歯医者を蹴ってやったぜ!
歯医者に対する、もとい、虫歯の痛みに対するイライラの物語です。
歯医者に行った。歯が痛かったからだ。我慢の限界を超えた。仕方がない。治療の方がまだ我慢できそうだ。もっとも、痛そうなら麻酔を頼んでしまう。そう思って歯科医院のガラスのドアを開けた。
そうそう、開ける前に書くべきだった。今東京では歯科医院が多い。ラーメン屋と同じくらいか、カレー屋よりは多い気がする。とにかくあちらのビルの二階の窓、こちらのビルの壁面の看板、ここの行灯看板。皆歯医者だ。どうしてこんなに多いのだろう。学生を取りすぎたのか?
こんなに多いから、どこの歯医者へ行けばよいのか迷ってしまう。痛くならなければ関心はないし、日ごろは看板も意識しない。今日は一昨日からの歯痛が我慢できなくなり、通勤途中で見かけた歯医者に飛び込んだ。まあ、飛び込んだというより、いやいやガラスのドアを開けた。
ほら、奥から子供のなく声と、ドリルの回転音が聞こえる。それにかすかな消毒臭。私の下半身の確かな根拠は頼りなくゆれる。ギャーンという鳴き声と、それを生みだす無慈悲なドリルのジリジリする音が帰ろうかという気にさせる。ただ、それではこの痛みは解決しないことを知っているから、大人な私は我慢して、スリッパに履き替え、待合所にあがった。
ここでも床に寝転がった子供が絵本を読んでいる。椅子に座っている女性が二人、子供が一人。その子供に女性が絵本を読み聞かせている。受付カウンターの下に書棚があり、乱雑に絵本が並んでいる。子供の多いクリニックではどこも似たような光景だろう。
私はカウンタから顔をのぞかせているピンクの制服姿の女性に保険証をさしだした。
「どうなさいました?」
歯が痛いからに決まってんだろうと思いながら、
「一昨日から奥歯が痛いんです」
「こちらは初めてですか?」
診察券出さないんだからはじめてに決まってるだろうと心の中で悪態をつきながら、
「はい」
「こちらにご記入お願いします」
バインダーに挟まれた質問用紙なるものを渡された。床に寝転がっている子供をよけながら、女性二人と子供がいる長椅子の向かいの椅子に腰を下ろした。
性別?なんでこんな質問があるのだろう?見りゃ判るだろうに。一問目をみてバカらしくなった。ボールペンの芯を引っ込めて、他の質問も見てみる。年齢?子供料金と大人料金があるのかな?通院理由?歯が痛いからに決まってるだろうが。痛い歯はどれですか?歯の絵がある。だが、上の歯で右奥だけど、何番目かまではよくわからない。おおよそ右上の歯数本を丸で囲むことにして、ボールペンの芯を出すと丸を描いた。いつから痛み出しましたか?一昨日の朝か昼か覚えてない。もっと前かな?自信がない。歯は朝昼晩洗っていますか?歯って朝昼晩洗うものなのか?毎朝洗顔の時に洗っているけれど、仕事中の昼間は絶対無理だろう。立ち食い蕎麦屋でどうやって歯を洗うんだ?夜だって飲んで帰ると、背広を脱ぐだけで寝てしまう。夜歯を洗えるやつは女どもくらいだろう。選択肢は『いる』と『いない』しかない。歯の疼きがひどくなってきた。扉の向こうの子供の泣き声は小さくなって、母親の声と思われる奇麗な声が帰りに鯛焼き買おうねと話している。虫歯の治療で鯛焼きはまずいんじゃないかと気を取られていたら、床に寝転がっていた子供が寝返りを打って、俺の足にぶつかった。癪に障ったから、蹴とばしてやった。男の子は振り返ると私の顔を睨んだ。ここでやり返しては大人げないから、俺は我慢した。
受付カウンターの小さな窓から、ピンクの制服の若い看護師が
「記入できましたか?」
「あ、まだです」
「そんな難しくないでしょう?」
俺はカチンときた。
「俺が女に見えますか?」
「そんなことにこだわるからまだ書けないんでしょう。ちゃっつちゃっとやってください」
「こんな馬鹿げた質問だから、書けないんだろう」
「書けないほど難しくないでしょう?」
看護師が喧嘩を売って来た。俺は頭にきて立ち上がったときに、足元の子供に突っかかって床に倒れた。
「ひでくん、大丈夫?ひどいおじさんだねえ」
脇のドアからピンクの制服が出てきた。でかい!172センチの俺よりでかい。看護師は俺を見下ろしながら、
「待合室では静かにしてくださいね。いい大人なんだから」
一言多いやつだ。俺は怒りに火がついて、
「その態度はなんだ?俺は客だぞ?」
「何えばってんのよ、あんたは患者でしょう。静かにしてなさいよ。ほら、僕に謝って」
「ぼく?なんで俺がこんなガキに謝らなければならないんだよ」
「あんた、じぶんのやったこともわからないの?」
「俺が何をやったよ?」
「あんた蹴っ飛ばしたでしょう。それでつまづいてあんた転んでのしかかったでしょう?」
「ふざけるな!こんな所に寝転がっているこのガキが悪いんだろうが」
「あんたは分別がありそうな大人よ。その子はまだ小学一年生なの。あんたが注意するのが当然じゃないの」
俺は怒りが煮えくり返って、
「この野郎!」とどなったとき、診察室のドアが開いた。
ドアの枠をくぐってアメリカヒグマのような大男がマスクからあふれたひげ面の顔で出てきた。白衣を着ているから医者だろう。これもでかい、二メートルはありそうなでかさだ。
「次は誰かな?」
カーテンの様にでかい白衣の後ろから子供を抱いた女性が出てきた。待合室にいた子連れの女性に会釈している。俺は白クマに圧倒されて席に戻ったというか、席に尻もちをついた。一人で座っていた女性が立ち上がり、子供を抱いた女性がそこへ腰かけた。立ち上がった女性は白クマと一緒に診察室に入っていった。
俺はあんなバカでかい医者に口の中をかき回されたらその怪我の方が虫歯より痛いだろうと思うと、この歯医者はよくないと判断した。窓口の奥で電卓を叩いていたピンクの看護師に、
「おい、保険証」
「なんですか?」
「俺の保険証返せよ」
「診察はまだよ」
「俺は時間がないんだ。保険証返してくれ」
「質問票がバカげてるって、先生に言いなさいよ」
「俺は忙しいって言ったろうが」
そこで診察室からドリルの回転音が始まった。十秒ほどして子供が泣き出す。もういやだ、我慢できない。窓口から手の届くところに俺の保険証がカルテにクリップ止めされていた。俺は手を伸ばしてカルテを取ると、保険証を外してカルテを看護師めがけて投げつけた。
「なにすんのよ」
怒鳴る看護師を背に、俺は靴を履いて、ガラスドアを開けた。入り口の行灯に「武本デンタルクリニック」と書いてある。俺はそいつを蹴とばそうとして、右足を引いたが、トラブルに巻き込まれるのが嫌で、壊れない程度に軽く蹴とばした。あ、歯の痛いのが収まっている。当分歯医者はやめようと、決めた。
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