何のために生きているのだろう…その答えとは

※以前勤めていた職場は、プロテスタント系の学校だったため、毎朝礼拝がありました。その礼拝で私が話したものの記録です。毎回、指定された聖書箇所からお話を考えます。私の解釈が間違っていることもあるかもしれないですが、大目に見てください。

2015.10.19
新約聖書184ページ
ヨハネによる福音書9章1節から12節

生まれつきの盲人をいやす
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしたちをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾(つば)をし、唾で土をこねてその人にお塗になった。そして、「シロアム―『遣わされた者』という意味―の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼の物乞いをしていたのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねて私の目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見るようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

突然ですが、みなさんは自分自身に何か悪いことが起こった時に、あぁ、バチが当たったのかな・・・とか、辛いことがあった時に、なんで私がこんな目に遭うのだろう・・・などと考えたことがありますか?

今日は私の母の話を少ししたいと思います。私が大学を卒業する1か月前に母は脳出血で倒れました。倒れたのが家で、そこには家族がいたり、日曜日だったけれど当直の先生が脳外科の先生だったり、集中治療室がタイミングよく空いていたり・・・と運がよく、様々なことがスムーズにいき、一命を取り留めることができました。

ですが、脳の左側を損傷してしまったので、右半身の運動障害と言語障害が出ました。すぐにリハビリが開始され、母は熱心にリハビリを行っていました。杖を使いながら歩く練習をしたり、声に出して文章をひたすら読んだり、右半身のリハビリはもちろんのこと、左手で字を書けるようにしたり、左手で料理ができるように練習したりもしていました。

退院してからは毎朝寝室から、「1・2・3・4・・・・」という声や本を読む声が聞こえてきてきます。腕をあげる練習や、足をあげる練習、声を出す練習をしているのですが、これらのリハビリは9年経った今でも続けています。

そんな母に私はある日、病気になった時、なんで私が・・・とか、なんでこんなことになったのだろうとか考えたことはなかったのか質問しました。

母から返ってきた言葉は、そういう風に思ったことは一度もない、とのことでした。

母はちょうど病気になった頃、子どももみんな大きくなり、自分はなんのために生きているのか、何のために生きていけばいいのかわからなくなっていたそうです。

けれど、意識を失い、数日後、意識を取り戻した時に、自分は生かされていると感じ、自分が生きる意味を再確認することができたそうです。

これまで色々なことを自分一人でもできるとやってきていた母でしたが、倒れてから、一人ではできないことも出てきたり、色々な人に助けられたりすることなどを通して、多くのことを学ぶことができている。こうならなければ分からなかった特別な恵みを頂いていると言っていました。

私自身も、母が倒れ、半身麻痺となった母と一緒に出かけたりすることで、たくさんのことに気づかされます。

例えば、とっても便利だと思っていた東京も、バリアフリーでないところがかなりあることに気づかされたり、杖を持ってオタオタしているにもかかわらず、電車ではなかなか席を譲ってもらえずこっちがハラハラしたり、普通に生活していたらあまり気がつかない多くのことに気づかされます。そんな中でも、すっと手を貸して助けてくれる人がいたり、とても親切な方との出会いもあったり、小さな幸せを感じることもあります。

今日の聖書箇所は、何か辛いこと、苦しいことがあると、よく「なんでだろう」「何が悪いんだろう」と後ろを振り返り、くよくよして私たちの人生の歩みがここで立ち止まってしまうことがあります。けれどもイエス様は苦難に遭うときに「なぜだろう」と問うよりも、「何のために神さまがこの試練をお与えになったのだろう」と問い、信仰を持って神の目的のために生きていくことが大事なのだということを教えてくださっています。

私の母は、何のために神さまがこの試練をお与えになったのかを問い、信仰を持って神の目的のために生きていくことができているのだと思います。それによって、私にも多くの学びを得させてもらうことができています。

私自身もこれから先、苦難にであっても、くよくよして歩みを止めてしまうことなく、神の目的のために生きていくことができるようになりたいと思います。

お祈りします。
天にいらっしゃいます父なる神さま、今日も新しい朝をありがとうございます。今日与えられたこの一日の恵みに感謝しつつ、あなたの支えと導きによって仕える歩みができますように。今、心や体に痛みを覚えている者や、この場に集えない者がいましたら特別に顧みてください。今日も一日、学校生活をお守りください。この小さきお祈りを主イエスキリストの御前にお捧げいたします。アーメン。

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