桜待ち人
桜が舞う。
舞い落ちるのは花びら。
そして、植えたものの想い。
想いの込められた薄紅の花。
それは丘の上にぽつん、と根を張る桜の木だ。
その樹はある女性を思って植えられたもの。
植えたのは名もなき男だ。
誰とも知れぬ白い衣の美しい女に、彼は恋をしたのだという。
彼女が現れたのはある春の夜で、白い着物を華奢なその身に纏っていた。
長い黒髪に、艶めく桜色の唇が色っぽい女だった。
その薄紅の唇から紡がれるのは美しい歌声。
もう此処へはこないから、と、たった一度だけだから、と彼女は涼やかな旋律を彼のために鳴らした。
そして、追い縋る男の目の前でさらりと笑って、桜の花びら一つ残して消えたという。
彼の話を聞いた人々は、それは一夜限りの夢だと、幽霊にでも唆されたのだと笑ったが、しかし彼はそれでもその場所へ通うことを止めなかったらしい。
純愛と言えば聞こえはいい。
しかし、名前も知らないどこの馬の骨とも知らぬ女に逢うために、毎夜毎夜丘へと出掛けていく彼の姿は人々の目には異様に映った。
それでもやまぬ恋慕。
尽きることのない、女への想い。
その理由は分からない。
これほど執着するには彼は彼女のことを知らな過ぎる。
けれど、理屈ではない何かが彼を突き動かしていたのは確かだ。
やがて、彼はなかなか訪れぬ彼女を待ち、夜に限らず昼にも丘を訪れるようになっていた。
それは段々と長くなり、遂には1日中あの丘で待ち続けるようになる。
それでも来てはくれない待ち人。
1年が経って、まだ諦めがつかない彼はそこに桜の苗木を植えた。
彼女がまたこの場所に来てくれるように祈って、目印に桜を置いた。
しかし結局、彼女が其処を訪れることは終ぞ無かった。
彼は40の齢を数える頃、寂しさ潜む秋の夜、丘の上で狂い咲く桜の下で静かに息を引き取ったと言われている。
そんな桜の下には、今でも消えぬ彼の足跡が遺されている。
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