洗礼を受けた時のお話

※以前勤めていた職場は、プロテスタント系の学校だったため、毎朝礼拝がありました。その礼拝で私が話したものの記録です。毎回、指定された聖書箇所からお話を考えます。私の解釈が間違っていることもあるかもしれないですが、大目に見てください。

2015.05.15
新約聖書229ページ
使徒言行録8章34節から40節

宦官(かんがん)はフィリポに言った。「どうぞ教えてください。預言者は、誰についてこう言っているのでしょうか。自分についてですか。だれかほかの人についてですか。」そこで、フィリポは口を開き、聖書のこの箇所から説きおこして、イエスについて福音を告げ知らせた。道を進んで行くうちに、彼らは水のあるところに来た。宦官は言った。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」そして、車を止めさせた。フィリポと宦官は二人とも水の中に入って行き、フィリポは宦官に洗礼を授けた。彼らが水の中から上がると、主の霊がフィリポを連れ去った。宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。フィリポはアゾトに姿を現した。そして、すべての街を巡りながら福音を告げ知らせ、カイサリアまで行った。

今日は私が洗礼を受けた時のことをお話ししたいと思います。私は小学校6年生の時に洗礼を受けました。洗礼を受けた理由は、家族がキリスト教信者だったからでも、キリスト教系の幼稚園や小学校に通っていたからでもありませんでした。これまで家族にキリスト教の人はいなかったし、私が通っていた幼稚園も小学校もキリスト教の学校ではありませんでした。

私が教会と出会うこととなったきっかけは、5つ年上の兄が小学生の時に最寄りの駅であるカトリック教会のシスターから、「一度、教会へ遊びにおいで」と声をかけていただいたことでした。このことをきっかけに、すぐにではありませんでしたが、母と兄と3人でその教会に行ってみることになりました。

それから毎週教会に足を運び、日曜学校に参加するようになりました。日曜学校に通うようになって、キリスト教について学ぶ機会を得ました。ところが、当時幼稚園生だった私は毎週日曜日、新しくできた友達と歌ったり、外で遊んだりすることを楽しみに母や兄に連れられて、教会へ通っていました。ですから、聖書やキリスト教について深く理解することはできていなかったと思います。ですが、友達がいるから・・・かもしれませんが、その当時から教会はなんとなく好きな場所でした。

小学生になってからは、引っ越しをしてしまったので、家と教会が少し遠くなってしまいました。けれど、日曜日は変わらず、友達と会って遊ぶことを楽しみにその教会へ通い、日曜学校に参加していました。いつまでその教会に通っていたのかは忘れてしまっていたのですが、先日、家の掃除をしていた時に、今まで色々なところでいただいた賞状を保存しておいていたファイルが出てきました。そのファイルを整理していると、その中に、日曜学校の卒業証書がありました。その卒業証書によると小学校6年生の3月末の日にちが入ったものだったので、そこの日曜学校には小学校6年生の3月まで通っていたことがわかりました。

いつからか、その教会の日曜学校の他に、家の近所の教会に通うようになりました。家の近所の教会では日曜学校には通わずに、ミサに出ていました。私たち家族が通っていた教会はカトリック教会だったので、今ミサといいましたが、ミサとは礼拝のことをいいます。日曜学校で卒業証書を頂くほど通っていたとはいえ、友達に会うこと、友達と遊ぶことを楽しみに通っていたので、キリスト教について知らないことばかりでした。なので、ミサの中での聖書のお話はサッパリ分からなかったり、お話の内容が難しく感じたりして、ついつい睡魔が襲って来る時もありました。けれど、お話を聞いていると、難しいながらも心に響くときもなぜかありました。

このような感じで日曜学校や教会のミサに通っていたあるとき、母と兄が今度洗礼を受けようと思っているという話を聞かされました。その時に、あなたはどうする?と母から聞かれました。洗礼を受けるならば、何度か教会に通って、シスターと勉強をしなくてはなりませんでした。

キリスト教について全然知らず、聖書も自分で開いたこともなかった私は、1つだけ興味を持っていたことがありました。カトリック教会でのミサでは、聖体拝領という、洗礼を受けた者はご聖体といわれるパンを、洗礼を受けていないものは祝福を頂くことができる儀式があります。この時にいただけるご聖体といわれるパンにとても興味がありました。なんといっても、このご聖体は洗礼を受けないと食べられないという特別な感じ、また、形は薄くて丸くて・・・、小さなエビみりんのようだけれど、いったいどんな味がするのだろうか、おいしいのだろうか、そして、どんな食感なのだろうか・・・と、とても興味がありました。これを知るためには洗礼を受けるしかない。そう思って、私は母と兄と一緒に洗礼を受けるために、教会に通って勉強をすることにしました。この勉強会は洗礼を受ける前に4回ほど、シスターとともにマンツーマンで行われたので、たくさんの話を聞いたはずなのですが、今振り返ってみても覚えているのはご聖体の話だけで、それだけパンに興味があった、いや、パンにしか興味がなかったのかもしれません。

いよいよ、小学校6年生のイースターの日に洗礼式を行い、初めてご聖体を頂けるときが来ました。順番に神父様がご聖体、パンを渡してくださいます。習っていた手順で頂き、ドキドキワクワクの中、口に含みました。

するとパンは舌にペタ・・・

味は・・・ない・・・・

しまいには、上あごに・・・ペッタリ!!
パンの味や食感は、私が期待していたものとは全くかけ離れたものでした。ですが、そのあとミサが続けられ、終わった時にはなぜか清々しい気持ちになっていました。

先ほどの聖書箇所に、宦官はもはやフィリポの姿を見なかったが、喜びにあふれて旅を続けた。とありましたが、それは、宦官は洗礼を受けた後、今まで遠くにいたイエス様が、私の身近な救い主になってくださるという喜びを得たようです。今から思えば、ご聖体が食べたいからという簡単な理由で洗礼を受けることにし、ご聖体は期待していたものではなかったですが、ガッカリすることはなく、むしろ清々しい気持ちで洗礼式を終えることができたのは、聖書に書かれている宦官と同じような感覚だったのかもしれません。

偶然、兄がシスターから誘われたことから始まり、友達との出会いのお陰で教会がなんだか好きな場所になり、簡単な理由ですが、洗礼を受けようと思い、洗礼を受けることとなるまでずっと導かれてきました。そして、今でも教会でミサに参列したり、礼拝をまもったりすることで、洗礼を受けた時に感じた気持ちと同じように、心が清らかになる気持ちになります。宦官が喜びにあふれて旅を続けたように、私も喜びにあふれた旅を続けられていることに感謝しています。

お祈りします。
神様、今日も新しい朝をありがとうございます。今日与えられたこの一日の恵みに感謝しつつ、あなたの支えと導きによって仕える歩みができますように。今、心や体に痛みを覚えている者や、この場に集えない者がいましたら特別に顧みてください。今日も一日、学校生活をお守りください。この小さきお祈りを主イエスキリストの御前にお捧げいたします。アーメン。

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