暗闇の中で光をもたらす存在であるイエス様の誕生

※以前勤めていた職場は、プロテスタント系の学校だったため、毎朝礼拝がありました。その礼拝で私が話したものの記録です。毎回、指定された聖書箇所からお話を考えます。私の解釈が間違っていることもあるかもしれないですが、大目に見てください。

2016.12.07

ルカによる福音書2章1節から7節。

イエスの誕生
そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録せよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であった時に行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおのの自分の町に旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラ屋の町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。

今日お読みした聖書の箇所は、イエス様がこの世に誕生なさった最初の部分が書かれている箇所です。この箇所を読むと、幼稚園の頃や教会学校に通っていた頃に毎年クリスマスになると行っていた後誕劇を思い出します。あるときはセリフがなく舞台の端で歌を歌うだけだったり、またあるときは宝の箱を持った3人の博士のうちの1人の役をしたり、またあるときは羊飼いを、またあるときにはモコモコの白いフリースを着て羊の役をした記憶があります。とても懐かしいです。

また、この季節になると、クリスマスツリーやリース、ろうそくなどの飾りつけをお家でするよという人もいるのではないでしょうか?私の実家では、この季節になると降誕の場面でよく見られる、馬小屋とイエス様の、父の手作りの模型がリビングに飾られます。

学校や教会などでもそのイエス様誕生の場面を現した模型をみなさんも見かけると思うので、イエス様が、飼い葉桶でお生まれになったということについて知らないという人はいないと思いますが、今日はそのお話をしていきたいと思います。

毎年のようにこの時期になると出てくる聖書ヵ所だと思うので、もう知ってるよ~という人も多いかと思いますが、皇帝アウグストゥスが、その当時治めていた広大なローマ帝国全領土の住民に、自分の故郷の街に帰って住民登録をしなさいという命令を出したところからイエス様の誕生というクリスマスのお話は始まります。

ヨセフはダビデの子孫だったのでダビデの町のベツレヘムまで長い旅に出なければなりませんでした。しかも、当時聖霊によって身ごもっていた、いいなづけのマリアとともにいかなければなりませんでした。2人が住んでいたナザレという町からベツレヘムまではなんと140キロほどあるそうです。

ちなみに、東名高速道路の東京インターから御殿場までが約100キロ、東京駅から北陸新幹線に乗って軽井沢駅までが約146キロです。このくらいの距離をしかも平たんではない道を旅していた、このときのヨセフとマリアの姿を想像してみてください。私は身ごもったことがないので、先日2人目を出産した妹に、子どもがお腹にいて生まれる直前の身体で100キロ以上の道のりを歩けと言われたら歩けるのかと聞いてみました。すると返ってきた言葉は、即答で無理。10キロ抱えて140キロ歩いているようなもんだよと、何言ってるのという勢いで返されました。

皇帝アウグストゥスの権威は、即答で無理とだなんて言わせない、絶大なもので、どんなに小さく貧しい人でもどんなに弱い人でもその命令には従わなくてはならなかったことがよくわかります。マリアとヨセフは何度も何度も休憩を取りながら、そして初めての出産を目前にし、不安と闘いながら必死に遠いベツレヘムを目指していたのでしょう。

ベツレヘムに到着すると、月が満ちて、マリアはいよいよ赤ちゃんを産むことになりますが、2人が泊まれる宿はありません。ヨセフはマリアのために何件も宿を回って泊めてくれるようにお願いしましたが、どこもいっぱいで断られてしまいます。結局、マリアは7節の「飼い葉桶に寝かせた」という言葉からわかるように、出産は家畜小屋の隅で行われたと想像されます。初めての出産をこのような場所で迎えることになったマリアとヨセフはどんなに気持ちだったのでしょうか。

準備された部屋で、十分な知識を持ったお医者さんの下で出産するのでさえも不安が伴うかと思います。初めてのことを、十分に準備されていない状態で経験しなければならないこの状況は相当な不安と焦りでパニックだったのではと想像できます。私には到底できるとは思えません。

ところが、そんな中でイエス様はお生まれになりました。マリアとヨセフにとっての不安と焦りの場所は、イエス様の産声を聞いた瞬間に、喜びの場所へと変わったのではないかと思います。どんなにひどい場所であっても、イエス様がお生まれになったことで、マリアとヨセフはそれまで抱えていた不安と焦りから解放され、希望を与えられ、喜びで満たされたのではないでしょうか。

この場面からは、どんなにみじめな状況にあっても、どんなにひどい状況にあっても、イエス様が私たちの光となって導いてくださるということ伝えたいのではないかと思います。

クリスマスの教会では、キャンドルサービスが行われます。暗闇の中では、小さな光でもどれほど輝いて見えるのか、そのありがたみを覚えるために、教会を暗くし、キャンドルサービスが行われるそうです。

世間ではこの時期、キラキラ輝いたイルミネーションやクリスマスソングで華やかな雰囲気に包まれます。これもまた美しく、素敵な気持ちにもなります。けれど、クリスマスという言葉には、キリストと礼拝という意味が込められています。ぜひクリスマスには教会に足を運び、暗闇の中で光をもたらす存在であるイエス様の誕生をたくさんの人とお祝いすることで、喜びを分かち合い、今日の話を少し思い出して光のありがたみを覚えて欲しいと思います。

お祈りします。
ご在天の父なる神さま、今日も新しい朝をありがとうございます。こうして礼拝から1日を始められることに感謝します。中学生は鑑賞行事が行われます。それぞれにとってたくさんの学びがありますように、お守りください。高校生は試験ラスト1日となりました。高校3年生にとっては中高生活最後の定期試験日となります。自分の持っている力すべてを出し切ることが出来ますように。
また、生きていると今やっていることが意味ある事なのか、何になるのか、壁にぶつかって進んでないように感じたり、不安を覚えたりすることもあります。どんなにみじめな状況にあっても、どんなにひどい状況にあっても、そんなときこそ私たちがあなたを信じ、あなたの見守りの中で身を委ねることができますように。私たちがイエス様が泊まる場所を自分の心に作ることによって、私たちの心に光を照らし、導いてください。今、体調を崩したり、弱っているものがいましたら、特別に顧みてください。この小さなお祈りを、主イエスキリストの御名を通して、御前に御捧げいたします。アーメン。

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