあるが、一番大きなモノは「他人に誇れる事がない」事だ。

僕は今までの人生を殆どなあなあで済ませてきた。高校受験の時も大学受験の時も真面目な人達と比べて明らかに勉強してこなかったし、大学に入った後、全身全霊で打ち込んだと言えるものもない。何となく時間を消費し、現在に至る。

そんな生き方だから、「自分はこれに自信があります」と言えるものがない。客観的に見て面構えも別に良くないし、腹には自堕落な生活を送ってきた代償の肉塊がついている。趣味の競馬も野球もそこそこ知っているつもりでいるけど、周りを見ればそのレベルの人間はどこにでもいる。

誇れる事がないということ自体はプラスではないがマイナスでもないだろう。出来ないことだらけの人間は、自分が最低限出来る事を見つけて多くを望まずそれだけをやって生きていけば良いだけのことだ。つまり、自分に対して見限りをつける必要がある。

ただ、この「自分に対して見限りをつける」という行為はそう容易いものでは無い。多くの人間は自分はやれば出来ると思っているし、そう信じて日々邁進していることだろう。

そして、僕も自分自身に見限りをつけることが出来ていない。僕の場合は真面目に努力をしてきた経験がないせいで「真に努力すればより自分は高みに行ける」という考えが心の底に滞留している。自分はやればできる人間なのか。

実のところ、「真面目に努力をしてこなかった状態」こそが僕の「100パーセントの努力」だ。全てなあなあで済ませてきたのは、それが自分にできる最大限だったというだけの話だ。あの時もっと頑張っていれば、なんてよく言うけど、今頑張っていないお前が過去のお前を否定することなどできようか。

だから、できない自己を受け入れる(=自分に期待するのを止める)というプロセスに気が付き、実行できない限りは、僕みたいな人間は自己肯定感などとうてい持たないだろう。そして、自己を一生過大評価していく。

どちらの状態がより地獄なのか?自己が受け入れられない僕には分からない事だ。

終わり

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