振り返らず、信じて身を委ねて歩んでいく

※以前勤めていた職場は、プロテスタント系の学校だったため、毎朝礼拝がありました。その礼拝で私が話したものの記録です。毎回、指定された聖書箇所からお話を考えます。私の解釈が間違っていることもあるかもしれないですが、大目に見てください。

2016.10.31

創世記19章15節から26節

夜が明けるころ、御使いたちはロトをせきたてて言った。「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう。」ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手を取らせて町の外へ避難するようにされた。彼らがロトたちを町はずれへ連れ出したとき、主は言われた。「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山へ逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」ロトは言った。「主よ、できません。あなたは僕のしもべに目を留め、慈しみを豊かに示し、命を救おうとしてくださいます。しかし、私は山まで逃げ延びることはできません。おそらく、災害に巻き込まれて、死んでしまうでしょう。ご覧くださいあの町を。あそこなら近いので、逃げていけると思います。あれは小さい町です。あそこへ逃げてください。あれは本当に小さな町です。どうか、そこで私の命を救ってください。」主は言われた。「よろしい。そのこともあなたの願いを聞き届け、あなたの言うその町を滅ぼさないことにしよう。急いで逃げなさい。あなたがあの町に着くまでは、私は何も行わないから。」そこで、その町はツォアル(小さい)と名付けられた。太陽が地上に上った時、ロトはツォアルに着いた。主はソドムとゴモラの上に天から、主のもとから硫黄の火を降らせ、これらの街と低地一帯を、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼした。

今日お読みした聖書の箇所は、ソドムとゴモラという町が墜落し、神様の怒りに触れ、その罰として町全体が滅びてしまうところまでが描かれています。

これまで創世記をずっと読んできていますが、人間の罪や人間の弱い部分について書かれていて、ノアのところでも町全体が滅ぼされてしまうというお話があったかと思いますが、このソドムという町のお話も同じです。

今日読んだ箇所の少し前のところ、19章の1節では、ソドムという町に2人の御使いがやってくるというところから始まります。彼らは、ソドムという町が本当に滅ぶに値するほど堕落してしまっているかということを最終確認するために神様から送られてきました。言ってみれば、ソドムにとって生き残るためのラストチャンスです。ですが、もちろん町の人たちは誰もそんなことを知りません。

その町にアブラハムの甥でロトという人が住んでいました。彼は、彼の良心に従い、この2人の御使いを迎え入れ、泊まる場所と食事を提供しました。そこにソドムの町の男たちが押しかけてきて、2人の御使いを差し出すようにロトに言います。乱暴をしようと訪ねてきたのです。しかしロトは、彼らを守ろうと必死に抵抗します。その乱暴な男たちの様子を見て、御使い2人はこのソドムという町は、やはり滅ぶに値するほど堕落しているという判断をします。男たちを倒したあと、すぐにこの町は滅ぼされることになるので、ロトに家族とともに逃げるように命じます。ロトに逃げるように命じたのは、ロトが神さまが心に留めているアブラハムの甥だったから、そしておそらく彼が御使いたちを守ろうとした善の心の持ち主であると判断されたからではないかと思います。ロトはまず娘が嫁いだ婿たちのところに行きますが、彼らはロトの話を信じることができず、冗談だと思ってしまいます。

そしてここから先が今日お読みした箇所です。ロトが妻と二人の娘を連れて逃げる場面です。そのとき神さまはロトにこう言います。「命がけで逃げなさい。後ろを振り返ってはいけませんよ。山に逃げなさい。そうしないと町とともにあなたたちも滅びてしまう。」と。しかしロトは素直に神様の言うことを聞きません。山までは逃げることができないから、近くの小さな町に逃げさせてほしい、そして命を救ってほしい、と頼みます。神さまは命がけで山まで逃げなさいという言葉を素直に聞かずに、小さな街に逃げさせてほしいとわがままを言うロトの身勝手な話を聞き入れてくださいます。神さまはロトを救いたい一心なのです。神さまはこのロトの願いを受け入れ、ロトたちがその町に着くまでは町は滅ぼさない、と約束してくださいます。結果、ロトが無事に逃げることができてから、神さまは硫黄の火を降らせ、ソドムとゴモラの町とそこに住む住人、草や木もすべて滅ぼしてしまいます。

ロトと二人の娘は無事に逃げましたが、ロトの妻は、神さまから言われた、「決して後ろを振り返ってはいけない」という約束を守ることができず、後ろを振り返ってしまったので、彼女は塩の柱となってしまった、と書かれています。
ロトの妻は、ソドムの町に残してきた自分たちの財産や、生活への未練があったのかもしれません。あるいは、ソドムの町に下される神の裁きを、自分の目で確かめようとしたのかもしれません。聞くだけでは駄目、自分の目で確かめないと信じきれず、示された救いへの道を歩む足を、信仰の歩みを、止めてしまいました。

パウロは、フィリピの信徒への手紙3章13、14節で次のようなことを言っています。「兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」。

ここからもわかるように、神さまが示して下さる目標をしっかりと見つめて、走り続けることが求められるということです。自転車に乗っているとき、ペダルを漕ぎ続けなければ、失速して転んでしまうでしょう。転ばないようにするには、こぎ続けねばなりません。動かずに立ったままでいることはできません。常に神さまの前に進み出て行くことで、心と体の安息のときを設けることができるのではないかと思います。

御使いたちを無償の愛で受け入れ、守ろうとしたロトのそのよい行いを神さまはしっかり見ていてくださいました。そばにいなくても神さまはきちんと日々の小さな行いを見ていてくださいます。これは、よい行いに対しては必ずよい道を示してくださる、ということを伝えているのではないだしょうか。

ロトの妻は神さまの言いつけを守れず、後ろを振り返って約束を破ってしまいました。このロトの妻のような気持ちは、誰しもが考えたことがあることなのではないかなと思います。これまで、何かにつまずきそうになったとき、自分が歩んでいく道はこれで良いのか不安になり、神さまに身を委ねて前進していくことができず、後ろを振り返ってしまったことはなかったでしょうか?

そんなときこそ、神さまは常にどんなときも私たちのそばにいて見守ってくださっているということを信じて、神さまに身を委ねて前進していくことができたら素敵だと思います。
必ず、神さまはよい道を示してくださいます。普段の生活で、試験のとき、大切な試合のとき、不安になったり、前に進むのが怖くなったとき、肩の力を抜いて、神さまに身を委ねてみてください。

ロトもそうであったように、神さまを信じていれば、必ずよい方向に導いてくださいます。

お祈りします。
ご在天の父なる神さま。今日も新しい朝をありがとうございます。こうして礼拝から1日を始められることに感謝します。生きていると様々なことに悩んだり迷ったり不安になったりすることがあります。そんな時に、私たちがあなたを信じ、あなたの見守りの中で身を委ね、進んでいくことができます様に。今、迷いの中にあるものがいましたら、その人たちのそばにいてください。この小さなお祈りを、主イエスキリスト様の御名を通して、御前に御捧げいたします。アーメン。

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