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葛藤する僕らはほんとうのさいわいを探す

おこがましいことを承知でいうが、僕と宮沢賢治は似ているかもしれない。

宮沢賢治の実家は裕福であるが、宮沢賢治本人は金持ちであることを嫌った。長男であるにも関わらず、貧しいものからとりたてる質屋を嫌って継がず、農耕に従事した。
僕も実家が裕福であるが、そのことが嫌だった。小学校中学年くらいまで遊ぶときに友達を家に呼んでいたが、高学年からは呼ばなくなった。みんなよりも広い家に住んでいることを知られたくなかった。自分がみんなと違うことに抵抗があった。

けれども、裕福だからこそ、自分の人生の選択肢は恵まれていた。
塾に通わせてもらえた。中高一貫の私立に通うことができた。
宮沢賢治も、実家に金銭的余裕があったため、生前は大量に売れ残りを抱えながら小説を執筆し、農業に従事した。
金持ちであることが嫌いだが、金持ちであることで恵まれている。そんな葛藤を抱えていたのではないだろうか。

宮沢賢治も「坊ちゃん」と呼ばれたジョバンニが少し癪に触って黙っていたように、金持ちであることが嫌だったのではないか。

ちなみに誕生日が8月27日であることも共通点だ。


「ほんとうのさいわいは一体何だろう」

宮沢賢治は小説「銀河鉄道の夜」を生涯にわたって何度も書き直したらしい。発見された遺稿にも一部空白の箇所がみられ、完成には至ってないようだ。きっと理想である「ほんとうのさいわい」を追い求めても、実際に手に入れることはできないのかもしれない。


先ほど述べた通り宮沢賢治の実家は裕福な質屋であり、金銭的にとても恵まれていた。けれども、宮沢賢治は「ほんとうのさいわい」を探した。おそらく「ほんとうのさいわい」はお金では手に入らないのだろう。


「ほんとうのさいわい」を追い求める過程自体が人生なのかもしれない。少なくとも、本を読み、悩んでしまう僕たちにとっては。

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